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上越市板倉区針にある新潟県立有恒高等学校の前身の有恒学者の創立者で青少年教育に情熱を傾けた増村朴斎(写真)。現在の県立有恒高校の前身である私立有恒学舎は明治29年、私財を投じて当時29歳の増村朴斎が独力で創立した。かつては西の松下村塾(しょうかそんじゅく)東の有恒学舎とも呼ばれており増村朴斎の教えは現在の有恒高校にも受け継がれている。また新潟市出身の歌人、書家の会津八一が4年間在職し英語を教えた。明治29年沖ノ宮に増村朴斎が私立 「有恒学舎」 を創立した当時、新潟県下の中学校(現、高等学校)はわずか5... 続きを読む
    春日山城本丸跡から春日山神社に下る途中、毘沙門堂、お花畑の下方に「直江山城守宅跡」と刻まれた石碑がたっている(写真) 。直江山城守とは直江兼続の事である、兼続は上杉謙信のあとを継いで春日山城主となった上杉景勝の家老としてその名が高い。豊臣秀吉をして「天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続など数人にすぎない」 と言わしめた言葉は有名である。徳川家康も兼続にはいちもくを置いていたと言う。アメリカのケネディー... 続きを読む
上杉謙信の養子となった上杉景虎は天文23年(1554)、小田原城(神奈川県小田原市)主北条氏康の七男として誕生した。幼名は氏秀、三郎であった。武田信玄、今川氏真、北条氏康が甲駿相三国同盟を結んだ時に武田信玄の養子となり、武田三郎氏秀となった。ところが永禄10年(1567)、武田信玄が駿河、相模に侵攻して同盟が破れると小田原城に帰った。元亀元年(1570)上杉謙信と北条氏康が和睦(越相同盟)すると氏秀は人質として越後にやってきた、ときに氏秀17歳であった。その後謙信の幼名、「景虎」を賜り謙信の養子となり、... 続きを読む
上杉景勝は弘治元年(1555)11月27日、坂戸城(現、新潟県南魚沼市坂戸)城主長尾政景の二男として誕生した。母は上杉謙信の姉の仙桃院。少年期の名前は卯松、喜平次、顕景、少年期、後の直江兼続とともに雲洞庵で修業し、ここで読み書きはもとより、仏教や歴史、政治などの学問・教養を身に付け、さらに兵法・軍事も学んだ。この時の通天存達(つうてんそんたつ)、北高全祝(ほっこうぜんしゅく)の教えは後の景勝と兼続の精神形成に大きな影響を与えたとされる。永禄7年(1564)坂戸城主長尾政景が溺死し、その後、顕景は上杉... 続きを読む
童謡「春よ来い」   ♪は~るよ来い。は~やく来い… 日本初の流行歌「カチューシャの唄」   ♪カチューシャ~かわいい~や、別れ… 早稲田大学校歌「都の西北」   ♪都のせいほぉ~く、早稲田ぁ~の…   など、誰でも一度は聞いたことのある名曲の作詞者が、糸魚川市が生んだ文人「相馬御風(そうまぎょふう)」です。 作詞家だけではなく、叙情歌人、詩人、小説家、随筆家、評論家と、文芸全般にわたって活躍した相馬御風の故郷を尋ねて来ました。 写真下は県指定史跡の相馬御... 続きを読む
植木千次郎(うえきせんじろう)は明治27年(1894)上越市下百々(しもどうどう)に生まれる(旧保倉地区)。若干23歳の独身の身で志を立てて織物製造業を独力で創業し更に幾つかの事業を経営するなど、又大実業家としてのみでなく経世の先達者としても優れた才能を発揮された。旧新道村の村会議員を務め又村長を務めた時、旧高田市が近村合併を提唱すると率先して七ヶ村合併の中心的な役割を果たした功績は大きい。現在の21万上越市の基礎をつくられた... 続きを読む
荒井賢太郎(1863-1938)は、大正時代、昭和時代の官僚政治家である、文久3年(1863)高田藩士荒井直静の長男として生まれる。高田の修道館に学び、明治13年(1880)新潟学校師範学科(現新潟大学教育学部)を卒業後、小学校で教鞭をとる。その後上京し、明治25年(1892)東京帝国大学法科(現東京大学法学部)に学び卒業後大蔵省に入省、大蔵省主計官、同参事官、主計局長などの要職を歴任し、1907年韓国に渡り、朝鮮総督府参与官、朝鮮総督府度支部(たくしぶ)長官を経て、1917年5月より勅撰貴族院議員となる。大正11年(1... 続きを読む
高田藩剣道師範役、直心影流鹿島神伝16代 倉地正久(1827-1902)、 倉地正久は高田藩士、庄田貞則の門に入って、直心影流を学び、後に奥田貞行に従い、その技をきわめ、直心影流鹿島神伝16代となった。嘉永4年(1851)、演武場を高田本誓寺町(東本町4)に設け、弟子を教授した。明治になってからは、道場での教授の外、警察署、高田中学・師範学校等の師範役も務めた。明治42年(1909)、83歳で死す。 金谷山公園登り口、高田藩士の墓地の... 続きを読む
室孝次郎(むろこうじろう)は天保10年(1839)9月14日上越市の高田本誓寺町(現、東本町4丁目)の呉服商、市郎右衛門の長男として生まれた。幼い頃、倉石洞窩(どうか)の門に入り、倉地正久に剣道を学び更に江戸に遊学する。慶応2年(1866)京都に上り勤王運動の志士と交わり翌3年再び京都に上り、正木小七郎と変名し勤王運動に入り、当時、村松藩では佐々耕庵などが勤王運動を行っていたが、室孝次郎、弟の貞倉は米沢、村松、両藩と組んで会津を攻めようと... 続きを読む
親鸞聖人の妻、恵信尼(ゑしんに)「1182-1269」の出自には諸説ある、京都の貴族「三善為教(為則)」の娘という説や、越後の豪族、現在の上越市板倉区にあった三善という豪族という説がある。
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