IRIS

JR別府駅の正面に 山は富士、海は瀬戸内、湯は別府 と言うキャッチフレーズを作り、別府観光の恩人と慕われた油屋熊八の像が立っている(写真)。別府市民、いや大分県民であれば油屋熊八の名前を知らない人はもぐりだな、、別府の名前を全国、世界にPRし「日本一のおんせん県おおいた」の原点を作った人物と言っても過言ではないだろう。文久3年(1863)7月16日に愛媛県宇和島市横新町に裕福な米問屋に生まれ... 続きを読む

福沢諭吉

大分県の北のはずれに位置する中津市留守居町にある福沢諭吉の旧居、記念館に行ってきた。福沢諭吉、昭和59年からの1万円紙幣の肖像に使用されている(写真)、日本人であれば知らない人はいないだろう。中津藩士で、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾大学の創設者であり、専修大学、一橋大学、などの創設にも尽力した。

   天は人の上に人を造らず、

            人の下に人を造らずと云ヘリ、、、、
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三浦梅園(写真)は、帆足万里、広瀬淡窓と並んで「豊後の三賢人」と称される。享保8年8月2日(1723)国東半島の安岐町富清(現国東市)に生まれる。江戸時代の思想家、自然哲学者で本職は医者でもある。三浦梅園は生涯で三度旅をした以外は故郷の大分県の国東半島安岐町を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、寛政元年3月14日(1789)その坦々とした生涯を終えた。複数の藩主から招待の声もあったが断ったという。地元の安岐町には三浦梅園の旧宅があり、近くにはキャンプ場、天文台、梅園などが整備された梅園の里が... 続きを読む

大分市の春日神社前の交差点を西の方に200メーターほど進んだ左側(大分市王子中町)に日本画家福田平八郎の生家跡(写真)がある。明治25年(1892)2月28日、文房具店を営む父福田馬太郎と母、安(アン)の長男として生まれる。大正7年(1918)、京都市立絵画専門学校卒。翌年、第1回帝展初入選。以後、帝展、新文展、日展を中心に活躍。昭和11年(1936)、京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)教授。... 続きを読む

豊後の三賢と呼ばれる、江戸時代後期の儒学者、帆足萬里(ほあしばんり)は安永7年(1778)、日出藩の家老、帆足通文(ほあしみちぶみ)の三男として生まれた。寛政3年(1791)14歳で豊岡の儒学者、脇蘭室(わきらんしつ)の門に入り独学で研究に努めた、21歳の時に大阪の中井竹山、京都の皆川淇園、にも学んでいる。経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった... 続きを読む
我が故郷、越後の歴史を語るには戦国の武将、上杉謙信公を避けては通れない。こちら豊後の国(大分県)に来て、歴史音痴のhamさん、恥ずかしながら初めて耳にした名前だが、いろいろ歴史をひも解いていくと、よく出てくる名前がある、大友宗麟(おおともそうりん)、ご当地では知らない人はいない、と言っても決して過言ではないだろう。
享禄3年(1530)1月3日、父大友義鑑、母大内義興(周防の戦国大名、大内氏の第30代当主)の娘の嫡男として豊後府内(現大分市)の上野と顕徳町の二か所に大友館があり、このいずれかで生まれたと思われる... 続きを読む

 日曜日で仕事は休み、梅雨も一休みで朝から晴れあがっている、大分市内の中心部の裏通りは複雑に一方通行が入りくんでいて新米タクシードライバーにとっては頭の痛いところだ。こういう時は歩いてじっくりと道を覚えよう、と考え出かけた。県庁脇を南北に走る道路の真ん中に遊歩公園(写真)がある。この中にいくつかの記念碑などが存在していたことは以前から承知していた、そのうちにじっくりと見に来るか、と思っていたがいい機会だ、この遊歩公園を... 続きを読む