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小栗美作(おぐりみまさか) 
寛永3年(1626)~貞享4年(1687)
小栗美作は、上越地方の偉大な先駆者である高田藩筆頭家老小栗正高の長男として誕生しました。寛文5年(1665)の地震で圧死した父の跡を継いで筆頭家老となり,家禄1万7000石を譲り受け,藩政の実権を握った。幕府から金五万両を借りて、1665年の高田地震の復興に努め、父の偉業を継いで産業の振興に偉大な業績を残しています。
中江用水の開削は、寛文の大干ばつ後、関川から取水して別所川までの間をかんがいしていた「およべ川用水」を掘りつぐ構想を樹立しましたが、大普請のため続けることができませんでした。そこで、美作が中心となり、藩営事業として1674年(延宝2年)工事に着手し、1678年に完成しました。
この用水は、源を野尻湖池尻川に発し、延長26キロメートルの越後第1の大用水でした。美作は、各地の新田開発を行い、数万石の増収を図り、表高26万石が内高で40万石近い裕福な高田藩の極盛期を作りあげました。
当時の農業土木工事として、最大級の工事だった中江用水の開削は、美作の功績なしでは完成することのできなかった偉業として後世に語り継がれ、上越地方の基礎を築いた人物といえる。
しかし美作の施政に反対する家臣があり反目激化、いわゆる越後騒動が起きた。




越後騒動と小栗美作
高田藩主松平光長は越後中将家と呼ばれ、御三家と並ぶ名門ながら、嗣子、綱賢が延宝2年(1674)、42歳で病死すると、後継ぎ問題で越後騒動が起こった。 綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかっため急ぎ世継を定めねばならなくなった。
家老小栗美作守は光長の弟、永見市正長頼の子万徳丸を推挙した。重臣会議の結果、小栗が推す万徳丸に決し幕府もこれを認めた。一方、養子候補の一人であった光長の異母弟永見大蔵長良がこれに不満をもった。
藩財政の建て直しなどの為に、有能な下級武士を抜擢するなど、改革をすすめる美作の政治手法に反感を抱く家臣も多かった。
氷見大蔵は、家老の荻田主馬ら役900名の小栗に反感を持つ人々を誘い小栗失脚を企て延宝七年一月九日、大挙武装して小栗家を襲撃したことから「越後騒動」は表面化した。永見大蔵方を「お為の方」、小栗美作守方を「逆意の方」と称した。このときは幕府の大老酒井忠清が穏便におさめようとして大事には至らなかった。四月に入り再び対立が激化。騒動を知った幕府は九月、永見らを他藩預けとした。
やがて綱吉が将軍に就任。事件を裁断した大老酒井忠清が失脚すると永見は綱吉に再審を働きかけ、自由の身となった。しかし、天和元年(1681)6月21日、騒動関係者一同は江戸城大広間で、五大将軍綱吉から取調べを受け、翌22日親裁が下った。小栗美作守と子の大六は切腹、永見大蔵と家老荻田主馬は八丈島へ、与力大将の岡島壱岐と本多七左衛門は三宅島へそれぞれ流刑、その他は他家へお預け、または追放という厳しい処分であった。光長は騒動を起こした罪で高田城を没収され松山藩へ、万徳丸は福山藩へお預けとなった。
この騒動の中心人物小栗美作守は極悪非道の悪臣と言われてきたが、その施策には見るべきものが多い。
小栗美作の当時の住居は現在の上越市大手町の女性サポートセンターのあるところ(写真)

 


松平光長夫人土佐と光長の子綱賢の墓が林泉寺に(上越市中門前)、小栗美作の墓が善導寺(上越市寺町2丁目、(写真) )に、永見市正長頼の墓が善行寺(上越市寺町3丁目)にある。






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