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高田城

上越市(旧高田市)の中心市街地に面積約50ヘクタールの高田公園がある。高田城跡に整備された公園であり、この公園の南西部、本丸跡に三重櫓が(写真)復元され上越市のシンボル的存在になっている。

高田城築城
慶長15年(1610)年2月、福島城主となった松平忠輝は、まもなく国役普請(幕府の命による工事)として高田菩堤ヶ原に高田城を築きました。築城の理由は、加賀の前田家、出羽の上杉家に対抗する為であり、また諸大名に天下普請を命じることにより、経済的圧迫を加えようとしたこと、さらに佐渡金山の支配を強化する為であった事などが考えられます。
慶長19年(1614)年3月、本格的な工事が始まり、仙台城主 伊達政宗、米沢城主 上杉景勝、松本城主 小笠原秀政、谷村城(山梨県都留市)主 鳥居成次をはじめとする13大名が、家康の命令で工事に参加したと言われている。そのうち小笠原秀政と鳥居成次が譜代大名であるほかは全て、外様大名であり、特に松平忠輝の舅(しゅうと)の伊達政宗は、普請最高責任者として自ら陣頭指揮をとりました。
伊達政宗はこの年の7月、8月に各藩の役人や人夫も相次いで引き上げさせたが、このころ城郭がほぼ完成したと見られています。このように松平忠輝は福島城を廃し、竣工わずか約4か月後に新築なった高田城に入りました。
築城計画によると、天守台を石垣とし、それ以外は全て土塁とすることに決まっていたが、実際には石垣を構築せず、天守閣も造りませんでした。その理由として、大阪冬の陣(1614)が迫っていた事と近くに石垣に使う石が無かった事があげられます。南西部に造られた櫓が高田城のシンボルであったと思います。又外堀は自然の河川を利用して作られ非常に幅が広い事が特徴です。築城当初は二重の櫓でしたが、松平光長の時代に地震で崩壊し、三重の櫓を新たに建設しました。
慶長15年(1614)築城、初代城主、松平忠輝以来、明治4年(1871)廃藩となるまでの257年間、最後の城主は榊原政敬(さかきばらまさたか)であった。
松平忠輝
(1592-1683)
文禄元年(1592)8月、徳川家康の六男として江戸城で 生まれる。家康51歳で母は側室茶阿局(ちゃあのつぼね)です。8歳で伊達政宗の娘五郎八姫と 婚約し、慶長15年(1610)2月、堀氏に替って 越後福島城主となる。慶長19年(1614)高田城を 築いて入城するが、僅か2年後の元和2年(1616)7月忠輝は父である家康により城地を没収され伊勢の朝熊(あさま)現三重県伊勢市、に配流を命じられました。その理由は、忠輝がキリスト教の布教とヨーロッパとの通商貿易に積極的であったことなどにより、江戸幕府の基盤を確立するうえで不安材料とみられたことなどであると思われます。朝熊にとどまること2年、元和4年(1618)3月、飛騨高山城(岐阜県高山市)主 金森重頼に預けられた後、寛永3年(1626)4月、諏訪高島城(長野県諏訪市)主 諏訪頼水に移され、天和3年(1683)7月、92歳で死去するまでの58年間、高島城南の丸で過ごしました。多芸多才のひとであったと言われ 墓所である長野県諏訪市の貞松院月仙寺 には彼の人柄を偲ばせる遺品が数多く残されている。
   高田城三重櫓
慶長19年(1614)に築城され、明治3年(1870)に火災のため焼失した高田城のシンボル的存在であった三重の櫓を、上越市発足20周年記念事業として、平成5年(1993)に建設されました。
1,2階は高田城に関する資料の展示、3階は展望室になっています。



住所     上越市本城町6-1
電話     025-526-5915
休館日    月曜日(月曜日が休日の時は翌日)、休日の翌日、
        高田公園観桜会、夏休み期間中は無休、
開館時間   午前9時~午後5時(観桜会期間中は午後9時)
入館料    小中高生   100円
        一般     200円 

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