IRIS
博学な私は三分一ヶ原古戦場(さんぶいちがはら)と言う地名も、ごく最近まで知らなかった。有難い事に今の仕事を始めてから、遅ればせながら地元の歴史、名所、に多少の興味を持ち、NHK大河ドラマ「天地人」で、 歴史と言うものは面白いねー!、、、ここ旧頚城村(現上越市頚城区)三分一地区の古戦場跡、何回も近くを通るんだが、なかなか場所が解らなかった。
昨夜仕事でたまたまご乗車頂いた旅行帰りの老夫婦、行き先を聞くと、”三分一”????>>><<、、 乗車中お客様に古戦場跡の場所を訪ねると、詳しく教えてくれた、 「だきも、(だけど)ちょっと解らん場所なんだわ!」、家に着くと、 運転手さん、ちょっと待ってなえ!、、、、、 内心、何か旅行のお土産でもくれるのかなー???? すると懐中電灯を持って出てきた。 ”俺、えま、その場所、教えてやんしけね”(翻訳、私が今、その場所を教えてあげますからね)。わざわざ夜中にその場所まで一緒に案内してくれた。
有難いことですね!! 早速、今日午前中カメラを持って行って来た。好きだね!
    三分一ヶ原古戦場(さんぶいちがはらこせんじょう)
今から450年余前、室町時代末期には越後の国は守護上杉氏が治めていたが、次第に守護代長尾為景(上杉謙信の父)の勢力が増大して、主君上杉氏を凌ぐ勢いであった。これに反対する上条城主(柏崎市)上条定憲(じょうじょうさだのり)は1533年(天文2年)守護上杉定実を擁立して長尾為景打倒の兵を挙げた。1536年(天文5年)には柏崎に上条城を築城し、旧上杉氏の残存勢力もあわせ、宇佐美定満、柿崎和泉守景家、の連合軍を中心に、又長尾為景は春日山城から出陣して頚城平に進攻してきた。同年4月10日両軍はこの地、保倉川河原と泥沼地帯である三分一原において激突した。両軍は激しく戦ったが雌雄を決する事が出来なかった。やがて上条軍の一躍を担う柿崎景家が突如として反旗を翻し長尾為景勢に味方して上条軍の背後をついたので上条軍の将兵数千人が討ち取られ敗退、一方の長尾軍も多くの武将を失う激戦で、まさに頚城平における天下分け目の戦であった。
この三分一ヶ原合戦以来、長尾為景が上杉氏代わって越後の国を治めるようになり、文字通り下克上の戦国時代の代表的な事件であった。 =案内板より=

越後守護代長尾為景が天下分け目の戦いをしている頃、景虎(後の上杉謙信)は城下の林泉寺に預けられ天室光育和尚の文武にわたる指導を受けた。
合戦場跡には保倉川が流れている以外、当時を偲ばせるものは何も残っていない、直ぐ近くを高速道路が通り、たくさんの車が猛スピードで走り去って行く。。。 長い歴史を感じますなー!、、、、、、、、!、、

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