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鯛生金山


日頃の頑張りの褒美に温泉に行く事にした。天気は曇り雨の予報、9時に家を出て急ぐ旅ではない、国道210号線を湯布院へ、道の駅まわりの好きな相方の為に道の駅 湯布院へ、天気はイマイチだが結構な人だね。ここから高速道で玖珠へ、インター近くの道の駅 童話の里くすへ、私から見ると道の駅はどこも同じだが相方いわく、普段スーパーなどに無い新鮮な海の幸、山の幸、食品などがあるんだそうだ。また高速道で日田まで行き、R210号線からR212号線に入り道の駅 水辺の郷おおやま へ、山間部の道の駅で山菜などが沢山ならんでいる。R212号線からR442号線に入り中津江村へ、どんどん山奥に入って行くが道路はさすがに国道だ、結構遠いねー、中津江村は2002年のサッカーワールドカップでアフリカのカメルーン代表のキャンプ地となり全国的な注目を集め今なお交流が続いている。道の駅 鯛生金山 地底博物館鯛生金山に到着した。



シルバー割引で入場料を払い地底博物館 鯛生金山へ(写真)、構内は一年中14度だったか17度だと言う。郷里の新潟県佐渡の金山も見学した事はあるが鯛生金山は年代も新しいが規模が大きい。
 

嘉永元年(1848)、米国のカリフォルニアが発端となったゴールドラッシュが世界に波及し、一攫千金を夢見た人々が世界中をうごめいていた中、鯛生金山の歴史は明治27年(1894)、この地を通りかかった干魚の行商人が白い小石を拾い近くで操業中の金山技師に見せたことから始まります。
大正7年(1918)年から新たに鉱業権を得たイギリスのハンス・ハンター氏により当時としては類を見ない近代的な設備が導入され、大がかりな採掘が開始され、アメリカ、ロシア、アジア各国の外国人を招き入れ当時の日本では考えられないほど国際的な賑わいを見せ、金山周辺には事務所、病院、小学校、配給所、倶楽部などが次々に建ち鉱山町が形成されたと言う。その後も次々に新鉱脈が発見され昭和12年には年間2、3トンと国内第一位を記録し「東洋一の産金鉱山」として名を馳せ、昭和8年から5年間の全盛時代には従業員3,000人を数え九州はもちろん全国から労働者が集まり、村内は映画館、飲食店などが建ち並び九州の一山村がまれに見る活況を呈したのでした。しかし第二次世界大戦の勃発とともに金の産出量は下降線をたどり昭和47年(1972)に閉山しました。明治以降多くの困難を乗り越え国の近代化に貢献したとして鯛生金山は平成19年(2007)経済産業省の「近代化産業遺産」に登録されました。

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