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岡 城址


今年の紅葉は天候異常でいつもと違う、、と言う話をご当地ではよく耳にする、実際に近隣の山に登っても紅葉がなにかちぐはぐな感じがした。先日大分県竹田市の岡城址に実に39年ぶりに行ってきた(写真)。浦島太郎で昔とえらい違いだ、天候にも恵まれ素晴らしい紅葉を見ることが出来た。



 

最近は何処の観光地にも甲冑姿の案内人がいて写真撮影など観光客にサービスをしている、、

 

岡城址は明治維新後荒廃して樹木が鬱蒼としていたが昭和6年より一部を公園として開放し、藩制当時の盛観を偲ばせている。城址からの展望は飽きる事は無く、北は九重連山、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母、傾きの大森林を一望に収め実に絶景と言える。
 

岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘(おがたのしょう)の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大物浦(だいもつうら){兵庫県}を出港しようとして捕えられ、翌年上野国(こうずけのくに){群馬県}沼田荘に流された。建武(けんむ)の頃豊後の国守護の大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令を受け、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は南北朝なかばの応安二年(1369)から後でその城はきむれ(木牟礼)の城であった。後に志賀氏の居城は岡城に移った。天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大群が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(ちかよし)は城を守り、よく戦い豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし文禄2年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。文禄3年(1594)二月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢四千人余りで入部、築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸(写真)は慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿が造られ城の中心部分とされていった。明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には14代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げで全てが取り壊された。



滝廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったといわれ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
 

 
 


 


 

 
 
 
 

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