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越後の国分寺は上越市五智3丁目にある(写真)、正式には安国山華蔵院国分寺と言い現在は天台宗のお寺である。
国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、天平13年(741)、聖武天皇が、その当時全国的にはやり病が多く発生したり、農作物の不作続きで人々が動揺していた時代であった、疫病神を取り除き人々のよりどころとし、平和な国にするのが狙いで各国に建立を命じた寺院であり、寺格の一つともいえる。正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。
国分寺は僧20人をおき、国分尼寺は尼僧10人をおき、各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ建立され、国府があるところか、その周辺に置かれた。多くの場合国庁とともにその国の最大の建築物であったと言われる。大和国(奈良県)の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。
しかーしだ!  創建当時の国分寺の所在地については明治時代以来、論争の的となっている。と言うのは現在の国分寺は上杉謙信が永禄5年(1562)に国分寺の荒廃を見るにしのびず現在地に移築したと言われているからである。
親鸞聖人は承元元年(1207)専修念仏禁止により越後国府に流罪となり建保2年(1214)赦免となって常陸国稲田(現茨城県笠間市)へ旅発たれるまでの7年間、国分寺、およびその付近で生活された。
長享2年(1488)10月、京都の相国寺の僧万里集九は関東から三国峠を越えて越後に入られ国分寺に参詣されたが彼の著書によれば、 国分寺は海岸におおいかぶさるように、断崖上に建っていた、、、、 とあるらしい、長享年代の国分寺は海に埋没してしまったのであろうか、、、、?

創建時の所在に四説
1)海中埋没説 (現西本町4丁目、ひばりが丘、水族館、北方)
2)田井説   (現板倉区田井、 国分寺と言う小字名がある)
3)本長者原説 (現上越市本長者原)
4)栗原説   (現妙高市栗原)
現時点では本長者原説が最も有力であるらしい、、、、 
その上越市三郷地区の有志が「三郷地区の歴史、史跡を研究する会」をたちあげ会員を募っている、地元住民に文献や資料などの提供を呼びかけ、専門家に資料の分析やアドバイスをお願いし調査結果を本に纏める予定とのことだ(新潟日報より)、、、、先日仕事で地元の歴史専門家にお話を聞く機会があり、自称、素人の歴史研究家のham、さん、先生に色々と質問をしてみた、 やはり本長者原説は間違いなさそうだ、、先生曰く、、 発掘調査すれば直ぐに解るんだが、国の許可はおりるんだが、問題は地元の住民の了解が得られないんだわね、 との事であった。
私は今まで通りそっとしておいて、一世紀以上も遠い昔に思いをはせていた方が ロマンがあって良いと思うがねー、、!

  
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