IRIS
上越市の旧直江津地区、保倉川が関川に合流する南側、佐渡汽船に向かって古城橋の手前左側に平和記念公園(写真)がある。しかしこの公園には第2次世界大戦の悲しい歴史が残されている。ここには直江津捕虜収容所があった。戦後半世紀が過ぎ捕虜収容所の悲劇は市民から忘れられていました。

しかし、オーストラリア元捕虜兵との交流は、1978年、一通の手紙がもとで英会話サークルとの文通が始まり、1988年、Tグリン神父がオーストラリア元捕虜兵と一緒に直江津を訪問し、元捕虜兵が故人をしのぶ銘版を当時の市長に託しました。その時の日本人参加者は、オーストラリアのカウラ捕虜収容所事件で戦死した日本兵と犠牲になったオーストラリアの警備兵を弔い、毎年慰霊祭を行っているカウラ市民のことを初めて知りました。そして6年後、その参加者と有志が「平和友好像を建てる会」を組織して募金活動を始め、多くの障害もありましたが、市民の間に賛同の輪が広がり、元捕虜の一部と日本の犠牲者遺族との和解が成立し、両者の除幕式参加が決定し、1995年10月8日、市の協力もあり、両国関係者と多くの市民が参加。元捕虜代表ミューディーさんは「心が愛で満たされていれば憎しみの余地はありません」と挨拶し、二つの銘板と平和友好像の除幕式が行われここに平和記念公園が完成しました。

カウラ捕虜収容所事件
カウラ事件は、第二次世界大戦時の1944年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラで起こった日本兵捕虜脱走事件。捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られる。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、日本人負傷者数108名。

カウラ
カウラ (Cowra) は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州(シドニーの有る州)にある人口80,000人くらいの街。カウラ事件が起きたことで知られる。カウラ日本人墓地とカウラ日本庭園がある。
カウラにある日本庭園は「回遊式庭園」と呼ばれるもので、日本を代表する造園家として海外でも広く活躍した中島健(1914年 - 2000年)によって設計され、南半球では最も面積の広い日本庭園である。



直江津捕虜収容所
第2次世界大戦時日本軍は、5ヶ月でアジア各地の連合軍約26万人を捕虜にし、うち3万2千人を日本国内91箇所の捕虜収容所に収容した。開戦から1年後の昭和17年12月に、古い塩の倉庫を改造した直江津捕虜収容所(正式には、東京俘虜収容所第4分所)が設置されオーストラリア兵300人をはじめとする連合軍の捕虜が収容され、最大で700人余りの捕虜が近隣の工場での労働を強いられていたということである。その後、戦局の悪化によって、捕虜に支給するための食料や医療品が不足するなか、昭和18年に異常寒波が襲来し、厳しい冬を越すことができなかった60人のオーストラリア兵捕虜が、栄養失調や病気によって死亡するという悲惨な出来事が起こってしまったのである。

終戦後、GHQの指示で収容所の看守は逮捕され、BC級の戦争裁判で15人が捕虜虐待の罪でその責任を問われた。そして、8人の看守が有罪となり(兵卒2名、軍属6名)悲痛な遺書を残し巣鴨プリズンで絞首刑にされた。日本国内に数多くあった捕虜収容所のなかで、8人もの看守が処刑されたのは直江津捕虜収容所だけである。直江津捕虜収容所の看守が、捕虜のために調達したゴボウを食事に出したら「木の根っこ」を食べさせられた、脚の治療のためにお灸をしたら「身体に火を押し付けられた」などの捕虜の証言が、極刑の判決につながったと言われている。戦後(1953年)政府はこれを公務上の死と認め、年金など戦死者と同等に待遇しました。同事件を題材にした「貝になった男-直江津捕虜収容所事件」上坂冬子著がある。 慰霊碑(写真)には、、、 平和の空に八つの星  と書いてある。
巣鴨プリズン
巣鴨プリズンは、昭和38年にGHQから日本に返還され、東京巣鴨拘置所となった。その後、新しい東京拘置所が小菅に新設され移転したあと巣鴨拘置所は解体、昭和53年にサンシャインシティーに生まれ変わった。現在ではサンシャイン60が高くそびえ立っている。ビル建設中も、しばらくのあいだ鉄板で囲まれてそのままになっていた巣鴨プリズン当時の処刑場も、いまは池袋中央公園となっている。絞首刑台のあった場所には平和を願う記念碑がひっそりと置かれている。

平和友好祈念、飛天の像(写真右)
右側がユーカリの枝をまいている西洋の少女
左側が日本のサクラの天女
2人は横笛をもって平和のメロディを吹き鳴らしているのだそうです。 オーストラリア兵慰霊の碑(写真右)
碑には、 「この碑を1942年から1945年にかけて直江津で没した2/20オーストラリア歩兵大隊長ロバートソン中佐および59人のオーストラリア兵軍人の霊にささげる。私たちはこの人たちのことを永久に忘れない。」 と英語で書いてあるらしい。

  資料館(写真右)
敷地内には当時の資料を展示する資料館があり、当時の資料などが展示されている。資料館は通常は無人で施錠されているが、公園向かいの保坂さん宅から鍵を借りて見学が出来る。又平和を願う「上越日豪協会」などが中心となり、市民レベルでオーストラリアとの交流が続けられている。

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4 コメント

美味しいごぼうが木の根っこを食べさせられ。、と、虐待を受けたとして裁判で審理された話は聞いた話です。それが直江津捕虜収容所だったとは知りませんでした。
私の両親から聞いたのですが、戦争中はさつまいもの実はなかなか食べられず、ツルを煎て食べていたそうです。。
食糧難の時代、捕虜を虐待したとの罪で絞首刑になった看守さんがいたことも初めて知りました。
戦争は絶対やってはいけないですね。 すいちゃん (2010-05-24 16:10)
平和記念公園の横は毎日のように通り過ぎるのですが、この場所が戦争がもたらした、悲しい悲劇の場所だったとは最近まで詳しい事は知りませんでした。
自分に与えられた仕事を精一杯まっとうし、それが罪に問われる、それが戦争なんですね、、、、 (^へ^;) ham (2010-05-25 10:19)
 サンシャイン60には随分前に行ったことがあるのですが、そこが巣鴨プリズン跡というのは知りませんでした。大変、勉強になりました。
 実は、小・中学校の同級生に死刑になった方の娘さんがおりました。昔、上坂さんの本を読んだこともありましたが、その本の中で、その娘さんの母親が「巣鴨プリズン」を「巣鴨プリンスホテル」と混同されているという箇所があり、涙腺が緩んだことを覚えております。 キヨシゲ (2010-05-25 10:55)
キヨシゲさん、
コメント有難うございます、
私もサンシャイン60はよくテレビなどで目にし、耳にするのですが、このような歴史があった事は知りませんでした。
上坂冬子著の本も探して一度呼んでみようと思っています。 ham (2010-05-26 11:27)