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「日本のアンデルセン」と称された、童話作家、小川未明(健作)は明治15年(1882年)、最後の高田城主だった榊原家の家臣で小川澄晴氏の二男として、現上越市幸町に生を受ける。

奔放だった未明は、岡島小学校(現在の上越市立大手町小学校)の授業を幾度となく抜け出し、土手などで遊びまわって過ごしたという。13歳になり、入学した高田中学(現在の新潟県立高田高校)では、代数・幾何学など苦手な分野には関心を示さず、文芸や政治関連の書物を読みふけった。結果、成績は偏り、3度も落第したという。

3度の落第を経た後の未明は19歳のときに上京を決意、東京専門学校(翌年、早稲田大学に改称)を受験し、英文哲学科(後に英文科に転科)に合格する。そしてここでの出会いが未明の作家人生を力強く後押ししてくれることになった。小川未明の名付け親であり、未明(正式には、びめい)の才能をいち早く見抜いた坪内逍遥(つぼうちしょうよう)とは、この大学での講義を通じて出会う。

在学中の明治37(1904)年9月、処女小説『漂浪児』を発表、好評を博し(この時に逍遥から未明[びめい]の号をもらう)、翌明治38(1905)年、早稲田大学を卒業。

大正10(1921)年に代表作『赤い蝋燭と人魚』を執筆。その後も『青空の下の原っぱ』、『雪くる前の高原の話』、『兄弟の山鳩』等を次々と発表した。

1946年には児童文学者協会設立、初代会長に就任。1951年に芸術院賞を受賞、翌52年には芸術院 文化功労者となる。

しかし、昭和36(1961)年5月、脳出血で倒れ、79歳の生涯を閉じた。






本町通りを直江津方面に下り、東本町、本町7丁目の信号をさらに、少し東へ進み、小さな路地を右に入った右側、1メーターほどの狭い敷地(判るかなー)、「小川未明生誕の地」と刻まれた小さな石碑がある。ここは「日本のアンデルセン」、「日本近代童話の父」と呼ばれた童話作家・小川未明の生家があった場所だ。


上越市内には未明の童話作品をモチーフにした像が数多く点在する(高田公園、春日山神社、大手町小学校、春日小学校、など)。その中の一つ、直江津の船見公園内に建つ『赤い蝋燭と人魚』をモチーフに据えた人魚の銅像を見に行った。 (写真は赤い蝋燭を持った人魚)





人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。

 北の海にも棲んでいたのであります。

    北方の海の色は、青うございました。ーーーーーー
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 『赤い蝋燭と人魚』は、未明の幼児期の体験に根ざして描かれた作品だ。未明は生まれてすぐに、この地方の因習により、隣家の丸山家に里子に出された。この丸山家の家業がロウソク作りであった。



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