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| トップページ さいとまっぷ | ||
| 二条城は京都のど真ん中にありながら、私は何故か行く機会がなかったのだが、最近になって美術館に行く機会が何回か有、世界遺産でも有り国宝でもある二条城にやっと行くことができました。さすが世界遺産であり国宝ですね、日本城郭史上有数の豪華な御殿が残っており、素晴らしいの一語に尽きます。 でも城というより迎賓館と言ってもいいですね。実際に、天明8年(1788年)の火災で焼失後長らく本丸御殿は再建されないままになっていたのを明治26年に旧桂宮邸が移築されたこともあり、パンフレットなどの二条城の頭に「元離宮」と付いているのもその現われでしょう。3つの庭園や二の丸御殿の壁画や襖絵、屏風など素晴らしい日本画にもそれが良く現れています。 江戸城は徳川幕府の権勢を誇る関東の重大拠点であるのはもちろんのことですが、ここ二条城は大阪城の豊臣政権に対して西日本に徳川幕府の威信を示す重大拠点で有ったわけです。同時に平和の象徴でもあったのでしょう。それが証拠に築城時は天守閣が築かれていたのが、 落雷による消失後は再建されていません、既に大阪の陣も終わり完全に徳川の天下になり平定された後で、城としての機能の必要性はなかったのでしょう。 ご存知の通りこの城は国宝ではありますが、国宝指定の二の丸御殿は城ではなく「住居」としての指定です、それゆえ番外の城とでも言えるでしょうか。現在の国宝の城は4城ですが、この二条城を入れると5城になります。 しかし徳川家康築城時は確かに城でした、それも戦うための立派な城郭でした。家康が征夷大将軍拝賀に際しての宿泊所であると同時に豊臣との「大阪の陣」の拠点として築かれており、総本陣になっていたのはまぎれもありません。天守閣や御殿の周囲には2重に堀をめぐらし土塀が巡らされています。又城内の何箇所かに中門を築き敵兵に対しての備えが十分してあります。しかしこの城は一度も戦火には会っていません、たぶん家康の心の中には敵に攻められると言うような危機感すらなかったのではないかと思われます。又、唯一城主の居ない城として15代将軍徳川慶喜までの凡そ2世紀半の間権勢を誇ってきました。。 でもちょっと厳しいなあと思うことがあります。写真撮影に関しては非常に厳しい規制が有り、御殿内は完全に撮影禁止、外部は撮影は可能ですが、三脚はもちろんのこと1本脚などを用いての撮影は禁じられています。貴重な文化財を守るためには仕方のないこととは思いますが、ちょっと残念でもあります。 |
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| 国宝二の丸御殿 | ||
| 慶長6年(1601年)徳川家康は西日本の諸大名に二条城の築城を命令しています。それは家康の征夷大将軍拝賀の礼のためであると同時に豊臣との戦いを睨んでのことだったと思われます。 家康が築いた慶長創建時の城は二の丸を中心とする部分で、南北に長い単郭の城だったと思われます。図面などが残されていませんのではっきりとは分りませんが、「洛中洛外図屏風絵」などから察しられるところでは、五重天守、三重櫓、櫓門をもった壮厳な姿であったと思われ、徳川将軍の権威と威勢を天下に示す上方の一大拠点であったと思われます。 慶長7年着工、8年にほぼ完成し、家康が始めて入城しています。そして天皇の勅旨を迎え、将軍宣下の儀式が行われ名実共に徳川政権が誕生することになりました。 2年後家康は将軍職を辞し、息子徳川秀忠に譲り自分は豊臣家の一掃に全精力を傾けるべく準備に入っています。当然のことながら秀忠将軍宣下の舞台ともなり、その後は家康と豊臣秀頼との会見の舞台ともなりました。 慶長19年〜元和元年(1614年〜1615年)に掛けては、豊臣家との最後の戦いとなる「大阪冬の陣・夏の陣」の幕府の大本営が置かれ、ここ二条城から出陣しています。 「大阪夏の陣」に勝利し、完全に天下を掌握した徳川幕府は、3代将軍徳川家光となり、寛永元年(1624年)に城の拡張と殿舎の整備を全国21大名に命令しています。それにより西側に本丸を建造、南西隅に5重の天守閣を新造しています。この天守は伏見城よりの移築とも言われていますが、はっきりとは分っていません。 こうして絢爛豪華な御幸御殿(みゆきごてん)を含む御殿郡が整備され、寛永3年(1626年)に完成し、9月に後水尾天皇の「二条城行幸(にじょうじょうぎょうこう)」が行われました。この行幸は幕府が「公武和合政策」を行うためにも豊臣秀吉の「聚楽第行幸(じゅらくだいぎょうこう)」を凌ぐ一大イベントにする必要があったと思われます。 寛永11年(1634年)には家光が30万人とも言われる大軍を率い入城していますが、その後は二条城在番(大番頭4人、番士50人)を置き留守居制にしています。 寛延3年(1750年)8月に落雷により5層の天守が焼失、天明8年(1788年)1月には市中の大火により本丸殿舎、同櫓が焼失しています。 文久2年(1862年)、将軍家茂(いえしげ)の上洛を迎えるため二の丸殿舎の整備及び仮説建造物の造営に着手しています。 慶応2年(1866年)徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が二条城内で将軍職となり、翌年に大政奉還を行っています。ここに260有余年にわたる徳川幕府の終わりを告げました。 明治元年(1868年)には城内に太政官代(現在の内閣)が置かれ、明治4年には京都府庁が置かれましたが、後に移転し、明治17年(1884年)7月に二条離宮となっています。 明治26年(1915年)には、京都御所北東部の桂宮御殿を本丸に移築し本丸御殿にしています。翌年には完成し、今の本丸御殿になっています。同時に庭園も造成されています。 以後の主だった行事を年表風に上げておきます。 大正4年(1915年) 大正天皇の即位式。 昭和14年(1939年)宮内省より京都市に下賜。 昭和27年(1952年)二の丸御殿6棟が国宝に、本丸御殿櫓など22棟が重要文化財に指定。 昭和28年(1953年)二の丸庭園が特別名勝に指定。 昭和40年(1965年)清流園造成。 昭和57年(1982年)二の丸御殿の障壁画が重要文化財に指定。 平成6年(19994年)ユネスコ世界遺産に登録。 |
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