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松本城は城としての国宝の4城の内の一つである。私は4年ほど前に一度訪れているのだが、信州という風光明媚な空の下で、優美な朱塗りの月見櫓が特に印象に残っている。改めて訪れてみてその素晴らしさが再確認された次第です。でも当時は一帯何を見ていたのでしょう、これほど広い堀には何の印象も残っていません。今回は幸い朝まで降っていた雨が私の訪れと共に上がり、鮮やかな緑が映え、水面に写る天守閣の豪壮な姿をカメラに納めることができました。
じっくり周りを歩いてみてこの城がたどってきた苦難の歴史を思った次第です。
黒門前からの天守閣
  築城と歴史 
この松本城は、戦国時代、信濃府中に勢力を持っていた小笠原氏の林城の支城として築かれた深志城(ふかしじょう)が始まりである。天文19年(1550年)甲斐の武田信玄は小笠原氏を殲滅し北信濃経営の拠点として、幾筋もの河川の流れで形成された複合扇状地の地形を巧みに取り込み、深志城の大規模な改修に着手し、水に囲まれた堅個な城を完成させた。その後一時木曽義昌が城主となるが、天正10年(1582年)に小笠原貞慶(おがさわらさだよし)が本能寺の変の動乱の虚に乗じ深志城を回復し、松本城と改名されました。
天正18年(1590年)天下を統一した豊臣秀吉の命により、石川数正(いしかわかずまさ)・康長(やすなが)父子が入城し直ちに城の改築と城下町の整備に着手しまた。
数正没後康長は天守3棟(天守・乾天守・渡櫓)・御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを建設、本丸・二の丸を固め三の丸に武士を集め、城下町を完成させ近世城郭としての松本城を完成させました。
現在の天守は、新式の層塔型ですが、二重目の屋根が大きく、その屋根裏階が存在し、望楼型天守の構造も保っています。解体修理で、最上階は元々廻り縁であったのを室内に取り込んだものであることが判明しています。同様に乾小天守も二重目屋根の中に屋根裏階があり、三重四階となっています。乾小天守は、文禄2年(1593年)ごろに石川氏が創建した望楼型天守で、現在の天守を建てた時に改造し層塔型小天守として再利用したと考えられています。
慶長18年(1613年)石川氏は改易の憂き目に合っていますが、その理由の一つに「分不相応な城郭建設」が有り、石川時代の天守は、現在の乾小天守よりもう少し大型であったと思われます。
寛永10年(1633年)、結城秀康の第3子で家康の孫に当たる松平直政(まつだいらなおまさ)が入府し、わずか5年という短い期間ではあったが、天守を始め門などの修築を実施して、天守に辰巳櫓と月見櫓を付設。特に寄棟作りで縁を持つ朱塗りの月見櫓を配置したことにより、平和な時代の開放的な面が強調されることになった。
しかし、城そのものは、本丸を中心に置き、その西端に天守、南東部に本丸中枢部の正門の黒門を、東北部に搦め手となる裏門が配されていた。内濠を挟んで本丸から東にかけて凹字型に巡る二の丸を構え、その東面に厳重な枡形の太鼓櫓が形成されている。二の丸東西の北端と本丸埋門(うずみもん)の間には水掘を仕切るための足駄塀(あしだへい)が建てられていたことが絵図や古写真から分っています。足駄塀は堀内の自由な往来を規制するだけでなく、有事においては塀を倒して浮橋とし、出撃と退去のために利用する目的も有ったと思われ、軍事的に非常に堅個な城で有ったと思われます。

天守閣正面

埋橋と天守閣

大手門を入った所からの天守閣

黒門と天守閣

朱塗りの回廊の月見櫓

太鼓門

月見櫓の内部

傾斜角度60度の階段

石落し

南側の広い堀に写る天守閣

黒門

天守閣天井に祭られた守り神
保存と修理
松本城も例外ではなく明治維新の廃城令により取り壊しの危機にさらされました。明治5年(1872年)、松本城天守落札を知った信飛新聞発刊者でも有り民権運動家でもあった市川量造(いちかわりょうぞう)が天守買戻しに有志と共に立ち上がった。資金集めの一環として、県令に対して城における博覧会開催のため城の一時的拝借を願う請願書を提出し許可を得て、翌年開催された博覧会は大盛況を納め、以後明治9年まで5回にわたって開催されその入場収益は全て城買戻し資金とされ天守閣は破壊を免れ、現在に残されることになったのです。
しかし、天守閣は地盤の不安定な河川堆積層の上に立っていたため、傾き、荒れ果てたままになっていたのを、二の丸に完成した旧制松本中学校の初代校長の松本有成(まつもとうなり)が明治34年(1901年)に天守保存会を結成させ、資金集めに奔走し、2年後に修理に着手。日露戦争の混乱により一時中止を余儀なくされたが、大正2年(1913年)に無事完成した。
松本城天守の文化的価値を守ろうと奔走した二人の熱意と努力に寄り、昭和11年(1936年)に旧国宝の指定を受けている。