![]() |
||
千鳥城 |
||
| トップページ さいとまっぷ | ||
![]() |
||
| 二の丸からの天守閣 | ||
| 松江と言えば、私の個人的な印象では出雲とともに何か「神の国」と言っていいのだろうか、「神秘の国」である。出雲は出雲大社、ここ松江は小泉八雲に代表される神話の国でもある。鳥取も含めて山陰は私の中では「神話の国」なんです。 小泉八雲と言えば本名を「ラフカディオ・ハーン」の日本名であることは言うまでもないでしょう、実際にはアメリカのジャーナリストであり、日本へは通信員として来日したが、ここ松江が随分気に入り日本人の女性と結婚し、日本国籍を所得、あの有名な「怪談」をあらわしました。私の子供の頃には、この中の1篇の「耳なし法一」を良く聞いたものです。 そんな地にこれほど無骨な野武士的と言ってもいい様な城がいきなり目に飛び込んできたときには、暫く呆然と見つめているのみでした。別名「千鳥城」がなんともピンと来ません。 話はそれましたが、この城は天守の現存する12城の内の一つです。日本の城の殆どがそうであったように、明治政府による廃城令により数多の櫓や御殿は全て取り壊されましたが、本丸の造りは極めて軍事的要素の強いものだったようです。 城は標高24.8mと言う低い小山の亀田山に築かれていますが、南を大橋川と宍道湖が、東から北にかけては沼と湿地田に囲まれると言う天険の要害にあります。唯一つの弱点である北側の山陵地には戦略的弱点にならないように堀を設けて独立丘陵とするなど、実に上手く地形を生かした構えだったようです。残念ながらそんな全景を見ることは出来ませんが、天守閣にもそうした戦略的な構造を垣間見ることが出来ます。 天守閣の正面入り口の「附櫓(つけやぐら)」は、天守閣の防備を強化すために取り付けた櫓で、入り口は鉄延板張りの大戸が有り、中に入ると枡形の小広場が2段有って敵が侵入しにくいようになっています。 天守閣内部にもさまざまな工夫が凝らされています。まず2階の4隅と東・西・北壁に幅の広い石落しが作られています。外観からは分りにくい構造になっていますね。地階には井戸を掘ってあり篭城用の飲料水を確保した上に全体が食料保存倉庫だったようですね。さらに1階から4階までの階段は引き上げるときに軽いのと防火防腐に強い桐が使われています。 柱は、肥松の1本の柱の外側に板を組み合わせて巻き付け金輪で締め付けて太い柱にして有ります。この寄木の柱のほうが普通の柱よりは力学的にも強く、築城主の知識の豊かさが現れています。 天守閣を支える石垣はいかにも無骨な穴太衆(あのうしゅう)による「野面積」です。石の大きな部分をうちに、小さな面を表に出した一見粗雑に見えるが、石組みにしては最も頑丈な「牛蒡積(ごぼうつみ)」で、勾配も中腹がくぼんでいない直線でいかにも古い野武士的である。しかし、他の部分は(全体の6割)「打ち込み接(はぎ)」と言う、石切り場で切り出した石の平坦な面の角を加工して合わせやすくした技法が用いられています。築城に当たってはこの石垣積にかなりの労力をかけたようで、着工から完成までの5年の内の3年を石垣に費やしたと言われ、外敵に対するさまざまな防御を考えた上のことだったようです。 |
||
築城と歴史 |
||
| 慶長5年(1600年)、関が原の戦いの功績により、堀尾吉晴・忠氏親子が遠江浜松城から24万石で出雲・隠岐の太守となり、広瀬の月山富田城に入府し新たな築城場所の選定に入るが、慶長9年(1604年)に忠氏が急死。忠氏の遺志を受け継いだ父吉晴は、築城場所を亀田山に決め、慶長12年(1607年)に着工、足掛け5年の歳月をかけ慶長16年(1611年)に完成したが、竣工の数ヶ月前に吉晴公が死去し、孫の三之助(忠晴)が13歳で3代城主となり完成を見ている。 しかし、忠晴には嗣子が無く、寛永10年(1633年)無嗣断絶となり翌11年に京極忠高が若狭小浜より移封したが、わずか4年でこの京極家にも世継ぎがなく改易になっています。その後寛永15年(1638年)に、松平直政(徳川家康の次男松平秀康の3男)が信州松本城から入府、外様から親藩となり明治維新まで10代松平定安までの230年間松平家の時代が続ました。 明治になって廃城令が交付され、広島鎮台は、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げ、ことごとく取り壊されましたが、天守閣は出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより買い戻され保存されることになりました。以来松江市民の誇りと憩いの場として現在に至っています。 |
||
| この撮影に赴いたときは、あいにく曇り空と黄砂で視界が悪く、ちょっと残念な結果に終わりました。機会があればもう一度訪れたく思っています。でも無骨な中に望楼をめぐらせた天主と優美な千鳥破風など、素晴らしい城ですね〜〜。 |