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追手門から見た天守閣
 初めに
私が始めてカメラを手にしたのは、高校1年か2年生の時だったと思います。知り合いにカメラマンが居られて、彼の使わなくなった「マミヤフレックス」という6×6版のフイルムを使うカメラを譲ってもらったのが初めてでした。
当時は母は病床にあり、貧乏を絵にかいたような家庭ではカメラを買うなんてことは出来そうに有りませんでしたが、小遣いをやりくりしてはフイルムを手に入れ何がしかの写真を撮っていました。高校の卒業アルバムの編集委員を引き受けたときには、いっぱしのカメラマン気取りで写真を撮りまくったことを思い出します。正直、芸術なんていえる物ではなかったのは言うまでもありません。それでも新聞や雑誌に乗ったプロの写真を見るたびに、「俺もこんな写真を撮る新聞記者になりたい」との思いが出てきたものでした。特に報道写真に興味がありましたね。
当時プロの報道写真家の間では「アサヒペンタックス」を持っている人が多かったですね、俺も自分の給料で最初に買ったカメラは「アサヒペンタックスSU」で、それ以後手にした殆どのカメラがペンタックスです。今使っているカメラは、「ペンタックスK7」と「ペンタックス100D」が主力です。
私は写真は
「瞬間の記録絵」だと思っています。シャッターを切った瞬間、そこに写し取られた絵はこれ一枚です、極端な言い方をすれば、仮に、1秒間5〜6コマの連写でシャッターを切ったとしても2枚目の絵は1枚目とは違うわけです。それは光であったり風に吹かれた木の葉のゆれであったりと極微小ながら違っています。動いている動物や、スポーツ選手を撮ってみるとよくわかると思います。つまり「世界で、この世の中でそれ1枚」なんです。そこに魅力を感じるんです。
自分の腕を棚に上げて生意気な言い分なのですが、その瞬間の描写が芸術性を生みます。これは絵や彫刻にはない魅力ですね。ですから忠実に写すことに神経を使い、特にいい写真を撮ろうとはあんまり思っていません。幸いにも何枚かのシャッターを押した中にいい写真があれば良いと思っています。それでもやっぱり上手い人の写真は違います。やはり感性なのでしょうね、私もこのシリーズでその感性を磨いていきたく思います。
このシリーズの最初は国宝の城からと考えていました。特に「心に残る城」として一番撮りたかったのは「犬山城」なのですが、行こうと考えていたところに今回の巨大地震です、それ故先月の27日に撮った「高知城」からはじめたいと思います。
ただ、このシリーズは城を紹介すものではなく、飽くまで「俺自身が見たい城」を写真として残したい、いわば「城のいい写真を撮りたい」というのが本音です、故に城の案内書としての詳細な説明はできないことだけはお断りしておきます。
 築城
高知城は、現存する天守閣を残す全国で12ある城の一つです。しかも天守に接続した本丸御殿が完全な形で現存する唯一の城です。さらに本丸の建物の殆どが残っています。又、天守と追手門(大手門)がともに現存するのは全国でも丸亀城と弘前城とここ高知城の3城だけです。世界遺産でもあり国宝の姫路城の大手門でさえ、1938年に再建されたもので、現在の大手門は高麗門と呼ばれています。
築城は慶長6年(1601年)に、遠江掛川五万石から一躍土佐二十四万石の太守となった山内一豊によって着手され、慶長16年(1611年)に10年の歳月をかけて完成したと伝わっています。
土佐1国を任された一豊は、最初裏戸城に入りますが、ここは手狭だったため、大高坂山(おおたかさやま)に新たな城を築くことにして百々綱家(どどつないえ)を城総奉行に任命し建設に当たらせます。このときの名前は「河中山城」と命名されましたが、後に水害が相次ぎ「河中」はきらわれ「高智山城」に改名されこれが現在の「高知城」、そして都市名の「高知」になったとされています。
山内一豊が入城したのは、着工から2年の慶長8年、本丸と二の丸の石垣と本丸の主要部が完成した時からといわれています。その後も工事は継続されて完成に至っています。その後享保12年に火災により追手門などわずかな建物を残し消失し、享保14年(1727年)に再建に着手、二の丸が延享2年(1745年)、三の丸が宝暦3年(1749年)にそれぞれ完成、火災消失から全ての建物が完成するまで実に26年もの歳月が掛かっています。現在残されている建造物の殆どはこの時の物です。
山内一豊は、克っての城主で殆どの改築を手がけた掛川城が痛く気に入っていたようで、高知城の天守閣を築く時、殆ど模写し、高覧などを設けています。天守閣だけを見れば殆ど同じだそうです。
山内一豊といえばNHKの大河ドラマ、司馬遼太郎原作「功名が辻」で有名になりましたね、特に奥方の千代の方の内助の功が有名で、生誕地といわれる郡上八幡城にも現在は銅像が立てられています。しかしそんな一豊でも高知城築城に当たってはスンナリとは行かず、元々の長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し多くの騒動を起こしたようで、新規の家臣は殆ど上方(大阪など関西)で採用して重要なポストを旧臣で固めて長宗我部勢力を排除するなど大変に苦労したようです。築城に当たっての見回りの際には、影武者を6人も従えたとの言い伝えもあります。
しかし、近世日本の誕生に活躍した坂本竜馬や、岩崎弥太郎などを輩出した土佐高知城でも、明治政府による「廃城令」により、現存する建物を残して全ての建造物が取り壊されたのは惜しむ楽もありません。それでも本丸周辺の15棟に登る建物が国の重要文化財に登録されています。
そんな高知城を俺なりに巡ってみました。

本瓦葺入母屋造りの追手門(大手門) 両脇の石垣の上に渡櫓が築かれている

鉄鋲が打たれた追手門の扉



追手門から望む天守閣



追手門を入って石段をあがった杉の段から見た天守閣


追手門東北矢狭間塀



天主に接続した本丸御殿
完全な形で残っているのはここだけ


二の丸と本丸を結ぶ詰門(廊下橋)
内側から見たところ


詰門の入り口付近(内側)



廊下橋門櫓



野面積石垣と天守閣



西多門側からの石垣と天主



三の丸からの天守閣



黒鉄門(くろがねもん)
柱や扉の外側に鉄板が打ち付けてある 外観は黒塗りの板張り

黒鉄門の西側から



鐘撞堂



鐘撞堂の鐘


野面積の石垣



石垣から突き出した石樋



横から見た石樋
雨水が石垣にしみこまぬように工夫された巧妙な装置

鉄串状の「忍び返し」がついた石落石垣を登ってくる敵兵を阻止するための仕掛け

詰橋門と廊下門櫓及び西多門櫓



一豊の奥方千代と名馬の像
名馬の購入で一豊の出世の糸口を作ったので有名

板垣退助像から見た天主



大手門付近の内濠
本丸 二の丸 三の丸などを取り巻き敵の襲撃から守っている

西多門櫓下の枝垂れ梅
この付近は梅園になっている


御台所屋敷跡付近から見た天主



山内一豊の像



二の丸乾櫓跡の石垣

ゆっくり高知城公園を歩いてみてつくづく素晴らしい城だと思います。正直今回は下見の心算だったのですが、今回の東日本巨台地震で急遽高知城に変更したのですが、もうちょっと十分下見した上で狙ってみたかったですね。城内などは全く撮っていませんし、もっと撮るべき被写体があったと思いますが、まず出だしとして高知城を選びました。写真はクリックしてください、大きく表示されます。