Jan31

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Jan30
玄関は大理石を使い。和室は二間続きで、欄間にもこだわり、建具の障子は全て障子に似せた特注のガラス貼り、一間には掘りこたつを設置。水まわり、風呂の浴槽もタイル、便器も特別注文である。床も全部特注だった。カーテンも当然オーダーで300万以上掛かり、絵恋によればあまりの重たさに、一度も自分ではずせなかった。シーズンごとに、業者に来てもらわなければならない。玄関の吹き抜けに、設置されたシャンデリヤも掃除する度に、足場をくまなければならない。壁紙はフランス製だったようだ。二階の長い廊下沿いには、大理石のような輝きの扉があるクローゼットが設置された。しかし、こんな豪華で贅沢な家が、人を幸せに出来るとは限らない。和室の一部屋は妙子が使う予定だったが、ヘビースモカーの妙子はヤニを気にして、和室やコタツを一度も使うことがなかった。おまけに畳が日焼けすると365日カーテンを閉め切り、カビが生えていた。フランス製の壁紙も数ヶ月でヤニが付いてきばんだ。クローゼットの扉は傷が付くと修理に恐ろしい程、費用がかかったようである。これを聞くだけで羨ましいとは思えない。かえって無駄な贅沢にしか思えないのは私だけなのだろうか。

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Jan28
妙子と同居している婿の橋下と絵恋家族は、新居での同居でさらに妙子と勝子に振り回されることとなる。7000万、土地を入れると1億ほどの新居が完成した。妙子は友人に紹介された工務店で建てたが、相場よりかなり高い業者だった。しかし、金を持っている妙子は、そんなことなどおかまいなしだ。柱、欄間など全ての箇所に、かなりの金額が使われた。このときも橋下と絵恋の意見など聞き入れられることはなかった。玄関をはいると、小さな旅館でも負けそうな広さである。玄関ホールと二間続きの和室で、一件の家が建つほどである。一番 驚いたのはカーテンだけで、300万以上もかかっているということだ。リビングは25帖ほどあるだろうか?とにかく妙子の性格のように豪快なつくりである。この時は妙子にも、絵恋にも幸せな出発に見えていた。

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Jan27
俊彦は退院後、自宅療養のため10ヶ月を家で過ごすことになる。失明は免れたが水晶体の損傷のため、肉眼では視力を失うことになった。優しさと思いやりの無かった俊彦は、当たり前のように、健康に生きてきたが、初めて痛みと不自由を知ることになった。私の友人達のお見舞いや訪問で、人の優しさや思いやりに気付いたのかもしれない。外出から戻った俊彦が「なんか俺、おかしいねん?今日、電車で車椅子の人に会ってな!介助は出来なかったんやけど、それが気になって、気になってしょうがないんや!いままで他人が困っても、全く気にならんかったのに!」と自分でも不思議がっていた。俊彦にとっては、肉眼で視力を失うという大変な経験であったが・・・健康で思いやりが全く無い人であるより、傷ついても人の痛みが分かり、思いやりを持てる人になることに、私は安堵感を覚えていた。それまで、山川家の親族には評判の悪い婿だった。遠方から来た伯父夫婦が我が家に泊まることになった。全く挨拶もしない俊彦に気分を悪くし、伯父夫婦が帰ってしまった事件もあったからである。それが、退院後は山川家の親族に、笑顔で挨拶する俊彦を見て、伯母が飛んできて「俊彦さん、いつもと違うよ!どうしたの?」と言われたこともあった。しかし、私は俊彦に対する不満を本人には、一度も言った事などなかった。でも、私がいつも心の中で不満に思ってきたことが、次から、次へと変わっていくのである。不思議に思い、俊彦に尋ねると本人は全く自覚することもなく、努力している訳でもなかった。私は今でも神に祈った「祈り」が聞かれたのだと思っている。その後は、私にとっては良い事ばかりであった。

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Jan26
大平洋戦争 青年特攻隊として、知覧基地から飛び立つ兵士に送らた・・・赤い花~一緒に散らすのは忍びないと、喜界島に残していったという。今でもその花を~特攻花~という。   争いは 無意味だと 僕らに語る 特攻の花

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Jan26
この時、妙子は旬と絵恋夫婦が購入していた土地に、7000万の新居を建築中だったのである。私は近所の人から耳にしたが、妙子が言わないので、こちらからは何も聞かなかた。しばらくして、妙子は現在住んでいる家を、私達に買わないかと言う。俊彦は会社も閉めたし、銀行にも信用がないので自分達が家を買うチャンスが無いと言う。だから、銀行に顔の効く妙子は自分の家を売るためなら、銀行が俊彦に融資をするように勧めるだろうというのだ。しかし、私は町内一難しい家族と思われ、妙子の友人達が近隣に多く住むこの家を、購入することに気がすすまなかった。しかし、俊彦はその気になっていた。何度も改装しているとはいえ、かなり古い家である。俊彦が中学生の時に購入したのだから。25年は経っていた。妙子の提示金額は2000万である。耳を疑った。銀行側は高く積っても1000万迄だと言う。結局、そこでも妙子が2000万の融資をしないと「うちはな!もうあんたの銀行と今後は取引をやめるで!」と言い出し、銀行側も大口の顧客の妙子に負け、1300万の融資に値上がりしてしまった。私達子供に相場より高く売る親も珍しいと、銀行の人も思っただろう。しかし、このことも他の兄弟たちには私達には、700万で売ったと言っていたようだ。ましてや、近所の人達は長男の俊彦が当然、この家を貰っていると思っているようである。

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Jan25
私はその後も主人を信頼できず、窪塚家で絶大な力を持つ妙子がいる間は、離婚も難しい。自暴自棄な生活を過ごしていた。主人のことなど愛せない、信頼すらできなかったのです。学生の頃から身近だった聖書に希望をたくした。『私には子供達がいる。子供達が成人するまでは弱音を吐けない!神様~こんな惨めな私を見捨てないで下さい。私には何も誇るものはありません。全人類のなかで一番値打ちのない者です。しかし、助けて下さい!』と祈っていました。ある日、私は教会の礼拝堂で、牧師の話しを聞いていた。私の目の前に幻のようなものが見えた。その幻は主人と私が一緒に死ぬものでした。 2人は神の前に跪いています。しかし、神の目は私達夫婦を叱責することもなかったのです。しかし、私は心の中で『主人は私をこんなに苦しめたのだから…きっと裁かれるはずだ』と思っていたのです。 しかし、神は主人にも私にも、同じ愛を注いでおられました。私はその時、神が主人を愛しておられるのだと悟りました。私は神に悔い改めました。『神よ!私も主人を赦し愛せるよう努力します。』と…そして次の日、主人の仕事場から連絡があり、主人の目に鉄線が当る事故があり、病院に運ばれたと言うことだった。すぐに病院にいる主人から連絡があった。本人はかなり動揺している様子だった。診察の結果、失明するかもしれないと言うことだった。しかし、私はこの事故は偶然で無く、神による必然的なものである確信と、不思議なくらいの平安があった。『きっと神様は何かを起される…何かはわからないけど…我が家にようやく光かりが差込んで来たような、清々しさを感じていた。入院した主人は、見る見るうちに人格が変っていった。偏食の多い主人だったので、入院中は弁当の差入れを覚悟していたが、本人は要らないと言う。数ヶ月の入院中、病院食を食べていた。信じれないことだった。私から観れば主人は確実に180度変っていった。

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Jan24
阪神大震災の日、新築の窪塚家にも激震が襲った。トイレから出てきた,
ばあ~ばん(妙子)は足元がふらつき、孫の香恋の部屋にたよろめいた。その時、たまたまそこに居た、香恋を押し倒しべッドの上に倒れこんだ。下敷きになった香恋は「あぁ~、く~くるしい!」幼い香恋は震災にではなく、大柄なばあ~ばん妙子に殺されそうになる。そこに心配して飛んできた絵恋に妙子は「うちはな!香恋にかぶさって!身を投げ打って!かばったったんや!」と答えた。(・・)?うっそ~なんで~そうなるの?

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Jan24
窪塚家では正月には勝子が費用を出し、それぞれの家庭分のおせちを久智子、絵恋が作っていた。もちろん、勝子に嫌われている我が家の分はないのだが・・・勝子の私に対する逆襲は徹底したものだった。この頃は、この事実を私は知らなかったが・・・このように窪塚家では、我が家にだけ内緒ごとが多くあった。知る必要もないのだが、困る事も度々ある。近所の八百屋に買い物に行った時のこと「あっ!窪塚さん。お母さんの家は今日が棟上げらしいわね?」と言われた。妙子が新居を建てるなど何も聞かされていない私は、何の事だかサッパリ分からない。「えぇ?何かの間違いじゃないですか?よそじゃないですか?」~「えぇ~知らないの?そんな事ないわよ!朝、ご馳走振る舞うと沢山の食材を買っていかれたよ!」と恥をかくことは度々だった。もちろん俊彦にも内緒である。たぶん、妙子は俊彦には一銭も出していないのに、他の子供達にはそれぞれしていることを知られたくなかったのかも知れない。この頃には、窪塚家に嫌気がさしていた俊彦も私も、長男扱いされなくても、何も思わなくなっていた。                                            

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Jan23
私は窪塚家からは、少し距離をおいていた。幸いに俊彦が実家を嫌い、私が関わることを嫌がるので、用事のある時や、妙子から呼ばれる時だけ窪塚家を訪ねていた。その頃、聡子と姑、小姑との間には溝がさらに、深まりつつあった。絵恋の子供が熱を出し、身体の弱い祐二は入院することになった。絵恋、妙子は二人で病院に付き添っていた。同じ頃、聡子の長女 詩織も体調を悪くし、病院に連れて行ってもらおうと絵恋に連絡を入れた。しかし、絵恋も妙子も留守で連絡が取れない。しかたなく、隣町に住む実家の母 満江に連絡を入れた。 満江が駆けつけ詩織をつれて病院に行く。市民病院の小児科に行くと、絵恋と妙子に出会った。絵恋と妙子が「どうしたの?詩織ちゃんどうかしたの?」の問いに、聡子も満江も怒って返事もしない。絵恋が「祐二も熱が下がらなくて、入院することになったんだけど、詩織ちゃんの紙おむつ、買ってきましょうか?」それに対して満江が反発し答えた「こちらも特別室に入院しますから!紙おむつもいっぱいあります!けっこうです!」と捨て台詞。詩織はただの風邪で、入院することなどなかった。このことが更に両者の関係を悪化させていくことになる。

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Jan22
妙子は先でも記したように、気性の激しい人である。妙子だけでも事件はいっぱいある。母親を早くして亡くした妙子は、父親にあまやかされて育つ。戦時中も物不足の中、妙子は兄が海軍にいたため困ることはなかったようだ。高等学校時代に妙子は姉の静子と銭湯に行った。当時は手に入り難い石けんを持っていた妙子の横に、風俗業の女が座った。若い妙子を見て、「若い子娘が石けんなんか持って!」と石けんを取り上げられ、おまけにお尻を思いっきリ抓られたらしい。妙子も逆上したが、真っ裸で喧嘩もできない。考えのあった妙子は、そのまま風呂場から上がった。しかし、気性の激しい妙子の腹の虫が収まるはずもなかった。妙子は銭湯の入り口で待ち伏せた。女が出てきたところを捕まえた。「よう私のことをコケにしてくれたな!風呂場の中で、真っ裸で喧嘩でへんからな!」と出て来た女を蹴飛ばした。そこで若い妙子と、熟年の女の掴み合いの喧嘩が始まった。負けず嫌いの妙子は女を打ち回した。それを一緒にいて見ていた姉の静子は震えていたという。(・・;)

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Jan21
龍雄と妙子の離婚から、私たちが家を出る時の敷金だが、俊彦は妙子がくれたのだと思い込んでいた。しかし、私が窪塚家に行くたびに妙子から返すよう催促された。俊彦が下請け会社にいくことにもなり、私は会社にも近く、
実家の両親にも近い、一軒家を借りることにした。この家は父の知人の家で、敷金はいらないという。かなりの古家なので手を加えないといけないが、父が全ての修理をしてくれた。そして敷き引きされた残金に、お金を足して妙子に40万を返した。妙子に封筒の中を確認してくれるよう頼んだが、妙子はその時に確認しなかった。私も親子なのでそれ以上いわなかった。それが間違いであった。一週間経った頃、妙子から連絡があり、封筒を開けたら10万円足りないと言う。私は愕然とした。「やはりあの時、何回も言って確認してもらうべきだった」・・・俊彦に相談すると、こちらはちゃんと返したのだから気にするなと言う。それに窪塚家では家族が妙子のお金をよく盗るから、だれかが盗ったのだろうと言う。でも私が盗っていないと証明されるわけでもなく、気分が悪い事件となった。しかし、10万は我が家にとっては大金であり、金持ちの妙子に、盗っていないお金を返すのも納得いかない。結局、返さなかったのだが。ずいぶん経ってわかったことなのだが、妙子はベッドの布団の下に、札束を敷き詰めていたようだ。また大きな壷に一万円札を大量にへそくっていたらしい。大人になった絵恋の自己告白によれば、その当時、学生の頃に布団の下と壷の中から、毎日のようにお金を盗んでいたらしい。少々盗んでも妙子は気付かなかったようだ。この時の10万事件も絵恋の仕業だったようである

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Jan21
そんな清志の平穏な生活は長く続かなかった。もともと聡子が気にいらず、言動にも違和感があったのだ。口の上手な聡子は「お母さん。何でも言って下さいね。いつでも来ますから~」と言っていたようだ。しかし、聡子が一人で窪塚家に来ることはなかった。ご馳走するとか、物をあげる時に清志と二人で来るのである。それがまた窪塚家の姑と小姑に反感をかう事になるのである。また、聡子はかなりの節約家で「一汁一菜」を実行していた。清志が痩せてしまったと妙子は愚痴を私に聞かせた。妙子と買い物に行った時、「清志はステーキが好きだから」と何枚も買い込んでいた。妙子の子供に対する愛情表現は、好きなものを買い与えることだったのだろう。妙子を怒らせたのは聡子家族が嘘をついていたことだ。聡子の実家が金持ちでもなく、山なども所有せず、馬主でもなかった。聡子が嘘をついたのか、実家の両親が嘘をついたのか、分からないがこのことも、妙子の機嫌をそこねることになる。聡子の実家のことを疑問に思った妙子は、久智子と絵恋を巻き込んで大騒ぎである。妙子と久智子は、聡子の実家周辺に車を走らせた。探偵なみに、聡子の実家の身辺調査にのりだした。たまたま、久智子の友人が同じ町内に住んでおり、偶然に出会った。聡子の実家について詳しいその友人から、詳細を聞きだした。その後、私は妙子から聡子の自慢話を聞くことは無くなった。

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Jan20
清志はその後スポーツ仲間の女性と知り合い、結婚することになった。彼女も偶然にも聡子という名前だった。妙子は清志が聡子を連れてきた時から、気の強そうな聡子を気にいらなかったようだ。聡子の手作りのケーキも一口も食べることなく[しょうもない!うちは、こんなもん食べれるかいな!買って食べた方がよっぽど、美味しいわ!ほかしときな!」とごみ箱に捨てたほどだ。しかし、ケーキ事件は私が俊彦と交際している時も、ロールキャベツを作り、持って行った時もゴミ箱入りだった。聡子の両親が窪塚家を訪ねて来た。妙子が気分を害することが起きる。妙子も聡子の両親もプライドが高い、妙子が趣味で集めている高価な焼き物の棚を見て、聡子の母は「お父さん、我が家もあれと同じ壷が離れにありますね~」と言う。妙子は有名作家の高価な一点物をそのように言われ、かなり憤慨していたようだ。しかし、聡子の実家は金持ちで裕福らしい。兄弟も教師をしていた。お金と名声を気にする勝子にとっては文句のない嫁なのだろう。それに加え、性格も勝子に似ていた。勝子に対しても「お姉さん~お姉さん!」と甘えて話せるようだ。当然、勝子も気をよくしている。勝子は妙子を接得し、聡子との結婚をゆるした。清志夫婦は勝子には、いろいろと親切にしてもらっているようである。どちらにしても、清志にとっては幸せなことである。前回のことで清志も、何かを学んだのかも知れない。しかし、口の上手な、金持ちの嫁 聡子の出現は私にとり、大変だった。窪塚家に行くたびに妙子から、聡子と比べられた。聡子は短大を卒業し、月給が良く、栄養士の資格を持ち料理も上手らしい。実家は山を所有し、競馬の馬主でもあるらしい。そんな聡子の自慢話を散々聞かされる。こちらは、高卒でパート、親は職人で財産もない。しかし、嘘をつき嫁いだわけでもなく、私の足はだんだんと、窪塚家から遠のいていった。                                    

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Jan19
勝子は近隣でサロンを開いていたので、仕事帰りにすれ違うことが多かった。しかし、すれ違う時に挨拶しないわけにはいかず、声を掛けた。すると勝子はいったん私の顔を見るものの、完全無視である。本当に子供じみた人である。私はため息をつきながら、帰宅する。それから後、私は帰り道で勝子に出会うことが恐怖だった。そんな勝子が「芽衣子さ~ん!」と声をかけ手を振ってくるのである。目が点になる。帰宅すると、すぐに妙子から電話がある。「芽衣子さん。こんどの日曜日な!婚礼があるからな!勝子の手伝い行ったってよ!」ときたもんだ。心の中で「ははぁ~ん。そうか?それで無視が手を振ったんだ?」私は断りたいが、姑には断れなかった。勝子も私が姑には断れないと考えたのだろう。婚礼は出立ちから,新婚旅行の見送りまで、早朝6時頃から,夕方6時位までなのである。案の定、手伝った後は、散々もんくのオンパレードである。次の日、私は勇気を出して妙子に言った。「お母さん、すいませんが婚礼のお手伝いは、今回限りでお願いします。」「今、勤めているサロンでも、三回のうち一回は婚礼のお手伝いをお断りしているのです。子供が熱を出しても、引き受けた以上は行かなければならないので、申し訳ありませんが・・・」と断った。早々、勝子から電話が入った。「芽衣子さん。行ってくれたら、一万円払おうと思っていたのよ!」と捨て台詞。勝子はお金ですべてが、自分の想いどうりになると思っているようだ。私はこの時以来、勝子の手伝いに行くことはなくなった。  な

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Jan18
今から18年前に長男が小学校入学のため、窪塚家の近くに一軒家を借りた。そのころ、台風が発生した。この近隣では度々、水害にみまわれるのである。40年前には、同じく台風で側に流れている河川が氾濫した。近隣の国鉄(その頃)の線路が浸かってしまうほどだった。駅が封鎖され、不通になってしまった。町内のほとんどが床上浸水だったようである。荒波家(窪塚)は1階が全部浸かり、2階の窓から水が触れるほどだった。一気に水が流れ込み、逃げる余裕がなく、妙子と幼い絵恋が取り残された。消防のレスキュー隊がボートで救助に来てくれた。絵恋が気付き窓の外を見ると、妙子は絵恋をほったらかしにして、自分一人ボートに乗り込み救助された。絵恋は度々この時の話をする。幼いながらに絵恋は傷ついたことを私に聞かせた。そのため、18年前の台風の時、妙子から電話があり、「俊彦は居るか!我が家の家具を2階に持って上がって!」と言われた。「お母さん、我が家も今は2階に上げている最中なので、終わったら行きますね」と答えた。妙子は「あんたとこは、ろくな物ないねんから!こっちから、先にしてか!」と言う。本当に自己中心である。結局、仕方なく俊彦は荒波家の家具を先に上げに行った。                        

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Jan17
長男の歩が小学校に入学となり、私は仕事の合間、入学準備に忙しくしていた。いつものように姑の妙子に用事を頼まれた。妙子は「何処に行ってたんや!留守やったな!」の問いに、「歩の学習机を買いに行っていました。」それを聞いた途端に妙子が怒りだし「なんでそんな机なんかいるんや!我が家は子供に机なんか買うたったことないわ!」「それと、うちわな~孫の誰にも、机を買うたったことないからな!」と言われた・・・私は「お母さん、机はもう買ったのでいいですよ。学用品も全部揃えましたから」と答えた。でもその後、絵恋の話では勝子、久智子、清志、絵恋のすべての孫8人が、妙子から机をお祝いとして貰っているのである。これもつい最近、聞いた話である。私のことを特別嫌っているわけでもない。妙子の子供に対する格差の理由はいまだにわからない。娘の絵恋も不思議だという。俊彦には冗談で「ひょっとして、俊彦さんだけが並木のお父さん(実父)の連れ子じゃないの?」と聞いたほどだ・・・長女、勝子は嫁入りに高額の持参金と花嫁道具、それに店を出す時の資金を出してもらい。久智子は自宅購入時に700万を出してもらい。清志の結婚時に新居のマンション購入の為に、700万を出している。絵恋も同居と老後も看るということでそれなりのことはしてもらっているようである。結局、何もしてもらっていないのは、一番親孝行をした俊彦なのである。貰ったのは、借金と家を取られた嫌なことだけである。絵恋も自分達と同じように俊彦家族にもしていると思っていたらしく、事実を知り驚いていた。

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Jan16
久智子もまた、妙子の子供のような性格を引き継いでいた。まず人の話を聞かない。自分の言いたいことを主張する。思い込みがはげしい。久智子のことを心配して助言しても、それは嫌がらせとしかとれない。そんな久智子に育てられる子供の麻理は大変だと思う。麻理の気持ちを、思いやることなど出来ない久智子は、離婚後「あんたさえ、居なかったら!良かったんや!」と幼い麻理に怒鳴っていたという。しかし、そんな久智子を幼い麻理は、玄関横の階段に座って、けな気に母親の帰りを待っていたという。子供は親を選べないし、麻理にとっては、たった一人の母親なのである。おまけに祖母である妙子からも、可愛がれることはなかった。幼い時から麻理は有名ブランドの子供服を着せて貰っていたが、本当に欲しかったのは、母親の愛情だったのだと思う。唯一の救いは別れた飛坂の両親、麻理の祖父母が可愛がってくれたことである。この当時の幼い麻理の顔には、心からの笑顔はなかったと思う。そんな麻理も今は大人になり、家族愛や結婚にたいして不信感を持ち、人を信じることが出来ないという。しかし、麻理には久智子を反面教師にして、愛情深い家庭をつくって欲しいと願っている。

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Jan15
荒波家で育った子供たちがそれぞれ受けたもの、それは今も一人一人の心の奥深くを傷つけ、今もなお引きずっている。問題なのは彼らがそのことに、気付いていないことにある。俊彦も自分が育った環境が普通であり、荒波の常識が世の中の常識だと思っているのだ。それぞれ育った環境は違うのはあたりまえだが、荒波家は特別だと思う。俊彦は妙子が子供に無関心であり、子供の気持ちを知ろうということがなかった。いつも自分の立場だけでものごとを決めるのである。それはそのまま俊彦にも引継がれている。勝子は妙子がお金にものを言わせ、世の中を想いどおりに生きている姿を見、お金と名声、家柄、学歴、ブランドに執着心を持っている。義理の父 龍雄に反対され、高校に進学できなかった勝子は、学歴に左右されない美容業界で出世を目指す。そのためには主人や子供たちを犠牲にし、人を利用することもあたりまえである。勝子は全ての問題がお金で解決できると思っている。すでに幼い子供たちは危険信号を出していた。勝子の子が他の子供の首を絞めたり、噛んだり傷つけることが度々あった。親の前で万引きをすることもあった。勝子は子供を叱る時、叩いたり、かきむしる事もあったようだ。それは勝子自身が妙子に虐待されていたからである。妙子は勝子、久智子の髪の毛を掴み引きずりまわすこともあったからだ

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Jan14
俊彦は子育てには無関心、協力してくれることはなかった。休みの日は朝から晩までパチンコ三昧である。子供たちと出かけるのはもっぱら、私と実家の母だった。保育園、幼稚園、小学校と運動会も学校行事も、俊彦が参加することはなかった。それを見ていた母は「ここの家はいつも父親が居なくて、母子家庭やね。」とよく言われていた。当然、俊彦も親が来てくれた経験などないのであろう。子供三人が一度に熱を出しても、俊彦が協力してくれることはなかった。三男の真が小児喘息で、ヒュウーヒュウーと苦しそうに音を鳴らしている。そんな息子の横で寝ている俊彦は「うるさいな!寝られんやないか!どうにかしてくれや!」と文句を言う。本当に愛情も、思いやりも無い人だと、腹立たしく思ったものだ。普段は優しい言葉をかけてくれなくても、何か事が有る時に優しさや、思いやりを感じることができれば幸せなのだが、事ある度に、俊彦に対する愛情と信頼はなくなっていった。長男、歩はちゃっかり者で俊彦の機嫌を見抜いている。次男、仰は何をいわれても、右から左で頑固者である。しかし、感受性の強い真は俊彦をさけるようになっていった。

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Jan13
寮の所長さん達から信頼を得た頃、俊彦と私はいつか仕事を紹介して貰えたらと、顔つなぎのつもりで挨拶に行った。荒波建設時代は市の建設関係の仕事を請け負っていた。そんな実積もあり、「山川さんの娘さんのご主人なら、紹介しますよ!」と下請け会社を紹介してもらえることになった。その後、俊彦も会社の下請けの親方とて、仕事につくことになった。しかし、条件としてトラック持ち込みを言いわたされた。荒波建設を閉める時に、全ての機材を処分したため、新たな仕事をするためには、トラックを購入しなければならない。しかし、中古でも80万のお金が必要だった。借金を背負い、俊彦の定職がなかった私たちには蓄えがなかった。俊彦は妙子が息子の再就職の為に、お金を貸してくれると高をくくっていた。しかし、妙子から返ってきた言葉は「そんなお金ないわ!貸されへんな!」の一言だった。俊彦は高校も自分でアルバイトをし卒業した。荒波建設を始める時の資金ぐりの為に18歳で水商売もしてきたのだ。その時にかなりの利益を生み、親や家族のために孝行してきた。でも、そんな俊彦の苦労を妙子は、受け取ってはくれなかったようだ。結局、ローンを組んでトラックを購入することになった。数日後、妙子を訪ねた。目新しいソファがあり「これなあ~ええやろ!安かったんや!35万や!こっちの衝立は30万や!」と自慢気だった。私は耳を疑った。息子の再出発のためにはお金を貸せないが、ソファや衝立にはお金をだせるのだ?悲しかった。妙子は息子の俊彦家族の将来のことなど、全く気に留めてないのかと・・・後にわかったことだが、妙子はその時、8千万もの貯えがあったようだ。俊彦は親の為に自分を犠牲にて、協力してきたので、かなりショクだったようだ。俊彦もこの時から、妙子に頼らないと決めたのだろう。

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Jan12
実家の父が長年の大工を辞めることになった。父は若い職人と一緒に仕事をするのに、体力的な限界を感じたようである。若い職人に迷惑をかけたくないと、引退を決めた。しかし、長い間 大工職人として生きてきた父にとって、引退には複雑な思いがあったのだろう。仕事に行かなくなってから、自宅で引きこもるようになった。特に趣味のない父は生きがいを無くしてしまったのだろう。その後、胃潰瘍になってしまった。胃潰瘍が完治した頃、母から夜中に電話があり、父の様子がおかしいと言う。駆けつけた私の前で、父は自分の頭を壁に何度もぶつけている。心配した私は掛かりつけの病院に行った。医師の話では胃潰瘍の治療のために、精神安定剤を処方していたらしい。その後、胃潰瘍が完治したため精神安定剤を抜いたようだ。そのために睡眠障害になった影響だろうと言うことだった。父の様子に合わせて処方していただくことになる。その後、父も元気をとり戻した。ちょうどその頃、新聞に近隣の会社の求人広告が出ていた。役職職員の単身赴任寮の管理人だった。面接に行った父は元大工ということで、即採用となった。しかし、夫婦住み込みと、母は寮の賄いが条件だった。母は賄いに自信がなかったが、父のために勤めることを決めた。京都で村上家の食事の準備をしていた私が手伝うことになった。一週間の献立表を私がつくった。また、寮内に隣接する宴会場のかたずけもしなければならない。忙しい私の生活がさらに忙しくなる。朝7時半に保育所に子供たちを預け、寮により料理の支持を母にし、10時から5時までサロンで働き、仕事の帰りに保育所に子供を迎えに行く、それから寮の食事の盛り付けを手伝うという具合である。京都や大阪から単身で来られている所長、部長、課長さん達からは、真面目な両親も信頼されていた。また、子供たちを連れて手伝う私とも顔見知りになり、自宅に帰れば同じような孫がいたのだろうと思う。そんな私たち親子にも親切にして頂けた。

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Jan11
そんな絵恋も付き合っていた橋下旬と、結婚することになった。橋下とは幼稚園の頃からの幼なじみだった。橋下はまだ職人見習いだった。しかし、妙子に結婚を反対された絵恋と橋下は、古い安アパートに住んでいた。その頃、妙子は龍雄もいなくなり、家に一人となってしまった。身体の弱い妙子は一人暮らしが不安になったのか、私たちに一諸に同居くれないかと頼んできた。末娘の絵恋が可愛い妙子は、昔から絵恋と住むことを決めていた。そんな妙子は、長男の俊彦をないがしろにしていた。私はそんな妙子と、できるだけ同居したくなかった。窪塚家は妙子を中心にして、子供たちが集まってくる。相手の立場や気持ち等、考えることのない家族には、毎日のように揉め事が起こるからだ。特に勝子、久智子に顔を合わせる度に傷つくのである。勝子は俊彦や妙子の前では、私に優しく話しかけてくるのだ。「芽衣子さん!久しぶり、元気」さも仲がよさそうだ。しかし、誰も居なくなり二人になれば「まだそんな所にいたの!帰ったらどう!」と言われる。町内の道ですれちがえば、挨拶をしても完全に無視される。久智子の場合は悪気が無いが、振り回されることは間違いないのである。俊彦は同居しても、私さえ我慢すればと言う。数日間、わたしは神経胃炎になりながら悩んだ。結婚時の約束では、窪塚家では妙子が絵恋と同居するとはっきり決めていた。しかし、悩んだ末わたしは妙子との同居を承諾した。しかし、その後 妙子からの何の返事もない。一方で妙子は、絵恋に家を改装してあげるし、賃貸料も節約できると、絵恋夫婦に同居をうながしていたようである。結局、私たちには何の返事もなく、絵恋夫婦との同居が決まった。神経胃炎になりながら悩んだ私は何だったのだろうか?しかし、正直なところ私は「ほっ」とした。

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Jan10
絵恋も心許せない家族の中で、心に多くの傷を受けていたのだろう。学生時代は「腐ったみかん!」と教師に言われていた。学生時代は荒んだ生活を送ることになる。両親に似て負けず嫌いの絵恋は、自分から喧嘩をしかけることはないが、売られた喧嘩は買う性格だったようだ。164cmの絵恋は中学生時代には高校生と偽り、高校男子と喧嘩し怪我をさせたこともあった。神戸の女子高に入学した絵恋は、神戸一の女番長から目をつけられることになる。度々の嫌がらせの後に、ナイフを見せられ脅された。我慢の限界にあった絵恋は反撃に出た。校内食堂の中で喧嘩が始まった。絵恋は反対に女番長の服を脱がし真っ裸にし、その場で土下座させて謝らせた。問題を起こすたびに学校へ呼び出されるのは、いつも父親の龍雄である。学校に来た龍雄が、絵恋の顔を睨みつけて言う「お前!勝つたんか?悪になるねんやったら、一番の悪になれ!」と言う始末。教師もそんな親子の会話にあきれはてた。学校側から「頼むから、学校をやめてくれ」と言われていたという。ちょうどこの頃、私は俊彦の妹絵恋が、こんな荒んだ青春を送っていることなど知るよしもなかった。俊彦と私が婚約していた頃、絵恋が橋の上から、学生カバンと学生服を捨てて居なくなり心配したものだ。帰宅した絵恋が入浴中に俊彦は、風呂から引きずりだし叱ったことがあった。そんな絵恋に龍雄は中学生のころから、毎月20万ものこずかいを与えていたという。本当に常識からは考えられない(荒波)家である。絵恋は私に聞く「芽衣子さん!あんな両親に育てられて、まともに育つと思う?」私は「・・・育たんな~?」と答えるしかなかった。

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Jan9
私は絵恋が末娘で金銭的にも恵まれ、苦労知らずだと思っていました。ある日、絵恋は「芽衣子さんは普通の家庭で育ってうらやましいわ!」と言われたことがある。兄弟姉妹といっても父親が違い、龍雄は先で書いたように気性がはげしく、他の姉妹達からはやっかまれていたからだ。絵恋によれば兄姉たちは自分のことを可愛がってくれたというが、お互いに複雑な思いがあったのかもしれない。ましてや母親は子供のような性格で、子供に愛情を注ぐというよりも、自分自身が満足したいタイプである。家族であっても互いに助け合う、思いやるということはなかった。絵恋は言う「私たち家族はお互いに信じあうこともなく、腹の探りあいだったと・・・」母 妙子は絵恋にも子供達にも、お弁当を作るという愛情など無かった。病気になっても看病してくれることも、無かったようだ。中学生時代、親子懇談があった日も、妙子は友人たちとボーリングに行っていた。自分の都合と感情で子供を怒る。こんな家庭環境で育った兄弟姉妹たちは、ある意味被害者だったかもしれない。ひとりひとりが偏った性格と、人格が形成されたのである。ひとりひとりが自分の都合だけで、物事を運ぼうとするのだ。当然、もめごとが起こるのも当たり前である。そんな両親と兄弟たちの中で、絵恋も傷ついて育ったのかもしれない。

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Jan8
ある日、俊彦が帰ってきてこう言った。「荒波建設を閉めることにした。」俊彦は龍雄が女をつくり、家を空けていた間も離婚後も真面目に仕事をしていた。妙子に「儲けが少ない」と、ことあるごとに言われていた。また、仕事に関係ない勝子や久智子、全ての家族がガソリン代等を経費として使う始末。少ない儲けも浪費に流れてしまうと言う。いくら儲けても17万の月給しか貰っていない俊彦も嫌になったのだろう。職を失うことに不安はあったが、私も妙子と顔を会わす度に「俊彦の儲けが少ない」と妙子の愚痴を聞かされることが辛かったので、辞めることに反対しなかった。会社を閉めるにあたって、全ての車や機材を売り払ったが、それでも100万の借金が残った。職を失いさらに100万の借金の返済が、私たちの家計に圧し掛かってきた。しかし妙子は子供達に「全ての借金返済は自分が肩代わりした」と言っていたようだ。俊彦は知り合いの建築会社の臨時監督として働いていたが、安定したものではなかった。その頃には我が家も三男が生まれた。4歳、2歳、乳児を連れ、食事、洗濯、保育所への送迎、美容室で10時~5時まで働き、保育所、買い物、夕飯、風呂、かた付け、夜中の掃除と働き詰めだった。産後の私にとって一番辛かったのは、乳房が張る痛みに耐えて、接客の合間にトイレに駆け込み、搾乳器で乳をしぼるときだった。普通の主婦でいれれば、可愛いわが子の顔を見ながらお乳をやれるのにと、わが子が不憫に思えた。相変わらず10時まで帰宅しない俊彦に代わり、三人の子供を風呂に入れる。目まぐるしい一日の生活のなかで、私の唯一の楽しみは子供を寝かしつけ、一人で風呂に入り、湯船で一時間グッスリ眠ることだった。

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Jan6
結婚するまで天真爛漫だった私の顔から、笑顔が消えた。窪塚(荒波)家に嫁ぎ、人間不信に陥ってしまった。それまで、人を怨んだことはなかったが、怨みさえうまれていた。毎日鏡の中に写る自分の顔をみて、絶望の淵に立っているようだった。自暴自棄「こんなはずじゃなかった。なぜ、こんな事になったのだろう?」自分を責め、運命を恨んだ。私は限界だった。私はストレスからか、卵巣脳腫という病気になった。当時20万ほど手術費がかかるという。相変わらず家計は火の車。貯金は10万ほどしかなかった。精神不安と体調不良、最悪の状態だった。信頼していなかったが、俊彦に結婚して初めて相談した。主人は「手術せんとあかんねんやったら、仕方がないやないか!」といつになく頼もしい返事だった。私はその返事に「ホッ」とした。今回は主人が力になってくれる。嬉しかった。入院が決まり子供たちは、実家の母が看てくれることになった。手術も無事おわり、退院の日も近かずいた。主人に不足の入院費を用意してくれたか尋ねた。主人から返ってきた返事は「そんなもん知らんぞ!」の一言だった。退院を数日にひかえ、私の気分は最悪のものとなった。実家の両親に頼めばお金は借れるが・・・言えなかった。両親は私を窪塚家に嫁がせたことで、心を痛めていたからだ。私の入院の時でさえ、夫として責任を持とうとしない俊彦の行動を知り、両親が悲しむことは、させたくなかったからだ。私は手術後の力の入らない身体で、知人に借金を頼まなければならないのだ。待合室の人通りが少ない時間をみはからい、片隅に置かれている公衆電話の受話器に手をかけた。あまりの情けなさに私の目から、涙が溢れ出た。この時の10万は私にとって、100万のように重く感じた。私は人生の階段を真っ逆さまに転げ落ちた気分だった。私はこの時から俊彦に信頼しないと決心した。

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Jan5
サロンをクビになった私は、主人への信頼も崩れ、嫁ぎ先の家族からも、疎外感お覚え、25歳で「私は人生の敗北者なのだ!」と落ち込むようになった。道を歩いていても出会う人々が、私をあざ笑っているように感じる。恥ずかしくて、顔を上げることもできない。人と話す時、相手の顔を見ることができない。完全に鬱(うつ)直前だった。しかし、子育てと家計を支えるためには、弱音を吐き、寝込む暇はない。次男がお腹にいた私は、就職活動をすることもできなかった。出産まえに勤めていた会社の上司が妹のサロンを辞めたことを聞きつけた。以前、訪問していたサロンから働いて欲しいと要請があったらしい。私は産後、3ヶ月目から働くことを約束した。保育所は生後3ヶ月目から預かってくれるからだ。私は勤めることで、経済的にも精神的にも癒されることができた。精神的には、接客をするからだ。人と目を合わせることが出来ない私にとって、幸いだったのはお客様がベツドに寝るということだった。これなら、目を合わさず接客できたからである。個室での接客ということもあり、相手も個人的な悩みを打ち明けられることが多かった。私は多かれ少なかれ、皆それなりに悩みを抱えていることを知り、・・・自分だけが、悩みを抱えているのでは無い・・・と心が軽くなったのである。私は薬に頼ることもなく、精神的病を乗り越えることができた。

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Jan4
長男の歩が生まれ数ヶ月を過ぎた頃、夜鳴きが始まり,俊彦は不機嫌そうに「うるさいな!寝られへんやないか!どうにかしてくれ!」と怒鳴る。俊彦も親に愛情をもらっていないのだろうが、俊彦の神経を疑ったものだ。当時、我が家は駅前にあり、歩を抱いて小さな駅の待合室で、子守唄を歌い時間をつぶした。時には車で隣町までドライブし寝かしつけ、こっそり帰宅したものである。私の口からため息と共に「ああ~どうしてこんな人と一緒になってしまったんだろうか?」優しさや思いやりを、俊彦の言動から一度も感じたことはなかった。また、俊彦は機嫌が良い時は、楽しく面白い人であったが、機嫌が悪い時には態度が一変する。俊彦が帰宅し、玄関のドアを開けた雰囲気でわかるのである。俊彦とは結婚までに、あまりにも付き合う期間が短かったため、俊彦の性格をほとんど知らないことに気付きはじめた。子育て、家事、仕事、おまけに妙子からは銀行や買い物のことずけ等もあり、フル回転の日々だ。そんな私に俊彦は、「あっちが汚れてる!こっちが散らかってる!」と難癖をつける。その頃は若かく反発心があった私は、俊彦や子供が寝静まると、夜中に部屋中の掃除をして回る生活だった。窪塚家は清志が綺麗好きで、久智子が月給を貰い家事をしていたので、いつも家の中は整然としていたからだ。かといって俊彦が綺麗好きなのではない。自分が使った物は出しっぱなしだ。そして、自分の失言や失敗を認めようとしない。ある日、帰宅した俊彦は「従業員が結婚するから、祝儀をいれておいてくれ」と言われた。私はその日のうちに祝儀袋にお金を入れ、テーブルの上に置いておいた。次の日、俊彦が祝儀袋がないと怒りだした。「そこのテーブルに置いてあったでしょ。」「そんなん知らんぞ!」と不機嫌だ。「そんなことないでしょ?この家には二人しかいないんだから?車に置き忘れてるんじゃないの?」「ぜったいそんなことない!!おまえが忘れてるんやろ!命を掛けてやるわ!」の言葉に納得のいかない私は、俊彦の車の鍵を持って確認しに出た。結局、車のダッシュボードに入れてあった。その後、俊彦の命は幾つあっても足りない。こんな事件が、いまだに続いている。

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Jan3
清志は兄弟の中でも、大人しく自分の世界を持っていた。そんな清志も同じ歳の聡子との婚約が決まった。私とも同じ歳ということもあり、我が家で何度か夕食を一緒にすることもあった。聡子も裏表のない素直な子であったと思う。しかし、ある時から聡子の笑顔が少なくなっていった。彼女もまた窪塚家の母と勝子のことで悩んでいた。聡子の何が気に入らなかったのか、勝子は聡子を目の敵にしていたように思えた。婚礼衣装を選ぶのも、聡子の希望より、勝子の取引先店で選ぶように釘を刺されたようだ。日取りも二人の意見を尊重することなく、勝子の都合に振り回され、たびたび変更されたようだ。そんな姉の勝子に言いなりの清志をみて、聡子は不安を感じていたようだった。そんな二人の間には喧嘩が絶えなかった。ある日、決定的な出来事があった。たびたび変更された日取りも三回目となった。最後は結婚式の一週間前になり、勝子は聡子にこう言った「やっぱり、私は美容師としてではなく、姉として披露宴に出席したいから、他の美容師さん頼んでもらえる!!」この言葉を聞き聡子は私のところに泣きながら駆け込んで来た。私は聡子に何も言なえかったが、勝子の言い訳は嘘だったと思う。なぜなら、勝子は婚礼の日、美容コンクールに出場することを決めており、そのことを私は知っていたからだ。何度も日取りを変えていたのは、勝子の計算高い理由があったのかもしれない。私たち夫婦の花嫁支度も勝子がしてくれたのである。私の場合はサロンを手伝うまで、少なくとも勝子に気にいられていたので何事もなかったのだが・・・聡子は私に「窪塚家に嫁ぐ不安はあるけど、芽衣子さんが居てくれるから結婚するわ」と言った。しかし、私は妙子からも聡子に対する不満を何度か聞かされていた。結婚に後悔して、聡子と同じ苦しみを経験している私はこう答えた「私は長男の嫁だし、味方をしてあげたいが、立場上口を挟めない時もあるよ。だから、二人の大切な将来のことだから、しっかり清志さんと話し合って決めてね」と聡子を励ました。数日後、二人は式を取り止めにし、別れることになってしまった。清志もまた、妙子や勝子の犠牲者かもしれない。

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Jan2
龍雄と妙子の離婚後、実の子でない俊彦は「荒波」から妙子の旧姓「窪塚」に変わらなければならなかった。すでに子供も保育所にも行っており、俊彦も仕事上 姓名を変えることは、難しく思えた。弁護士によれば戸籍の上では「窪塚」にしておき、日常で「荒波」を使用すれば10年くらいで荒波の姓を使用できるかもしれないということでした。しかし、日常と戸籍が違うのも不便が生じると考えた。結局、「窪塚」を名乗ることになった。私自身も仕事場では「荒波」でしたので、自宅に電話がかかれば「はい。窪塚です。」とでると、ほとんどの人が「間違えました」と切られることが度々あった。俊彦などは、実の父親姓が「並木」で両親の離婚で「窪塚」となり、龍雄との再婚で「荒波」になり、「窪塚」になるというまさに名前のオンパレードだ。俊彦本人も小中高の友人などにどの「姓」を名乗っていたかわからなくなっている。子供はちょうど姓が「窪塚」に変わってから自分の名前を覚えるようになり問題はなかった。しかし、全ての人に理由を説明できないので、俊彦と私が離婚し、姓が変わったと思っている人も多くいた。

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Jan1
荒波家に嫁いで最初の正月。長男ということもあり、何処よりも先に挨拶をと思い元旦の朝、正装して荒波家を訪ねた。妙子は出てきたものの、下着姿だった。しかし、新年の挨拶をしようと頭を下げ「明けましておめでとうございます。昨年はいろいろとお世話になりました。本年も宜しく御願いします。」といい終え頭を上げると、そこに妙子の姿はありませんでした。(・・;)部屋に入りあらためて挨拶しようとした時、妙子は不機嫌そうにこう言った。「あんたな~元旦そうそう来て!!ここら播州でわな!元旦に挨拶来るもん違うんや!」と新年そうそう怒鳴られてしまった。近隣に住む友人や知人に聞いても、元旦に挨拶に行ってはいけない風習などなかった。友人には「それは、荒波家の風習やろ!」と笑われたものだ。私の実家の山川家では、家族であっても早朝から正装し、両親に挨拶するものだった。数年経ってわかったことだが、妙子と荒波家は夜型人間ばかりで、ただ単に夜更かしして起きれないと言う理由だったのである。それ以来、妙子から声がかかるまで行かないようにした。このように荒波家では世の中の常識より、荒波家の常識を知ることが必要なのである。大きな声で言えないが「とんだところに嫁いだもんだ!!」と叫びたい。

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Jan1
龍雄と妙子の離婚後、久智子の夫婦にも離婚の危機が訪れていた。夫の飛坂にも女がいたようである。飛坂はこの女性とは、長い間の関係のようだった。飛坂の場合は遊びというより、本気だったのだろう。なぜなら、久智子と飛坂の間には、2歳の可愛い麻理がいた。にもかかわらず、飛坂は発覚後、自宅に戻ることはなかった。久智子の性格は悪い人間ではなかったが、かなり子供のようなところがあった。ある意味で妙子の性格によく似ていた。結婚の当初は飛坂も一まわりも違う子供のような久智子が、可愛く思えたのかもしれない。しかし、妻としては難しかったのだろう。荒波家の間では、久智子が「周りの空気が読めない」ことで困った存在であった。小学生がそのまま大人になってしまったという感じだろうか。家事手伝いで勤めに出たことのない久智子は、世間に出ることもなく、他人とのコミュニケーションが上手く取れない。そんなことから、離婚後は勤めに出るが上手くいかず再就職を繰り返している。こんな久智子と普通に会話するだけで、数日後には荒波家で問題の種となる。実際には久智子が言ったことが「芽衣子さんがOOO言っていた。」ということになり、話がややこしくなる。久智子に好かれれば、「綺麗」と言われるが~嫌われれば、「見るも無残な顔」と言われることになる。結局のところ、話さないことが一番無難なのである。こんな久智子を俊彦は嫌っていた。俊彦と私が結婚してから、二人が話しているのを見たことがない。久智子の方もそうだが・・久智子が我が家に来る時は、俊彦の不在を確認してから来るとゆう感じである。絵恋の話ではこんな二人も、昔は仲の良い兄弟であったらしい。久智子が荒波家の問題原因の一つであることは、間違いないのである。

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