Dec31
私は帰宅し和解の条件を俊彦に伝えた。俊彦はいつも親の都合に振り回され、かなり怒っていた。俊彦は高校進学も養父の龍雄に反対された。自分でアルバイトをしながら、学費を支払い卒業したのである。そして、卒業すると龍雄が始めた建築会社の資金ぐりの為、18才でスナックをさせられた。お酒の飲めない俊彦には辛かったようである。こんなことがあった俊彦はうんざりしていたのだろう。しかし、私はこの家に未練はなかった。なぜなら、ローンの半分を支払っていても、名義が私たちの物ではなかったからだ。また、私は俊彦に言った「他人の子を4人も育ててくれたのだから、感謝の気持ちで手渡したらいいやん。お父さんの気持ちが、それで落ち着くんやったら。20年間育ててもらった感謝の気持ちで!」と言った。私たちはこの家を出て行き、手渡すこととなった。しかし、貯えのなかった私たちに妙子は40万を手渡し、それで賃貸の家を見つけろと言う。40万の敷金はかなり難しい賃貸物件探しとなった。俊彦は物件探しに協力してくれることはなかった。私は仕事を終え、保育所に迎えに行くまでに物件探しにあわただしかった。そして市内から少し離れた不便な場所に古い2kのマンションをみつけ引越しとなった。

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Dec30
妙子は龍雄が浮気をしたので、勝訴すると思っていたのだろう。しかし、龍雄側の弁護士は優秀だったのだろうか?連れ子四人を育て、現在ある財産も妙子一人の力で作れないと、4千万を和解金として提示してきた。しかし、妙子は納得できない。話し合いの決果、私たちが住んでいた家を龍雄に渡すことになった。なぜなら、俊彦の新居にと購入時に龍雄名義になっていたからだ。しかし、ローンの半分は私たちが支払い、半分は荒波建設で払っていたのである。結局、火の粉が今回も私たち長男夫婦にかかってきた。龍雄は早くお金にしたかったのだろう。二週間の間に家を空け渡せと言うのである。裁判官は私の顔を見て「いま住んでおられる方の都合でいいですよ。次の住居を見つけてから、あけ渡してください。」と言われた。それを聞いて妙子は「いえ、いえ、大丈夫です。この子達はどこでも行きますから!」と一方的に答えた。私は心の中で何処にいくの?とつぶやいた。結局、二週間で家を出なければならなくなった。

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Dec29
姑から電話がかかり、家庭裁判所に長男の嫁(家族代表)として来るようにいわれた。都合の良い時だけは、長男の嫁だ。本来なら俊彦が行くべきなのだが、実家の揉め事にかかわりたくない俊彦は知らんふりだ。結局、なにも言えない私にその役が回ってくるのである。重い気持ちのまま妙子を車に乗せて、裁判所に向かった。そんな豪傑な妙子も、時々は憎めない可愛いところもあった。裁判所のエレベーターに乗ると、真赤なパンツスーツを着た綺麗な女性がいた。妙子はその女性に気軽に話しかけた。「おたく綺麗ね!宝塚のスターみたいやね!」としげしげ見ていた。同じ3階で降りたその女性は、廊下沿いの椅子に座っていた、舅 龍雄の横にスーと座った。妙子と私は顔を見合わせた。妙子は大きな声で笑い出した。「ははは!芽衣子さん~相手があんな綺麗やったら、浮気しても仕方ないな~」とニコニコしていた。当時 女性は30才代くらいで、龍雄が50才代くらいだった。妙子は龍雄より6才年上の姉さん女房で、度々の龍雄の女遊びにも慣れ、心に余裕があったのだろう。夫とゆうよりも、弟のような存在だったのかもしれない。絵恋の「お母さん、もう別れたら!」の一言で妙子も離婚の決心をする。お金さえ貢がなければ、まだ、続いていていたのかもしれない。しかし、子供達にとっては離婚することで、少しは平和を取り戻したのかもしれない。

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Dec28
そんな舅も姑も、複雑な生い立ちを過ごしている。龍雄の父には本妻がいたが、龍雄の母との間に五人の子供がいた。複雑なのは本妻と龍雄の母と子供達が同居していたことにある。そこには、どろどろした人間関係があったと思う。龍雄もそんな生活で心に傷をうけたのかもしれない。姑の妙子も2才で母親を病で亡くしている。職人の父親に育てられた妙子は、経済的には裕福に育った。しかし、母親の愛情を受けることが出来なかった。だから舅も姑も子供の愛し方が分からないのだろう。私はつくずく思う。親が子供に与える環境は大きいと思った。龍雄もまた、父と同じあやまちを歩む。妙子もまた、受けることのなかった母親の愛を子供に注げないでいるのである。子供たちもまた、それぞれが傷つき、気付かない間に家族の関係が歪んでいく。子供を愛せず、父を愛せず、母を愛せず、兄弟を愛せない、荒波家の家族達である。夫の俊彦はいつか私にこう言った「おまえの山川家の家族は平和でいいな~」と***登場人物の名称はすべて仮名です***

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Dec27
舅の女関係は毎度のことのようだった。女ができる度に2~3ヶ月家を空ける。舅と女の生活費は事務所に請求書が送られてくるのである。女と別れて帰宅した龍雄は、妙子に機嫌をとる。龍雄は娘の絵恋に猿のおもちゃを買ってきた。妙子はそのおもちゃを取り上げ叩き捨てる。そこで、龍雄と妙子の激しい喧嘩になる。逆上した龍雄は「お前なんか!殺したる!」とあばれまくる。幼い次女久智子と清志、絵恋の三人は台所に走り、龍雄が来る前に包丁を米びつの中に隠すのである。そして、子供たちは台所の隅で三人が肩を寄せ合って隠れていた。久智子は泣きじゃくる絵恋に「なに泣いてるんよ!あんたのお父さんやろ!」と冷たい言葉と視線を向けた。実は四人の子供を連れて妙子は龍雄と再婚していたからだ。龍雄との間に生まれたのが絵恋なのだ。幼い絵恋は久智子の言葉を聞いて、その場に居ずらくなり、犬小屋に行き秋田犬シロの横で、泣いたこともあった。絵恋は犬小屋から見える向かいの家の暖かい灯りを見て、幼いながらも羨ましく思っていたようだ。ある時、温泉芸者との浮気現場に、妙子が小さな絵恋を連れてのり込んだ。妙子は龍雄に娘の絵恋をみせて、目を覚まさそうとしたのだろう。しかし、龍雄はに妙子の想いに反して、激怒して妙子と絵恋を外に摘み出した。とにかく、龍雄の気性は激しい。そんな龍雄にはそれぞれの子供達が被害を受けている。一度は以前に飼っていた犬が大人しく、番犬にならないと階段から突き落とした。俊彦も階段から突き落とされ、勝子も言い訳をして、階段から突き落とされ、腕を骨折した。当時小学一年の清志は、絵恋に物を貸すや貸さないで喧嘩になった。実の子絵恋が可愛い龍雄は、清志の教科書を自宅裏の溝川に投げ捨てた。清志はそれでも何も言わずに耐えていた。小学一年生の清志も、自分の置かれた環境と立場とを理解していたのだろう。

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Dec26
クビになってから一週間ほど経った頃だろうか?姑の妙子から電話があった。その口調から、かなり怒っている様子である。たぶん勝子から、連絡があったのであろう。勝子が姑にどう言ったか分からないが、妙子は「芽衣子さん!あんたに言いたいことがあるけど、後で言った、言わないと揉めたくないから、あんたの両親を呼んでおいて!」と言い放たれた。私も両親も不安な思いで、荒波家を訪ねた。姑 妙子は近隣でも有名なほど豪傑な人だった。妙子は体が弱く手足が不自由だったが、怒鳴り込んで来たヤクザの組員を困らせて、帰らせるほど口の立つ人だった。私のことで真面目な両親に、迷惑をかけることが辛かった。妙子は「芽衣子さん!あんたサロンを辞めさせられたと、お客さんに電話しまくっているらしいな!どうゆうことや!」と凄い口調で怒鳴られた。勝子が妙子にどう言ったのかは知らないが、両親にも怒鳴られたことのない私は、悔しさと情けなさで涙がこぼれ落ちた。それを横で見ていた母が「芽衣子。あなたも言いたいことがあったらお母さんに言いなさい。」 私は震える声を押し殺して答えた「お母さん!勝子さんに辞めさせられたのは本当です。でも、私がどうしてお客様一人一人に電話するのですか?そんなことしたら、まるで私が何か悪い事をして、辞めさせられたみたいじゃないですか。私はそんなこと言っていません。」そして、勝子から言われたこと、クビを通告されたことを正直に話した。すると妙子は少し考えていたが「芽衣子さん!よう分かった!悪かったな~今日のことは忘れてくれるか。」いま思えば、妙子は勝子と私の話を聞いて、どちらが本当のことを言っているのかを判断したのだろう。私はこのことを夫の俊彦には何も話さなかった。なぜなら、俊彦も荒波家の家族を嫌っていたし、俊彦が妙子や勝子に文句を言いに行き、問題を大きくしたくなかったからだ。

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Dec25
歩が五ヶ月過ぎた頃、勝子は私にこう言った。「芽衣子さん!早く子離れしたらどう!子供はどうせ自立するんだから!」私は耳を疑った。―「歩はまだ五ヶ月ですよ?」勝子は「実家のお母さんに預けたら!私は姑にタダで看てもらっているんだから、実家のお母さんだったら預け易いでしょ!」私は-答えた「歩は五ヶ月でまだ母親のいる歳だし、誰よりも母親が育てるべきだと思います。私は家族の為に働いているのであって、家族を犠牲にしてまでは働けないです。」と反論した。勝子は「子供はいずれ自立するし、旦那はどうせ他人だから自分が一番大切なんよ!私は旦那を頼って我慢するような女になりたくないの!」-「でも、子供を生んだ以上は自立するまで、親が責任を持つのがあたりまえだと思う。今も保育園に預けるまで母に看てもらっているのだから、これ以上、母に負担はかけられないから。」と答えた。勝子は次の日、早々 我が家に来て主人の前で私にこう言った。「もう、明日からサロンに来てもらわなくていいから!」とクビの通告だった。昨日の反論が気に入らなかったのだろう。その頃、末の妹 絵恋が私の手伝いをしていた。 私は「でも、絵恋ちゃんが技術を覚え一人で出来るまでの二ヶ月位、猶予をもらえないかな?それまでに、教えるから」勝子は「でも、もう決めたから!来ないで!」と言われた。それを聞いていた主人も「そこまで、言われて責任感じることない。行くな。」と言う。結局、顔見知りのお客様の数人だけに挨拶してやめることになった。これがまた、姑との問題になっていくのです。

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Dec24
長男の歩が生まれて二ヶ月過ぎた頃、産休を機に退社した。そのまま、勝子のサロンを手伝うことになった。この頃は、勝子は優しく話しやすい存在だった。私は勝子に協力できるならと心から思っていたからだ。しかし、仕事場で一諸に過ごすことで、勝子の並み外れた性格を知ることになる。すぐにその優しい口調の裏に鋭い剣が隠されていることに気付き、言葉に心がないことを知る。一度、接客について勝子にこう言われた「芽衣子さん!口はタダなんだから、お客様にはおせいじをもっと言ってね!」しかし、私も両親も今まで人におせいじを言って生きてこなかった。両親とも真面目を絵に書いたような人だった。祖父母もそうだった。私も多くのサロンを回って接客したが、心から接客しても、取ってつけたようなおせいじ等いわなくても、信頼関係を築けてきたと思う。文書では言い表せないが、普通の人の表現が10とすれば勝子の場合は100なのだ。私は側で見ていてはらはらしたものである。洋服を見ては「素敵ですね~どちらのブランドですか?お似合いですわ!」軽自動車を見れば「まあ!お客様~どちらの外車ですの~?素敵ですわ!」とこんな調子である。正直そんな接客がすばらしとは思えなかった。持ち物や、ブランドを誉めなくても心から接客できると思う。勝子はなにかにつけて、「お客様のためだから」~と言うが、どう見ても自分のアピールの為としか見えないからだ。婚礼着付けに行った時のことだが、先方がホテルで借りていた控え室はシングルのべットルームだった。新郎新婦と勝子と私の4人が部屋のドアを開けたとたん、勝子が支配人を呼んでくれと文句を言いだした。べットが邪魔だと言うのだ。「新郎新婦さんが狭いでしょう!今からすぐに運び出してくれる!」とホテル側ともめだした。私は不安そうな新郎新婦の顔を見て、勝子に「時間もあることだから、取り合えず着付けを済まして、写真撮影の間に御願いしたら?」と言った。しかし、勝子は「これは、新郎新婦のためなんだから!」と引かない。しかし、本当に新郎新婦の為にと思うのなら、私だったら祝いの日であり、一生一回の思い出の日にもめないだろうと思う。新郎新婦が席を外している間にホテル側と交渉し、ことを収めようと考える。結局、勝子は自分がどれだけお客様の為に努力しているのかをアピールしたかっただけだと思う。

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Dec23
先に書いたが、子供ができても、姑にはあまり祝福されることはなかった。実家の両親は荒波家に嫁がせたものの、複雑な思いだったろうと思う。姑の言葉にも傷ついたが、それ以上に荒波の言動に傷ついていた。つわりでトイレに駆け込んで苦しんでいる私の姿をみて、主人から出た一言は「病気じゃないんだから、大丈夫や!」の冷たい一言だった。妻のお腹が大きくても早く帰宅することはなかった。仕事は定時に終わっているが、そのままパチンコに行き、帰宅はいつも10時なのだ。一番傷ついたのは、自宅で破水に気付き病院に入院することになった。まだ携帯が無い時代なので、主人にも連絡がつかなかった。陣痛が始まってなかったので、自分で車を運転し入院することになった。何処のパチンコ店に行っているのか分からず、主人が子供の生まれたのを知ったのはいちばん最後になった。同室に入院されている方のご主人は、毎日のように面会に来られていた。新生児室と病室を行ったり、来たり、愛情が伝わってくるのである。それに比べ我が旦那は、一週間の入院中に二回の面会だけ、新生児室を覗いた時に看護師さんが「お父さん、赤ちゃん抱いてあげてください」と息子を差し出した。主人はお猿のような息子を見て思わず「結構です。」とこたえた。お隣は宝物を迎えに来る様に大切にされ、退院された。私は実家の母に息子をだいてもらい、隠れる様に自分で車を運転して、退院したのである。同じ旦那でもこうも違うのかと、お隣の奥さんを見て羨しく思ったことを覚えている。結局、主人は夫になった自覚も、父親になった自覚もなかった。心の奥に更に不信感を抱きながら、私の結婚生活が始まっていった。

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Dec22
私は幼い頃から、嘘をつくな、人に迷惑をかけるなと言われてきた。これはどこの親でも言われていることだと思います。私の母はそれに加え島言葉で「や(家)なれど、てぃ(外)なれ」「家でしていることが、外でも出てしまうのだから、家だからと気を抜かずにしっかりやりなさい。」とよく注意された。そんな風に育てられ、京都でも弟子入りし、会社でも勤めたが、いろんな人と出会ったものの、特別 私の持っている常識とかけ離れた人とは出会わなかった。しかし、私は嫁ぎ先で今までの人生観を変える経験をすることになる。ある日、長女 勝子が婚礼着付けの手伝いをして欲しいと言ってきた。しかし、私は妊娠10ヶ月になっていたので、当日に迷惑をかけてはいけないと一度は断った。しかし、妹は花嫁の着付けがあり手一杯だった。花婿側からどうしても、そちらで着付けを頼みたいと要望があり、断れないという。体調に不安はあつたものの、しぶしぶ承諾した。「あっ良かった!助かった!」と言うと勝子は早々に、先方に電話をいれた。「もしもし、山田様~実は兄嫁が着付けの先生をしておりまして~是非、着付けをさせて頂きたいと言っておりまして~させて頂けませんか?」と言うのだ。けっきょく先方からの要望とは嘘の話だった。お腹の大きい私を承諾させるための口実なのだ。着付けはできるが、着付けの先生なんて全く嘘。商売とはいえ勝子の嘘には、正直びっくりしてしまった。あげくのはてに、着付けの先生らしく見せるために、生みつきの大きなお腹の私に、着物を着て行けと言うのである。おまけに、手伝わせた割には感謝の一言もなく、こうして欲しいかった、ああして欲しかったなどと、文句のオンパレードである。勝子の嘘のために、私は緊張と苦しさで疲れはて、踏んだり蹴ったりだった。

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Dec21
夫の荒波は、父親の経営する建築会社の跡継ぎとして働いていた。そこには、2番目の妹久智子の夫、飛坂が番頭として勤めていた。夫は17万の月給をもらい、飛坂は42万の月給を貰っていた。私はあまりの違いに疑問に思ったが、本人の荒波が何も言わないので、私も何も言わないようにしていた。さらに久智子は実家の家事を手伝い10万の月給を貰っていた。当時の52万はかなりの高級取りだ。また、実家が事務所でもあったので、毎日のように実家で夕食を食べていた。そんな久智子は毎月のように高級ブランド生活、真っ赤のスポーツカーを乗り回していた。しかし、私は家事、子育て、仕事に追われ、家計費節約のため軽自動者に乗り、私も子供も無名ブランドの洋服を着ていた。だからといってそんな生活に不満を持っていたわけではない。久智子には顔を会わす度に「その服、何処のブランド?ジャとスコ?」と聞かれるのだ。そのうち、「ジャスコの芽衣子さん!」と呼ばれるようになった。軽自動車にいたっては、「その車、芽衣子さんにピッタリ!」と言われてしまう。今は笑って聞き流せる歳になったが、当時の私は年上の小姑に口答えもできず、顔を会わす度に傷ついていました。しかし、ブランド名と高級車に価値観を持っていなかった私は、気にしないように勤めた。

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Dec20
帰国後、お土産を渡すために荒波の実家を訪ねた。姑の妙子には蛇革の財布を買っていた。
喜んでくれると思ったが「そんな財布使わないからいらんわ!持って帰って!!」と言われてしまった。結局、受け取ってくれることはなかった。二重のショックだった。
それから数ヶ月経った頃、私は妊娠していることがわかり、姑も喜んでくれるだろうと報告した。しかし、返ってきた返事は「もう、すでに孫はたくさんいるから、新しい孫はいらんで!」の一言だった。じゃ、お腹の赤ちゃんをどうすればいいというのか?
普通の家庭で育った私には、妙子の言葉は全く理解出来なかった。
その年の盆には、荒波の亡くなった祖父のために、お供えとご仏前を持って尋ねた時のことだった。姑はお金には困ること無く、裕福で贅沢な人であることは知っていました。
結婚後、姑と妹達と一緒に、神戸の百貨店に買い物に出かけた。姑は百万円の札束を持って足りるかどうか心配していたほどだ。


だから、盆には姑ご用達の果物屋で、高級な果物を買って行った。しかし、姑から返ってきた言葉は「私は良い物しか食べないから、持って帰ってくれる。どうせ捨てることになるから!」と言われ涙が出る思いだった。
姑には結婚を反対された訳でもないし、特に嫌われて虐められている様子でもなかった。
私はこんな姑の性格を理解することができなかった。
しかし、私は姑との出来事を仕事で疲れて帰って来る荒波に、話すことは一度もなかった。
なぜなら、世間でよくある嫁姑問題だと思い、なるべく気にしないように勤めた。
しかし、この家族と私の人生観と価値観は、全く違うものでした。
私は幼い頃から物を大切にすることを教えられ、感謝することを教えられてきたからだった。ましてや、実家の父や母の幼い時の貧しさや、苦労を聞かされていたからである。
米粒を一粒も捨てることのなかった母とは、全く違う姑であったのだ。
ある日、姑から電話があり「料理をしたいが、卵を切らしているので持ってきて欲しい」と頼まれた。買ったばかりの新鮮な卵で、常温に保存すればよいと聞き、あえて冷蔵庫に入れていなかったのだ。その新鮮な卵を持って姑に差し出すと「冷蔵庫に冷やしてないから、この卵は腐っているわ!」と、目の前で捨てられてしまった。
多かれ少なかれ育った環境も違い、価値観もと違うだろうが、こうも家庭によって違うのかと悩んだものだ。
今にして思うが、昔の人はよくいったものだ思う。親を見て嫁に行けとか、貰えと言うが本当だと思う。
恐ろしいもので、荒波も確実に姑の価値観を受け継いでいた。
私は子供の頃から料理をするのが好きだったのだが、結婚を境にその思いは変わった。
荒波は贅沢で偏食が多いことで私の悩みが始まった。
荒波は牛肉以外の肉は食べない。野菜にいたっては人参、大根、茄子、かぼちゃを全く食べない。当然、魚は食べない。
荒波は帰宅してテーブルに並ぶ夕飯の献立を確認し、気に入らないと「用事を思い出した!」と言って出て行くのだ。その足で近くの店で外食していたようだ。また、荒波にとって味つけなんて関係ないのだ。味見もせず、しょうゆやソースをかけまくる。私にとってはかなりの屈辱だった。
私は好きだった料理も嫌いになっていった。
毎日、夕飯の献立を見る荒波の顔色と言動に神経を使い、すっかり傷つき疲れてしまったのだ。
この頃には荒波にも、嫁ぎ先にも嫌気がさして信頼もなく、私の頭には「離婚」の二文字しか浮かんでこなかった。しかし、すでにお腹の中には赤ちゃんがいる。このとき妊娠していなかったら、確実に離婚していただろう。
実家の母も、姑や義理の兄弟で苦労を経験していたので、私の苦しむ姿に離婚を勧めていた。
しかし、母のその言葉で頑張れたのかもしれない。
そして、離婚するかもしれないと悩んでいた時、離婚するにしてもこの子に兄弟がいなくては、可哀想だと思い二人目を産む決心をした。

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Dec19
結婚式も滞りなく済み、新婚旅行先のシンガポールに発った。この旅で私は荒波が頼りになれない人であることを知る。今はカメラもデジタルになり、便利になっているが、当時はまだ手巻きでフイルム交換をしていました。
荒波は器械に弱く、カメラの扱いや写真を撮ることも苦手だったようだ。
新婚旅行に行ったにもかかわらず、二人で写っているのは、わずか一枚である。それには少し訳がある。三日かけてやっと撮り終えた二十四枚。荒波はフィルム交換に失敗してしまう。
せっかく撮った写真も、ほとんど消えてしまったのだ。今だから笑える話だが、当時は涙が出るほど悲しかった。だから、私達の新婚旅行の写真は、帰国時に撮った飛行機の窓からの空と雲ばかりの数枚の写真だけとなってしまった。また荒波は旅行費を親に出して貰っていたので、旅先で楽しむことより、家族へのお土産を買う事に気を使っていたのです。
新婚旅行がお土産旅行になってしまった。


家族のお土産にはブランドを見るのに、花嫁の私にはチャイナタウンの露天に積上げられた安物のサンダルを勧めるのだ。
プレゼントは価格ではないが、ブランドに拘らない流石の私も傷ついてしまった。
荒波にそのことを伝えると、親にお金を出して貰っているてまえ、ブランド品を家族に買って帰らないといけないという。そのため、自分たちは節約したいという。荒波の気持ちは分かるが・・・
それなら、海外旅行に来なくてもと、私は腹立たしく思った。
贅沢に育ってない私は、海外への旅行は賛成ではなかった。国内で十分だし、近場の温泉でよかったのだ。私は贅沢な旅行より、二人の気持ちを大切にしたいと思っていたからだ。
新婚旅行ツアーではなかったのだが、偶然に三組の新婚カップルが揃っていた。
格安ツアーのせいか現地ガイドの女性は、約束の時間に来ることはなかった。待ちぼうけを食らった私達は、一組のカップルで愛想のいいご主人の提案で「これもなにかの縁だから」と一緒に観光することになった。
人付き合いの苦手な荒波は、全く協調性がなく・・愛想の悪い荒波と他の人達との間に挟まれ、気を使う疲れた新婚旅行となってしまった。
そんな思いを全く気ずかず、悟ることのない荒波に腹立たしく、人間性を疑った。
また偏食の多い荒波は、海外に来て日本料理を食べようという。
あまりの情けなさに喧嘩になり、私はホテルの部屋を飛び出した。三流ホテルの夜のロビーには、客を探す現地のいかがわし男女が数人うろうろしていた。一人の男性から声をかけられ、怖くなった私はしぶしぶ部屋に戻った。
出発前の期待と思いは裏切られ、楽しいはずの旅行は、嫌な思い出ばかりで帰国することになった。

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Dec18
荒波俊彦さんとは、家も近所ということで、お互いの家を行き来するようになっていた。気がついた時は、あれよあれよと言う間に結納、結婚式の日取りが決まってしまった。出会ってから数ヶ月のスピード結婚となった。両親にも反対されることなく、荒波家の両親も喜んでくれた。お互いの家族から祝福され嫁げることが、一番幸せなんだと信じていた私は、この結婚を決心した。彼の家族は、両親と三人の妹と弟一人がいた。すぐ下の妹、勝子はヘアーサロンをしている。3つしたの妹、久智子。私と同じ歳の弟、清志。一番末の妹、絵恋は高校生でした。荒波の母、妙子と長女勝子とは、話すことはあったが、他の兄弟とはほとんど話すことはなかった。勝子とは仕事の関係で仲良く話すことが多かった。そして勝子から結婚後は、会社を退社し、サロンを、手伝って欲しいと頼まれた。物腰が低く、話し方の優しそうな勝子の言葉に、私は快く承諾してしまった。このことが荒波家の扉を開くことになってしまった。これが人を疑うことなく生きてきた私の第一の試練となっていくのです。     ***個人名は全て仮名です。***
 

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Dec17
京都から戻った私は、有名ブランドの化粧品会社に就職した。ある日、自宅近くの駅前で、一人の男性に声を掛けられた。聞けば近所に住む荒波家の長男だった。そして、彼は取引先のヘアーサロンのお兄さんらしい。お茶に誘われたが、丁重におことわりした。近所の方でましてや取引先関係で、気を使いたくなかったからである。それから度々誘いを受けた。四度目の誘いには、さすがの私も断わり難くなり「お茶ぐらいなら・・・・」と喫茶店に行くことになった。それから半年あまり、彼と出会うことはなかった。     それから、私は東京での会議や出張と、朝から夜遅くまで忙しく働いていた。 人前に立つ仕事で、神経をかなり使い、ストレスで毎日のように胃痛で悩まされていた。しかし、辞めたいと悩む暇もないほどだった。そんな大変な中でもフランス人講師やセミナー等で、華やかな世界を味わっていた。セミナーや会議の後には、パーティが催されフランス気分を満喫。一人一人が華やかなドレスで着飾り、部屋中に香水の香りがたちこめる。それなりに楽しかった。そんな生活が半年ほど続いた。出張から戻り、改札口を出ると荒波さんと再開した。二回目ということで、以前よりリラックスしていた。それを機に、度々お茶や食事に誘われた。荒波は私より7つ年上の27歳だつた。私はそれなりに楽しく仕事をしていたので、全く結婚を考えていなかった。しかし、30歳を目前にして彼の方は、結婚を意識していたようだった。

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Dec15
高校を卒業して京友禅に興味があった私は、知り合いを通して村上家に弟子入りした。 京都での生活は厳しいものではあったが、高校時代の友人である淑ちゃんと一諸だったこともあり、それなりに楽しんでいた。
早は5時に起き店間を掃除。そのあと二条城まで行き、草花のスケッチ。帰りには朝食のパンを買う。食事が終われば、すぐに仕事に取り掛かった。昼食は奥さんが用意してくれた。夕食は当番制で、村上家全員の食事を作らなければならなかった。7時頃に夕食をとり、あとかたずけをする。9時に銭湯に駆け込む。門限が10時だからだ。夏は風呂で汗を流した後、門限に間に合うように村上家に駆け込むのだ。夕食の当番に当たると、仕事の合間をぬって買出しに行く。
村上家では食材によって買う店が決まっている。         
豆腐はこの店、味噌はこちら、漬物はあそことゆう具合だ。困ったことは、淑ちゃんがかなりの方向音痴ということだ。一度買い物に出かけたら、帰って来れないことはしょっちゅうである。街中は碁盤の目のようになっているし、迷うと自分が何処に居るのかもわからない。淑ちゃんが食事当番になると、他にも困ることがあった。実家ではほとんど料理をしたことがなかったらしい。まず料理の本を見るのだが、大さじ小さじ、カップ一杯がわからないから恐ろしく時間がかかる。食事の支度ができて、友禅の仕事を終えるため、淑ちゃんが当番の日は仕事がなかなか終われない。村上家の旦那さんが外出するのを見計らい、小学生の頃から料理をしていた私が、こっそりと手助けをした。                       
淑ちゃんはもともとのんびり屋で、仕事もかなりスロウだった。彼女は朝から晩まで、黙々と同じ仕事をさせられていた。私は手先が器用なのを見込まれ、次から次と仕事を教えてもらえた。
しかし、そんな弟子入り生活にも慣れてきた頃、実家の両親から家に帰ってくるよう言われた。実は旦那さんが問屋さんとの付き合いで、ほとんど毎晩のように飲みにいくのだ。私達も弟子ということで、毎晩借り出されていたからだ。両親にすれば、「弟子入りさせたが、お酒の相手をさせるために京都に行かせたのではない」というのである。お酒が飲めない私のことも、心配だったのでしょう。  両親の説得を受け入れ、祇園祭りの日に実家に帰ることになった。 このことが、ゆがんだ家族 荒波家と私の出会いに繋がっていくのです。

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Dec14
私は両親にそれなりに厳しく育てられた。
しかし、この厳しさは愛情があるものであったので、今では心から両親に感謝しています。
父は大工の職人で、祖父が亡くなるまでは、神戸の電気会社で働いていた。祖父が病死したあと、続けて兄弟二人も病死した。田舎のことなので、続ずけて葬儀を出した山川家は、屋敷を手放すことになる。18才の父は、家族を養うために、大工職人になったそうだ。だから、電気関係にも精しく、器用な人です。
そんな父を見て育った私は、電気製品をいじる事に抵抗が無いのだと思う。
父から「お前が男だったらな」とよく言われたものでした。
学生時代には腰に釘袋を提げて、大工仕事を家族揃って手伝ったものです。
母も沢山の兄弟姉妹の長女として育ったせいか、忍耐と家族愛の深い人だった。
先祖は、島津藩の武士の血をひいていた。祖父からその話を聞かされて育った母は、誇りとプライドを持っていました。
終戦後、島にマッカーサーが上陸した。
多くの子供達が飢えに苦しむ中、チョ子レートを貰おうとマッカーサーや米兵に子供達が群がった。
しかし、幼い母はその中に加わらなかったそうだ。
そんな母は私が物心ついた時は、優しいだけの母ではなく「厳しい」の一言でした。
大人しい兄と違って、やんちゃな私はよく叱られたものです。あまりの厳しさに、まま母だと思ったぐらいでした。
母は学生のころ、目の不自由な叔母さんの家に奉公に出された。その時にかなり厳しく仕込まれたようだ。
そんな母は「相手の目を見て、相手の思いを悟りなさい。」と散々小さい私に言ってきかせた。小学生の私にとっては、かなり難しい注文に思えた。しかし、この厳しさと訓練が、これから後の私の人生を助けてくれたのかもしれない。

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Dec13
小中高と天真爛漫に育った私は、その後、社会に出ても母に厳しく育てられたおかげで、周りの人に可愛がれて親切にしてもらった。
南国生まれのせいか目立つ顔立ちと、誰にも好かれる性格で人付き合いに困ることはなかった。今になって思えばこのことが後に裏目になったかもしれない。
周りは皆優しく親切で、虐められる子を助けても、虐められることはなかった。だから、私のなかで人を疑うことも無く、喧嘩することもなかった。
小学生の時、クラスメイトがいた。彼女のことは今も気にかかっている。彼女は大人しい子だった。お父さんが病死し、お母さんも病気がちで、働いていなかったようだ。一度、家に訪ねた時、農家の納屋を借り、床に板を張り、ゴザをひいて生活していました。その貧しさは小学生の私にとっては、かなりショックなものでした。
そのせいか、彼女と仲良くする子供達は他にいませんでした。お母さんは仲良くしている私をみて喜んでおられました。
中学生になり、引っ越してしまったので、それ以来彼女とは音信不通になってしまったのです。
転校先の新しいクラスでのこと、お弁当を食べる時、一人の女子がのけ者になっていました。
彼女に「一緒に食べない」と声を掛けると、他の女子から「彼女と一緒に食べるんだったら、貴女とも食べないから!」と非難されてしまった。
それから私は、一年間彼女と二人でお昼を過ごすことになった。
私はどうもこの様な虐めを見ると、赦せないようです。
今でもそうなのですが、人に優しくない人はどうも好きになれません。
最近も一人の友人が、別の友人のことを言い出し「あんな人と付き合っていると貴女も同じ様に見られるよ」と言われてしまった。
私は反論し「あなたは彼女のことをよく知らないでしょ?確かに彼女にも誤解されるところはあるかも知れないけれど、本当はすごく優しいところもあるのよ。上辺で判断する人たちに、どのように見られても私は気にしないから」と答えた。
人はあまりにも相手の一面を見て、無責任に判断してしまう。私たちは、サイコロのように色々な面をもっています。たとえば、私も妻であり、母であり、娘であり、友人であり、職場での顔もある。この全てが私なのだから。「世界で一つだけの花」のように、相手の立場と人格を尊重し、すべての人に優しくできればと思う。

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Dec12
私は昭和34年にのどかな島国で生まれた。父は青春時代に戦争を体験していた。
あと数日、終戦が遅ければ、特攻隊青年としてその命を失っていただろう。
祖父は戦後すぐに妻と長男の父、沢山の子供達を残し四十二才の若さで、病死してしまう。
父が十八才の時で、末の弟はまだ赤ちゃんだった。当然、長男の父は、家族の稼ぎ頭として、苦労したと聞いている。  また母も、戦前は大阪の天六で数店舗の料亭を、営む祖父の長女として大切に育てられた。しかし、戦後焼け野原になり、飢えに苦しむ近隣の人々のために、祖父は蔵に貯蔵してあった全ての食料を、人々に分け与えたそうだ。全ての財産を失ってしまった。祖父母と共に幼い母、兄弟を連れて故郷の島に引き上げたのだ。
祖父は長男であったが、大阪に出るときに全ての財産相続を放棄していた。帰郷後は畑を借り、小作人として生活することになる。小学生になっていた母は、鉛筆も買えない貧困の生活を強いられていました。
戦後、ましてや離島で高価な学用品など、買うこともできない。竹の先に切れ目を入れ、学校の床下で拾った鉛筆の芯を、挟んで使っていたそうだ。
一度だけ新品の鉛筆を買って貰い学校に行った。金持ちの子供が鉛筆を無くした時に母が疑われ、ひどく傷ついたこともあったそうだ。ノートも買えず砂浜の砂に字を書いて練習したことは、何度も聞かされた。
そんな母には、物を大切にすることを、かなり厳しく言われて育てられた。
その影響なのだろうか、私はなかなか物が捨てれない。
そんな両親は、私たち子供を贅沢ではないが、なに不自由なく育ててくれた。当然、子供たちには幸せを願っていただろう。

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