野間大坊の境内には、源 義朝の墓のほか、義朝の家臣鎌田政清(政家)夫妻の供墓、源頼朝の命を救った平清盛の継母池の禅尼の塚、寺を整備した平康頼の墓があり、豊臣秀吉に敗れて当寺で自害した織田信孝の墓もあります。
源義朝公御廟・・・無数の木刀が供えられて・・・
鎌田政家並び妻平氏之墓
長田忠致の娘である鎌田政清の妻は、夫が舅の諜殺に遭ったと聞き、その亡骸に走り寄り父の無道逆心を恨み欺きました。悲哀の涙極まりなく、夫の短刀を取って直ちに死骸の傍らに自害しました。後の人々は、この話を激賞して貞女鏡及び烈女伝等に詳しく載せたりしました。
池ノ禅尼之塚
源頼朝13歳、平治の乱に敗れて平家の手に捕らえられ、危うく死罪になるところを平清盛の継母池の禅尼の口ぞえで助命され天下を治めることができた。父義朝を弔った時、池の禅尼を供養して立てたものと言われる。
平判官康頼卿墓
平康頼は尾張守として任地にあった時、野間庄にある源義朝の墓が、守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていたので、小堂を建て、田30町を寄進し、僧6名を置いて供養に当たらせた。『吾妻鏡』
織田三七信孝卿之墳墓
豊臣秀吉は主である織田信長の三男織田信孝をこの野間大坊で切腹させているんです。このときの信孝の時世の句は、「むかしより主をうつみの野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前」(昔、同じ野間で源義朝を討った逆臣長田忠致(おさだただむね)の故事に喩えて、うつみ(内海)を「討つ身」とかけていて、報いを待てと長田忠致の最後のように主を殺す家来の行く末を恨んでいます)というものです。
参考(1)
参考2
源頼朝ゆかりの地・・・名古屋市熱田区白鳥 誓願寺の境内には頼朝産湯の地、頼朝生誕の碑が残されている。
右から、トイレのお札、おふろのお札
今年新たに、ぼけ封じのはしを買って~
野間大坊を出て、国道247号を南下して
冬の伊勢湾を撮影しました・・・