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2010-07-07

[歴史探訪] 桶狭間観光モニターツアー(4)

有松は、東海道五十三次の39番目の地鯉鮒(ちりふ)宿と40番目の鳴海宿の間に、慶長13年(1608)、「間(あい)の宿」として開かれました。また、全国的に有名な有松絞り、その400年の歴史は、尾張藩が有松絞を藩の特産品として保護し、開祖竹田庄九郎を御用商人に取立てたことから始まりました。

【有松・鳴海絞会館】昭和59年に絞りの技法・資料・製品の保存と展示を目的に、有松商工協同組合が建設。構造は、有松の町並みの特徴である塗籠造りで、1階には展示即売場、2階には伝統工芸士による絞りの実演コーナーと絞りの歴史資料などが展示されています。(予約すると絞り体験ができるそうです)                                                                        2階では、名古屋城本丸御殿の復元を祈願して、有松絞りと名古屋友禅で見事に再現された【竹林豹虎図】【絞りの甲冑】などが展示されています。

【竹林豹虎図】

贅沢に大胆に有松絞りを施した豪華絢爛 絞り甲冑 (桶狭間の戦い・450年記念作)

有松・鳴海絞会館入り口の右側に石碑と案内板が・・・ここに知多郡有松町役場があったようです。案内板には、①伝統400年の絞りを知る・・・有松・鳴海会館・・・②幕末のころ、頼山陽(江戸後期の儒学者)が井桁屋で泊まったさい、町の風景に心うたれて扇面に書きしるした詩文・・・                                    

また、入り口左側には、皇太子殿下・皇太子妃殿下行啓の碑(昭和61年11月10日)があります。

有松・鳴海絞会館のすぐそばに、【有松桶狭間めぐり】の案内板が・・・

浮世絵師広重による東海道五十三次『鳴海(名物有松絞)』。説明によると・・・「名物有松絞りを吊るした店が並ぶ、手前の女性がその美しさを眺めている。のれんにある菱形内の「ヒ」は広重の印、脇の「竹内」は版元名」と。江戸時代には、かなり繁栄を見せた宿場で、東海道を旅する人々は有松絞りの手拭や浴衣をお土産ににしたという。

有松・鳴海会館の斜め向かいに【有松山車会館】があります。ここでは、有松にある山車3台(布袋車・唐子車・神功皇后車)を毎年交替で1台ずつ展示し、まつり文化を紹介しています。1階では、ビデオによる山車の解説も行っています。(所要30分)

2階には、天狗猩猩のお面や衣装も展示されて・・・

この日、展示されていた「布袋車です。毎年10月の第一日曜日に開催される【有松祭り(天満社祭礼)】では、3台のからくり山車が東町・中町・西町の旧東海道に揃って曳き回される。

有松山車会館の横の海鼠壁(なまこかべ)の前に、旧東海道道標が建っています。

2010-06-28

[歴史探訪] 桶狭間観光モニターツアー(3)

この日の昼食は、あの信長の最後の晩餐のメニューで・・・                                           天正10年(1582)5月、織田信長が武田氏討伐に功を上げた徳川家康を安土城に招き、接待した時の料理が「安土御献立」です。「信長膳」は、復元可能な料理を選んで、資料『続群書類従』に基づき、できるかぎり忠実に再現したお弁当です。さて、徳川家康の饗応役を命ぜられた明智光秀は、準備の不手際から信長の怒りをかい途中で解任され、この数日後に「本能寺の変」が起き、その契機となったのが、この「安土御献立」ともいわれています。

お弁当の中に、「鱒のやきもの・うちまる・小串・山のいも・ふき・しいたけ・あへまぜ・ごぼう・な汁・かりの豆・花に昆布・まめあえ・香の物・焼き味噌おにぎり」の14種類(「おしながき」より)が入っていました。焼き物、和え物、漬物などが中心で、ヘルシー系のお弁当。史跡を観た後、戦国の世に思いを馳せながら食べた「信長膳」は美味しかった。特に「焼き味噌おにぎり」は、超美味でした!                                                                  

昼食・休憩後、「鷲津砦跡」「丸根砦跡」「大高城跡」を目指して、長寿寺(知多四国八十八ヶ所87番札所)に向かいましたが、土砂降りのため、ここで小休止となりました。車中で、ガイドさん(大高歴史の会)より、「合戦当時の天候」・「鷲津砦・丸根砦・大高城」・「戦国の城と街」などのお話を聴いて、大高城跡に向かいました。(雨のため、鷲津砦跡・丸根跡跡には、行くことができず・・・残念!

「大高城跡」この城は、東西106メートル、南北32メートル、四方を二重の堀で巡らしていた。・・・・・

・・・・・永禄3年(1560)桶狭間の戦いのとき、松平元康(後の徳川家康)が守っていたが、義元の死後三河に返り廃城となった。

  石垣の上に白いアジサイが・・・民家の塀に、ピンクのアジサイが・・・

名古屋市緑区の大高には、江戸時代から明治に創業された三つの酒蔵が残っています。その一つが、清酒「鷹の夢」醸造元【山盛酒造】です。

試飲・・・みごとな飲みっぷり!

はち丸くんが・・・

酒蔵の黒板壁を見ながらしばらく行くと、肥料看板が整然と並んだ倉庫?が見えました。(ここは、ツアーのコースではありません)

ずらりと並んだホーロー看板が圧巻

 「マニマック」・「リボン化成特約店]・「成長のエネルギー」など、初めて見るホーロー看板ばかり。

広告文化の象徴として、かっては、隆盛を誇ったホーロー看板も、時代の流れに逆らえず、今では、ひっそりと。この先は、絶滅していくのでしょうか?

次に、「有松」の見どころなどを載せますのでご覧ください。

2010-06-26

[歴史探訪] 桶狭間観光モニターツアー(2)

【近世の曙】公園の史跡などを散策後、公園周辺にある史跡を案内していただきました。最初に向かったのが、住宅街の一角にある【七ツ塚】でした。

【七ツ塚】へ行く途中で、こんなものを発見しました~マンホールには、名古屋市下水道局のシンボルマーク「アメンボ」が描かれいました。あなたの街のマンホールは、どんな図柄が描かれているかな

【七ツ塚】「信長は、義元を討ち取った後、釜ヶ谷に全軍を集め勝ち鬨を上げ、村人には戦死者を埋葬するよう命じて引き上げました。もとは、武路公園あたりに七つの塚がありましたが、平成元年の区画整理で現在地に移され、その後も供養されております。(桶狭間史跡マップの説明文による。以下同じ)

【釜ヶ谷】「織田信長が善照寺砦に旗を多く立て織田本隊と見せかけ、信長自身は中島砦から扇川沿いに進み、焼田橋附近から有松駅北側の山中をすり抜け、窯ヶ谷へ到着、突撃の機を窺いました。折からの暴風雨止むのを待ち、おけはざま山に陣取る今川軍へここからいっきに攻め込み、今川義元を討ち取りました。」

こんなマンホールも・・・「桶狭間の戦い」の様子をデザインしたと豊明市のマンホールがありました。

義元本陣跡から西を望む~左側に巻山、その向こうに大高が・・・

公園南側の入り口附近に戻って来ました。そこで、石碑や案内の立て札に・・・

【桶狭間古戦場 田楽坪(でんがくつぼ)】の石碑今川軍の先陣松冴左衛門宗信(遠州二俣城主)の子孫 松井石根(いわね)氏が昭和八年五月(1933)に古戦場跡を訪れたときに揮毫したものです。立て札には、「桶狭間古戦場の碑」・「鞍流瀬川(くらながせがわ)」の説明文があります。

立て札・・・【桶狭間古戦場跡の説明文】                                                                              下の方に、「桶狭間古・・」や 「東浦街道・大高道」の石碑

【瀬名氏俊(せなうじとし)陣地跡】・・・大池の東側にあります。

次の長福寺へ

【長福寺】

「天文7年草創の西山派浄土宗寺院。戦いの後、首検証をさせられた義元の茶坊主林阿弥(りんあみ)は、許されて国に帰りましたが、後に主君を弔うために阿弥陀如来像を持って訪れました。堂内には今川義元と松井宗信の木像も安置されています。他にも、戦いゆかりの史跡があります。」                                                                                                                        

この二体の木像を観たかったのですが、法要がおこなわれていて観ることができませんでした。残念!

【桶狭間神明社】奥に本殿がみえます。                                                                                                               「神社の起源は定かではありませんが・・・こkには、瀬名氏俊が戦勝祈願した折り奉献した酒樽が残されています。また、4代尾張藩主徳川吉道が植えた杉の枯れ木がが本殿前に立っています。」

境内の手水場(ちょうずば)のそばに、大きな亀が奉納されていました。                                                                         

もうすぐ、12時。この近くの公民館で食事・休憩をとります。ツアー参加の時に、申し込んだお弁当が楽しみです・・・次回につづきます。

2010-06-22

[歴史探訪] 桶狭間観光モニターツアー(1)

有名な桶狭間の戦いから今年で450年を迎え、名古屋観光コンベンションビューロー主催の「桶狭間観光モニターツアー」が6月18日(金)開催されました。いままで一度も行ったことがなかった「桶狭間古戦場公園」「有松絞り会館」を是非観たいと思い、ツアーに応募いたしました。募集人員は、80名(定員を超えた場合は抽選)でありましたが、運よく選ばれ、行くことができました。                                                                                           ツアーは、バス2台で、1台に、2グループづつ乗り込み、ツアーの行程は次の通りでした。

 9:30 金山出発⇒10:30 桶狭間古戦場公園周辺の史跡まぐり※1⇒12;00 昼食 ・・・1号車・2号車・共通                                              

12;45 桶狭間発⇒13:15 大高着※2⇒15:15大高発⇒15:30有松着※3⇒17:00有松発⇒18:00金山着・・・2号車                          

※1 古戦場公園・おけはざま山・瀬名氏俊陣地跡・長福寺・戦評の松・桶狭間神明社・7ッ塚・釜ヶ谷                                         ※2 鷲津砦跡・丸根砦跡・大高城跡・山盛酒造                                                                                 ※3 有松・鳴海絞会館・有松山車会館・服部邸                                                

桶狭間古戦場公園」の入り口で                                                                                   「桶狭間の戦い450周年」ののぼり旗が、一行を迎えてくれました。

先着のグループは、【桶狭間の戦い 案内板】の前で、ガイドさん(桶狭間古戦場保存会)の説明を聴いて・・・

【桶狭間の戦い 案内】・・・この附近一帯が歴史に名高い「桶狭間の戦い」が行われたところです。この地は田楽坪と呼ばれ、今川義元公最後の地であります。・・・以下説明文が、見づらいと思いますが、拡大してご覧ください。

ここから少し離れたところに、【今川義元公 馬繋ぎの「ねずの木」】・【駿公墓碣】・【今川義元戦死之地の石碑】があります。

左・・【今川義元戦死之地の石碑】 右・・【駿公墓碣】

【ねずの木】・・ガイドさんの右後ろの木

こちらが説明文(田楽坪の説明もあります)                                                                          

そばにあった【かくれみの】・・・変わった名前の木ですね。初めて見ました~かくれみのは、1本の木にいろんな形(楕円形・三裂した形)の葉が付くことでしられている。三裂した葉がおとぎ話の「かくれみの」に似ているところからついた名前。日本人が古来から神聖視してきた樹木の一つで、神社にもしばしば植えられているそうです。                                                               

織田信長と今川義元が争った桶狭間の合戦(1560年)から、今年で450年になるを記念して、名古屋市緑区の「桶狭間古戦場保存会」が制作していた両雄のブロンズ像を、公園の中央に設置し、5月16日の「古戦場まつり」に一般公開されました。

時に、信長27歳、義元42歳。合戦に挑む両雄の勇姿を再現して・・・信長が長い槍(やり)を構えて、前に踏み出そうとする立像。義元は「海道一の弓取り」の異名にふさわしく、長弓と軍扇を持ち、周囲を見下ろすような坐像。作者は、「天下統一を目指す信長の気迫と武人としても名高かった義元の高貴さを表せた」と話していたとか。

【有松桶狭間めぐり】                                                                              戦いのみち・絞のみち・街並みのみちが描かれています。

公園の南側の区域では、合戦時の城、砦などをジオラマ風に整備され、戦いに至る各軍の進軍ルートを石板により明示されています。

銅像の向こうで、何かを見つめながら歩いていますね~                                                                       城や砦、それとも進軍ルートかな?

                                                                                                    

【桶狭間の戦いジオラマ解説板】・・・銅像の後ろにあります。                                                                       

ジオグラの解説板を参考に、園路を歩いて、戦い当時の様子に思いをめぐらせてはいかがでしょうか。

 

鎌倉街道・沓掛城(赤色・・今川方)

丹下砦(赤色)・鳴海城(青色・・織田方)

公園の隅に、【義元公首洗いの泉】がありました。                                                                                                                     ここには、「おけはざま」の地名について・・・

「湧き出る水の勢い水汲み用の桶がくるくる廻っている様子に興味を誘われた旅人が、桶が廻る間に一服とて「桶廻間」(おけはざま)と呼ぶようになったとの言い伝えもあります。江戸時代の文書の殆どは、「桶廻間」でしたが、・・・明治十年(1877)・・・現在の桶狭間になりました」と。

桶狭間観光モニターツアー(2)へつづきます。                                                                                

2010-03-08

[歴史探訪] 弘法大師上陸像(聖崎公園)!

知多半島・南知多町大井聖崎の弘法大師上陸像は、今からおよそ1200年前、814年(弘仁5年)、弘法大師が海を歩いて上陸したという言い伝えから、海から陸に向かって弘法大師の石像が岩の上に建てられています。

聖崎公園の頂上にある展望台や付近から・・・ すばらしい眺望!!                                                                             

 

 

 弘法大師上陸像が見え、沖合いには、篠島日間賀島佐久島が望めます!                                               さらに、展望台の右側の小路を下っていくと・・・

引き潮の時には、弘法大師上陸像まで歩いていくことできるそうです。

 今回は、今までに載せてない画像を入れてみました。 

先に、聖崎公園や弘法大師上陸像のブログ(2008.5.7、2009.3.20)を載せてありますので、そちらもご覧くださいね。

                                                      

2009-07-17

[歴史探訪] 海難除地蔵尊・龍亀尊碑!

知多半島・南知多町内海地区の散策コースは、「江戸時代を探しに」コース(約1.5km)、「渚百選散歩」コース(約2.6km)、「歴史発見」コース(7.0km)があります。
「江戸時代を探しに」コースは、「唐人お吉の像」~「お吉出生地跡」~「内海川周辺」~「内田邸」~「慈光寺」~「泉蔵院」~「内海川」となっています。この案内板が、そのコースの目印です。
海難除地蔵尊・龍亀尊碑は、内海海水浴場(東浜海水浴場)・駐車場近くにあります。
海難除地蔵尊(右側)
今から200年昔 天明の頃は 天候不順で水難事故が多かったので天明6年3月(西暦1786年)この地蔵さまを建て 海上安全 水難防除の浜供養をしました。それから村人は 今日まで大事にお祀りしています。皆さんもどうぞ。尚 建設に努力した前野小平治さん達の名前も台石に刻まれています。

亀翁(お亀さん)之墓
この辺は 海亀が産卵のためよく上陸する処です。長寿の海亀は天命を知ると生まれ故郷に帰ってくるか 時に渚に寄りつくので 村人達は延命長寿龍亀尊として鄭重にお祈りしている塚であります。
昔は、松林もあり、千鳥も鳴いて、海亀も産卵に来ていたのですねぇ~今は、海水浴やレジャー優先で観光化されてちょっぴりさびしいですね^_^;

内海海水浴場は、その歴史は古く明治初期の湯湯治に始まります。世界で最も粒が小さい砂の浜と弓状に2キロも続く砂浜は、東海随一といわれています。また、平成8年「海の日」を記念して「日本の渚百選」に選ばれています。

2008-09-24

[歴史探訪] 唐人お吉は、ふるさと内海に帰って来ていた!!

知多半島、南知多町内海(うつみ)に"江戸時代を探しに”という散策コースがあり、その中に、「唐人お吉の像」「お吉出生地跡」もあります。このブログで5月14日に載せた、「唐人お吉の像」(現「白砂の湯」玄関前)から徒歩で数分のところに「お吉出生地跡」があります。
案内板に・・・お吉の生涯は、大半を下田で終始したが、28歳の時、甥の勘蔵を連れて、一時内海に帰っている。幼き日楽しく遊んだ浜の白砂青松を感慨深く眺めたであろう。・・・・と書かれている。
お吉が、ふるさと内海に帰って来ていたのです・・・・驚きですね!!
その後、お吉は下田に戻って行った・・・なにがあったのでしょうか?
「唐人お吉の像」
「お吉出生地跡」
そばで、可憐に咲いている「浜木綿」(はまゆう)
思わず・・パチリ♪

2008-05-14

[歴史探訪] 唐人お吉の像!

唐人お吉(本名斉藤きち)は、天保12年(1842)11月10日南知多町内海(うつみ)の西端に生まれました。お吉、4才の時、家族とともに伊豆下田市に移り住みました。14才の時 芸子となり、17才の時 アメリカ領事館ダウンゼント・ハリスのもとへ侍女として勤め、ハリスが、日米交渉にあたっている数日間だけハリスの元へ通ったと言われるが・・・外国人・・いわゆる「唐人」に多額の金で、身を売った女・・即ち「唐人お吉」と罵られ、軽蔑の目で見られ・・後に、髪結屋や小料理屋を営むが、「唐人お吉」のレッテルを貼られたまま、商売は、うまくいかず・・晩年、酒におぼれ・・ついに、下田の稲生沢川に身を投げ、51歳の生涯を閉じたという。(静岡県下田市の宝福寺にお吉の墓があります)幕末の時代、国のためとは言いながら、あまりに悲運であったお吉の生涯は、後世に語り継がれています。内海館(現在テルメ・ウツミ白砂の湯)前の広場には、昭和61年11月建立の【唐人お吉の像】があります。この像は、歌舞伎俳優坂東玉三郎さんモデルにしたもので、遠く、「下田」を眺めているそうです。もし、お吉が、下田に行かなければ、幸せな人生だったかもしれませんね

2008-05-07

[歴史探訪] 弘法大師上陸像!

知多半島の先端に位置する南知多町の大井漁港は、弘仁5年(814年)弘法大師が41歳の時、三河の国から上陸されたと伝えられる地です。弘法大師1150年の御遠忌(ごおんき)を記念して、沖に浮かぶ二子島に、13尺大師像が、建てられました。
上陸後、近くの医王寺を経て、山海(やまみ)の岩屋寺などで修行をされ、美浜町の野間や常滑市の大野へと渡っていったと伝えられています。知多四国霊場の札所でお参りしたあとは、納経帳へご朱印を忘れずに印を重ねれば重ねるほど、ご利益があるとされています。開創200年となる今年は、さらにオリジナル記念宝印をすべてのお寺で用意されているとのこと・・・がんばって、挑戦しようかなぁ~

2008-04-26

[歴史探訪] 「和訳聖書発祥」の碑!

知多半島にあるこの町…美浜町小野浦…は、最初の和訳聖書の著者ギュツラフに日本語を教えた尾張漂民“音吉・久吉・岩吉”の郷里であることから、“和訳聖書発祥の地”と言われています。
千石船「宝順丸」で江戸に向かう途中、嵐にあい、乗組員、音吉、久吉、岩吉の3名は、1834年アメリカ合衆国ワシントン州アラヴァ岬付近に漂着しました。その後、各地を巡りさまよう間に、ドイツ人宣教師(カール)ギュツラフに協力して、初めて聖書和訳を成し遂げました。その歴史的偉業を頌徳するため建てられました。

音吉を題材とした本・・「にっぽん音吉漂流記」(春名徹著)・「海嶺」(三浦綾子著)など。




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