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2009-11-16

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(16)

今から140年前に建てられた内田家の家屋を平成18年12月より毎月第3日曜日に公開されてきましたが、公開3周年記念として11月14日、15日の2日間の特別公開となりました。昔の南知多観光展の他、「内海焼き]の展示や茶会、きり絵教室なども催され大勢の観光客が訪れていました。昔の貴重な写真や資料などをご覧ください。
内海鉱泉(温泉)
明治末期の千鳥ヶ浜
知多自動車
サンドスキー場



 

「大正の広重」といわれた・
吉田初三郎氏画「つぶて浦」
内海海水浴
手拭い・内海中日花火大会(昭和47年8月)


巡拝案内図

尾張国知多郡内海海水浴・・・

名鉄電車の沿線など


知多新四国御巡拝団体宿泊料金表

昔の南知多の観光について
「新四国」、[海水浴」、「知多自動車」、「サンドスキー」などの記述・・・


この展示は、屋敷の「にわ」の部分で行われていました。

この日は、インターネットで調べて、はるばる富山県から訪れた男女のグループに出会いました。ボランティアのガイドさんの説明を熱心に聴き入っていました。

  月1回の公開ですが、おすすめの観光スポットの一つです。

2009-07-14

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(15)


明治7年(1874)、
知多半島で3番目の「東端郵便取扱所」が開業しました。

場所は、内田佐七家のいんきょの1階で、取扱役は三代目内田佐七氏でした。いんきょは、主屋とは別棟の老夫婦の建物で、2階には床の間のある座敷もあります。

文庫蔵・・・
いんきょ2階からの眺め 

「南知多遊覧」(吉田初三郎画)
 左をアップして
    
 廻船業から撤退後は、銀行の創設などに関わった四代目内田佐七氏が大正期以降に力を注いだのは観光開発でした。大正7年(1918)には武豊と内海を結ぶ乗合自動車の営業を始め、サンドスキー場や鉱泉も開発しました。吉田初三郎氏の鳥瞰図(ちょうかんず)やカメラ好きの四代目内田佐七氏が撮影した写真などを使った宣伝も功を奏して、名古屋近郊の行楽地として知多半島南部は発展していきました。
左から、「知多自動車」サンドスキー(昭和初期)」知多郡全図(大正末期)」,当時を偲ぶ貴重な写真は、新納屋で展示されています。


    7月・8月の公開は、次のとうりです。
    平成21年7月19日(日)午前10時~午後3時
    平成21年8月16日(日)午前10時~午後3時
     
          無料で見学できます。

     一度、足を運ばれてみては、いかがでしょうか。



2009-07-08

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(14)

内海船の有力船主は、前野家・内田家・中村家・日比家などで、内海東端・西畑)に居を構えていました。現在でも東端地区には船主の家屋があり、当時の面影を伝えています。

ここ内田佐七邸は、定期的に一般公開(毎月、第三日曜日)されています。
廊下の右側に、茶の間次の間の間があります。歴史を感じるお屋敷には、行燈がよく似合いますねぇ~

茶の間 

にじり口はなく、庭に面して貴人口が設けられています。

三畳三台目の茶室です。台目とは、一畳の4分の3の大きさです。床と水屋が並んでおり、茶室と、広間に対する水屋の両方の機能を備えています。下地窓竹の格子窓、 煤竹の棹縁天井などに、数寄屋造の特徴があらわれています。

茶の間の方から、
上の間(北側)の方を眺めると・・・
北庭
 座敷の北側の小振りの庭ですが、

善導寺灯籠や瀟洒(しょうしゃ)なつくばが侘びた雰囲気を醸し出しています。


      主屋の西半の土間は、にわと呼ばれています。
上方の太い梁を組んだところに、幟旗(のぼりばたが飾られてていました。(6月21日撮影)
   今回の公開で、このような大きな幟旗が見れて、ラッキーでした。

2009-07-07

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(13)

ここは、内海船の有力船主の一人であった内田佐七氏の住居でした。明治2年に建てられた主屋をはじめ座敷、蔵などがあり、太平洋岸では、船主の住居として現存する数少ない建物の一つです。平成17年3月、内田家当主より南知多町へ寄贈され、保存整備されました。(町指定文化財 平成20年3月25日指定)

 座敷の「上の間」と「次の間」・・・襖絵
かって、千鳥ヶ浜は、すばらしい景観だったのでしょうねぇ~

欄間(らんま)・・・屋敷の品格があらわれていますね。
引き違いで、木目の美しい・・・屋久杉板 (上の間の天井もすべて屋久杉)

座敷・上の間
右側に琵琶棚、左側の下方に狆潜り・・・
狆潜り(ちんくぐり)は、和室の床の間と床脇を仕切る壁の下方に設けられた開口部のことを指します。犬の狆(チン)がくぐれるような隙間としてこの名称がついたそうです。・・・おもしろい名称ですね。

 

座敷の東側・・・ 
織部燈籠(クリックしてみてね)
上の間から北庭を眺めると・・・
手水鉢も見えました。
 
風流な眺めですね~

2009-07-04

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(12)

知多半島・南知多町内海の散策コースの一つに観光ボランティアガイドが案内する「江戸時代を探しに]コースがあります。

このコースは、江戸時代末期から明治初期に活躍した内海船船主・内田佐七家の屋敷をメインとしたコースです。今回から、かって載せられなかった記事や写真を入れて、見どころなどを紹介していきます。
風情あるすばらしいお庭をご覧ください。まず、座敷(「上の間」・「次の間」の南庭(主庭)から・・・
広縁先に張り出した露台花崗岩の上面をまっ平らに切り取った手水(ちょうず)鉢
露台付近の沓脱石(鞍馬石)※1貝もついて・・
さらに、
(根府川石)※2
     
左側の縦長の石     
※1京都府鞍馬山系の山中から産出する花崗岩で土壌の鉄分が多いため、表面が赤茶色におおわれた石を指して鞍馬石とされている。
※2小田原市根府川に産出する板状節理が発達した安山岩の石材名をいいます。
左側は、春日形灯籠(ちょっと見にくいですが・・・)
右側に善導寺形灯籠
大きな伽藍石

ここで、ガイドさんよりも石について、とても詳しい方に出会いました。
(写真の手前のお二方)

その方々は、岡崎から来られた石屋さんのご夫婦でした。
ご主人が、灯籠の種類や石のことなどを詳しくご説明していただきました。
なんと、びっくり!この方は、「あの唐人お吉の像」を造った方だったのです。
唐人お吉のモデルになった歌舞伎俳優坂東玉三郎さんのこと、製作中
の出来事などをなつかしく、語っていただきました・・・ありがとうぎざいました
お庭にいた柴犬二匹、ガイドさんが飼っているそうです。
左は、ひじきちゃん、右がわかめちゃんです。みなさん、よろしくね


[江戸時代を探しに]コースは、こちらクリックしてご覧ください。

2008-11-29

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(11)

祝 開館2周年を記念して・・・・

特別公開
が行われました。



今年、2回目の参観。

目玉は、不知波船(いさばふね)の復元公開!!・・ でした。



内田佐七家年譜
初代内田佐七(1790~1868)

初代内田佐七は、文政元年(1818年)に小形の不知波船(124石積み)1艘を購入して、廻船経営を始めました。

不知波船・・・1/10スケール・全長160㎝




【板図】
この不知波船(模型)は、前述の内田佐七が、最初に購入した不知波船と同じ型と思われています。この模型は、南知多郷土資料館所蔵の寛政12年(1800年)の板図をもとに復元されました。その当時の船の板図が、現存するのは、全国的にもめずらしいといわれています。

船体の基本構造は、弁才船同様の典型的な大板構造であって、船型上に多少の相違が見られる程度にすぎなかったそうです。不知波船は、本来、魚類専門の小輸送船であったといわれています。

この機会に、もう一度館内を見ていくと・・・新しい展示品や前回、撮れなかった所があり、写真に撮りました。後日、紹介しますので見てくださいね。

参観を終えて、庭のベンチに座っていると、ボランティアの方が、ここで獲れた柿を持って来られたので頂きました。佐七さんも食べたのでしょうねぇ~ 甘くて、非常に美味しかった(^。^)


2008-09-22

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(10)

【弁財船】(べざいせん)
弁財船は、江戸時代を代表する和船で、18世紀以降は、日本全国で長距離航海に活躍しました。太い船首財・水押(ミヨシ)と欄干(ランカン)状の垣立(カキタツ)、反り上がった船尾、大きい(カジ)などに特徴をもつが、時代や航海する地域によって多少の違いがあったようです。米を1000石以上積める大型船も造られたことから「千石船」ともいわれます。


座敷の主庭のそばにある土蔵・・・その中には~~

「浮き桶」・「ろくろ」・「せみ」など
・・・ちょっぴり寂しい展示ですね


「弁財船」(模型)
参考に!

「廻船問屋瀧田家」の
「弁財船」(模型)

【尾州廻船 内海船船主 内田佐七家】の一般公開日は、毎月第3日曜日(10:00~15:00)です。

    すばらしい、屋敷の景観を見てください!!(写真をクリックしてね)      




この秋 観光ボランティアガイドが案内する・・・・この内田家をメインとした・・
『江戸時代を探しに』コースに、お出かけになっては、いかがでしょうか♪♪


    みなみちたボランティアガイド事務局(南知多町観光案内所内)
     電話 0569-62-3100 FAX 0569-62-3520

2008-09-20

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(9)

【戎講(えびすこう)】
内海とその周辺の船主たちは、戎講という組合を結成していました。戎講の始まりは明確ではありませんが、19世紀初頭にはある程度整備された組織があり、1870年代末まで活動していました。小野浦(美浜町)から大井・日間賀(南知多町)まで船主が所属し、最盛期には約100艘の船が加入していました。戎講では毎年7月20日に船主や船頭が出席する会合を開き、組合に所属している船やその乗組員に対する統制策や各地の商人と円滑に取引する方策を相談しました。

【いんきょ】
階段を上がると、二階・・・
奥の床の間に、鷹が描かれた掛け軸があります。

隅の方に、蓄音機
少し離れて・・・
レコードケース

誰かの愛用品だったのでしょうね。

次回(最終回)、「弁財船(べざいせん)」・「船道具」に続きます。

2008-09-19

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(8)

【内田佐七家の廻船経営】
内田佐七家の船は、商売も行いました。買い取った積荷を運送先で売却する「買積」という方法で大きな利益をあげました。荷物を運んで運賃を得る「運賃積」も併用しました。瀬戸内や上方では、米や塩・畳表など、江戸やその周辺では、魚を原料とする肥料(干鰯・〆粕)や大豆・小麦などを積み、東西を往復しました。

【内海船の航海】
【船乗たちの信仰】




【主要港の図】


【船額】
船額は、その船の名前を書いた「船名額」と縁起の良い言葉を書いた、「伊達額」とがあります。「船名額」は船内に、「伊達額」は、積荷に覆いかぶせた苫屋根の前に掲げました。また、船名板は、船尾につけました。

古文書・金刀比羅宮祈祷札・船用ランプ


【古文書】
一金拾両也・・・・金比羅大権現様
・・・・・御寄附・・???


写真をクリックしてみてね!

次回、【戎講】【いんきょ二階】に続きます。

2008-09-18

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(7)

内田佐七家は、幕末期には10艘近くの船を所有し、矢野(三重県津市)や四日市(三重県)に出店をもつ大船主に成長しました。明治時代に入り、鉄道の登場、経済構造の変化などにより廻船経営が難しくなり、19世紀末には廻船業から撤退しました。
主屋を出て、左前方に
土蔵があります。
非公開

右側は、二階建ての
いんきょです。


いんきょの入り口を
覗いてみると・・・



奥に、古そうな看板や
スキー板が見えます。

4代目内田佐七は、内海町長をつとめる一方、サンドスキーを成功させ、銀行の開設に寄与し、内海自動車合資会社を創設して観光開発に力を注ぐなど、内海の行政・経済に大きな影響力をもちました。
『東端郵便取扱所』(説明)と
スキー板・・・4代目佐七氏が使用したのかな

『南知多遊覧』『南知多の観光開発』(説明)
桶・看板(住田屋肥料商店)・焼印・台ばかり など。
内田佐七家の屋号は「住田屋」、商号は二つの山形の下にサがあるイリヤマサです。

『南知多の観光開発』
 1918年(大正7)4代内田佐七氏は、内海自動車合資会社(知多バス)を創設しました。開業当時は、アメリカ産5人乗り自動車2台、武豊駅・内海間1日3往復、所要時間約45分でした。あわせて、内海の細かい砂を生かしたサンドスキー場や鉱泉を開発しました。観光絵葉書を発行するなど、PRも積極的に行い、観光客を誘致しました。

壁に貼られていた新聞です。
明治15年12月23日発行・・・今から、116年前!
クリックしてみると・・・“時代を感じる新聞ですよ”



次回、「内海船の航海」・(船乗たちの信仰」に続きます。

2008-09-17

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(6)

主屋とは、別に別棟(主屋の北側)で【いんきょ】が建てられました。老夫婦のための建物です。二階建てで、二階には床の間のある座敷もあります。一階は、1874年(明治7)に「東端(ひがしはし)郵便取扱所」が開設されました。取扱役(現在でいう局長)は、三代目内田佐七氏でした。

次回、「いんきょ」に続きます。


2008-09-15

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(5)

この屋敷は、座敷(「上の間」・「次の間」)南側に主庭および「茶の間」に面する北側の小庭があります。主庭は、広縁先に張り出した露台を中心に構成され、端正な手水(ちょうず)と石燈籠とが主景をなしています。これとは対照的に、北側の小庭は、往時を偲べるつくばい飛び石があります。

座敷にある広縁先から庭を望む!
座敷の部屋に上がるための草履石(ぞうりいし)があります。鞍馬石(くらまいし)と根府川石(ねぶかわいし)で津藩の藤堂家からおくられたものだそうです


当時、露台からも中秋の名月を眺めていたのでしょうねぇ~・・・風流!!

外との境の垣根は、網代(あじろ)が使われていて、
斜め、縦、横に杉皮で編まれています・


小振りながらも、
趣のあるお庭ですね!

純日本的で、格式のあるすばらしいお庭です!!

2008-09-13

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(4)

『おかって』の奥に、『なんど』があります。ここは、家族の寝所になっていたそうです。


二階に上がる階段・・

多数の引出しが付いた
箱階段・・・二階へ上がれません。

百年前の麻の蚊帳・・・豪華・年代を感じる~

襖(ふすま)に四代目佐七氏
の書が張られています。

『なんど』から

廊下を通っていくと『茶の間』『座敷』があります。

時代劇に出てくる行燈(あんどん)みたいですね。

『茶の間』                                                 
最初に目に入ったのが ・・・・この掛け軸で、

なんと、「富士山」」・・横山大観作だって!掛け軸の富士山も
ステキですね。

この部屋の下地窓や竹の格子窓、煤竹の棹縁天井なども見どころです。

『座敷』は「次の間」・「上の間」が東西に並び、その南北に広縁があり、南北隅には露台、北西には『茶の間』、北東隅には「奥のこま」と雪隠(せっちん・便所)が続きます。『座敷』はこの屋敷で最も格式の高い建物で、内海船の船主の組合「戎講」の寄り合いや、冠婚葬祭など、特殊な場合に使用されたそうです。
「次の間」
蚊帳が張られて
行燈・枕・うちわもあります・・・・小さなも、年代もの

奥に「上の間」が見えますね。

「上の間」には、床の間・床脇・付書院からなる座敷飾が設けられ、床脇には琵琶を飾る「琵琶棚」があります。
天井板は、木目の美しい屋久杉が使われ、また「上の間」・「次の間」境の欄間は、同様に木目の美しい板の引き違いになっています。

 ここの屋久杉で、家が一軒建つとか・・・すげぇ~

「奥のこま」

「こま」とは、部屋のことです。


写真をクリックすると拡大で見れますよ


次回、「南北の庭」に続きます。

2008-09-09

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(3)

 

内田佐七家の中では、所々に、このような【説明板】がかかっています。

【内田佐七家】内田佐七家は、幕末期から明治初年に・・・・・・
【屋敷の変遷】1818年(文政1)の独立当時、・・・・

写真をクリックすると拡大で見れますよ
主屋の右側は、手前から『だいどこ』・『おでい』、中ほどに『中の間』・『仏間、神屋』、奥は『おかって』・『なんど』になっていて、さらに、なんどから廊下を通っていくと『茶の間』・『座敷・・次の間・上の間』があります。
『だいどこ』
居り間(おりま)ともいい、土間からの上がり口で、家族の居間でもあり、『おでい』の前室としての機能も持っています。神棚もあります。手前に『なかのま』が見えます。
『おでい』
『だいどこ』の奥、神屋と仏間の前にあり、主人の居間や接客のために用いられました。床の間が設けられ、主屋では最も格の高い座敷となっています。

『なかのま』

右側が・・・『だいどこ』
奥が・・・・・『仏間・神屋』
左側が・・・『おかって』
『仏間・神屋』
仏間と同等の神屋を東西に並べ、神棚には、左から金比羅宮・多賀大社・伊勢神宮・熱田神宮・秋葉神社が祀られています。航海安全に対する信仰の厚さが感じられます。
備え付けの引出し
『おかって』

  広いなあ~


       

     次回、『なんど』→『茶の間』→『次の間・上の間』に続きます。
     
【100年前の蚊帳】・【横山大観の掛け軸】も登場しますよ♪

2008-09-08

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(2)

内田佐七家の家屋は、慶応2年(1866)から明治2年'1869)頃に建築されたと推定され、現存する廻船主の家屋の中では大規模なもので、屋敷構えは、大型で廻船主の風格を備え、建物は、庄屋格の造りといえます。主屋(おもや)は、町屋造りで、屋根は切妻、土間上部の屋根には煙出しの小屋根が付いており、座敷・いんきょ・複数の小屋(部屋)と蔵からなります。
主屋に設けられた土間を一般に「にわ」といいます。
南北に、両端に大戸があり、通り抜けることができます。

南側の入口を入り、すぐ左に小さな部屋があります。ここは、四代佐七氏が写真の現像に使っていた暗室だったそうです。

かまどや井戸があり、
炊事や仕事場に使われた

奥の小部屋?には・・・



 食器類がいっぱい

 ゆとりのあるスペースが、いいですね

見上げると・・・
日本の伝統建築
屋根を支える豪快な梁組み!
かまどの煙を外に出すための
煙出し、明かり取りの窓も設けられています





内田佐七家の建物面積は、全部で約270坪あります。
今日は、主屋の左側の「にわ」を記載しましたが、次回から各部屋の「見どころ」などを載せていきます。






2008-09-06

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(1)

尾州廻船とは、伊勢湾の知多半島を拠点に江戸から明治にかけて活躍した商船団です。尾州廻船の中でも知多半島南部を拠点とした船を内海船(うつみぶね)と呼びます。

南知多町内海の内海川南側の一角は、江戸時代に内海船で栄えた船主たちの家が密集していたところで、ここに、内海を代表する廻船主の内田佐七家があります。

案内板があります
【大門】
門をあけると、
大きな屋敷があらわれる


【主屋】

右側に座敷・南庭があります
主屋・おでいの前の木の付近に
昔、趣のある庭があったそうですが・・・
ちょっと、さびしいですね~

左手が・・・【座敷】

右半分は・・・【南庭】


       
 今も、当時の面影を残している、
    
   見どころいっぱいの内田佐七家をご覧くださいね!


写真をクリックすると拡大で見れますよ!


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