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00022009

2008-09-28

[東海] 常滑の"守護猫” 愛称が決まる!

名鉄常滑駅から東へ徒歩で数分、交差点・「陶磁器会館西」の右前方のよう壁に『巨大モザイク壁画』があります。、ここの通りは、公募で愛称が決まった『とこなめ招き猫通り』で、この通りの“"守護猫”として親しまれてきた巨大招き猫の愛称が・・・・・・・・
今回、よう壁の上に設置されている幅6・3メートル、高さ3・8メートルの巨大招き猫の愛称を募集したところ、1404点の応募があり、5点の候補作から“とこにゃん”に決まりました。

巨大モザイク壁画

ずらりと並んだ招き猫






案内板

とこなめ招き猫通り

今まで、愛称がなかったんだって・・・
今回、決まってよかった
\(^o^)/

僕“とこにゃん”です。よろしくね!!

2008-09-27

[東海] 内海で見つけた“あごなし地蔵さま”!

前回のブログで紹介した「尾州廻船内海船船主内田佐七家」の駐車場のすぐそばに、この看板があります。階段を上がったところの右側に、慈光寺(開山1539年)の大手門があります。左に入ると、すぐに、"お地蔵さま”がいます。
この“お地蔵さま”は、1850年(嘉永3年)に内田佐七家の船頭豊吉が隠岐から持ち帰った“あごなし地蔵さま”で、歯痛が治るという霊験あらたな“お地蔵さま”です。ご本尊は、隠岐にあります。出雲のひとたちは、歯痛を病むと”あごなし地蔵さま”にお祈りし、治ったら梨を川や海に流します。梨は、汐の流れで隠岐まで運ばれていくそうです。
日本中に、いろいろな名前の“お地蔵さま”があるようですが・・・・こんな変わった名前のお地蔵さまも・・・・「おしろい地蔵さま」 「あんこ地蔵さま」 「塩地蔵さま」 「咳止め地蔵さま」 「子育て地蔵さま」など。

みなさんのお近くいる“お地蔵さま”は、どんな“お地蔵さま”がいるか探してみてはいかがでしょうか。

2008-09-24

[東海] 唐人お吉は、ふるさと内海に帰って来ていた!!

知多半島、南知多町内海(うつみ)に"江戸時代を探しに”という散策コースがあり、その中に、「唐人お吉の像」「お吉出生地跡」もあります。このブログで5月14日に載せた、「唐人お吉の像」(現「白砂の湯」玄関前)から徒歩で数分のところに「お吉出生地跡」があります。
案内板に・・・お吉の生涯は、大半を下田で終始したが、28歳の時、甥の勘蔵を連れて、一時内海に帰っている。幼き日楽しく遊んだ浜の白砂青松を感慨深く眺めたであろう。・・・・と書かれている。
お吉が、ふるさと内海に帰って来ていたのです・・・・驚きですね!!
その後、お吉は下田に戻って行った・・・なにがあったのでしょうか?
「唐人お吉の像」
「お吉出生地跡」
そばで、可憐に咲いている「浜木綿」(はまゆう)
思わず・・パチリ♪

2008-09-22

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(10)

【弁財船】(べざいせん)
弁財船は、江戸時代を代表する和船で、18世紀以降は、日本全国で長距離航海に活躍しました。太い船首財・水押(ミヨシ)と欄干(ランカン)状の垣立(カキタツ)、反り上がった船尾、大きい(カジ)などに特徴をもつが、時代や航海する地域によって多少の違いがあったようです。米を1000石以上積める大型船も造られたことから「千石船」ともいわれます。


座敷の主庭のそばにある土蔵・・・その中には~~

「浮き桶」・「ろくろ」・「せみ」など
・・・ちょっぴり寂しい展示ですね


「弁財船」(模型)
参考に!

「廻船問屋瀧田家」の
「弁財船」(模型)

【尾州廻船 内海船船主 内田佐七家】の一般公開日は、毎月第3日曜日(10:00~15:00)です。

    すばらしい、屋敷の景観を見てください!!(写真をクリックしてね)      




この秋 観光ボランティアガイドが案内する・・・・この内田家をメインとした・・
『江戸時代を探しに』コースに、お出かけになっては、いかがでしょうか♪♪


    みなみちたボランティアガイド事務局(南知多町観光案内所内)
     電話 0569-62-3100 FAX 0569-62-3520

2008-09-20

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(9)

【戎講(えびすこう)】
内海とその周辺の船主たちは、戎講という組合を結成していました。戎講の始まりは明確ではありませんが、19世紀初頭にはある程度整備された組織があり、1870年代末まで活動していました。小野浦(美浜町)から大井・日間賀(南知多町)まで船主が所属し、最盛期には約100艘の船が加入していました。戎講では毎年7月20日に船主や船頭が出席する会合を開き、組合に所属している船やその乗組員に対する統制策や各地の商人と円滑に取引する方策を相談しました。

【いんきょ】
階段を上がると、二階・・・
奥の床の間に、鷹が描かれた掛け軸があります。

隅の方に、蓄音機
少し離れて・・・
レコードケース

誰かの愛用品だったのでしょうね。

次回(最終回)、「弁財船(べざいせん)」・「船道具」に続きます。

2008-09-19

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(8)

【内田佐七家の廻船経営】
内田佐七家の船は、商売も行いました。買い取った積荷を運送先で売却する「買積」という方法で大きな利益をあげました。荷物を運んで運賃を得る「運賃積」も併用しました。瀬戸内や上方では、米や塩・畳表など、江戸やその周辺では、魚を原料とする肥料(干鰯・〆粕)や大豆・小麦などを積み、東西を往復しました。

【内海船の航海】
【船乗たちの信仰】




【主要港の図】


【船額】
船額は、その船の名前を書いた「船名額」と縁起の良い言葉を書いた、「伊達額」とがあります。「船名額」は船内に、「伊達額」は、積荷に覆いかぶせた苫屋根の前に掲げました。また、船名板は、船尾につけました。

古文書・金刀比羅宮祈祷札・船用ランプ


【古文書】
一金拾両也・・・・金比羅大権現様
・・・・・御寄附・・???


写真をクリックしてみてね!

次回、【戎講】【いんきょ二階】に続きます。

2008-09-18

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(7)

内田佐七家は、幕末期には10艘近くの船を所有し、矢野(三重県津市)や四日市(三重県)に出店をもつ大船主に成長しました。明治時代に入り、鉄道の登場、経済構造の変化などにより廻船経営が難しくなり、19世紀末には廻船業から撤退しました。
主屋を出て、左前方に
土蔵があります。
非公開

右側は、二階建ての
いんきょです。


いんきょの入り口を
覗いてみると・・・



奥に、古そうな看板や
スキー板が見えます。

4代目内田佐七は、内海町長をつとめる一方、サンドスキーを成功させ、銀行の開設に寄与し、内海自動車合資会社を創設して観光開発に力を注ぐなど、内海の行政・経済に大きな影響力をもちました。
『東端郵便取扱所』(説明)と
スキー板・・・4代目佐七氏が使用したのかな

『南知多遊覧』『南知多の観光開発』(説明)
桶・看板(住田屋肥料商店)・焼印・台ばかり など。
内田佐七家の屋号は「住田屋」、商号は二つの山形の下にサがあるイリヤマサです。

『南知多の観光開発』
 1918年(大正7)4代内田佐七氏は、内海自動車合資会社(知多バス)を創設しました。開業当時は、アメリカ産5人乗り自動車2台、武豊駅・内海間1日3往復、所要時間約45分でした。あわせて、内海の細かい砂を生かしたサンドスキー場や鉱泉を開発しました。観光絵葉書を発行するなど、PRも積極的に行い、観光客を誘致しました。

壁に貼られていた新聞です。
明治15年12月23日発行・・・今から、116年前!
クリックしてみると・・・“時代を感じる新聞ですよ”



次回、「内海船の航海」・(船乗たちの信仰」に続きます。

2008-09-17

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(6)

主屋とは、別に別棟(主屋の北側)で【いんきょ】が建てられました。老夫婦のための建物です。二階建てで、二階には床の間のある座敷もあります。一階は、1874年(明治7)に「東端(ひがしはし)郵便取扱所」が開設されました。取扱役(現在でいう局長)は、三代目内田佐七氏でした。

次回、「いんきょ」に続きます。


2008-09-15

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(5)

この屋敷は、座敷(「上の間」・「次の間」)南側に主庭および「茶の間」に面する北側の小庭があります。主庭は、広縁先に張り出した露台を中心に構成され、端正な手水(ちょうず)と石燈籠とが主景をなしています。これとは対照的に、北側の小庭は、往時を偲べるつくばい飛び石があります。

座敷にある広縁先から庭を望む!
座敷の部屋に上がるための草履石(ぞうりいし)があります。鞍馬石(くらまいし)と根府川石(ねぶかわいし)で津藩の藤堂家からおくられたものだそうです


当時、露台からも中秋の名月を眺めていたのでしょうねぇ~・・・風流!!

外との境の垣根は、網代(あじろ)が使われていて、
斜め、縦、横に杉皮で編まれています・


小振りながらも、
趣のあるお庭ですね!

純日本的で、格式のあるすばらしいお庭です!!

2008-09-13

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(4)

『おかって』の奥に、『なんど』があります。ここは、家族の寝所になっていたそうです。


二階に上がる階段・・

多数の引出しが付いた
箱階段・・・二階へ上がれません。

百年前の麻の蚊帳・・・豪華・年代を感じる~

襖(ふすま)に四代目佐七氏
の書が張られています。

『なんど』から

廊下を通っていくと『茶の間』『座敷』があります。

時代劇に出てくる行燈(あんどん)みたいですね。

『茶の間』                                                 
最初に目に入ったのが ・・・・この掛け軸で、

なんと、「富士山」」・・横山大観作だって!掛け軸の富士山も
ステキですね。

この部屋の下地窓や竹の格子窓、煤竹の棹縁天井なども見どころです。

『座敷』は「次の間」・「上の間」が東西に並び、その南北に広縁があり、南北隅には露台、北西には『茶の間』、北東隅には「奥のこま」と雪隠(せっちん・便所)が続きます。『座敷』はこの屋敷で最も格式の高い建物で、内海船の船主の組合「戎講」の寄り合いや、冠婚葬祭など、特殊な場合に使用されたそうです。
「次の間」
蚊帳が張られて
行燈・枕・うちわもあります・・・・小さなも、年代もの

奥に「上の間」が見えますね。

「上の間」には、床の間・床脇・付書院からなる座敷飾が設けられ、床脇には琵琶を飾る「琵琶棚」があります。
天井板は、木目の美しい屋久杉が使われ、また「上の間」・「次の間」境の欄間は、同様に木目の美しい板の引き違いになっています。

 ここの屋久杉で、家が一軒建つとか・・・すげぇ~

「奥のこま」

「こま」とは、部屋のことです。


写真をクリックすると拡大で見れますよ


次回、「南北の庭」に続きます。

2008-09-11

[東海] 『メディカルフィッシュ』の足湯って知ってますか?

日帰り天然温泉、テルメウツミ白砂の湯に行って来ました。千鳥ヶ浜が、目の前にあり、雄大な伊勢湾を眺めながら入浴できる「海の温泉」です。
4Fの「展望デッキ」から伊勢湾の絶景が一望できます
イベントコーナーでは、・・・・『メディカルフィッシュ』の足湯・・・・
『メディカルフィッシュ』とは?
学名をガラ・ルファといい、「こい」「どじょう」の仲間、37℃程度の高い水温でも生息でき、ヒトの古い角質を食べる習性がある魚で、お肌ツルツル、皮膚病の治療に効果があるといわれています。
テレビで紹介していた『メディカルフィッシュ』の足湯を初めて体験しました。
足を入れると、寄ってくる、寄ってくる。大きさは,めだかぐらいかな?最初は、くすぐったいけど、慣れると意外と心地よい・・・角質を食べているのだなぁ~(笑)終わった後、カカトや足の裏がツルツル・・・・効果があったようです。5分やったが、ちょっと物足りない感じがしました。

ガラ・ルファを飼育して、毎日『メディカルフィッシュ』の足湯ができたらなぁ~!!

2008-09-09

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(3)

 


内田佐七家の中では、所々に、このような【説明板】がかかっています。

【内田佐七家】内田佐七家は、幕末期から明治初年に・・・・・・
【屋敷の変遷】1818年(文政1)の独立当時、・・・・

写真をクリックすると拡大で見れますよ

主屋の右側は、手前から『だいどこ』・『おでい』、中ほどに『中の間』・『仏間、神屋』、奥は『おかって』・『なんど』になっていて、さらに、なんどから廊下を通っていくと『茶の間』・『座敷・・次の間・上の間』があります。
『だいどこ』
居り間(おりま)ともいい、土間からの上がり口で、家族の居間でもあり、『おでい』の前室としての機能も持っています。神棚もあります。手前に『なかのま』が見えます。

『おでい』
『だいどこ』の奥、神屋と仏間の前にあり、主人の居間や接客のために用いられました。床の間が設けられ、主屋では最も格の高い座敷となっています。


『なかのま』

右側が・・・『だいどこ』
奥が・・・・・『仏間・神屋』
左側が・・・『おかって』

『仏間・神屋』
仏間と同等の神屋を東西に並べ、神棚には、左から金比羅宮・多賀大社・伊勢神宮・熱田神宮・秋葉神社が祀られています。航海安全に対する信仰の厚さが感じられます。

備え付けの引出し
『おかって』

  広いなあ~


       

     次回、『なんど』→『茶の間』→『次の間・上の間』に続きます。
     
【100年前の蚊帳】・【横山大観の掛け軸】も登場しますよ♪

2008-09-08

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(2)

内田佐七家の家屋は、慶応2年(1866)から明治2年'1869)頃に建築されたと推定され、現存する廻船主の家屋の中では大規模なもので、屋敷構えは、大型で廻船主の風格を備え、建物は、庄屋格の造りといえます。主屋(おもや)は、町屋造りで、屋根は切妻、土間上部の屋根には煙出しの小屋根が付いており、座敷・いんきょ・複数の小屋(部屋)と蔵からなります。
主屋に設けられた土間を一般に「にわ」といいます。
南北に、両端に大戸があり、通り抜けることができます。

南側の入口を入り、すぐ左に小さな部屋があります。ここは、四代佐七氏が写真の現像に使っていた暗室だったそうです。

かまどや井戸があり、
炊事や仕事場に使われた

奥の小部屋?には・・・



 食器類がいっぱい

 ゆとりのあるスペースが、いいですね

見上げると・・・
日本の伝統建築
屋根を支える豪快な梁組み!
かまどの煙を外に出すための
煙出し、明かり取りの窓も設けられています





内田佐七家の建物面積は、全部で約270坪あります。
今日は、主屋の左側の「にわ」を記載しましたが、次回から各部屋の「見どころ」などを載せていきます。






2008-09-06

[南知多・内海船船主 内田佐七家] 尾州廻船 内海船船主 内田佐七家!(1)

尾州廻船とは、伊勢湾の知多半島を拠点に江戸から明治にかけて活躍した商船団です。尾州廻船の中でも知多半島南部を拠点とした船を内海船(うつみぶね)と呼びます。

南知多町内海の内海川南側の一角は、江戸時代に内海船で栄えた船主たちの家が密集していたところで、ここに、内海を代表する廻船主の内田佐七家があります。

案内板があります
【大門】
門をあけると、
大きな屋敷があらわれる


【主屋】

右側に座敷・南庭があります
主屋・おでいの前の木の付近に
昔、趣のある庭があったそうですが・・・
ちょっと、さびしいですね~

左手が・・・【座敷】

右半分は・・・【南庭】


       
 今も、当時の面影を残している、
    
   見どころいっぱいの内田佐七家をご覧くださいね!


写真をクリックすると拡大で見れますよ!


2008-09-02

[東海] 日本三大新四国霊場とは?

【篠栗(ささぐり)四国霊場】(福岡県)
福岡市の中心部から東に12km、粕屋郡篠栗町に広がる景勝地に霊場があり全行程45kmで、全国から多くの参拝者が集まります。唐から帰国した弘法大師(空海)が修行した霊験新たな土地で、天保6(1835)年この地を訪れた尼僧慈忍が八十八ヶ所の創設発願したのが始まりといわれています。88ヶ寺と奥之院に番外3ヶ寺を合わせて92ヶ寺の札所があります。
【小豆島八十八ヶ所霊場】(香川県)
弘法大師御修行の霊跡であり、お遍路さんにとっては祈念と修練の道場で、貞亨3(1686)年八十八ヶ所が定まりました。全行程は、約150kmあります。寺院霊場30山岳霊場10余、堂庵50余に分かれ、「島四国」とよび親しまれ、島の人々の人情味が温かく包んでくれます。88ヶ所寺の本番霊場、番外、奥之院6ヶ寺を合わせて94ヶ寺の札所があります。
【知多四国霊場】(愛知県)
弘法大師が東国ご巡錫の途中に上陸し修行された聖地で、お大師様と共に歩む全行程は194kmあります。文化6(1809)年、妙楽寺(79番)住職亮山阿闍梨が、お大師様の夢により霊場開創を発願。四国に巡拝を重ねられ、岡戸半蔵・武田安兵衛両行者の協力を得て知多四国霊場を開かれました。88ヶ所寺の外に開山所3ヶ寺、番外7ヶ寺を合わせた98ヶ寺の札所があります。
私の住んでいる所にある「知多四国霊場・98ヶ所」でさえ、いまだ数ヶ所しか参拝できず、一度は、満願したいと思っていました

今回は、『日本三大新四国霊場のお砂踏み』ができて、「満願之證」がいただけるとあってセントレアに行ってきました。
大勢の参拝者に交じって、284寺のご本尊軸を拝み、お砂踏みをして満願を達成しました!

      念願かなった意義ある半日でした!!


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