2008-01-31

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

皮肉にも、シビルが部屋を出るとき、テデイは、もっと暖かいコートを着ていくようにすすめた。シビルはそれをきき入れなかった。彼女は日によって、人の言うことをきき入れないことがよくあり、その日がちょうどそういう日だったからである。その日は一日じゅう,とくに寒さがひどくなりはじめてからは、不安感となんともいえない胸騒ぎに悩まされて、それがたとえコートを着替えるわずかな時間でも部屋に余分にとどまっているのを、いたたまらなくさせたのだった。

2008-01-30

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

それに、もしそんなことをすれば、その動機を誤解されるかもしれない。彼女は夜と思われる暗闇のなかに消えてゆく男をやりすごして、倉庫群のかなた、彼女の切なる願いのかなたに向かって急いだ。しびるには、入り口がなかったのと同じように出口がないように思われた。建物のバリケードが、外部のものでありながら、内奥の不安と一体となった。外も内も、とじこめられ、遮られ、拘束され、わなにかけられている感じがした。

2008-01-29

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

しかし足を速めるにつれて、現実は、ぶかっこうな建物群と絶え間なく降りつづける雪というかたちで彼女に立ち向かってきた。そして、その雪を、彼女は手袋もつけない手で顔から払い、からだを左右に振ってふるい落とした。

2008-01-28

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

シビルは道路標識をさがした。なに一つ見当たらなかった。避難できそうな家をさがした。一軒の家すらなかった。ガソリン・スタンドは?全然見つからなかった。ドラッグストアは?それもなかった。ドラッグストア、化学実験室、長いほこりっぽい廊下、エレベーター。ここにはどれもない。ただこの通りだけが、このかすかな明かりのついた、人気のない、名もない通りが、みたこともないところにあるだけだった。

2008-01-27

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

「遅すぎた、遅すぎた」彼女はあれこれ思いをめぐらせた。実験室を出るのが遅すぎた.ガラスの割れる音を聞いたときにすぐ部屋を出て来れば、こんなことにならずにすんだかもしれなかった。遅すぎた。エレベーターも来るのが遅すぎた。

2008-01-26

[東北] 多重人格・シビルの記憶より

ガチャンとガラスの割れる音が彼女の頭を痙攣させた。部屋がぐるぐる回転した。彼女の鼻孔は、現実にそこにあるものが匂う以上に、はるかに強烈な化学物質の臭いで満たされた。その匂いは、長いこと忘れていたある遠いむかしの体験の記憶からにじみ出るように思われた。

2008-01-25

[東北] 友人から届いた小説

震災のあったあの年、秋も終わるころに水車の入っていたビルはようやく再建された。うれしいことに赤御影石のカウンターは壊れることなく、元に近い形で復活したのだった。新しくなった水車のボトルだな棚のすみに、いま写真が二葉そっと置かれている。小ゑんの夫・多田のもの、もう一葉は姉の小りんのものだ。

2008-01-24

[東北] 友人から届いた小説

あの上で踊ったはるなのバラのようだったピンクのインナーが目の前に浮かんでくる。元気をもらったカウンターだった。壊れずにいてほしい。は区域の白さまで凍り付きそうな空の下で,二人は水車を見つめていた。また水車を回したい、、、作り直そう、、、深呼吸をし、顔を上げると、小りんと小ゑんはtだのもとへ向かった。

2008-01-23

[東北] 友人から届いた小説

いったい何のために、どうして、神戸をこわさなければならなかったのだろう。抑えてもこみ上げてくる涙を拭きながら,わけのわからない怒りで棟がきりきりと痛かった。どうにか店の前へ着いてみると,建物はあった。だが、三階建ての建物の外観がおかしい。一見,以前と何も変わらないようだが、よく見ると、二階建てになっている。

2008-01-22

[東北] 友人から届いた小説

神戸の上空は冬雲が広がり、いまにも雪が落ちてきそうな天気である。コンビニのドアはまだ開けられず、アルバイトの大学生二人は閉じ込められたままだと言う。早く出してもらえるようにと願う。水車までの歩いて十分ほどの間に立ち並んでいたビルや店舗はほとんどが衝撃を受けている感じだった。なかでも薬局はかしいで隣のビルに倒れかかり、文具を扱う会社のビルは崩折れて道をふさいでいた。

2008-01-21

[東北] 友人から届いた小説

幸いなことに,マンション地下に造られた駐車場は無事だった。小ゑんは車に飛び乗ると、中央区の小りんのところへ向かって走り出した。途中、道路は陥没していたり、街路樹が倒れたりいたりでずいぶん回り道をしたらしい。泣きはらした目を拭き,鼻をすすり上げながら,多田の亡くなったことを告げて小ゑんはまた泣いた。もし、お姉も死んでいたら,そう思うと頭がおかしくなりそうだった、と青い顔をしてつづけた。

2008-01-20

[東北] 友人から届いた小説

恐怖心が募り、諤々と足が音を立てる。恐怖心と同時に胃が痛み出し、胃を抑えているうちに、小ゑんは鳩野先生を思い出した。急いで,鳩野医院へ向かう。マンションの二階から裏階段を降りて、夢中のうちに医院へ着くと、先生がそこにいた。医院もひどい状態で手が要るだろうに、小ゑんの無理な願いにも,先生は取るものもとりあえず多田のもとへ駆けくれた。

2008-01-19

[東北] 友人から届いた小説

小りんのいるマンション前に小ゑんが着いたのは、地震から二時間余り後の午前九時を少し回ったところだった。東灘区にある妹夫婦の住むマンションもひどい衝撃を受けたようだ。地震の揺れがおさまって、妹の小ゑんが夫の多田を呼ぶと、かすれたような声が返ってきた。

2008-01-18

[東北] 友人から届いた小説

それにしても、いつまでこうしているのだろう。二人で毛布を頭からかぶっているいる人や、体を寄せて座り込んでいるご夫婦へつい目がいってしまう。ばんやりしていると、後ろから肩を叩かれた。えっ?と振り向くと大前さんがいる。「これ、男物ですけど、はいてください」そう言いながら、黒い靴下を手渡してくれた。

2008-01-17

[東北] 友人から届いた小説

すると、すぐに男の人のぼやきが飛び込んできた。「ええやん。食いもんも飲みもんも山ほどあるやんから、、、、」小りんの声が大きすぎて耳障りだったのだろうか。でも、この大変なときになんてことを、そう思い振り返った。けれど、そこにいる人たちは、みな一様にうつむいていた。

2008-01-16

[東北] 友人から届いた小説

近づいてみると、東隣の彼女だった。お互い無事でよかった、ほんとうによかったと喜び合いながらも、(何だ、一人でさっさと下りていたのか)と思ってしまう。なにやら騒がしい。ここの一階はコンビニエンスストアになっていた。その入り口付近で、数人の男性が一塊になり、口々にわめいている。

2008-01-15

[東北] 友人から届いた小説

人の気配はまったくなかった。六階には三戸あり、それぞれに女性が一人暮らしのはずだ。鍵をかけていると、彼女たちのことが頭をかすめた。こんなときこそ声を掛け合わなくては、、、、チャイムをおしてみようか?、、、しかしその思いは余震の恐怖がたちまち打ち消した。

2008-01-14

[東北] 友人から届いた小説

「はい」とこたえたはずが、声にならなかった。咳き込んだ。一呼吸して、負けじと大声で返事をした。このビルの一階北側に住むオーナーで管理もされている大前さんだった。「どんな余震がくるかわかりません。このビル自体も危ないかもしれないのです。とにかく、急いで外に出てください」早口で言う。

2008-01-13

[東北] 友人から届いた小説

つい、昨夕、電話で話したばかりだった。母と一緒に笑いあった。その母の笑顔や声が浮かんでくる。おさないころのことが思い出される。あんなことがあり、こんなことがあり、しかられてはよく尻をぶたれたものだった。母の元へ帰れるだろうか。帰って、もう一度母に叱られてみたいー。

2008-01-12

[東北] 友人から届いた小説

どうして傾いているのかと目を凝らしてみる。と、思うまもなく、店舗は右に左に揺れながらへなへなと崩れていった。屋根が地上に崩れ落ちるまで見つめていた。外全体が真っ暗闇の底のように感じられ、見えるはずがない。なのに、柱が折れ、「仁平鮨」と書かれた看板がくにゃりくにゃりと畳み込まれていく。それが、不思議なくらいよく見えた。ひとたまりもない無惨な有様だった。

2008-01-11

[東北] 友人から届いた小説

立てかけ型の一面鏡が割れたようだ。バッターン,ガシャガシャと続く。照明は揺れはじめてすぐに切れたと思う。小りんは部屋の中の状態を目で見た記憶がない。まるでオーケストラのクライマックスのような、音の光景だけが残っている。どのくらい経ってからだろうか。真っ暗な部屋を、這うように進んだ。

2008-01-10

[東北] 友人から届いた小説

阪神大震災が起きたのは、平成七年一月十七日午前五時四十六分である。店まで歩いて十分の近さにひかれ,神戸市東灘区から中央区加納町のマンションに超してきたのは震災の三月ほどの前のことだった。当日の朝は店のことで気がかりなことがあったせいか、五時過ぎに目が覚めてしまった。カーテンの向こうはまだ真っ暗だ。暗がりの中ではよけいな心配も募るだろう、明かりをつけあれこれと考えていた。

2008-01-09

[東北] 友人から届いた小説

「イエーイ、やるわよう」掛け声とともに、彼女はカウンターに乗ったのである。え?なに?あっけにとられてぽかんと口をあけている間にも、はるなの体が踊りだした。小ゑんがあわててカウンターの上のものを片付ける。エレキギターを抱える格好をし、ロングへヤーを振り乱し、体を小刻みに揺らし,,,口ずさんでいるのはロックンロールのようだ。

2008-01-08

[東北] 友人から届いた小説

「じつはね、こんな名刺もあるの」と、おどけるようにしてはるなが出した名刺には《小説家の卵》とあった。今はエッセイやごく短い小説を書いているが、将来は長編小説を書くのが夢だという。何という巡り合わせだろう。お礼状の書き方を教えてほしいと頼む小りんに、まだそれほどではないの、と慎ましやかに答えながらも、彼女からOKでた。

2008-01-07

[東北] 友人から届いた小説

早々に地下一階から退散した。相田氏をタクシー乗り場で見送り、始発の電車を待つ間、小りんは店へ戻ることにした。歩きながら、思った。バツイチになって十年余り、クリスマスはいつも一人だった。イヴはいつも寂しい。しみじみ、かなさんがうらやましかった。「おこう」のように、もって生まれたさだめもいいかもしれない。まんいち、新しいさだめと出会えたらそれもよしとしよう。

2008-01-06

[東北] 友人から届いた小説

「また、酔っているのね」「カ〜ナ〜,そんなにい、怒るなあ」演歌「おこう」を歌うときのように、少し鼻にかかった声でお返しをする。なんとも、くすぐったい。加奈サンは咲きほこる不時の花を思わせた。彼女の動きにつれて不時の花がふさふさと揺らめく感じがするから不思議。四十歳を出たところだろうか。ぎんねず色の付け下げにえんじの帯がよく似合って、ほれぼれ眺めてしまう。

2008-01-05

[東北] 友人から届いた小説

記者あるいは物書きと呼ばれる人たちは、クールで物事をいつも冷ややかな眼で見つめ、冷静に振る舞う知的集団だと小りんは思っていた。だが、みんなで、わざとにぎやかにしているふうに見えなくもない。棋士へ息抜きと気分転換を、という気遣いからなのだろうか。また一方で、取り巻き連の目は棋士のわずかな動きもぴたぴたとついて動く。抜け目のない目とは、こういうものかと思わせる。

2008-01-04

[東北] 友人から届いた小説

もし棋士と握手だけでもできたら、わたしの鈍い頭も少しは良くなるかもしれない。とにかく,失礼のないよう、将棋の本を何冊か読み、お持ちすることになった。紹介してくれたのは、将棋好きの相田氏である。棋士との付き合いは十数年をこえているという。相田氏は熟年の太刀魚といった華奢な体つきをしていて、目端の利く方だ。言葉使いもきつく、毒舌家に近い。

2008-01-03

[東北] 友人から届いた小説

そのころ小りんは、生活に追われ現実があるだけで、家康公どころではなかった。男は埼玉県川越の地主のひとり息子で、実家は平屋のだだっ広い家のほかに幾棟か賃貸マンションも持っているらしい。男のなにもかにもがきらめいて、小りんに映る。男との未来想像するだけで、夢のような幸せを手に入れた気がした。そんな小りんの夢心地を、男はまた平気であおるのである。

2008-01-02

[東北] 友人から届いた小説

しかし上京して三年も立ったころのある日、テーブルを挟んで、男の向かい側に小りんは座っていたのである。誓いを忘れたわけではなかった。品性卑しくなさそうな男に見えたのだ。管理職で五十歳を出たばかりの、小りんより二十歳も年上のその男は、妻と二人の子供を持ちながら別居生活がすでに二十年ちかいという。

2008-01-01

[東北] 友人から届いた小説

彼女は年のころ三十代半ば、むっちりのぽっちゃり型、若かったころは可憐で、年とともにお色気むんむんなのだそうだ。その可愛い女に、胸でよよと泣かれでもしたのであろうか。おじ様は怒鳴り込んできたのである。彼は七十歳近いと思われた。酒をたしなみ、わいの女のために人肌脱ぐなど、とても達者らしい。