2008-02-29

[東北] 多重人格・シビルの記録より

それでもシビルの内部ではまだ、ホール博士の診療室で感じたものと同じ相対立する気持ちが揺れ動いていた。とうとう自分の神経症をなんとかできるのだという安堵感と、自分の病気は独特な不治の病だからどうにもできないのではないかという恐怖感が。ウイルバー博士は、シビルがこうした矛盾した気持ちをごまかそうとして、学校にいるときにひどく神経がいらだってあんまりふらふらするので何度も教室をでなければならなかった、と言ったことをおしゃべりするのを辛抱強くきいていた。

2008-02-28

[東北] 多重人格・シビルの記録より

どんな努力をしてみても、シビルには絶対にこの事実を変えることはできなかった。彼女の人生に置ける母親の偏在は、太陽がのぼったり沈んだりするのをとめることができないのと同じような、ほとんど自然の力だった。要するに、ホール博士はその生涯の現実をひっくり返したのだった。医師のその宣告には、そのほかにも理解を受け付けないところがあった。誰もー家族も、友だちも、シビルの父親でさえも、そしてもちろんシビルもーかって彼女の母親に何かをするように言ったことはなかった。

2008-02-27

[東北] 多重人格・シビルの記録より

しかし、医師が「彼女」と言ったことで、精神科医に会うというよろこびも影がうすくなった。女性?ききちがえたのではないかしら?これまで自分が知っていた医師はすべて男だった。「そう」とホール博士は言った、「ウイルバー博士は私が彼女のところへ送った患者の治療に実によく成功しています」

2008-02-26

[東北] 多重人格・シビルの記録より

「私がアポイントメントをとってあげましょう」と彼は事務的に言った、「そして、いつになるかはあなたがお母さんといっしょに木曜日においでになったときにお教えしましょう」「結構です。ありがとうございます、ドクター」とシビルは答えた。その紋切り型の、ぎこちない短い感謝のことばはうつろに響いた。それらのことばが、自分を圧倒しつつあった強烈な感情の衝撃を伝えることができなかったことを彼女は知っていた。

2008-02-25

[東北] 多重人格・シビルの記録より

「いまは学校に行っていないんですね?」と、医師はきいていた。「それじゃ、いまはなにをしているんですか?」「ジュニア・ハイスクールで教えています」と彼女は答えた。学校は卒業していなかったが、戦時中で教師が不足していたためにそれができたのであった。「そうですか」とホール博士は言った。「で、あなたの言うその神経症はーどういった性質のものですか?」その質問は彼女をぴくりとさせた。

2008-02-24

[東北] 多重人格・シビルの記録より

この機会を待っていたのに、それが現実のものとなったとき彼女は当惑した。ホール博士はどうやって自分の願いを見抜くことができたのか?彼が、口に出さない自分の願望を本能的に感じとったのではないかと考えるのは非現実的であった。世間が彼を名医と呼び、どうやらオマハ一の内科医と見なしていたということも十分な説明とはならなかった。

2008-02-23

[東北] 多重人格・シビルの記録より

シビルはホール博士に手をさしのべてほしかった.最初の訪問のあいだじゅう、彼女は、「しょうしたの?なにか、ぼくにしてあげられることがあるかね?」と彼がきいてくれることを願った。その3日後の2回目の訪問のとき、その願いはいっそう強まり、さらに強烈になった。しかし、母といっしょに混雑した待合室で何時間も待たされた−戦争のせいで医師は非常に少なかったのだーとき、彼女は勇気がなえるのを感じた。

2008-02-22

[東北] 多重人格・シビルの記録より

こうした精神状態にあるときに、シビルは、彼女の母親の主治医であるリン・トンプソン・ホール博士に会うための最初の旅行を行った。そのときの病人は腹がふくらむ病気にかかった母親の方で、シビルは患者の娘としてその診療室にやってきたのだった。しかし、ホール博士が母親を診察しているあいだに、シビルはふと自分のことをきいてみたいという願望をいだいた。

2008-02-21

[東北] 多重人格・シビルの記録より

解き放たれたようにあまりにも勢いよく思い出があふれてきたために、汽車がニューヨークのペンシルバニア駅にはいりこむまで、それはとどまることがなかった。そのころシビルは22歳だった。心の定まらぬまま、彼女は絶望のうちに彼女の両親ーウイラードおよびヘンリエッタ・ハッチー・ドッセットーと一緒に住んでいた。それは、1945年の夏のことだった。

2008-02-20

[東北] 多重人格・シビルの記録より

シビル・イザベル・ドーセットは、自分がまだ自分自身であるあいだにニューヨークにもどらなければならないと考えた。列車。この夜中のドラゴンはシビルをいすくませ、脅かし、乗り込むのをためらわせた。いままでは、それらはたいてい逃避を意味していた。しかし、この汽車は彼女を去らせようとするのではなく向かわせようとしていた。そして彼女は、ニューヨークに戻らなければならないのは化学実験室やほかの教科のためでなくウイルバー博士のためなのだということを知っていた。

2008-02-19

[東北] 多重人格・シビルの記録より

彼の言い方は、彼が彼女をよく知っているかのようにやさしく、親切な態度だった。しかし、シビルは、自分は前に一度も彼に会ったことはないということを知っていた。給仕は出て行った。盆の料理をながめながら、シビルは、あの倉庫地区の巨大なぶかっこうな建物群のなかで感じたものとちがう種類の恐怖感をおぼえた。

2008-02-18

[東北] 多重人格・シビルの記録より

シビルは部屋に戻った。ひざががくがくした。時間を失ったことを知って感じていた自責の念が化粧台の上にあるものを発見したことによって突然強められた。ジッパーホールだーは彼女をにらみつけ、赤いスカーフは彼女を脅迫し、手袋はまるで自分の力でいどうしたのだと彼女に言っているようだった。

2008-02-17

[東北] 多重人格・シビルの記録より

彼女はふるえながら化粧台のところまで歩いて行き、ジッパー・ホールだーをつかんだ。ジッパーを開けてみて、彼女は、5日前に自分が実験室で拾いあげた化学のノートがそのときのままはいっているのを発見した。それから、化粧台の隅のほうに前にみたこともないものがあった。フィラデルフィア百貨店で買った一組のパジャマの領収書である。

2008-02-16

[東北] 多重人格・シビルの記録より

車、すべったり 止ったり 道路凍る イブニング・ブリテン・フィラデルフィア 1958年1月7日 火曜日〈宿料を支払わなくちゃ.チェック・アウトしよう。チェック・インをしていない私がチェック・アウト?荷物もなしに、私、どうして泊まったんだろう?〉吹雪、一晩中つづく見込み〈一晩中?〉

2008-02-15

[東北] 多重人格・シビルの記録より

シビルはぬれたコートを脱いでそれを椅子の上に置き、ぬれた靴を脱ぎ捨てて、窓の側の緑色の椅子にぐったりと腰をおろした。かのじょはこの部屋が自分の部屋かどうかは知らなかったが、とにかく、あの女性の話しぶりからして、それがだれかほかの人の部屋であるとも思えなかった。

2008-02-14

[東北] 多重人格・シビルの記録より

シビルはハンドバッグを開き、鍵を取り出し、それをふるえる手にもち、行きをとめ、その鍵を鍵穴に差そうとしまた、引っ込め、そしてそれがほんとうにこのドアの鍵かどうかをいぶかった。はいるべきか?やめるべきか?彼女は鍵を鍵穴に差しこんだ。ぴったりだった。ドアはさっと開いた。シビルは1113号室の前に立っていた。

2008-02-13

[東北] 多重人格・シビルの記録より

2基のうちの1つのエレベーターのドアが左右にさっと開いた。シビルは気づかいと強い不安感をもってなかにはいって。乗客はほかにいなかった。「11階をお願いします」と彼女は言った。「この吹雪のなかを外出したんですか」とエレベーター・ボーイがたずねた。彼女はささやくように、「ええ」と言った。「11階です」と彼は声をかけた。

2008-02-12

[東北] 多重人格・シビルの記録より

はっきりしないが、だれかが彼女に声をかけたような気がした。フロントにいるフクロウのような胸の豊かな女だった。「もしもし、あのー」とその女性は大きな頭を上下させておじぎをしながら言っていた。彼女の眉毛はひときわ目立っていて、それはシビルが最初に感じたように、硬い羽毛でおおわれたフクロウの眉のように見えた。

2008-02-11

[東北] 多重人格・シビルの記録より

ホテルのボーイはかわっていた。フロントにいるフクロウのような顔の胸の豊かな女性もいままで見たことがなかった。それから、ホテルのなかに店を出しているパーキーズ写真店のウインドーの前をぶらぶらしながら、シビルは自分に鞭打って、記帳するか、それともなぞの鍵が案内してくれると思われる1113号室に行くか、そのどちらかに決めようと試みた。決めかねて、彼女はブロード・ストリートに飛び出した。

2008-02-10

[東北] 多重人格・シビルの記録より

それとも、勝手に部屋に行っていいものと、また自分がもっている鍵がこのホテルのものだと仮定して、1113号室に直進したものだろうか?彼女は円形広間への15段の階段を駆け上がった。それはフロントとエレベーターー彼女の恐怖のスキュラとカリュブデイスーの両方から逃れる安全な迂回路であった。

2008-02-09

[東北] 多重人格・シビルの記録より

それは三階まで菱形模様になっていて白い軒じゃばらをつけていた。ホテルの筋向かいには、男子校のローマンカトリック・ハイスクールとフィラデルフィア・モーニング・レコード紙の本社として使われている古びた建物があった。ブロードウッドの前には地下鉄の駅があった。その地下鉄は1927年にできたものだとだれかにきいたことがある。そして、ブロードウッドそのものはエルクス慈善保護会によって1923年に建てられたいう。それは彼女が産まれた年だった。妙な話。

2008-02-08

[東北] 多重人格・シビルの記録より

彼女は公園のなかにある二つのみかげ意思の記念碑を思い出してこうふんした。一つのほうには、兵士たちのレリーフがしてあって、つぎのような銘があったー《一国家に一憲法。奴隷を解放することによってわれわれはその自由への解放を保証する》。彼女はその戦争記念碑を写生したことたあった。

2008-02-07

[東北] 多重人格・シビルの記録より

どうしてこの乗客たち−三人の男たちとビーバー・ハットをかぶった一人の女ーはこんな夜に外出しているのだろう?でも、いまは夜なんだろうか?空一面の気がくるうほど名状しがたい中間的な灰色が、夜なのか朝なのかを判断する手がかりを排除していた。彼女は今日が何日かも知らなかった。ほかの乗客にきいたりしたら、なんというバカだと思われるにちがいない!

2008-02-06

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

デラウエアはよく知っていた。彼女は一度ネコのカブリをそばにおいて、その川を印象派風に水彩で描いたことがあった。筆さばきをじっと見ていたカブリは、ときどき、シビルに自分のいることを思い出させるかのように両筆の柄をひっかいたっけ。道路標識が見え始めた。フロント・ストリート。キャローヒル・ストリート。スプリング・ガーデン。

2008-02-05

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

しかし、その招きに応じて檻のような囲いのなかに立ったとき、もてなしは拒絶に変わった。ウイルバーかかせの自宅の電話番号にかけるつもりで、長距離の申し込みをするために10セント銀貨を差し込み口に差し入れたのだが、なんということもない金属音が聞こえただけだった。電話は故障していた。

2008-02-04

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

いや、その必要はない。鍵も、部屋も、避難所も、隠れ家も、世界も存在せず、ただそこには女がいないというだけでなく、男たちの実体のない影法師が、自分をいつも脅かしていた黒と白のイメージを呼びさましつつ、雪のなかを往ったり来たりしている国が存在しているだけなのだ。

2008-02-03

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

一一一三号室の鍵が彼女を走らせるエンジンになり、彼女のパニックに火をつけるモーターとなったのだった。ところが、突如として、その鍵がパニックではなく、かなりの慰めを与えるものとなった。その鍵が、あるホテルの部屋のドアを開け、さむさからの避難所、安息所にみちびいてくれるとしたら。そこでなら少なくとも暖をとり、なにかを食べ、休息することができるだろう。

2008-02-02

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

この鍵はどうして自分のハンドバッグにはいっているのだろうか?どこからやてきたものなのか?明らかにそれはホテルの鍵だが、たいていホテルの鍵とちがってそれにはホテルの名も住所もなく、ここがなんという町かについての手がかりはなにもつかめなかった。

2008-02-01

[東北] 多重人格・シビルの記憶より  

たとえ一時的にでも自分を落ち着かせようとするかのように、シビルは街頭のところで足を止めた。そのかすかな明かりを頼りに、彼女はハンドバッグを開けて中身をくまなく点検した。社会保険証、健康保険証、運転免許証、コロンビア大学図書館閲覧証一—つ一つ自分のものであることを確かめて安堵した。