♪ 雪よ岩よわれらが宿り
俺たちゃ町には住めないからに
山よさよならごきげんよろしゅう
また来る時には笑ってくれ ♪ ♪
一昨日、火打山登山に行く為、登山口のある笹ヶ峰に向かっていると、道路脇にひっそりと建っている石碑を見た、以前からある事は解っていたんだが、はたして何の碑なんだろう、、、、と思いつつ今日に至り、よし帰りにじっくりと見ていこう、、、。


大人であれば誰でも一度や二度は口ずさんだ事のある有名な歌 「雪山賛歌」、 この歌が、妙高高原、笹ヶ峰に深くかかわりがある事は恥ずかしながら全く知らなかった、、、、( 汗 汗 汗 )。
この歌は大正末期から昭和の初期にかけ、毎年正月に、山とスキーを愛する京大生らがスキー合宿に集まった際、アメリカ民謡「オー、マイダーリン、クレメンタイン」の替え歌として歌ったのが始まりとされ、その後、京大の山岳部歌となり、後年、ダークダックスが歌って一躍有名に成りました。多くの世界的なアルピニストを輩出した京大山岳部の全ての部員は笹ヶ峰に集い、”雪山賛歌” を歌いついで来ました。元の歌詞には京大ヒュッテから見える山々を歌ったものもあるようです。これを記念してこの地に雪山賛歌の歌碑を建立しました。 = 案内板より =
雪山賛歌の出来るまで、、
大正15年1月現京都大学の山岳部が群馬県の鹿沢温泉でスキ-合宿された。合宿が終わって後に第1次南極観測隊の越冬隊長をされた西堀栄三郎氏、京大カラコルム遠征隊長となった四手井綱彦氏、アフガニスタン遠征隊を勤めた酒戸弥二郎氏、並びに東大スキ-部OBで後にチャチャヌプリ遠征隊長をされた渡辺漸の4名にてスキ-で新鹿沢へ下って宿泊されたが翌日天候が悪化し宿に閉じこめられた。 一行は、退屈まぎれに「山岳部の歌」を作ろうと言うことになり、曲をアメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」としこれに合わせて皆で上の句、下の句と持ち寄って作り上げたものであると言う。戦後京大山岳部員が当時の資料に記載されていたこの歌を寮歌に加え歌われ始めたのが急速に一般にも愛唱されるようになったが、作者不詳となっていたものを作詞の状況を知った、京大教授桑原武夫氏が作詞は西堀だと著作権の登録をされたもので、この印税は同山岳部の活動の大きな資金源となっていると言う。
第一次南極観測隊
昭和30年(1955)9月にブリュッセルで開かれたCSAGI第2回南極会議において、日本代表の長谷川万吉、永田武らは日本の南極観測参加の申し入れを正式に行った結果認められて、プリンスハラルド海岸における観測を要請された。
南極観測が国際的に承認されたことにより、早速、国内に種々の委員会が設置されて、準備に当たり又、観測隊員の人選も行われ、隊長には東大の永田武氏、副隊長には京大の西堀栄三郎氏が決まった。これらの準備を経て、昭和31年(1956)11月8日、我が国初の南極観測船「宗谷」(満載排水量4,600トン、エンジン4,800馬力)が観測隊員53名、乗組員77名、計130名を乗せて東京港、晴海埠頭を出港したのであった。途中、オーストラリアのフリーマントルに寄港、アフリカ大陸の南端、ケープタウンで観測船宗谷の随伴船として同航する東京水産大学(現、海洋大学)の海鷹丸と合流し、時化の南氷洋を越えて1957年1月30日に南極・オングル島に到着し、一帯を永田隊長が「昭和基地」と命名した。越冬隊員11人を残し、2月15日に帰国の途についた。
南極観測船 ”宗谷” はもともと観測船に建造された船ではなく南極海で厚い氷に閉ざされて動けなくなり、旧ソ連の砕氷船 ”オビ号” に救助された事があった、その後海上自衛隊が運航する、砕氷船 ”ふじ” ”しらせ” 2009年からは二代目 ”しらせ” が南極観測に参加している。
