2012-05-01

[hamさんの日本の歌心の歌] ♪ 東京の灯よいつまでも ♪

東京の灯よいつまでも(昭和39年)          作詞: 藤間 哲郎
                                                  作曲: 佐伯 としを
                                                     唄: 新川 二郎

 

     雨の外苑 夜霧の日比谷
      今もこの目に やさしく浮かぶ
       君はどうして いるだろか
        あゝ東京の灯よ いつまでも

 

     すぐに忘れる 昨日もあろう
      あすを夢みる 昨日もあろう
       若い心の アルバムに
        あゝ東京の灯よ いつまでも

 

     花の唇 涙の笑顔
      淡い別れに ことさら泣けた
       いとし羽田の あのロビー
        あゝ東京の灯よ いつまでも

 

 

NHKテレビから流れてきた懐かしい局だ、昭和39年、アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれた年、日本中がオリンピックに湧いていた。石川県羽咋郡出身の男が金沢ヘルスセンターで歌っていたところを当時の 村田英雄 にスカウトされ昭和37年キングレコードからデビューした 「新川二郎」。 昭和39年 東京の灯よいつまでも が空前の大ヒットとなり同年のNHK紅白歌合戦に出場している。当時横浜で昼間働いて夜は夜間高校へ通っていた私は学校の帰り鶴見線の国道駅から寮に帰る途中の裏通りの食堂、赤ちょうちん、などのテレビから良く流れていた。この歌を聞くと田舎と都会が入り混じり寂しくなり故郷を思い出したり、又元気が出たりもした、好きな曲だ、今でもこの歌を聞くと遠い昔を思い出す。

 

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2012-04-11

[hamさんの日本の歌心の歌] ♪ どこかで春が ♯

仕事でお客様を観光案内していて、越後一宮 居多神社 で ホー、ホヶキョ、ウグイスの鳴き声が、春だねー! ブログを見ると昨年は21日に初めてウグイスの鳴き声を聞いている、我が家の庭でも、町のあちこちで水仙が咲き誇っている、これからは、あちこちで綺麗な花が目に入るだろう、、、、

 

作詞:百田宗治、作曲:草川 信

 

 

どこかで春がうまれてる
どこかで水が流れ出す

どこかでひばりがないている
どこかで芽のでる音がする

山の三月  東風(こち)吹いて
どこかで春がうまれてる

 
 

 

昨年はアップした ♪ どこかで春が ♯ 削除されましたので又アップです、今回は「BS日本、こころの歌」でおなじみの音大出身、若手混声コーラスグループ、 フォレスタ (foresta) です。

 

 

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2012-03-30

[hamさんの日本の歌心の歌] 港町十三番地

仕事中、駅前で待機していると、車のNHKラジオから流れてきた 美空ひばりの 「港町十三番地」 思わずラジオのボリュームを上げて聞いた、、、、

作詞: 石本美由起

作曲: 上原げんと   歌: 美空ひばり

(一)
長い旅路の 航海終えて
船が港に 泊まる夜
海の苦労を グラスの酒に
みんな忘れる マドロス酒場
ああ港町 十三番地

 (三)
 船が着く日に 咲かせた花を
 船が出る夜 散らす風
 涙こらえて 乾杯すれば
 窓で泣いてる 三日月様よ
 ああ港町 十三番地

(二)
銀杏並木の 敷石道を
君と歩くも 久し振り
点るネオン さそわれながら
波止場通りを 左にまがりゃ
ああ港町 十三番地

 

この歌を聞いていると昔の船員時代を思い出す、歌詞を噛みしめて聞いていると、んー、船乗りの心をよく捉えているな、、、北海道の苫小牧に入港して、当時はちょっとした大きな歓楽街にはよく有った、キャバレーと呼ばれるところ、、バーをちょっと大きくした感じの店だった、、、、秋田市の港に入港した時に行ったキャバレー、さすが県庁所在地、大きな豪華な店だった、(タイガーという名前だったような気がするが、、、違ったかな、)さすがに秋田美人が多かった、、、山口県徳山市(今は合併で周南市に変わったようだが)の港に入り行った大きなキャバレー、私の席に付いたウエートレスの出身が偶然にも新潟県柏崎市と言う事で久し振りに新潟弁が通じ感激した記憶がある、ついつい飲み過ぎたね、、、、

 

この歌の「港町」とは京浜急行大師線の港町駅がある当たりと言われている、倉庫などが建ち並ぶところにコロンビアの本社があった、但しこの辺りは9番地であったが歌詞のゴロの良さから13番地になったと言われる、「銀杏並木の 敷石道を」は横浜の山下公園、「マドロス酒場」は横浜の馬車道あたりの酒場をイメージされたと言われている。
 

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2012-03-10

[hamさんの日本の歌心の歌] あれから1年、 ♪ 北国の春

誰もが経験した事の無い大地震、そして襲ってきた大津波、、荒れ狂った黒い大きな波が牙を剥けて迫ってくる、家も、人も、木も、自動車も、学校も、会社も、、、。 なにもかも呑みこんだ大津波、、

夕方からの勤務に備え自宅で支度をしていると、突然襲った大きな揺れ、テレビのスイッチを入れると興奮したアナウンサーが大地震を告げている、、、暫くで大津波の襲来が告げられ、次々襲って来る津波の模様が映し出された、映画でも見ているような光景に言葉を失った。そして福島の原発事故、あの悪夢のような出来事から1年に成ろうとしている、家を失い、親を、子供を、妻を、夫を、家族を失った多くの人の失望、悲しみははかりしれないだろう、そして今なお、先の見えない不自由な避難所生活を余儀なくされている人々、、関係者の懸命な努力で復旧、復興が少しづつ進みつつあるが、、、、被害に遭われた東北の人々に一日も早く本当の 「北国の春」 が来る事を願い、祈らずにはおれない、、、、、、

10数年前、仕事で取引先のメーカーの工場見学に誘って頂き、岩手県の千厩工場から陸前高田工場を見学した、夜は地元出身の歌手がオーナーであったと言われる、”キャピタルホテル1000” に宿泊したが、ホテルの窓から眺めた、あの美しい松原、山々は今はもう見られないんだろうか、美味しかった海鮮料理、今はもう食べれないんだろうか、、翌日、車で宮古工場のある宮古市まで海岸線を北上したが、あの綺麗な海岸線は今はどうなっているんだろうか、、、。これだけ科学の進んだ今の時代、それこそ原子力を使って、自然災害を完全に防げなくても、少しでも被害を軽減できる方法はないのかね、、、、

千 昌夫

♪ 北国の春 ♪

 

 

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2012-02-20

[hamさんの日本の歌心の歌] ♪ どこかで春が

昨日は「草木の芽が出始める」とされる24節気の一つの「雨水」、県内は強い寒気の影響で今冬最低気温を記録したところもあった、しかし日中は時々陽が差していた、今日は薄曇りだが、時々雲の切れ目から太陽がのぞく、、、この日差しにも何かしら春を感じられるような気がするが、、、、。

子供の頃は今の時期、連日の雪模様から解放されて、晴れた日の朝は気温こそは下がり寒いが雪原が氷り雪原を自由に歩く事が出来る、しみ渡り と言って、小学校までショートカットで一直線、普段の半分以下の時間で行ける、この時期の晴れた日の楽しみでもあった、勿論、帰りは気温も上り、凍結も融けてしまいどびって(ぬかるんで)ダメだが、、、大人は自分の家の田圃に穴を掘り、春になると田んぼに蒔く堆肥をソリで運んでいた、今思うと、一面真っ白な雪原によく自分の家の田圃の場所が解るなー、、、と感心するが、、、少しづつ春の足音が感じられる雪国の今日この頃である、、、、、。昨日、仕事中にラジオのスピーカーから流れた曲、、、

 

作詞 百田宗治

作曲 草川 信   ♪ どこかで春が

        どこかで「春」が生まれてる、
        どこかで水がながれ出す。 

        どこかでひばりがないている、
        どこかで芽の出る音がする。

        山の三月東風ふいて
        どこかで「春」が生まれてる。

 


草川 信(1893ー1948)

作曲家、草川 信(くさかわ しん)は、明治26年(1893)2月14日、長野県埴科郡松代町(現・長野市松代町)に生まれた。1913年に東京音楽学校(現、東京芸術大学の全身)に入学し、バイオリンとピアノを学びますが、そのときのピアノの師が、「靴が鳴る」や「雀の学校」の作曲者として知られる弘田龍太郎でした。その弘田との親交から、卒業後、東京で教員をしながら雑誌「赤い鳥」の童謡運動に参加し、1921年に「夕焼け小焼け」を作曲して、童謡作曲家として一躍有名になります。その後も「ゆりかごのうた」や「どこかで春が」「緑のそよ風」「夕焼小焼け」「春のうた」など、流れるような曲に、親しみやすく印象深いメロディを多数生み出したが、幼少の頃の草川 信はとてつもない腕白坊主であったと言われている、昭和23年(1948)に亡くなりました。

 

百田宗治(1893-1955)

明治26年(1893)大阪市に生まれた。昭和30年(1955)に死去。大正、昭和の詩人、児童文学者で高等小学校卒業後、個人的にフランス語を学び、大正4年、はじめて百田宗治の名で詩集「最初の一人」を刊行した。


 

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2012-02-04

[hamさんの日本の歌心の歌]  ♪  ”花” ♯

立春とは言え北の国は例年にない大雪に見舞われている今日この頃、、南の国、沖縄では桜の花(緋寒桜、別名カンヒザクラ)が見頃だろう、そろそろ沖縄の桜前線が南下し始めているかな、、、、、(本土と違って沖縄では桜前線は南下する)、後2ヶ月もすればこちらでも桜の開花が告げられる頃だ、、、、、、。 仕事、遊びを含めて10回は沖縄を訪れているだろうか、沖縄を訪ねると大体足が向くところがある、南部の玉城村(現、南城市)にある ” 浜辺の茶屋 ” と言う喫茶店だ、(隣に有名人の家がある)一風変わった造りのここで潮風に吹かれ、海を眺めながらのコーヒーは格別だ、近くに住む後輩曰く、沖縄にはこの様な景色の良いところは幾らでもありますよ、、、 と言われて連れて行かれた軽食喫茶、少し海岸線から入るが木立の間から見える海の景色、思わずため息が出るほどの絶景だ、、ここのベランダのテーブルでコーヒーをすすっていた時にかかっていた 詞、曲 嘉納昌吉 ”  ” 、、、この歌を聞いていると身も心も洗われる、、、、、、

 

 
喜納 昌吉(きな しょうきち)
 
昭和23年(1948)6月10日、沖縄県コザ市(現、沖縄市)に11人兄弟の四男として生まれる、父親は沖縄民謡の第一人者喜納昌永、沖縄を代表する音楽家、政治家である。2004年、第20回参議院議員通常選挙比例区に民主党から出馬し初当選する、2010年7月、第22回参議院議員通常選挙比例区に民主党から出馬し、再選を目指すも落選。
 

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2012-01-23

[hamさんの日本の歌心の歌] 東京オリンピックと♪ オリンピック行進曲 ♭ 

昭和39年(1964)10月10日、晴天の国立霞ヶ丘競技場(一般的には国立競技場と呼ばれている)においてアジアでは初めての開催となる第18回夏季オリンピックの開会式が行われた。私は当時働いていた横浜にある会社の寮で他の寮生とテレビに釘付で見ていたが未だハッキリと脳裏に焼き付いている。第2次世界大戦で敗北し見事に復興を成し遂げた日本が再び国際社会の中心的な役割に復帰する足がかりとなる大会になった。その開会式の入場行進に使われたのが、作曲家、古関裕而さんの作った オリンピック行進曲だ、行進曲の軽快さに4年に一回行われる世界の祭典、オリンピックに相応しい上品さをかけ備えた素晴らしい曲だ。

 

防衛大学校の学生が持つ各国の国名を記したプラカードを先頭にオリンピック発祥の地、ギリシャを先頭に各国の役員、選手団が行進する、そしてメインスタンドの貴賓席にご臨席の昭和天皇に敬礼をして整然と行進する様は見ていて実に気持ちが良く感激をしたのを覚えている。最近の入場行進はお祭り、友好ムードが先行して緊張感に欠けるような気がするが、時代の流れだろうか、せめて4年に一度の世界のスポーツの祭典、オリンピックの入場行進はある程度の規律もあっても良いような気がするが、、、。

開会式の聖火の最終ランナーは、1945年昭和20年(1945)8月6日に広島近郊の現三次市で生まれた当時早稲田大学陸上部所属の19歳の坂井義則さんだ。原爆投下の日に広島市に程近い場所で誕生した。私と同輩の若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。

この大会で日本はレスリング、体操、柔道、ボクシング、女子バレーボール、重量挙げ、などでアメリカ、ソビエト連邦についで三番目に多い16個の金メダルを獲得した。

東京オリンピックの開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設費が投入された、又競技やこれらの施設を見る為の旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのカラ―テレビ購入など、色々な面で消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず地下鉄やモノレール、ホテル、首都高速道路など様々なインフラ整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した。

 

作曲家 古関裕而

作曲家 古関裕而さんは明治42年(1909)福島市の呉服店に生まれた、父親が音楽が好きで大正時代では未だ珍しかった蓄音器を買い、いつもレコードをかけていたという、幼いころから音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道をこころざした。山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出、クラシック畑からポピュラー畑に転身し、多数の軍歌、歌謡曲、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」、読売ジャイアンツの応援歌「闘魂こめて」、東京五輪のオリンピックマーチなど多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ和製スーザと呼ばれる、「フランチェスカの鐘」「長崎の鐘」「イヨマンテの夜」「あこがれの郵便馬車」「君の名は」「高原列車は行く」、、、、など多数の名曲を残している。誕生日を迎えて1週間足らずの平成元年(1989)8月18日死去。盛大な音楽葬が催され生前、早稲田大学、慶應義塾大学の応援歌を作曲していた古関のために、参列した両大学の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、古関の棺は左右からさしかけられた両校の校旗をくぐって進み多くの参列者に見送られた。福島市最初の名誉市民で、同地には1988年11月12日、「古関裕而記念館」も建てられている、しかし本人はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 2009年4月11日、生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディに古関メロディが採用された。在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディ用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。
 

 

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2012-01-14

[hamさんの日本の歌心の歌] 青春真っただ中♯夢呼ぶ海の歌声♭

 

青春時代真っただ中の頃、歌の訓練、カッタ―訓練、酒を飲んだ時、など等、必ずと言っても良いほど歌った歌の一つだ、本当の歌の題名が解らず「眉あげて」と言う事で先輩から後輩に歌い継がれた歌、2年ほど前、NHKのラジオから流れ、我に返って聞き入った「夢呼ぶ海の歌声」だ、、、、明治43年1月23日、逗子開成中学校の生徒12人が漕いで沖に出たボートが転覆、全員が死亡した事件を唄った曲に有名な「真白き富士の嶺」があるが原曲は「七里ヶ浜の哀歌」 とも呼ばれる。映画化された時の主題歌として歌われたのがこの曲だ、、、、。

 


 

作詩 清水みのる  作曲 福島正二  (昭和29年 白根一夫が歌った)

1 眉あげて 富士を仰ぐ  大空は 今日も真澄(ますみ)よ 

  流れ来る 汐の香りに  よみがえる 若き血潮よ 

  漕ぎゆけば オール持つ手に  ほほえみの 瞳かがやく

 

2 群(むれ)唄う かもめつれて  コバルトの 海をいざ行こう 

  夢呼ぶは 島のそよ風 ささやくは 金の小波(さざなみ)  

  君知るや オール持つ手に  虹立つよ 波のしぶきに

 

3 夕なぎの 海もはるか  むらさきに 霞む江ノ島 

  あこがれを 友と歌えば  手を振りて 招く人影  

  いつの日も オール持つ手に  若き日の 夢は躍るよ

 

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2012-01-04

[hamさんの日本の歌心の歌] ♪ ああ上野駅、

      ♪ ♯   ああ上野駅           作詞 関口義昭                                        
                                       作曲 荒井英一       
                                    唄 井沢八郎

どこかに故郷の 香りをのせて
入る列車の なつかしさ
上野は俺らの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった

就職列車に ゆられて着いた
遠いあの夜を 思いだす
上野は俺らの 心の駅だ
配達帰りの 自転車を
とめて聞いてる 国なまり

ホームの時計を 見つめていたら
母の笑顔に なってきた
上野は俺らの 心の駅だ
お店の仕事は 辛いけど
胸にゃでっかい 夢がある

 

東京オリンピックの開催、それに合わせて東海道新幹線の開業など、昭和30年代の後半は日本の高度成長期の出発点であった。当時の日本経済の根幹を支え、その労働力の基となったのが田舎から集団就職で都会に迎えられ「金の卵」ともてはやされた若者達である。当時の上野駅は東北、信越から上京する時の玄関口であり、「集団就職」や「出稼ぎ」を象徴する駅であった。歌手 井沢八郎の代表作の「ああ上野駅」が世に出たのが昭和39年である。東北出身者を中心に多くの人に愛され続け、心の励みとなり又人生の応援歌にもなっています。

年末、仕事で駅前で待機していると下りの特急列車が着くたびに大きなカバンを引いた、たくさんのお客さんが降りてくる、、、年が明けて3日4日、今度はUターンが始まった、駅前で待機していると家族に車で送ってもらい、 バイバイ、、! まるでちょっと買い物にでも行ってくるような風景だ、、、上りの特急に乗れば途中で新幹線に乗り換えて2時間ちょっとで東京駅に着いてしまう、、、、つくずく時代の流れを感じずにはおれなかったなー、、、、、、、、、。

昭和30年代、まだ田んぼには雪が残っている3月下旬、仲間と上野行きの夜行普通列車に乗った、私の場合は「銀か銅の卵」くらいだが、、、早朝に上野駅に降り立った、私の第二の人生はここから始まった。そして5ヶ月後のお盆に初めての帰省、今度は自分で働いたお金で列車も 急行 白山 お土産は 象印の魔法瓶 と呼ばれるもの(今で言う保温ポットだ)、意気揚々と駅に降りた。しかし又東京に帰る時の寂しさ、、家で両親に ”頑張るんだぞ” と励まされて、とぼとぼ砂利道を歩いて県道まで、そこから、おんぼろバスに揺られて駅へ、そして又蒸気機関車に引かれた急行 白山 で7時間かけて上野駅に降り立った、、、、、特急 はくたか から降りてくる人々を眺めて、つくずく50年、半世紀と言う時代の流れを感じた、。

 

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2011-11-30

[hamさんの日本の歌心の歌] 琵琶湖周航の歌

 
 
    琵琶湖周航の歌                   作詞   小口  太郎    
                       原曲   吉田  千秋

  われは湖の子  さすらいの
      旅にしあれば  しみじみと
     のぼる狭霧や  さざなみの
      志賀の都よ  いざさらば

  松は緑に  砂白き
      雄松が里の  乙女子は
     赤い椿の  森蔭に
      はかない恋に  泣くとかや

  浪のまにまに  漂えば
      赤い泊火  なつかしみ
     行方定めぬ  浪枕
      今日は今津か  長浜か

  瑠璃の花園  珊瑚の宮
      古い伝えの  竹生島
     仏の御手に  いだかれて
      ねむれ乙女子  やすらけく

  矢の根は  深く埋もれて
      夏草しげき  堀のあと
     古城にひとり  佇めば
      比良も伊吹も  夢のごと

  西国十番  長命寺
      汚れ(けがれの現世うつしよ)遠く去りて
     黄金の波に  いざ漕がん
      語れ我が友  熱き心

 
琵琶湖の美しい自然と、周航のロマンを情緒豊かに歌い上げたこの歌は、大正6年に滋賀県高島市今津町で生まれました。大正6年6月、第三高等学校(現京都大学)ボート部は学年末(当時7月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出て、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で、疲れをとっていました。その夜、クルーのひとりが「小口がこんな歌をつくった」と同行の漕友に披露し、彼らはその詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。そして三高の寮歌として、学生たちの愛唱歌として広まっていきました。
このころの歌集には、作詞作曲小口太郎、または三高ボート部となっていましたが、小口太郎の人物像すら不詳で、熱心な研究者の手で究明が始まり、曲は「ひつじぐさ」のメロディを借りたものとわかり、昭和54年には「作曲者は吉田千秋」と名前まで特定できましたが、身元は不明のまま、その後の調査で新潟県出身で現東京農業大学に学び、大正4年、雑誌「音楽界」8月号に「琵琶湖周航の歌」の原曲とされる「ひつじぐさ」を発表した。その後幾多の歌手がレコードに吹き込み、昭和46年夏、加藤登紀子の大ヒットへとつながっていきました。

 
 
小口太郎
 
明治30年生まれ。長野県岡谷市出身。第三高等学校(現京都大学)に学び、のち東京帝国大学(現東京大学)に進む。三高在学中の大正6年6月28日、ボートで琵琶湖周航の途中、今津の宿で周航の歌の詞を仲間に披露した。26歳で永眠。
 
吉田千秋

明治28年(1895)2月18日に新潟県中蒲原郡小鹿村大字大鹿(現・新潟市、旧新津市)に生まれた。父親は歴史・地理学者であった吉田東伍で、千秋は次男である。現東京農業大学に学びながら、音楽やローマ字関係の雑誌に投稿を始め、大正4年、雑誌「音楽界」8月号に「琵琶湖周航の歌」の原曲とされる「ひつじぐさ」を発表した。若くして肺結核を患い24歳で永眠。
 
 
 
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2011-11-10

[hamさんの日本の歌心の歌] ♪ 港町ブルース、

作詞 深津武志、 なかにし礼     港町ブルース     唄 森 進一

作曲 猪俣公章

背のびして見る 海峡を
今日も汽笛が 遠ざかる
あなたにあげた 夜をかえして
港 港 函館 通り雨

流す涙で 割る酒は
だました男の 味がする
あなたの影を ひきずりながら
港 宮古 釜石 気仙沼

出船 入船 別れ船
あなた乗せない 帰り船
うしろ姿も 他人のそら似
港 三崎 焼津に 御前崎

別れりゃ三月 待ちわびる
女心の やるせなさ
明日はいらない 今夜が欲しい
港 高知 高松 八幡浜

呼んでとどかぬ 人の名を
こぼれた酒と 指で書く
海に涙の ああ愚痴ばかり
港 別府 長崎 枕崎

女心の 残り火は
燃えて身をやく 桜島
ここは鹿児島 旅路の果てか
港 港町 ブルースよ


お客様をお供して駅構内に戻り、ぼんやりと駅前のアーケードを行く人を眺めていると車の中のラジオのスピーカーから流れて来た曲で我に帰った、、、、、森 進一の”港町ブルース”だ、あの潰れたような声、しぼり出すような声が好きだ、、、この歌を聞くと本社勤務も含め十年の船員生活を思い出す。

北アメリカ航路の材木船に乗船していた私は約1ヶ月半ぶりに日本に戻り広島港に着いたが4日ほど沖待ちと言う事で沖に停泊した。入港後の目の回るような忙しさも一段落し夕食を済ませ、サンパン(通船)で上陸してみた、宇品(うじな)と言う地名だったような気がするが、、、、。路面電車の走る、人気の少ない道路の歩道を行くあてもなく歩いていると一軒のスナックからかすかに洩れていた歌がこれ、森進一の「港町ブルース」だ、、、魔法にでもかかったかのように、このスナックのドアーを押して中に入った、、、、、、。

” いらっしゃいませ、どうぞお好きなところにお掛け下さい ” ママさんが一人カウンターの中に立っていた、他にお客さんは誰もいない、、カウンターの一番はじに掛けてビールを注文、先ずビールだ、、、。当時は未だカラオケなんてのはほとんど無い、有線放送だ、港町ブルース をリクエストすると電話で申し込んでくれる、すると順番に曲がかかると言う仕組みだ、ニッカウヰスキーの水割りを飲みながら 港町ブルースをしんみりと聞いているとママさんが お客さんはどう言う人ですか、、? と話しかけてきた、、 どう言う人って普通の人だわね、、 学校の先生、公務員、警察の人、、?  悪いが全部はずれだね、、! 言葉からして広島の人では無いような気がしますが、東京から出張に来ているんですか、、、  まー、本社は東京だし、出張と言えば出張だ、、、 私は上陸する時は特別な事情が無い限り、スーツにネクタイが基本だ、今までに自分から言わない限り職業が船員と言われた事は無い、、、、、。

 

この曲を聞くと30年以上たった今でも船で訪れた当時の港の事を、最近は昨日、今日の事さえ忘れるのに比較的鮮明に覚えているから不思議だ。 北海道、苫小牧・ 八戸・ 秋田・ 新潟・ 敦賀・ 舞鶴・ 宮津・ 戸畑・ 博多・ 長崎・ 鹿児島県、喜入・ 津久見・ 大分、佐賀関・ 新居浜・ 愛媛県、菊間・ 徳島・ 徳山・ 岩国・ 下松・ 広島・ 尾道・ 因島・ 倉敷市、水島・ 宇野・ 相生・ 大阪・ 堺・ 和歌山・ 名古屋・ 清水・ 横浜・ 東京・ 君津・ 鹿島・ 沖縄、那覇・ 石垣島・ それぞれの港に思い出がある、、、、、、、。

 

 

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2011-10-30

[hamさんの日本の歌心の歌] ”故郷” 高野辰之記念館

1  兎追ひし かの山
   小鮒(こぶな)釣りし かの川
   夢は今も めぐりて
   忘れがたき 故郷(ふるさと)

2  如何(いか)にいます 父母
   恙(つつが)なしや 友がき
   雨に風に つけても
   思ひ出(い)づる 故郷

3  志(こころざし)を はたして
   いつの日にか 帰らん
   山は靑き 故郷
   水は淸き 故郷

♪ 兎追ひし かの山 小鮒釣りし かの川、、、、、、、 誰もが口ずさんだ事のある 小学校唱歌 ”故郷” あまりにも有名なこの歌詞に出る かの山 とは昨日登った「斑尾山」、付近の「熊坂山」、「大平山」と言われ、又 かの川 とは街の中を流れる「斑川」と言われている、同じ小学校唱歌の有名な「春の小川」もこの川であると言われている。この曲の作詞者は長野県の豊田村(現、中野市)出身の高野辰之である、この美しいであろう故郷を訪ねてみたく、斑尾山を下山して旧、豊田村に向かった、、、、やはり想像していた通り、なだらかな山に囲まれ、棚田や畑が広がるのどかな山裾にあり、今もなお静かな美しいところであった、、、、、、、。

 
高野辰之は明治42年(1909)に文部省の小学校唱歌教科書編さん委員に委嘱され、この作詞委員として、「尋常小学唱歌」(全六冊)の作成に携わり、作曲者の岡野貞一とのコンビで今に残る名唱歌を世に出しました。これらの歌は文化庁実施の親子で歌いつごう日本の歌百選に5曲が選ばれ今なお人々に愛され歌い継がれています。
● 第一学年用 、、、 「日の丸の歌」
● 第二学年用 、、、 「紅葉、もみじ」
● 第三学年用 、、、 「春が来た」
● 第四学年用 、、、 「春の小川」
● 第六学年用 、、、 「故郷」 「朧月夜、おぼろつきよ」
高野辰之の歌からは、故郷を遠く離れて、なお断ちがたい懐旧の念を感じる事ができる、、、、、、。
 
 
文学博士 高野辰之(1876~1947)
明治9年(1876)長野県北部の永江村(現、中野市)の農家に生まれた辰之は豊かな自然の中、厳しい父のもとで農業の手伝いをするかたわら土蔵に隠れて本をむさぼり読むという向学心にあふれた少年であったと言われている。高等小学校を卒業後、母校の永田尋常小学校の代用教員を勤め3年後に長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に入学、26歳の時、上田万年文学博士(円地文子の父)をたよって上京、博士のもとで国語、国文学の研究に没頭し、やがて「文部省国語教科書編さん委員」に選ばれて国文学者としての地を固めていった。国が初めて発行した国定音楽教科書「尋常小学唱歌」を編さんする一方、「春が来た」、「紅葉」、「朧月夜」、などの唱歌、又全国の多くの小学校、中学校、高校、その他の学校などの校歌などを作詞した。明治後期からは「日本歌謡史」「江戸文学史」「日本演劇史」を次々と書きあげ、これらは高野辰之の三大著作として近代の国文学に大きな功績を残しました。大正14年に東京帝国大学から文学博士の学位を、昭和3年には帝国学士院賞を授与されています。昭和22年(1947)野沢温泉村の別荘「対雲山荘」で永眠、享年71歳。
 
 
 
 高野辰之記念館
高野辰之がかって学び、代用教員として教鞭をとった永江学校、永田尋常小学校の後身の永田小学校の跡地に高野辰之記念館が有ります。敷地内には小川が流れ高野辰之の銅像が建ち、館内には辰之の生涯を紹介したビデオが放映されたくさんの資料が展示されている。又付近には辰之の生家、高野家の菩提寺、唱歌「朧月夜」の歌詞に登場する鐘のあるお寺の真宝寺、「故郷」の かの川 の「斑川」が流れ、又歌碑が歩道に建てられています。
 
岡野辰之記念館の写真は   = こちら =

 

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2011-10-25

[hamさんの日本の歌心の歌] 里の秋

 

作詞
作曲
斎藤信夫
海沼  実      の秋
 


静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に 木(き)の実の 落ちる夜は
  ■ああ 母さんと ただ二人
  ■栗の実 煮てます いろりばた

 
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
  ■ああ 父さんの あの笑顔
  ■栗の実 食べては 思い出す

 
さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
  ■おお 父さんよ 御無事(ごぶじ)でと
  ■今夜も 母さんと 祈ります

 

10月も残すところ僅かになった、紅葉前線も駆け足で山を下り、里にも少しづつやって来たようだ、いつも通る道のイチョウの街路樹の葉が黄色く色づき、風に舞っていた、、、、、、、。

 

 

 1945年(昭和20年)12月のNHKラジオ番組「外地引揚同胞激励の午後」で童謡歌手、川田正子の新曲として全国に向けて放送された歌で、父親らの帰還を待ち焦がれる人々の心を瞬く間に捉えた歌。1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。平成19年(2007)「日本の歌百選」に選ばれた。


 

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2011-10-01

[hamさんの日本の歌心の歌] 雪山賛歌

 ♪  雪よ岩よわれらが宿り
     俺たちゃ町には住めないからに


    山よさよならごきげんよろしゅう
     また来る時には笑ってくれ  ♪ ♪

一昨日、火打山登山に行く為、登山口のある笹ヶ峰に向かっていると、道路脇にひっそりと建っている石碑を見た、以前からある事は解っていたんだが、はたして何の碑なんだろう、、、、と思いつつ今日に至り、よし帰りにじっくりと見ていこう、、、。

大人であれば誰でも一度や二度は口ずさんだ事のある有名な歌 「雪山賛歌」、 この歌が、妙高高原、笹ヶ峰に深くかかわりがある事は恥ずかしながら全く知らなかった、、、、( 汗   )。

この歌は大正末期から昭和の初期にかけ、毎年正月に、山とスキーを愛する京大生らがスキー合宿に集まった際、アメリカ民謡「オー、マイダーリン、クレメンタイン」の替え歌として歌ったのが始まりとされ、その後、京大の山岳部歌となり、後年、ダークダックスが歌って一躍有名に成りました。多くの世界的なアルピニストを輩出した京大山岳部の全ての部員は笹ヶ峰に集い、”雪山賛歌” を歌いついで来ました。元の歌詞には京大ヒュッテから見える山々を歌ったものもあるようです。これを記念してこの地に雪山賛歌の歌碑を建立しました。    = 案内板より =

雪山賛歌の出来るまで、、

大正15年1月現京都大学の山岳部が群馬県の鹿沢温泉でスキ-合宿された。合宿が終わって後に第1次南極観測隊の越冬隊長をされた西堀栄三郎氏、京大カラコルム遠征隊長となった四手井綱彦氏、アフガニスタン遠征隊を勤めた酒戸弥二郎氏、並びに東大スキ-部OBで後にチャチャヌプリ遠征隊長をされた渡辺漸の4名にてスキ-で新鹿沢へ下って宿泊されたが翌日天候が悪化し宿に閉じこめられた。 一行は、退屈まぎれに「山岳部の歌」を作ろうと言うことになり、曲をアメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」としこれに合わせて皆で上の句、下の句と持ち寄って作り上げたものであると言う。戦後京大山岳部員が当時の資料に記載されていたこの歌を寮歌に加え歌われ始めたのが急速に一般にも愛唱されるようになったが、作者不詳となっていたものを作詞の状況を知った、京大教授桑原武夫氏が作詞は西堀だと著作権の登録をされたもので、この印税は同山岳部の活動の大きな資金源となっていると言う。

 
第一次南極観測隊
昭和30年(1955)9月にブリュッセルで開かれたCSAGI第2回南極会議において、日本代表の長谷川万吉、永田武らは日本の南極観測参加の申し入れを正式に行った結果認められて、プリンスハラルド海岸における観測を要請された。
南極観測が国際的に承認されたことにより、早速、国内に種々の委員会が設置されて、準備に当たり又、観測隊員の人選も行われ、隊長には東大の永田武氏、副隊長には京大の西堀栄三郎氏が決まった。これらの準備を経て、昭和31年(1956)11月8日、我が国初の南極観測船「宗谷」(満載排水量4,600トン、エンジン4,800馬力)が観測隊員53名、乗組員77名、計130名を乗せて東京港、晴海埠頭を出港したのであった。途中、オーストラリアのフリーマントルに寄港、アフリカ大陸の南端、ケープタウンで観測船宗谷の随伴船として同航する東京水産大学(現、海洋大学)の海鷹丸と合流し、時化の南氷洋を越えて1957年1月30日に南極・オングル島に到着し、一帯を永田隊長が「昭和基地」と命名した。越冬隊員11人を残し、2月15日に帰国の途についた。

南極観測船 ”宗谷” はもともと観測船に建造された船ではなく南極海で厚い氷に閉ざされて動けなくなり、旧ソ連の砕氷船 ”オビ号” に救助された事があった、その後海上自衛隊が運航する、砕氷船 ”ふじ”  ”しらせ” 2009年からは二代目 ”しらせ” が南極観測に参加している。

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