2013-06-13

[郷土の偉人] 有恒高校創立者 増村朴斎

上越市板倉区針にある新潟県立有恒高等学校の前身の有恒学者の創立者で青少年教育に情熱を傾けた増村朴斎(写真)。現在の県立有恒高校の前身である私立有恒学舎は明治29年、私財を投じて当時29歳の増村朴斎が独力で創立した。かつては西の松下村塾(しょうかそんじゅく)東の有恒学舎とも呼ばれており増村朴斎の教えは現在の有恒高校にも受け継がれている。また新潟市出身の歌人、書家の会津八一が4年間在職し英語を教えた。明治29年沖ノ宮に増村朴斎が私立 「有恒学舎」 を創立した当時、新潟県下の中学校(現、高等学校)はわずか5校で上越地区には現、県立高田高等学校の一校のみだった。卒業生に、長嶺喜一(陸軍中将)、清水泰治(歴史学者)、北島忠治(元明治大学ラクビーブ監督)、佐川 清(佐川急便創設者)などがいる。

 

 

増村朴斎は明治29年に有恒学舎を創立し、明治36年にこの地に住宅を建てられ自らこちらに移り、公宅と称し教育に専念された教化の道場であった。先生没後「史跡増村朴斎公宅」として県文化財にも指定された当時の板倉町唯一の貴重な建造物であったが、昭和31年1月19日未明、不幸にして焼失してしまった。その後、公宅跡に有恒高校出身で佐川急便創設者の佐川 清氏などの寄付により 増村朴斎記念館(写真)が建設された。(月、火、は休館日で見学希望者は近くの総合庁舎の担当課に連絡するようになっている)

 

松下村塾(しょうかそんじゅく)

江戸時代末期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現山口県萩市)に松陰の叔父である玉木文之進が天保13年(1842)に設立し吉田松陰も学んでいる。

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2013-03-16

[郷土の偉人] 文武両道に秀でた名将、直江兼続(なおえかねつぐ)

 

 

春日山城本丸跡から春日山神社に下る途中、毘沙門堂、お花畑の下方に「直江山城守宅跡」と刻まれた石碑がたっている(写真) 。直江山城守とは直江兼続の事である、兼続は上杉謙信のあとを継いで春日山城主となった上杉景勝の家老としてその名が高い。豊臣秀吉をして「天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続など数人にすぎない」 と言わしめた言葉は有名である。徳川家康も兼続にはいちもくを置いていたと言う。アメリカのケネディー第35代大統領が日本の記者団の質問に「日本で一番尊敬する人物は上杉鷹山です」 と答えたと言う。上杉鷹山(うえすぎようざん)は財政難で苦しんでいた米沢藩(山形県米沢市)を藩政改革で藩財政を見事に再建した米沢藩十代目藩主である、その鷹山が師と仰いだのが上杉景勝の家老、直江兼続であった。平成21年に放送されたNHK大河ドラマ「天地人」の主人公である、俳優の妻夫木聡さんが兼続役を演じ高視聴率で見応えがあった、、、

 

直江兼続は永禄三年(1560)坂戸城(現、南魚沼市)主、長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として誕生した、幼名は与六。非凡な才能を見込まれ五歳で政景の子の景勝の小姓となり、その後、上杉謙信の養子となった景勝に従って春日山城に入った。兼続は天正九年(1581)上杉家の重臣、与板城(与板町)主、直江家を相続した。兼続二十二歳であり、妻のお船は二十五歳であった。豊臣秀吉が没すると、徳川家康は慶長五年(1600)会津の上杉景勝征伐の軍をおこした。西軍の石田三成に挙兵させて豊臣家を滅ぼし徳川政権を樹立するための誘導作戦であり家康の罠であった。九月十五日、関ヶ原の合戦で西軍が破れると、兼続は上杉家安泰のため政治工作をして米沢藩三十万石に留まらせたのである。兼続は民政にも優れた手腕を発揮した、新田開発、水利事業、商工業の振興、農作物の栽培奨励、鉱山の採掘、鉄砲の鋳造などに力を入れ富国強兵につとめた。一般庶民の衣料として大切であった青そ、漆、桑、楮(こうぞ、紙の原料)などの栽培を奨励した。又みずからも「四季農戒書」という農業の手引書を出版し農作物の増産を図った。又佐渡金山、高根(鳴海)金山(旧、岩船郡朝日村)、上田銀山(現、南魚沼市六日町)、の開発に力を注いだ。元和五年(1619)十二月江戸の鱗屋敷で60歳の生涯を閉じた、、、

 

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2013-03-05

[郷土の偉人] 上杉三郎景虎(うえすぎさぶろうかげとら)

上杉謙信の養子となった上杉景虎は天文23年(1554)、小田原城(神奈川県小田原市)主北条氏康の七男として誕生した。幼名は氏秀、三郎であった。武田信玄、今川氏真、北条氏康が甲駿相三国同盟を結んだ時に武田信玄の養子となり、武田三郎氏秀となった。ところが永禄10年(1567)、武田信玄が駿河、相模に侵攻して同盟が破れると小田原城に帰った。元亀元年(1570)上杉謙信と北条氏康が和睦(越相同盟)すると氏秀は人質として越後にやってきた、ときに氏秀17歳であった。その後謙信の幼名、「景虎」を賜り謙信の養子となり、上杉景勝の姉を妻に迎えて春日山城二の郭(にのくるわ)に住んだ。これを聞いた父の氏康は「御城中において御祝儀をとげらるる由、誠に千秋万歳の至り、愚老(氏康)において本望満足これに過ぎず候」と謙信のとった待遇を大変喜び、礼状を送っている。謙信は氏秀(景虎)に関東管領職を継がせるつもりで「上杉」の性と「景虎」の名前を与えたと言われている。 (写真は妙高市の勝福寺にある景虎の石像

 

 

天正6年(1578)3月13日、上杉謙信が49歳で死去すると御館(上越市五智一丁目)にたて篭もり、上杉景勝と戦った、「御館の乱」である。翌天正7年3月17日、御館は景勝軍の猛攻撃をうけて落城した。昭和39年御館跡を発掘したところ出土したたくさんの遺物の中に、鼈甲の櫛とかんざしがあったと言われる、戦火に消えた景虎の妻女たちの所持品であろう、、、。御館落城後、前関東管領上杉憲政と景虎の長男道満丸は和議仲裁のため春日山城へ向かう途中、四ッ屋砦(春日山城下)で景勝の兵に斬殺された、道満丸九歳である。敗北した景虎は兄北条氏政のいる小田原城へ逃亡しようと鮫ヶ尾城(現、妙高市)へたち寄った。ところが城主堀江宗親の謀反にあい、天正7年3月24日、もうこれ以上逃げ切れないと覚悟を決め腹を切った、ときに景虎二十六歳であった。鮫ヶ尾城跡から出土する焼け米は、この戦いの兵火にかかった米蔵のものである。 (写真は春日山城址にある上杉景虎屋敷跡)

 

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2013-02-25

[郷土の偉人] 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

上杉景勝は弘治元年(1555)11月27日、坂戸城(現、新潟県南魚沼市坂戸)城主長尾政景の二男として誕生した。母は上杉謙信の姉の仙桃院。少年期の名前は卯松、喜平次、顕景、少年期、後の直江兼続とともに雲洞庵で修業し、ここで読み書きはもとより、仏教や歴史、政治などの学問・教養を身に付け、さらに兵法・軍事も学んだ。この時の通天存達(つうてんそんたつ)、北高全祝(ほっこうぜんしゅく)の教えは後の景勝と兼続の精神形成に大きな影響を与えたとされる。永禄7年(1564)坂戸城主長尾政景が溺死し、その後、顕景は上杉謙信の養子となり天正3年(1575)名を景勝と改め、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に叙任された。天正6年3月13日上杉謙信が49歳の生涯を閉じると、養子の景勝と景虎が家督相続をめぐって争った、いわゆる「御館の乱」である。景勝はいち早く春日山城を占領し、御館の景虎と国内を二分して戦った。天正8年(1580)、この乱で勝利した景勝は謙信の遺領を継ぎ越後の大名となった。ところが同9年、新発田重家が御館の乱の恩賞に不満を持ち、織田信長の勧誘に応じて謀反を起こしたが重家を討伐した。天正17年には舟千余艘をもって佐渡に渡り、羽茂本間氏をやぶり越後・佐渡を支配下におさめた。

天正14年、兵士四千人を率いて上洛し豊臣秀吉に臣下の礼をとった。ついで参内し正親町天皇から天盃を賜り、従四位下、左近衛権少将に任ぜられた。16年にも上洛し、従三位参議、中将に任ぜられ、秀吉から豊臣、羽柴の姓と在京料一万石を賜った。 (写真は上杉景勝像、上杉神社蔵)

 

 

天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、上野国松井田城、武蔵国鉢形城、八王子城攻めで戦功をあげた。文禄元年(1592)、朝鮮出兵には兵士三千人を率いて海を渡り熊川城で諸軍を指揮し翌年に帰国した。同3年秀吉から伏見城惣構堀の普請を命ぜられ人夫四千人を連れて上洛し聚楽第で秀吉の饗応をうけた。慶長3年(1598)秀吉の命で会津百二十万石にうつり、徳川家康、前田利家、、毛利輝元、宇喜多秀家とともに五大老に名をつらねた。秀吉の遺言状に「秀頼を補佐してほしい、、、」とあるように秀吉は景勝に秀頼の成長を託した。

秀吉の死後、上洛し翌4年8月、会津に帰ると居城を始め領国内諸城の普請、道路、橋梁の整備、軍備の拡張を始めた。すると越後春日山城主、堀 秀治、出羽角館城主戸沢政盛らは「景勝に謀反の企てあり、、、」と徳川家康に密告した。家康は使者を会津に派遣するとともに、景勝の家老、直江兼続と親しい豊光寺の僧西笑承兌を通じて景勝の上洛を促した。家康は景勝に上洛と謝罪を要求したが景勝が応じようとしなかったので、豊臣政権に対する謀反であるとし、会津征伐を決意するに至った。6月18日伏見城を出発して江戸城に入りここで軍議を開いて会津に向かった。家康の会津征伐である。家康の目的は石田三成に挙兵させる事にあった。家康は小山(栃木県小山市)で軍議を開き会津攻めの策を立てた。これが世に言う有名な「小山評定」である。その最中に石田三成の挙兵を知り、会津の押さえとして結城秀康を残し、全軍を西上させた。9月15日家康は関ヶ原で三成を中心とする西軍を破り覇権を掌中に収めた。

一方、上杉家では10月1日、関ヶ原の合戦での西軍の敗北を知り、直江兼続は直ちに軍を撤退させた。会津若松城では和戦両論が論議されたが翌6年、景勝は家康の子息、結城秀康を頼って上洛、8月8日、家康に謁見して謝罪し、17日、米沢城三十万石に移封を命ぜられた。この時の上杉家の政治工作、情勢判断は実に素晴らしかった、ひとえに直江兼続の手腕によるものと言い継がれている。

慶長19年(1614)の大阪冬の陣、翌元和元年(1615)の大阪夏の陣では先鋒を承り、戦功をたてて家康、秀忠の信任をえた。元和9年3月20日、米沢城で69歳の生涯を閉じた。墓は上杉家御廟所(山形県米沢市御廟一丁目)と高野山(和歌山県伊都郡高野町高野山)にある。 (写真は春日山城址にある景勝屋敷跡)     =参考文献、花ヶ前盛明著、上杉謙信、直江兼続、など=

 

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2012-04-22

[郷土の偉人] 日本の詩人・歌人・評論家、相馬御風

童謡春よ来い   ♪は~るよ来い。は~やく来い…

日本初の流行歌カチューシャの唄   ♪カチューシャ~かわいい~や、別れ…

早稲田大学校歌都の西北」   ♪都のせいほぉ~く、早稲田ぁ~の…

 

など、誰でも一度は聞いたことのある名曲の作詞者が、糸魚川市が生んだ文人「相馬御風(そうまぎょふう)」です。 作詞家だけではなく、叙情歌人、詩人、小説家、随筆家、評論家と、文芸全般にわたって活躍した相馬御風の故郷を尋ねて来ました。 写真下は県指定史跡の相馬御風宅で往年の御風を偲ぶ事が出来る。 又市役所近くの糸魚川歴史民俗資料館(通称、相馬御風記念館)に相馬御風の関係資料を中心に、御風と親交のあった人々の作品や古書画などのコレクションを収蔵・展示しています。

 

 相馬御風(本名:昌治)は明治16年7月10日(1883)年、糸魚川市大町で生まれた。高田中学(現、新潟県立高田高校)を卒業後、明治35年早稲田大学に入学し、在学中、岩野泡鳴らと「東京純文社」を創設し、詩歌雑誌「白百合」を創刊、詩歌の革新を唱えた。1906年 早稲田大学を卒業すると「早稲田文学」の編集に参加し、野口雨情や三木露風らと「早稲田詩社」を設立、ロ語自由詩の推進役となった。大正5年3月、34歳のとき「還元録」を書き中央における文壇的名声や早稲田大学講師の社会的地位など一切を投げ捨てて故郷の糸魚川へ帰郷した。以来良寛の研究に没頭し、「大愚良寛」など良寛関係の著書21冊を出版し、今日の良寛ブームに先鞭をつけた。また「木陰会(こかげかい)」という短歌の会をつくり地方歌壇の振興に大きく寄与した。 「相馬御風随筆全集」全八巻のほか作詞を手がけた、「カチューシャの唄」や早稲田大学の校歌「都の西北」、童謡「春よ来い」などが今でも多くの人々に歌われている、又多くの県内外の小学校、中学校、高等学校、大学、の校歌の作詞をしている。 地元に伝わる奴奈川姫伝説を元に、糸魚川でヒスイ(翡翠)が産出するとの推測を示したことが、昭和13年(1938)に同地でのヒスイの発見につながった。

 

 

かりそめの 遠出なれども夕されば

旅のこころと なりにけるかも

 

御風が大正14年の冬、見附の町を訪れた折に詠んだもので糸魚川駅前、望海公園の一角に歌碑(写真)がある、、、。昭和25年(1950)5月7日脳溢血で倒れ翌8日死去、享年68歳、、、、、

 

 

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2012-04-03

[郷土の偉人] 実業家、政治家、 植木千次郎

植木千次郎(うえきせんじろう)は明治27年(1894)上越市下百々(しもどうどう)に生まれる(旧保倉地区)。若干23歳の独身の身で志を立てて織物製造業を独力で創業し更に幾つかの事業を経営するなど、又大実業家としてのみでなく経世の先達者としても優れた才能を発揮された。旧新道村の村会議員を務め又村長を務めた時、旧高田市が近村合併を提唱すると率先して七ヶ村合併の中心的な役割を果たした功績は大きい。現在の21万上越市の基礎をつくられたと言っても過言ではないだろう。高田公園の旧厚生南会館跡地付近の一角に植木千次郎翁顕影会によって胸像(写真)が建てられている。昭和42年(1967)73歳にて逝去。尚第二代上越市長 植木 公の実父にあたる。

  

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2012-01-09

[郷土の偉人] 官僚政治家 、荒井賢太郎

荒井賢太郎(1863-1938)は、大正時代、昭和時代の官僚政治家である、文久3年(1863)高田藩士荒井直静の長男として生まれる。高田の修道館に学び、明治13年(1880)新潟学校師範学科(現新潟大学教育学部)を卒業後、小学校で教鞭をとる。その後上京し、明治25年(1892)東京帝国大学法科(現東京大学法学部)に学び卒業後大蔵省に入省、大蔵省主計官、同参事官、主計局長などの要職を歴任し、1907年韓国に渡り、朝鮮総督府参与官、朝鮮総督府度支部(たくしぶ)長官を経て、1917年5月より勅撰貴族院議員となる。大正11年(1922)加藤友三郎内閣の時に、新潟県出身者としては最初の大臣として、農商務大臣に新任された。枢密院(すうみついん)副議長、行政裁判所長官、文官高等懲戒裁判所長官などの要職を歴任したが在職中の昭和13年(1938)1月29日76歳で死去した。  (写真は多磨霊園にある荒井家と荒井賢太郎の墓)

修道館
藩校「修道館」は高田藩主、榊原家の藩祖が文武の道を奨励し作った道場であり、多くの藩士がその遺風を継いで昼は武技、夜は学問に励んだ。明治5年(1872)学制が発布されると修道館の校舎や資産は小学校と洋学校(幕末・明治期、西洋の学問、語学を教えた学校)に譲り渡され、そして現在の大手町小学校および高田高等学校へと引き継がれていった。

朝鮮総督府度支部
明治43年(1910)10月1日、韓国併合にともない朝鮮総督府が設置されると、度支部が置かれた。度支部には庶務課・税関工事課の2課および司税局・司計局の2局が置かれた。

枢密院(すうみついん) 
天皇の諮問機関で憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。明治21年(1888)創設、昭和22年(1947)に廃止された。



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2011-07-30

[郷土の偉人] 高田藩剣道師範、倉地正久

高田藩剣道師範役、直心影流鹿島神伝16代 倉地正久(1827-1902)、

倉地正久は高田藩士、庄田貞則の門に入って、直心影流を学び、後に奥田貞行に従い、その技をきわめ、直心影流鹿島神伝16代となった。嘉永4年(1851)、演武場を高田本誓寺町(東本町4)に設け、弟子を教授した。明治になってからは、道場での教授の外、警察署、高田中学・師範学校等の師範役も務めた。明治42年(1909)、83歳で死す。

金谷山公園登り口、高田藩士の墓地の北側の墓地に倉地正久の記念碑(写真)があり、隣に倉地正久、倉地家の墓がある、弟子に室 孝次郎、笠松宗謙等がいる。

春日山神社境内に倉地正實の記念碑(写真)があるが倉地正久とは親子ではないかと推測します。

 

                              

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2011-05-30

[郷土の偉人] 明治の政治家、室孝次郎

室孝次郎(むろこうじろう)は天保10年(1839)9月14日上越市の高田本誓寺町(現、東本町4丁目)の呉服商、市郎右衛門の長男として生まれた。幼い頃、倉石洞窩(どうか)の門に入り、倉地正久に剣道を学び更に江戸に遊学する。慶応2年(1866)京都に上り勤王運動の志士と交わり翌3年再び京都に上り、正木小七郎と変名し勤王運動に入り、当時、村松藩では佐々耕庵などが勤王運動を行っていたが、室孝次郎、弟の貞倉は米沢、村松、両藩と組んで会津を攻めようと企てた。

明治元年(1868)戊辰戦争に加わり、官軍が高田に入るとこれに加わり御用掛をつとめ、戦いにも加わり、松ノ木砲台を攻め負傷した。官軍の西園寺公望に認められ、西園寺公望のヨーロッパ視察に同行する約束までしたと言う。

明治維新後、明治3年(1870)藩校修道館の助教授となり、同7年には高田病院(県立中央病院の前身)を設立、その後弥彦神社の宮司、第八大区長、高田中学校長(高田高等学校の前身)、西頸城郡長などを歴任する。

明治14年(1881)頚城自由党の結成に参加し、さらに上越立憲改進党を結成。同16年高田新聞を創立、同18年には信越鉄道敷設運動を起こす。

明治23年(1890)、第一回衆議院議員選挙に当選、五期12年間国会議員として活躍し、同34年には愛媛県知事となる。

明治36年(1903)6月21日65歳で死去、寺町の善導寺に葬られる。

 

室孝次郎の後輩同志がその功績をたたえ、これを後世に伝えるため、明治38年(1905)11月に記念碑を建立した。高田公園の博物館の北西側にある(写真上)、 (当初は善導寺に有った)。文字は当時の改進党首 大隈重信、文は報知新聞主筆 矢野文雄の手によるもの。

寺町の善導寺に室孝次郎の墓がある(写真)、

 

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2011-02-01

[郷土の偉人] 親鸞聖人の妻、恵信尼公

親鸞聖人の妻、恵信尼(ゑしんに)「1182-1269」の出自には諸説ある、京都の貴族「三善為教(為則)」の娘という説や、越後の豪族、現在の上越市板倉区にあった三善という豪族という説がある。
親鸞は承元元年(1207)2月、専修念仏停止により越後国府に遠流となった。親鸞が越後に流されてまもなく、親鸞35歳、恵信尼26,7歳の時結ばれたと伝えられている(京都で結ばれたと言う説もある)。恵信尼には越後に所領があり、流罪地、越後での生活はそれほど経済的に困窮することはなかったかとも考えられる。親鸞の流罪について、これまで北国、越後への配流と言う事で、厳しくも寂しく暗い生活を送られていた、と言う印象がより強く語られてきたきらいがありました。しかし最近になり親鸞の伯父、日野宗業(ひのむねなり)が越後権介(えちごごんすけ)の地位にあった事から、むしろ親鸞聖人は経済的にも文化的にも厚い保護を受けつつ思索を深めた、と言う説も唱えられています。恵信尼との結婚や生活もこうした背景によるものなのかもしれない、と推測します。
   
親鸞が越後に流されて5年後、その罪を許すという赦免の知らせが届くが、親鸞は都へ戻ろうとせず、それから3年間、越後の各地を念仏を広めるために歩きまわる。建保2年(1214)、親鸞42歳、恵信尼33歳で、一家は関東に移住する。この移住の理由もまた諸説あるが、おそらく親鸞の流罪勅免後、翌年に法然が没し、京都に戻る理由がなくなったこと、関東に法然の根本の弟子がいたこと、なかでも鎌倉時代に入り関東が新たな布教場所として注目されたことなどが上げられる。
門人は農民や下級武士、漁民や猟師等で、その多くは20代前後の血気盛んな若者が中心であったと考えられる。説法には恵信尼も加わり、親鸞の教えを体得したものと思われる。関東での20年余に及ぶ生活は「稲田草庵」「小島草庵」「大山草庵」など転々と所を移し、その中で子を産み育て、又門人に接した恵信尼にとっては、苦労の多いものであったでしょう。しかし、そうした中で親鸞の布教活動で、門人が増えて行く事は恵信尼にとっての喜びであったろう。

嘉禎元年(1235)親鸞聖人60歳の頃、親鸞一家は京都に戻る。その後、恵信尼は末娘の覚信尼を残し京都の親鸞の元を離れ、越後の板倉に生活の場を移す。板倉周辺には恵信尼の子である小黒女房、信蓮房、益方入道らが住んでいたことから、板倉への転居は主に生活面での経済的理由が考えられる。文永5年(1268)子や孫たちに看取られて87歳で亡くなったと言われています。恵信尼は87歳まで生きたが、その最後の地は「といたのまき」だと言われている。恵信尼が京都にいる娘の覚信尼へ書き送った消息の手紙10通が、大正10年(1921)、鷲尾享受によって京都西本願寺の宝庫から発見され、うち文久4年(1267)7月9日のものに「といのたまきより」と住所が記されてあった。「といのたまき」については、恵信尼廟所北東の町内長塚飛田とするのが通説である。上越市板倉区米増には、恵信尼廟所があり、恵信尼の墓といわれる五輪の塔がまつられている(写真右) 。


ゑしんの里記念館
ゑしんの里記念館は、親鸞聖人、恵信尼ゆかりの歴史資料や関連書物・研究書などを展示するゑしんミュージアム、地域の観光情報を広く紹介する観光情報コーナー、そのほかに特産品販売コーナー、多目的ホール、和室、食堂、芝生広場などが設けられており、板倉区の観光拠点施設として整備されました。

〒944-0135
新潟県上越市板倉区米増27-4
電話 0255-81-4541

開館時間 午前9時~午後9時
休館日  火曜日(祝日の場合はその翌日)
入館料  無料


                
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2011-01-15

[郷土の偉人] 儒学者,倉石典太(くらいしてんた)

儒学者,倉石典太は高田長門町(現上越市東本町2丁目)の商人、倉石甚五郎の五男として文化12年(1815)8月7日に生まれた。19歳の時江戸の安積艮斉(あさかこんさい)について経学を学び、その熟の「見山楼」(けんざんろう)の塾長と成り、又清水赤城(しみずせきじょう)について長沼流兵学を修め、後に高田に帰り長門町(現東本町2)に私塾「文武済美堂」を開いた。門人は1000人を超しその中に郵便の父と呼ばれた前島 密、戊辰戦争・自由民権運動・鉄道信越本線の敷設に活躍した室孝次郎など明治を拓いた人材を多く送りだした。高田藩主は士分を取り立て藩士の教育にもあたらせた、高田藩校修道館が設けられるとその教官に迎えた。高名な中国文学者倉石武四郎の祖父にあたる。明治9年(1876)3月9日没した。明治14年(1881)金谷山に(金谷山登り道、左側)栗本鋤雲による「倉石君碑」が建立された(写真) 


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2010-10-20

[郷土の偉人] 画家 東洋越陳人(とうようえっちんじん)

東洋越陳人(1836~1916) 
東洋越陳人、本名を服部郡平(はっとりぐんへい)といい、天保7年(1836)3月2日頸城郡野村(現・三和区野)の百姓服部三十郎の次男として生まれました。服部家は代々組頭を務める家柄で教育には特に熱心であった、子どものころから近くの寺子屋に通い、漢学に明るかったほか、絵を描くことが得意で神社の祭りで提灯に絵を描くなど、その才能は周囲の大人を驚かせたと言われ、大人たちは郡平のことを天童と呼んだと言います。
安政3年(1856)21歳の時、中蒲原郡亀田町(現、新潟市港南区)の医者、田中家の養子となったが好きな絵を書きたくて安政5年に生家に戻った。
郡平はまもなく、医学を志して長崎へ旅立ちました。ところが郡平は医師にはならず、長崎三画人の一人で禅宗の僧侶だった鉄翁祖門(てつおうそもん)に弟子入りし、絵を学ぶことになります。慶応元年(1865)鉄翁は郡平に「越陳人」の号を与えられ、これを機に画人として独立を果たした越陳人でしたが、その生活は苦しく、あんまや傘作りをして暮らしたと伝えられています。そして諸国を放浪しながら絵の勉強をする時代が始まりました。
1877年(明治10)、越陳人は突然の帰郷を果たしました。20年あまりの修行と放浪生活も終わりを告げることになります。天童と呼ばれた少年もすでに40歳を過ぎていました。
故郷にもどった越陳人は、新潟や北陸地方を旅しながら絵を描きました。明治15年(1881)越陳人は新潟県から推薦されて、全国絵画共進会に代表作「苗名滝(なえなたき)」ほか2点を出品し、明治天皇による天覧の名誉を受けました。越陳人の名声はひときわ高くなり、全国に名を知られる画家になりましたが、越陳人自身は変わらず上越地方を中心にあちらこちらと旅をしながら画作にふける毎日を暮らしていました。
明治19年(1886)51歳の時、名立町の塚田喜太郎の援助で押出小路(上越市五智4丁目、国府小学校校門前)にようやく居を構え終の棲家としました。同年土橋村(上越市)の相馬順作の姉シマと結婚、まもなく離婚し、明治24年(56歳)で高城村(上越市)の村田弥太郎の伯母イエと結婚した。その日の暮らしに困るほどの貧窮の中に身を置きながらも自由を選び、好きな酒を飲みながら、頼まれて絵を描く人生を送った越陳人は、大正5年(1916)4月18日五智の自宅で81歳の波乱にみちた生涯を閉じた。五智の光源寺の葬った、墓には「画仙東洋越陳人翁之墓」 (写真)とある、妻のイエも同年没したが二人には子供がなかったので家は絶えた。飾らない人柄と数多く残された絵が今でも根強いファンの心を掴んでいます。

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2010-07-20

[郷土の偉人] 小栗美作(おぐりみまさか)

小栗美作(おぐりみまさか) 
寛永3年(1626)~貞享4年(1687)
小栗美作は、上越地方の偉大な先駆者である高田藩筆頭家老小栗正高の長男として誕生しました。寛文5年(1665)の地震で圧死した父の跡を継いで筆頭家老となり,家禄1万7000石を譲り受け,藩政の実権を握った。幕府から金五万両を借りて、1665年の高田地震の復興に努め、父の偉業を継いで産業の振興に偉大な業績を残しています。
中江用水の開削は、寛文の大干ばつ後、関川から取水して別所川までの間をかんがいしていた「およべ川用水」を掘りつぐ構想を樹立しましたが、大普請のため続けることができませんでした。そこで、美作が中心となり、藩営事業として1674年(延宝2年)工事に着手し、1678年に完成しました。
この用水は、源を野尻湖池尻川に発し、延長26キロメートルの越後第1の大用水でした。美作は、各地の新田開発を行い、数万石の増収を図り、表高26万石が内高で40万石近い裕福な高田藩の極盛期を作りあげました。
当時の農業土木工事として、最大級の工事だった中江用水の開削は、美作の功績なしでは完成することのできなかった偉業として後世に語り継がれ、上越地方の基礎を築いた人物といえる。
しかし美作の施政に反対する家臣があり反目激化、いわゆる越後騒動が起きた。

越後騒動と小栗美作
高田藩主松平光長は越後中将家と呼ばれ、御三家と並ぶ名門ながら、嗣子、綱賢が延宝2年(1674)、42歳で病死すると、後継ぎ問題で越後騒動が起こった。 綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかっため急ぎ世継を定めねばならなくなった。
家老小栗美作守は光長の弟、永見市正長頼の子万徳丸を推挙した。重臣会議の結果、小栗が推す万徳丸に決し幕府もこれを認めた。一方、養子候補の一人であった光長の異母弟永見大蔵長良がこれに不満をもった。
藩財政の建て直しなどの為に、有能な下級武士を抜擢するなど、改革をすすめる美作の政治手法に反感を抱く家臣も多かった。
氷見大蔵は、家老の荻田主馬ら役900名の小栗に反感を持つ人々を誘い小栗失脚を企て延宝七年一月九日、大挙武装して小栗家を襲撃したことから「越後騒動」は表面化した。永見大蔵方を「お為の方」、小栗美作守方を「逆意の方」と称した。このときは幕府の大老酒井忠清が穏便におさめようとして大事には至らなかった。四月に入り再び対立が激化。騒動を知った幕府は九月、永見らを他藩預けとした。
やがて綱吉が将軍に就任。事件を裁断した大老酒井忠清が失脚すると永見は綱吉に再審を働きかけ、自由の身となった。しかし、天和元年(1681)6月21日、騒動関係者一同は江戸城大広間で、五大将軍綱吉から取調べを受け、翌22日親裁が下った。小栗美作守と子の大六は切腹、永見大蔵と家老荻田主馬は八丈島へ、与力大将の岡島壱岐と本多七左衛門は三宅島へそれぞれ流刑、その他は他家へお預け、または追放という厳しい処分であった。光長は騒動を起こした罪で高田城を没収され松山藩へ、万徳丸は福山藩へお預けとなった。
この騒動の中心人物小栗美作守は極悪非道の悪臣と言われてきたが、その施策には見るべきものが多い。
小栗美作の当時の住居は現在の上越市大手町の女性サポートセンターのあるところ(写真)

 
松平光長夫人土佐と光長の子綱賢の墓が林泉寺に(上越市中門前)、小栗美作の墓が善導寺(上越市寺町2丁目、(写真) )に、永見市正長頼の墓が善行寺(上越市寺町3丁目)にある。






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2010-06-09

[郷土の偉人] 知られざる実力画家、斎藤俊雄画伯

高田郵便局の向かいに榊神社が有るが、この神社の道を挟んで向かい(東)側の広場には幾つかの銅像、碑などが有るがその中の一つに斎藤俊雄画伯の像が有る。色々と調べるが浅学の私には詳しい事は解らない。

斎藤俊雄画伯
斎藤俊雄画伯は高田で生まれ、高田中学(現、高田高校)を卒業し、幼いころから絵画の才能を発揮し、自分の力でフランスに渡り絵画の勉強をした。数々の展覧会に出品し入選した、又郷土愛が強く、永年にわたり多くの力作を市内の学校などに贈り紺綬褒賞を受賞しました。この斎藤俊雄画伯の偉業を称え顕彰会が昭和9年に斎藤俊雄画伯の銅像(写真)を建設した。

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2010-04-07

[郷土の偉人] 幕末、明治の和算家、小林百哺

小林百哺(1804~1887) 
小林百哺(こばやしひゃっぽ)は幕末、明治の和算家である。名前は祐介であり、百哺は号である。
小猿屋村(現在の上越市小猿屋)の農家に生まれる。幼くして、両親を失い、8歳の時(この頃母親、キヌが亡くなっている)今町の寄町(現上越市中央二丁目)の髪結小林藤八のもとに引き取られた。
百哺は幼時から今町の神童と呼ばれ、特に数学に関しては抜群の力を持っていた。初めは今町の高良(こうら)鴎隣を師として数学を、府中八幡の月斎に就いて経義を学んだ。文政(1826)百哺は小林藤八の養子となる。
27、32、40歳と、3たび京都に出て、天文、算学、測量、陰陽、暦法を学び、土御門家から奥義秘伝免状をもらい、越後陰陽目代(天文、歴数、方位、などによって吉、凶、などを説く人)に補せられた。また今町に牙籌堂(げちゅうどう)「牙籌はそろばんのこと」を開いて子弟を教えた。門人は、嘉永(かえい)年間(1850年代)に500余人、慶応2年(1866)には3000余人、晩年には5000余人に及んだという。天保(てんぽ)15年(1844)高田藩は、領内海岸警備のため、22ヶ所に大筒台場を築き、4ヶ所に番所を設けることになったが、百哺は、これらの測量・設計にあたり、この大事業を成し遂げた。
元治(がんじ)元年(1864)高田藩砲術指南となり、後に長州征伐、戊辰戦争参加の功により、苗字帯刀(江戸時代、特定の平民が名字を唱え、刀を差す事を許された事)。3人扶持大年寄格待遇を受け、さらに高100石を給せられた。また、この頃、おたずね者として追われていた高野長英を同じ今町の大肝煎(福永十三郎)とかくまったことも有名である。  明治20年1月9日(1887)84歳で病死。生年月日については確かでないが五智国分寺にお墓が有るがその碑文から逆算すると文化元年(1804)になる。
(写真)は小林百哺の塾跡の碑である、直江津郵便局の向かい、旧柿村書店の処。

    
百哺に関する逸話
百哺は算盤21挺を並べて毎年暦を作った。後年朝鮮仁川測候所長となった内田理学博士は、これを聞き、実に珍しい方法であると感嘆したと言う。
また、百哺は左右両手に算盤を持ち2人に読み上げさせ、けっして間違いがなかったと言う。
高田中学(現高田高校)出身で1等巡洋艦「妙高」の設計者、海軍中将、鈴木圭司は百哺の孫にあたる。

高野長英
江戸時代後期の医者・蘭学者である。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。1804年、仙台藩水沢留守家の家臣後藤実慶の三男として生まれる。9才で父を亡くし母親美也の実家にもどり、叔父高野玄斎の養子となる。養父も祖父も医者である高野家での生活が、少年長英に蘭方医学への興味をいだかせた。(写真)は肖像画

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2010-03-01

[郷土の偉人] 福永十三郎と福永神社

福永十三郎(1721~1774)
福永十三郎(ふくながじゅうさぶろう)は越後国、今町(新潟県上越市直江津地区)の豪商福永家(越前屋)の第7代として享保6年3月14日(1721)誕生した。福永家は越前屋と称し廻船業を営み、代々大肝煎り(おおぎもいり)をした旧家である。
十三郎は高田藩(榊原藩)の御用達として名字帯刀を許された。当時高田藩では,今町(直江津)入港の魚類も,高田城下の田端町(現、高田、仲町)肴問屋を経なければ直江津での販売ができなかった。宝暦1年(1751)年大肝煎になった十三郎は,高田町奉行へ魚類の自由販売を願い出たが聞きいれられず宝暦5年大肝煎を辞して問題の解決に専念。宝暦9年江戸の老中にまで出向き,藩権力を背景に持つ田端問屋との訴訟に身命を賭した。安永3年(1774)評定所の裁定で,以後直江津入港魚荷の2割は今町(直江津)の販売が自由になり,塩干魚製造も解禁になった。安永3年7月4日、十三郎は帰郷する途中高田の田端(仲町)の肴問屋で急死した,毒殺とも言われている。

名字帯刀   江戸時代、特定の平民が名字を唱え、刀を差す事を許された事。
老中      徳川幕府で将軍直属の政務担当の職。

福永神社
福永神社は,福永十三郎(上記)を祀っている。
かつて直江津の地では,漁で得た魚を自由に売ることが禁じられ,わざわざ高田まで運んで売りさばくしかなかったが、福永十三郎の尽力によって直江津でも販売が許されることになった。十三郎の没後,火葬した場所に石仏が置かれ(灰塚)としてその功績が追慕されていた。社殿はなく,新しい石祠が建っている(写真)。
福永神社は上越市中央4丁目(旧、福永町)に有り、海に面し整然と並ぶ町屋造りの家並は最も直江津らしい。


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2009-12-21

[郷土の偉人] 上越地域電源開発の父、 国友末蔵

国友末蔵と言っても知る人は少ないと思う、勿論私も全く知らなかったが地元の事を色々と調べていると地元の発展に大きく寄与された偉大な人であり
旧高田市の名誉市民第一号の称号を与えられた。
昭和32年には、電源開発50周年を記念して、高田公園内に国友末蔵の、胸像(写真)が建てられた。上越大通り、高田郵便局前の信号交差点角。
(榊神社の道路を挟んで東側)

国友末蔵 (1881~1960) 
明治14年、国友震一朗の末子として京都に生まれる。京都帝国大学を明治39年(1906)卒業。同年、旧中頸城郡和田村の金子伊太朗らの創設した上越電気会社(後の中央電気工業)の技師長として着任。以来、上越地方の電力事業にその生涯をつくした。最初の仕事は、翌40年、関川水系の落差を有効に使った名香山村、(妙高高原町)蔵々(ぞうぞう)の500KWの水路式発電所の建設である。そして新井・高田・直江津に電灯線が引かれ40年5月には炭素線の電灯がともされた。高田の町では杉のアーチが建てられ電球のイルミネーションが点灯され大勢の人出で賑わったと言う。
国友の発電事業の中で特筆されるものは、野尻湖の水を冬期間発電に用い、春の雪どけ水を野尻湖に吸い上げる池尻川揚水発電所を建設したことである。これにより、発電と潅漑用水とも有効に利用することができるようになった。
この間、上越電気株式会社は越後電気会社となり、さらに中央電気会社と発展した。ついで、末蔵は、東日本興業監査役、東北配電理事、県公安委員長などを歴任する。関川水系の電源開発は、農村の電化を図り、昭和初期全国の農村が手動の農具にたよっていた時、すでに上越の農家では電動機による自動脱こく機が導入されていた。

昭和28年(1953)これまでの功績をたたえられ、高田市の名誉市民、第1号(写真)称号を与えられた。また、昭和32年には、電源開発50周年を記念して、高田公園内に彼の胸像が建てられた。


              



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2009-11-18

[郷土の偉人] レルヒ少佐

我が地元では人気ロック歌手EXILE(エグザイル)を知らない人は沢山いるが老若男女、レルヒ少佐の名前を知らない人は少ない、知らない人はもぐりだな、、、恐らく現、鳩山首相くらいの知名度はあるだろう、しかし全国的に見ればあまり知られていないと思う。郷土で生まれ育った人ではないが、我が郷土に名ついた偉人だ。
(写真は、日本スキー発祥の地金谷山公園に建つレルヒ少佐の銅像)

レルヒ少佐(テオドール・フォン・レルヒ)  
    (1869~1945年)
1911年1月12日、日本に初めてスキーを教えたオーストリアの軍人。その場所は、新潟県高田市(現、上越市)、彼はアルペンスキーの創始者マチアス・ツダルスキーに学んだアルペンスキーの名手であった。
明治43年(1910年)、日露戦争に勝利した日本陸軍の視察、研究のため来日したレルヒ少佐は、翌44年(1911年)、旧日本陸軍高田第13師団、歩兵58連隊(旧高田市)の視察のため高田を訪れた、彼は是非雪の多い駐屯地に配属してくれ、と強く望んだといわれている。自費で作った軍用スキー10台を寄贈した。スキーに関心を持っていた長岡師団長の願いにより、1月12日金谷山で軍人を対象としたスキーの指導が行われた。これが、日本でのスキーの始まりになった。その後、民間にも指導し、2月には高田スキー倶楽部が発足するなど、市民の間にもあっという間に広まった。その後1912年レルヒ少佐は次の赴任地、北海道旭川の砲兵7連隊に赴任、こちらでもスキーの指導も行い、2年間滞在し帰国、その後は日本を訪れる事はなかった。

昭和36年(1961年)、金谷山にスキー発祥50周年を記念してレルヒ少佐の銅像(写真上)が建てられた。
昭和59年(1984年)、アルペンスキーの発祥地オーストリアのリリエンフェルト市と姉妹都市となる。
平成 4年(1992年)、日本スキー発祥記念館が建てられる。

この記念館は、長野オリンピック冬季競技大会の開催に向け、日本のスキー発祥の地「上越市」を全国にアピールするため、平成9年(1997年)にリニューアルオープンした。記念館には、当時のスキー板、様々なスキー文献、遺族から寄贈された手記などのレルヒ少佐に関する資料など、貴重な資料を多数展示している。
毎年2月下旬、レルヒ少佐の偉業を称え、金谷山公園を中心にレルヒ祭が行われている、スキー発祥100周年に当たる再来年は大きなイベントが行われるであろう。

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2009-06-23

[郷土の偉人] 小田嶽夫(芥川賞作家)

小田嶽夫(本名 武夫)芥川賞作家
明治33年(1900)高田市竪春日町(現上越市本町1丁目)で呉服卸商の次男として兄、姉、3人兄弟の末っ子として生まれる。大正2年(1913)県立高田中学(現高田高校)へ入学。卒業後、東京外国語大学、支那語科入学、大正11年(1922)卒業し外務省亜細亜局に入り大正13年外務書記として中国、抗州に赴任、昭和3年に帰国したが文学活動に専念する為昭和5年7月外務省を退職した。
昭和11年(1936) 「城外」 (『文學生活』創刊号、1936年6月)で第3回芥川賞受賞。
昭和19年 (1944)に現、上越市寺町の善導寺に疎開。 そこで同じく疎開中だった写真家、濱谷浩 や作家、小山いとこ、画家、小杉放庵、 らと共に昭和21年に同人誌「文芸冊子」 を創刊。昭和50年(1975) 「郁達夫伝」平林たい子賞を受賞。
昭和53年(1978)小田嶽夫 文学碑(写真右)が、スキー発祥の地、上越市の金谷山に建立された。
昭和54年(1979)6月2日急性心不全の為、東京、小金井市で79歳の生涯を閉じた。

代表作
●「城外」       昭和11年(1936)
●「裏がわの町」  昭和24年(1949)
●「高陽草子」    昭和48年(1973)
●「郁達夫伝」    昭和50年(1975)
     
ほとんどの作品が中国に眼を向けたもので、代表作の「城外」もその一つである。しかし、「高陽草子」には、郷土(高田)への思いをこめた文章が多く書かれている。

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2009-05-25

[郷土の偉人] 「日本のアンデルセン」 小川未明

「日本のアンデルセン」と称された、童話作家、小川未明(健作)は明治15年(1882年)、最後の高田城主だった榊原家の家臣で小川澄晴氏の二男として、現上越市幸町に生を受ける。
奔放だった未明は、岡島小学校(現在の上越市立大手町小学校)の授業を幾度となく抜け出し、土手などで遊びまわって過ごしたという。13歳になり、入学した高田中学(現在の新潟県立高田高校)では、代数・幾何学など苦手な分野には関心を示さず、文芸や政治関連の書物を読みふけった。結果、成績は偏り、3度も落第したという。
3度の落第を経た後の未明は19歳のときに上京を決意、東京専門学校(翌年、早稲田大学に改称)を受験し、英文哲学科(後に英文科に転科)に合格する。そしてここでの出会いが未明の作家人生を力強く後押ししてくれることになった。小川未明の名付け親であり、未明(正式には、びめい)の才能をいち早く見抜いた坪内逍遥(つぼうちしょうよう)とは、この大学での講義を通じて出会う。
在学中の明治37(1904)年9月、処女小説『漂浪児』を発表、好評を博し(この時に逍遥から未明[びめい]の号をもらう)、翌明治38(1905)年、早稲田大学を卒業。
大正10(1921)年に代表作『赤い蝋燭と人魚』を執筆。その後も『青空の下の原っぱ』、『雪くる前の高原の話』、『兄弟の山鳩』等を次々と発表した。
1946年には児童文学者協会設立、初代会長に就任。1951年に芸術院賞を受賞、翌52年には芸術院 文化功労者となる。
しかし、昭和36(1961)年5月、脳出血で倒れ、79歳の生涯を閉じた。

本町通りを直江津方面に下り、東本町、本町7丁目の信号をさらに、少し東へ進み、小さな路地を右に入った右側、1メーターほどの狭い敷地(判るかなー)、「小川未明生誕の地」と刻まれた小さな石碑がある。ここは「日本のアンデルセン」、「日本近代童話の父」と呼ばれた童話作家・小川未明の生家があった場所だ。
上越市内には未明の童話作品をモチーフにした像が数多く点在する(高田公園、春日山神社、大手町小学校、春日小学校、など)。その中の一つ、直江津の船見公園内に建つ『赤い蝋燭と人魚』をモチーフに据えた人魚の銅像を見に行った。 (写真は赤い蝋燭を持った人魚)


人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。
 北の海にも棲んでいたのであります。
    北方の海の色は、青うございました。ーーーーーー
―――


 『赤い蝋燭と人魚』は、未明の幼児期の体験に根ざして描かれた作品だ。未明は生まれてすぐに、この地方の因習により、隣家の丸山家に里子に出された。この丸山家の家業がロウソク作りであった。

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2009-03-31

[郷土の偉人] 60年間の外交官、芳沢謙吉

芳沢謙吉(写真)と言ってもあまり知られていない、地元の人でも知る人は少ない。
しかし我が郷土にとっては大変な経歴を持つ偉人なのである。私も名前は知っていたが詳しい事は知らない、又何か記念館らしい物は有りそうだがなー!と言う程度。思い切って行って来た。。。。。。。

明治大正昭和三代に渡る外交官の先達、芳沢謙吉

明治・大正・昭和の三代に渡る外交界きってのアジア通として知られる吉沢謙吉は、諏訪地区堀之内(現在の上越市諏訪)の地主兼醤油醸造業の三男として明治7年1月24日生まれた。父が上杉謙信を崇拝していたため謙信の謙をとって命名された。
地元の学校より東京成立学舎を経て仙台第二高等中学校に7年間在籍後、東京帝国大学文学部史学科に入学する。その後、英文科に転科し特待生となる。大学2年生の時ひそかに外交官になろうとして勉強をはじめ、明治32年7月外交官試験に合格した。
卒業後、明治33年、アモイの領事館補をふりだしに、上海総領事館・牛荘に勤務、日露戦争をつぶさに見、貴重な体験をする。その後、犬養毅の長女と結婚しロンドン総領事館につとめる。(明治38年)
大正12年、排日運動激化中に北京特命全権公使として赴任。この間、曹昆氏と交渉し、以後50年の親交となる。
昭和4年、フランス大使を歴任後、昭和7年1月犬養内閣の外務大臣となる。この時、満州国の独立に反対した。さらに、五・一五事件後に貴族院議員に勅撰され、昭和16年には、仏印大使となる。
大戦末期、政府に無条件降伏をすすめ終戦決定の御前会議に出席した。
終戦後は、仏印大使を務めたことで公職追放となるが、昭和27年9月より初代中華民国大使として台湾に赴任。この間、昭和30年12月まで、中国外交の長いキャリアと要人との親交を生かし有終の美を飾り、約60年間の外交官生活を閉じる。
外交姿勢は、本国の訓令に従いながらも、どこの国の方ともできるだけ公平、誠実を心がけ、仕事を離れても人間的な付き合いを大切にした努力家であった。
1959 生家跡に芳沢記念公園と芳沢記念館が建立される
1960 叙勲で勲一等旭日桐花大授章を受ける
1964 旧高田市名誉市民に推薦される
1965・1・5 死去(91歳)。4月12日高田市で追悼会と出身地の諏訪神社に合祀

芳沢記念公園

記念公園(写真)は昭和33年芳沢謙吉誕生の地を整備して892坪の記念公園ができた。公園内には記念館、米南荘、銅像、観音堂、昔の井戸、記念植樹、お墓、などがある。又公園内には当時からのの木の大木が何本も有り満開になると大変奇麗なようだ。
芳沢記念館

芳沢記念館(写真左)は公園を整備した時に建てられた、60年経った建物で歴史を感じる。入口の 芳沢記念館の看板は風雨にさらされほとんど読めない。中には当時の写真、勲章、手紙などが展示されている。

米南荘

米南荘(写真右)は芳沢邸の茶室を東京から移築したもの。「米南」は芳沢謙吉氏の雅号。
芳沢謙吉銅像

銅像は(写真)は芳沢謙吉の晩年をモデルに郷土の彫刻家 滝川美一 の作(春日山の謙信公の銅像の作者)
高さは1,9メーター、題字は友人吉田茂(元首相)の書。撰文並びに書は、当時の高田市長 川澄農冶。昭和34年9月6日除幕式が行われた。
古井戸

記念公園内の古井戸(写真右)は当時の物である。この井戸は良い水が出るんですよ! と町内会長さんが説明してくれた。

写真左の木は台湾の蒋介石から贈られたと言う、山茶花の木
芳沢記念公園は広域農道 上越三和南線、諏訪の交差点信号からすぐ、写真の案内板が目印だ、ちょっと分かり難い場所。公園の裏側の道路を挟んで3軒家があるが一番南側の家が町内会長宅、事情を話すと記念館の鍵を貸してくれる、時間があると説明もしてくれる様だ。
後一週間もして桜が満開になるとこの公園は見ごたえが有りますよ、との事。

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2009-03-15

[郷土の偉人] 日本のワインの父、 川上善兵衛

川上善兵衛(岩の原ワイン創始者) 
     (1868-1944)
明治元年(1868)北方村(現上越市)に 生まれる。地主の長男として生まれ、父の 友人であった勝海舟の「日本も西洋風に なってワインを飲むようになるだろう」と 言う言葉に触発され、ぶどうの栽培から 醸造までの一貫したぶどう農園造りを 目指した。明治23年(1890)に私財を 投出し開墾に着手。何度も失敗を繰り返し ながらも明治31年(1898)にようやく 製品化に成功した。葡萄の品種改良に一生を奉げ、この功績が讃えられ昭和16年(1941)日本農学会より最高位の「日本農学賞」が授与された。そして3年後肺炎の為76歳の生涯を閉じた。詳細はこちら
上越市内より国道405号線を旧牧村(現牧区)方面に車で(約20分位)進み県道、新井、柿崎線を過ぎると間もなく岩の原葡萄園入り口がある。ワインの熟成場所の石蔵などを見学できる。又ショップではワイン等が販売されている。
又直ぐ近くに高士地区多目的研修センターがありその1階に川上善兵衛の遺品など多数資料が展示されている。

岩の原葡萄園

場 所    上越市大字北方1223番地
電 話    025-528-4002
開館時間  09:00~17:00(11月~3月、16:30)

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2009-02-26

[郷土の偉人] 日本画家、 小林古径

日本画家、小林古径
    (1883-1957)

明治16年(1883)2月21日に小林株、ユウの次男として現在の上越市大町1丁目にて生を受ける、本名は茂、小林家は代々旧高田藩士で、父である株は新潟県内の逓信官吏を歴任した。16歳の時に画家を 志し、梶田半古に師事。前田青邨らと共に 院展の「三羽烏」と呼れ数々の名作を 発表する。東京藝術大学の教授などを歴任 し、文化勲章を受章。74歳でその生涯を 終える。高田公園内には小林古径が晩年を 過ごした母屋(元東京藝術大学教授、吉田五十八設計)が移築 され、古径邸として公開されている。又同場所には小林古径記念館がある。

場  所  上越市本城町 (高田公園内)
アクセス  JR高田駅より徒歩約20分、タクシーで5分
              

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2009-01-30

[郷土の偉人] 戦国武将、上杉謙信

上杉謙信は享禄3年(1530年)越後守護代、長尾為景(ながおためかげ)の末子として春日山城で誕生した。母は栖吉城主(すよし)長尾氏の娘虎御前と言われ、用命を虎千代、のちに景虎政虎輝虎、と名を改めた。謙信は晩年の号。7歳から14歳まで城下の曹洞宗林泉寺で6代和尚、天室光育(てんしつこういく)7代和尚、益翁宗謙(やくおうそうけん)から文武の道、「第一義」の真意を学んだ。宗謙和尚の一次を頂き謙信と改名した。
父為景の死後、兄晴景が守護代の職を継いだが、国内の諸将をひきいる力が無かった。そこで14歳の秋、栃尾に移って中、下郡をおさえ、19歳の兄に代わって守護代と成った。



謙信を有名にしたのは国外の戦争だった。武田信玄の信州進出で村上義清、高梨政頼、などが助けを求めてきたので、謙信は五回にわたって信州、川中島に出陣した。そのうちで最も激しかったのは永禄4年(1561)9月の合戦(4回目)だ。関東管領上杉憲政は小田原城主、北条氏康に攻められ越後に逃れた。以降、謙信は14回にわたり大軍をひきいて三国峠を越え関東に出陣した。厩橋城(まやばし)、前橋市、沼田城、(沼田市)を本拠地として関東平野をかけめぐり、永禄4年(1561)3月には小田原城を包囲し、鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領、上杉家を相続した。

二度上洛したが、京都へのぼるには、越中、能登、加賀、越前、の平定が必要であり、石山本願寺の顕如と講和し、北陸の一向宗徒を味方につけた。天正5年(1577)織田信長とむすんだ畠山氏の七尾城をせめ、加賀、手取川で信長軍を撃破したが、関東が不穏になったので帰国した。

天正6年(1578)3月、城内で脳溢血で倒れ、13日春日山城で没した。49歳であった。なお、死因については色々な説がある。
生涯出陣すること70余たび、だが領土欲はもたず戦乱の世から領民を救うことを「第一義」にかかげ、太平の世を実現するために神仏に深く帰依した。春日山には毘沙門天画像を祀った御堂があり、謙信が深く信仰していた。そのため、上杉家の軍旗として毘沙門天を表す「毘」の字を旗の先頭にして戦った。
写真右は春日山に建つ上杉謙信、川中島を睨んでいると言われる。
(郷土の彫刻家、滝川美一さんの作品で昭和44年に造られた)

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2009-01-16

[郷土の偉人] お酒の博士、 坂口謹一郎

坂口謹一郎(発酵微生物学博士)
     (1897-1994)
明治30年(1897)上越市に生まれる。 東京大学名誉教授を務め発酵微生物学の 世界的権威。醸造学や麹菌の研究、酒に 関する随筆の執筆などを通じて「お酒の 博士」として親しまれる。文化勲章(勲一等瑞宝章)、フラ ンスレジョンドヌール勲章などを受章。 歌人としても活躍し、歌会始の召人も 努めた。淡麗辛口といわれる新潟の地酒 だが、なかでも上越の酒は評価が高く、 博士の功績によるものが大きいといわれる。

坂口博士は日本独自の醗酵学の確立において、世界でも先駆的な研究を進め、その功績が認められ日本農学賞、日本学士院賞など数々の賞を受け、フランスの農学学士員外国会員にも選ばれるなど世界的な権威としての評価を得た。 酒づくりに携わる者で、坂口謹一郎博士の名を知らぬ者はない。坂口博士は醗酵の研究を通して、世界に類を見ない日本酒の独特な製造方法や、日本酒の奥深さについて、卓越した見識と豊富な知識を駆使した名著を数多く残しているからである。。。 「お酒の博士」と言われた由縁である。
坂口博士は醗酵学・応用微生物学の研究を重ねる中で、昭和39年、フランスの農学学士院外国会員に選ばれるきっかけとなったチーズに生息する珍しいバクテリアの発見など数々の世界的な功績を残した。 中でも日本初の国産ワイン生産のきっかけとなるぶどう酒酵母「OC2号」の発見は画期的なものであり、現在も全国のワインメーカーで使われている。
「お酒の博士」坂口謹一郎博士は1994年(平成6年12月9日)心不全の為生涯を閉じた。享年97歳であった。 


坂口謹一郎博士の功績を讃え故郷の上越市頚城区に  坂口記念館 が開設されている。

名称     香り高き楽縫庵と酒づくりの里「坂口記念館」
場所     〒942-0121 新潟県上越市頸城区鵜ノ木148
        TEL 025-530-3100
      
開館時間   午前10時~午後4時まで
休館日    毎週月曜日(月曜祝日の場合は翌日)休日の翌日、年末年始
入館料    200円(中学生以下は無料)
       ※団体(15人以上)は1人150円

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2008-12-24

[郷土の偉人] わが国音楽教育の母、 小山作之助

小山作之助 (わが国音楽教育の母)
     (1863-1928)
懐かしい文部省唱歌で今でも歌い親しまれて いる「夏は来ぬ」の作曲者小山作之助は 文久3年(1863)大潟町、(現在の上越市) で生まれた。16歳で小学校を優秀な成績で 卒業し、石油事業をしていた父の仕事を手伝 い、夜は高田の小島荷掌の塾に通い、明治 初期の西洋化の波は作之助少年の向心に 火をつけた。 明治13年家人に無断で上京し築地大学 (明治学院)へ入学して英語と数学を学んだ 。明治16年2月には文部省音楽取調所に 入学した。 作之助は「品行方正学術優等」 と認められ、卒業まで手当金月額六円を支給 された。20年音楽取調所は東京音楽学校 と改名され彼は卒業後も同校研究生として 残り教授補助として教壇にもたった。
卒業後わずか6年で母校の教師となった 作之助は、学生の指導、音楽の研究、作曲、 に持ち前の努力と、情熱を傾注した。 作之助は明治30年同校の教授となり36 年に惜しまれながら同校を退職した。




 
  ♪♪ 卯の花の匂う垣根に  ♭

      ほととぎす早も来鳴きて  ♯

       しのび音もらす夏は来ぬ  ♪♪♪ 





小山作之助の生家

東京音楽学校を退職後も各方面で活躍して いる教え子の面倒をみたり、文部省小学校 唱歌の作曲を読けて多くの唱歌集を著作 した。彼の作曲による唱歌はどのくらいの 数かはっきりしない。
29歳で最初の歌曲集「国民唱歌集」を 発表し、唱歌、軍歌、校歌、などの作曲を 読けたが「作曲者不詳」として自分の名前 を出さなかったものが多かった。 明治37年ヤマハ楽器株式会社の顧問と なり楽器製作技術の指導をしたり、 国立音大、東洋音大、武蔵野音楽大、など の創設運営に参加し日本教育音楽協会の 初代会長に就任し会の発展に努力するなど 生涯を音楽教育に捧げた。 「荒城の月」の作曲者滝廉太郎の才能を 見出して育てたのは作之助であった。 昭和2年6月、作之助は書斎で執筆中に 倒れて65歳の生涯を閉じた。


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2008-12-03

[郷土の偉人] 宮古島を救った偉人, 中村十作

中村十作(写真)と言ってもあまり知られていない、事実私も最近まで知らなかった。周りの人に何人か聞いてみたがやはり答へは No,-だ。しかーし、ただ一人、あー、知ってるよ、確か演歌歌手だろう! 違います。。 あー、そうだ、作曲家だわ! それは中村八大ですよ! 生誕の地に記念館があると言うので行ってきた。館を管理していると言う元町内会長さんにお会いすると、親切な方で色々と教えていただいた。「いやー、同じ町内の人でも今の若い人は”中村十作”さんを知らないですよ、、最近になり色々な催しや新聞などで報道されたので名前くらいは覚えたでしょうね、、我が郷里が生んだ、 中村十作さんの 業績を称えるとともに、永く後世に伝えたいと思いますね」と熱く語ってくれたのが心に残っている。


中村十作(1867~1943)
中村十作は稲増村(現上越市板倉区稲増)の名手であった中村平左衛門の五男として生まれた。海軍除隊後、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、真珠養殖を夢見て1892年(明治25年)に宮古島に渡った。そこで十作が見たものは「人頭税」と言う過酷で不合理な税による貧困と差別に苦しむ島民の姿であった。一方でその上に君臨する士族たちの傲慢さをまざまざと見せつけられたのであった。十作は農業試験場の技師であった城間正安や農民総代らと人頭税廃止に向けて命を懸けて取り組む決意をした。
十作たちは士族側の幾多の妨害や抵抗を排し、1893年(明治26年)に上京し、弟の十一郎や増田義一らの協力を得て、翌年に人頭税廃止の請願書を帝国議会に提出する事ができ、請願は可決され1903年(明治36年)、ついに260年以上続いた人頭税は廃止された。

その後十作は宮古島を中心に本業の真珠養殖事業に打ち込むが1940年(昭和15年)に戦争の激化で事業が禁止となり1943年(昭和18年)胃がんの為、京都の自宅で76歳の生涯を閉じた。

中村十作の功績は現在も宮古島で語り継がれ、「大和神御嶽」 (やまとうんがんうたき)として奉られている。宮古島の民族芸能「アヤグ」にも十作を称える唄が織り込まれており、暗黒の歴史に光明を投げかけてくれた大恩人として島をあげて敬われている。又最近は宮古島の人々と地元板倉の交流も盛んに行われている。(写真)は中村十作生誕の地、後ろが生家。

人頭税(にんとうぜい) 
1637年(寛永14年)から1902年(明治35年)まで、宮古、八重山列島に適用されていた過酷で不合理な税。この税は所得や納税力に関係なく人頭数(人口)を基準に穀物や織物などを収めるもので当初は役人の見立てで税を納めさせられた。やがて1710年(宝永7年)には年齢を基準にして税を徴収するようになった。すなわち15~50才の男女を4つの年齢層に分け、夫々の年齢層に応じて男は粟(八重山は米)などを、女は上布などの織物を人頭割りに課した。一方、役人や士族は税を免除され、更に無償で農民を労役に使える制度もあった。税を納められない農民は牢に入れられ、拷問を受ける事もあった。又税を逃れる為、自ら手や足を切り落とし、不具者になった者もおおい。1879年(明治12年)にこの地域が沖縄県となってからも税制度は存続し、農民の悲惨な生活は続いた。1893年(明治26年)当時の宮古島の記録によるとその税負担は収穫高の約65%にものぼっていたという。 (写真)は中村十作記念館

中村十作の人頭税廃止運動を支えた人々
城間 正安(ぐすくま せいあん)
沖縄県の精糖技師として宮古島に着任、農民たちの窮状を知り、士族に反抗、人頭税廃止の指導者として十作とともに上京し、請願書提出など人頭税廃止に向けて大きく貢献した。
増田 義一(ますだ ぎいち)
十作と同じ板倉出身で、東京専門学校を出ており、創立者の大隈重信に目をかけられていた。又新聞記者として報道関係に知人も多かった。十作は増田の協力で人頭税の非社会性を新聞を通じて訴え、大隈ら有力な政治家の理解を得ることができた。議会での請願可決の功労者といってもよい。後に「実業之日本社」を創立、衆議院副議長にもなった。
中村 十一朗(なかむら じゅういちろう)
十作の実弟、人頭税に苦しむ宮古島の農民に心をうたれ、実情を訴える請願書を作成し兄の支援に努めた。当時は東京専門学校(現早稲田大学)在学時であり、日々の生活を綴った彼の「日誌」にも上京した十作らの活動が記されている。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ)
1894年(明治27年)刊行の「南島探検」の著者。その中に紹介されている宮古島の人頭税による過酷な農民の生活は、政治家など多くの人々の胸を打ち、人頭税廃止運動に貢献した。
(写真)は近くの緑地公園内にある十作の功績を讃えた記念碑。記念碑のあるところは宮古島の形で造られている。

記念館は普段閉館しているが稲増地区の十作記念館の近く(十作生誕の地の向かい)に中村商店がある(店はいつもは戸が閉まっている)のでこちらに行き事情を説明すると快く会館の鍵を貸してくれる。又こちらのご主人(元町内会長)が時間が許せば色々と説明をして頂けるようだ。入館料は無料。
(写真)は記念碑の碑文の解説。

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2008-11-14

[郷土の偉人] 郵便の父、 前島 密(まえじまひそか)

地元の人でも郵便の父と言われる「前島 密」男爵が我が故郷の出身であると言う事を知らない人が意外といるんです、(1円切手のモデルに成っている人)年に数回は近くを通るが今回はカメラを持って行きじっくりと中を見学してきた。前島記念館、記念館別館、前島記念池部郵便局、前島密生誕記念碑、等がある。。

前島 密
「郵便の父」前島 密は天保6年(1835)下池部 村(現在の上越市)に生まれる。13歳で医学を 志し、江戸へ遊学。砲術や数学、蒸気機関、 などを学ぶ。明治3年(1870)駅逓権正となり 郵便事業の開始を発案。イギリスでの郵便 制度を調査し帰国した後 駅逓頭(郵便大臣)に任命され、それまでの 飛脚を廃止し、切手、ポスト、全国同一郵便 料金など郵便制度の確立に尽力した。 又電信、電話事業、海運、鉄道事業などにも 多大なな功績を残した。 大正8年4月27日84歳で亡くなった。

前島記念館
「前島記念館」 (写真)正式名称は、総務省郵政 研究所付属資料館(逓信総合博物館)分館 と言います。 この前島記念館は、郵便の父前島密誕生の 上野家の屋敷跡に建てられています。 前島密は幼名を「上野房五郎」といい、 慶応2年に「前島家」に養子と成りました。 大正3年に上野家は東京に移住した為、 土地は他人に渡りました。これを遺憾に思 った当時の村民有志が大正9年に土地を買い 戻し、付近の鎮守三社を合祀して池部神社 を建立し、大正11年に境内に生誕記念碑 を建てました。 昭和5年、当時の前島記念池部郵便局長  坂田増五郎氏と稲田郵便局長 川崎真治氏 が前島密の業績を顕彰し、永久に偲ぶ場所 として記念館建設を提案し募金を募り翌年 に完成した。



前島記念池部郵便局
「前島記念池部郵便局」 (写真)大正15年池部神社 境内の隣りに、地元有志らの逓信省への働 きかけにより前島の姓を冠とした前島記念 池部郵便局を開設しました。



●上越市の郊外に有りバスも有るが本数も少ない。
 JR高田駅より車で10分くらい、JR直江津駅より車で15分くらい。
 入場料は無料。

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辛い事もあったが楽しい事も、、
良い思いも沢山させて頂いた激動の人生、
昔のこと、今の事、自由に綴る我が人生、






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