[豊後の名所・史跡] 高塚愛宕地蔵尊

2017-07-25


大分自動車道の 天ケ瀬、高塚IC を下りて直ぐ、高速道で大分市から向かうと右手に見えてくる、高塚愛宕地蔵尊に行ってきた。
高塚愛宕地蔵尊は奈良時代に行基が開山したと言われている由緒ある地蔵尊で神仏混淆(こんこう)の形式を残している地蔵尊として知られ、願い事なら何でも叶えてくれると言う所願成就にご利益があると言われ、自分の年の数だけ願い事を書いて奉納すれば、よりご利益を頂けると言われ、2,000体以上のお地蔵さまが奉納されている。



今から千二百年余年前の天平十二年、行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、筑紫の国を巡られました。帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原にいたり、みどり深い東西の地形を眺めたとき、行基は身の引きしまるような霊気と、言いようのない有り難さに心を打たれ「この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない」と予言されたのでした。行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、この高塚の里に着かれました。

山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、なお一心に祈り続けました。夜が白みかけても玉の光はおとろえません。行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。

宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、里人たちに『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』と説かれたのでした。その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、子供のすこやかな成長をかなえてくださる霊樹として、人々の崇敬を集めてきました。

行基は天平21年2月2日、八十二才で亡くなりました。その後天暦6年2月行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。
                             = パンフレットより抜粋 =

 
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[豊後の名所・史跡] 豊後森 機関庫

2017-06-11


玖珠町のシンボルの万年山(はねやま)山開きに行った帰りに豊後森機関庫に行ってきた。
久大線は大正9年から建設が始まり、昭和4年には豊後森駅が開業、昭和9年に久大線が全通した。機関区の設置は、昭和8年に森町に決定し、昭和9年に豊後森機関区が発足した。旧豊後森機関庫は、当初10両機関車庫と機関車庫西端部に技工長室・道具置場がつくられ、その後2両分の機関車庫が増築された。石炭や水等の補給基地として、また急峻な水分峠越えを行うための機関車の交換等で豊後森機関区は非常に重要な役割を果たした。最盛期は昭和23年頃で、車両25両・乗務員他職員217名の配置があったといわれる。




昭和20年8月4日には、軍事輸送の拠点となっていたため米軍機の機銃掃射にあい、職員3名が死亡するという惨事も起きた。機関庫の壁には現在も機銃掃射の跡が残っている。昭和45年9月の久大線無煙化により蒸気機関車が姿を消すと、翌昭和46年4月に豊後森機関区は廃止となり、現在は線路が外され扇型機関庫と転車台が残るのみとなっている。
                     = 玖珠町観光協会ウエブより抜粋 =

 

この蒸気機関車29612号は「キュウロク」と言う愛称で親しまれ、大正8年(1919)に製造された蒸気機関車で、大正8年(1919年)1月から昭和49年(1974年)12月までの55年間、長崎本線や唐津線で旅客、貨物の輸送に日夜活躍し、なかでも昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原子爆弾が投下された時期には、多くの人、被災された方々を乗せて走り、人命救助や日本の文化の交流、経済の発展に多大な貢献をしてまいりました。そして列車の動力近代化に伴って、昭和49年(1974年)に廃車となり福岡県志免町の公園にて静態保存されてきましたが、製造されてから94年目になった平成25年(2013年)12月、老朽化による解体処分が公表されたことから、「もうすぐ製造から100年となる蒸気機関車を救って欲しい」との多くの方々からの救済の声が玖珠町に届き始め、志免町様との協議の結果、玖珠町が譲渡を受け、福岡県直方市の汽車倶楽部(代表 江口一紀氏)の方々に補修をお願いして、この豊後森機関庫公園に平成27年(2015年)6月に静態保存することとなりました。

製造年月日   : 大正8年1月27日
全    長  : 16,563m
全    幅  : 2,616m
高    さ  : 3,816m
重    量  : 60,35t(空車時) 81,85t(運転時)
燃    料  : 石炭6,0t 水15,5t(最大積載量)
出    力  : 870馬力
最高  速度  : 65km/h
総走行距離   : 2,667,675km

                                 = 案内板より =
 
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[豊後の名所・史跡] 国木田独歩館

2017-03-16


県南の佐伯市の国木田独歩館を訪ねてきた。国木田独歩は明治4年(1871)8月30日、千葉県銚子市に生まれる(父、国木田專八 母、まん),幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した,筆名は独歩、、



国木田独歩は明治26年に佐伯市の鶴谷学館に英語の教師として弟、収二とともに赴任してきた。二人は武家屋敷通りにある坂本永年邸に下宿した。坂本永年は独歩が教師として勤めた鶴谷学館の館長であり、公私ともに面倒をみたと言われる。このような佐伯市と独歩の関わりを彼の過ごした坂本邸で紹介するため建物を修復し国木田独歩館として公開している(写真)、(観覧料 一般200円)、、
 

国木田独歩は佐伯にいた1年足らずの日々を下宿先の坂本邸の2階で過ごした。この間近くの城山をはじめ元越山にも2回ほど登り素晴らしい眺めに涙をしたと言う、また佐伯の自然の中を歩きまわり、周囲の人々と交流をし、これらの経験は後の作品に大きな影響を与えたと言われる、「春の鳥」 「源おじ」 「鹿狩」など佐伯を舞台とする作品も少なくない。佐伯を離れ再上京後は従軍記者を経て雑誌編集などに従事するが明治41年6月23日病死、、明治の文壇に輝く名作を数多く残した。
独歩が下宿先の母屋の2階の窓からいつも元越山を眺めたと言う窓から、在りし日の独歩を偲び眺めてきた、、、(昔の家は2階の天井が低い、チビの私でも頭が天井に当たりそうだ)

 


敷地内には庭園、土蔵(写真上)、井戸(写真下)、裏庭園などが残っている、、、
 
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[豊後の名所・史跡] 豊後二見ケ浦

2017-02-27


大分県佐伯市上浦の日豊海岸国定公園内にある豊後二見ケ浦(ぶんごふたみがうら)(写真)は佐伯市の名勝に指定されている。津久見市から綺麗なリアス式海岸の国道217号線を佐伯市方面に走る佐伯市上浦に入ると間もなく左側に上浦小学校があるが小学校の裏側が豊後二見ケ浦だ、、
夫婦岩は高さ17mの男岩と、高さ10mの女岩が、長さ65m、直径最大75cm、重さ2トンのしめ縄で結ばれている。このしめ縄の長さは日本一で1994年にギネスブックにも掲載され、この大しめ縄は毎年12月の第二日曜日に地元の有志の手で張り替えられます。新年の初日の出の名所としても有名で、3月3日ころと10月10日ころ夫婦岩の間から陽が昇り(写真下)たくさんのカメラマンが訪れる、、、

 

 
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[豊後の名所・史跡] 岡 城址

2016-12-11


今年の紅葉は天候異常でいつもと違う、、と言う話をご当地ではよく耳にする、実際に近隣の山に登っても紅葉がなにかちぐはぐな感じがした。先日大分県竹田市の岡城址に実に39年ぶりに行ってきた(写真)。浦島太郎で昔とえらい違いだ、天候にも恵まれ素晴らしい紅葉を見ることが出来た。



 

最近は何処の観光地にも甲冑姿の案内人がいて写真撮影など観光客にサービスをしている、、

 

岡城址は明治維新後荒廃して樹木が鬱蒼としていたが昭和6年より一部を公園として開放し、藩制当時の盛観を偲ばせている。城址からの展望は飽きる事は無く、北は九重連山、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母、傾きの大森林を一望に収め実に絶景と言える。
 

岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘(おがたのしょう)の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大物浦(だいもつうら){兵庫県}を出港しようとして捕えられ、翌年上野国(こうずけのくに){群馬県}沼田荘に流された。建武(けんむ)の頃豊後の国守護の大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令を受け、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は南北朝なかばの応安二年(1369)から後でその城はきむれ(木牟礼)の城であった。後に志賀氏の居城は岡城に移った。天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大群が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(ちかよし)は城を守り、よく戦い豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし文禄2年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。文禄3年(1594)二月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢四千人余りで入部、築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸(写真)は慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿が造られ城の中心部分とされていった。明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には14代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げで全てが取り壊された。



滝廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったといわれ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
 

 
 


 


 

 
 
 
 
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[豊後の名所・史跡] もみじの名所、 用作(ゆうじゃく)公園

2016-11-20


ご当地は場所によっては紅葉の真っ最中である、大分県では紅葉の名所に数えられる、豊後大野市朝地町にある用作(ゆうじゃく)公園に行ってきた。中九州自動車道を使い(無料)1時間そこそこで行ける、混む事を考え早めに行ったのが大正解でしたね、、
 

既にたくさんの見物客が来ていたが、一眼レフの高級カメラを持ったアマチュアカメラマンの多いのには驚いたね、、さすがに見事なもんだがピークを少し過ぎたような気がするが十分に堪能した。
「用作」(ゆうじゃく)と言う地名は、鎌倉時代に大友能直の八男、能郷が志賀姓を名乗り、隣接地の背子(せご)に地頭屋敷を構え、その所有する用作田(ようさくでん)がなまって伝わったものだと言う。文禄三年(1594)中川秀成が岡藩主として入府し、岡藩が統治する事になりました。寛文四年(1664)藩主中川久清より岡藩第一家老の中川平右衛門に参勤交代道に当たる重要な当地を与え、別荘地としました。中川平右衛門はこの地に書院造の屋敷を構え、全山楓(かえで)と松を植え、心字池、丹字池を作り、さらには射撃場を作り洋風訓練の場としました。また岡城の表玄関として文人墨客来訪も多くなり南画家「田能村竹田」(たのむらちくでん)や儒学者「頼山陽」(らいさんよう)も訪れ岡藩の御客屋としての役割も果たしました。

 



「用作」(ゆうじゃく)は地頭の用作田であったので湧水が多く、その一角に中川平右衛門が別邸を設けたおりに、湧水を利用した池を作りました。草書体の心を形どった「心字池」(しんじいけ)と言い円満な心を願う意味だと言う(写真上)
 


また真心、誠と言う意味を含めて「丹字池」(たんじいけ)も作りました(写真上)。平右右衛門は、心・丹の二池を作らせ日常修行の糧にしました。昔は数本の末の巨木が池の上にさしかかり、松の緑ともみじが池面に映え素晴らしい眺めでした。しかし戦時中の用材供出と松くい虫のため姿を消してしまい、往年の面影は無くなってしまいましたが紅葉の楓だけは今なお往時を物語っています。
 
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[豊後の名所・史跡] 松平忠直(一伯公)霊廟

2016-11-04


大分市の南部、滝尾地区の碇山の中腹に越前国北庄(現福井県)68万石の藩主、松平忠直(一伯公){徳川家康の孫}の霊廟がある(写真)。慶安3年(1650)9月10日、当地の津守館で享年56歳で逝去されました。浄土寺(市内王子西町)で葬儀が営まれ火葬後の遺骨は 浄土寺、 津守館、高野山の3か所に分骨されました。津守では居間の跡地に霊廟(霊光庵)が建立され、明治10年代にこの碇山(碇島)に移築されました。一周忌以来、年忌・遠忌の追善供養が津守地区の人々によりなされてきました。
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[豊後の名所・史跡] 真田幸村の愛馬、真田栗毛の埋所

2016-10-23


日曜日の夜、NHKの大河ドラマ 真田丸 が放映されているが、大坂の陣で武将として活躍した主人公の真田幸村(信繁)の愛馬の真田栗毛の墓(埋所)が大分市の景勝地、碇山(碇島)にあるのを知る人は少ない(写真)
 

大阪冬の陣
豊臣方は米を備蓄し多くの浪人、武将を集め、上田城で徳川秀忠を苦しめた真田幸村が愛馬の真田栗毛と共に大阪城に入った。徳川家康は豊臣家廃絶のチャンス到来とばかりに諸大名に出撃を命じ、慶長19年11月には20万人を超える軍勢で大阪城を包囲した。真田幸村が急ぎ大阪城南方に出丸(真田出丸)を築き、自らここに居座り、寄せくる徳川勢を撃破した。慶長19年12月4日、松平忠直(徳川家康の孫)が率いる越前勢は加賀勢などと共に南方から真田丸を攻めたが城方の激しい銃撃により多数の死傷者を出して退いた。大阪城が強固であることを知った徳川家康は、かねてこの日のために準備させておいた銃砲、大筒を総動員させて砲撃による攻撃を命じた。城中への連日の集中砲撃により淀君など城内の人々を動揺させ、12月19日外堀を埋める事などを条件に和議に至った。

大阪夏の陣
しかし何としても豊臣家廃絶を目指す徳川家康は和議成立後も豊臣秀頼に城内に籠城する浪人を召し放つか、秀頼が大和か伊勢へ移るかと迫った。豊臣家にとっては受け入れる事はできるはずもなく再び戦いとなった。内堀まで埋め立てられたため大阪城は無防備となり豊臣方の諸将は城を出て場外での戦いを強いられる事になった。徳川方約15万5千人、豊臣方約5万5千人の両軍の本格的な戦闘は慶長20年(元和元年、1615)5月6・7日の両日に行われた、7日は夏の陣最大の激戦となり真田幸村隊は数に勝る松平忠直の率いる越前勢と激突した。真田幸村は松平忠直の家臣の西尾仁左衛門に討たれ、勢いに乗った越前勢は徳川方の中で最高の3750の首級を挙げ大阪城一番乗りを果たした。5月8日焼け残りの櫓に潜んでいた秀頼、淀殿は自刃して豊臣家は滅亡した。執念を果たした徳川家康は安心したのか翌、元和2年4月17日に75歳でこの世を去った。

松平忠直(一伯)と真田栗毛
徳川方から「日本一の兵」と称せられた誉れ高き真田幸村と一心同体で戦場を駆けた真田栗毛は名馬として武将たちの垂涎(すいえん)の的であった。幸村が討たれた後、真田栗毛は越前藩主の松平忠直(20歳)に引き取られ、元和元年7月2日伏見の屋敷から新しい主と共に越前へと旅立った。それから8年後の元和9年(1623)3月15日、松平忠直(一伯、29歳)の豊後(現大分県)配流に伴なわれ、他の忠直の愛馬「細迫」、「定抜」と共に九州へと下った。同年5月2日、ようやく長旅を終えて萩原館(現大分市)に着いた。さらに2年半後の寛永2年正月(1625)津守館(現大分市)に移りここが終焉の地となった。戦場で馬に乗る武士は「馬上」或いは「馬乗」と呼ばれ、馬上の武士は進むも、退くも馬次第で常に馬を鍛えておかなければならなかった。戦国時代の馬は主と生死を共にする同志であり戦友でもあった。

真田栗毛の埋所
津守館で真田栗毛が斃れると、松平忠直(一伯)は碇山(碇島)の中腹に丁重に葬り「真田栗毛埋所」と刻した墓碑(高さ90センチ、幅45センチ)を建立した(写真)。墓石は津守で採石された阿蘇凝灰岩で額が設けられ文字は楷書で薬研彫り(溝がV字型の彫り方)である。真田栗毛が死亡した時期は定かでないが真田栗毛に使用されたと思われる轡が寛永9年(1632)に同所の熊野神社に奉納されていることから、それより少し前と考えられる。真田栗毛の年齢は不明であるが、大坂の陣当時、4歳であったと考えれば越前で9年、萩原で2年半過ごしていることから、津守に移った当時は既に16歳前後だったと考えられる。ご当地に置いてあった郷土史研究家の柴田義弘様の書かれたと思われる案内書の一部を抜粋させていただいた、感謝、感謝、
 



 
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[豊後の名所・史跡] 松平忠直公 居館跡

2016-10-12


松平忠直は徳川家康の孫にあたり、摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる)にて文禄4年(1595)6月10日に父結城秀康(徳川家康の次男)の長男として生まれた。父結城秀康の後を継いで13歳で越前国北庄{えちぜんのくにきたのしょう}(現、福井県)68万石の2代藩主となった人物である。元和元年(1615)に起きた大阪夏の陣で、松平忠直率いる越前兵は真田幸村(さなだゆきむら)をはじめ3,750余人もの敵兵の首をとり、さらに大阪城へ一番乗りを果たすなど目覚ましい活躍を見せました。しかしこの年に公布された武家諸法度に定められている将軍家への参勤を怠ったことから、元和9年(1623)3月15日隠居を命じられ松平忠直(一伯公29歳の時)は府内(現大分市)藩主、竹中重義の「御預かり」として豊後国(現大分県)萩原村(現大分市)に5月2日に入った。このとき幕府から5,000石の賄料が大分郡内に与えられ、同時に府内目付が派遣され、以後忠直はその監視下に置かれました。萩原館に3年間居住した後、忠直は寛永3年(1626)新たに津守村に建てられた館へと移り(写真)慶安3年(1650)56歳で病死するまで津守館で過ごしました。「一伯公伝記」などの記録によると、2,184坪の敷地を有し、四方に大堀が廻り、東西それぞれに門が構えられ、御居間、内書院、御陵間など20余棟の建物が建てられていたと言う。津守館に在住ちゅうの忠直は次男松千代、三男熊千代、娘おかんの二男・一女をもうけ、また同地の熊野神社(碇山)をはじめ、柞原八幡宮、霊山寺、西光寺、など神社仏閣の再建や寄進に尽くすなど、神仏を厚く信仰し、家族とともに平穏な日々を送りました。忠直の死後、遺体は大分市王子西の浄土寺で火葬された後、遺骨は浄土寺、高野山、津守村に分骨され津守の館跡にその霊を祭った御霊屋が建てられました、その後明治10年に碇山に移築されました。                    = 案内板より一部抜粋 =
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[豊後の名所・史跡] 大分の名木 楠木生の大クスノキ

2016-09-10


仕事でお客様をお供して着いたところがある神社、境内にそびえたつ大きなクスノキ(写真)、それは大分市下戸次(しもへつぎ)楠木生(くすぎゅう)の楠木生八幡神社の境内に立つ。
 

北朝の延安元年(1356年)、この楠に八幡大神の姿が現れたので社殿を建て祀ったと伝えられている。このクスノキは八幡社の神木であり別名「影迎木」(えいげいぼく)とも言う。またこの地の呼称(楠木生)の由来でもある。市内では2番目、大分県の3大名木で市指定の天然記念物に指定されている。
樹高:   23m
幹回り:  11,1m
樹齢:   800年
                                                 = 案内板より抜粋 =
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[豊後の名所・史跡] 浄土宗西山派 来迎寺

2016-08-25


市内中心部に近い金池町にある名刹、万寿寺に仕事で良く行くが東門のすぐ北西側に立派な門構えの寺院がある、浄土宗西山派の来迎寺(写真)、一度こちらのご住職をお供したことがあるんだがこちらの寺院も古い歴史のある寺院である。
文亀元年(1501)に創建された浄土宗西山派の寺院で開祖、文忠梵榮(もんちゅうぼんえい)上人が仏道修行のために、諸国を巡った折に豊後国を訪れたところ、その徳のすぐれた人望に深く感動した大友氏第18代親治(ちかはる)が上人を府内町に引き留めて当寺を建立しました。それ以来500年以上この地にあります。戦国時代の府内を描いた「府内古図」と現在に残る地割から復元すると、大友館跡から450m北に位置することが解ります。当時の海岸線は現在よりもはるかに南で、古絵図には来迎寺の北西に舟入が描かれています。貞享5年(1688)の火災のためそれ以前の来迎寺の姿についてはよく解っていません。しかし元禄12(1699)に戸倉貞則が著したとされる「豊府聞書」によると、この被災以前の来迎寺は広大で美しく、特に書院は黄金色の障壁画で飾られる見事なもので寛永16(1639)には府内藩主の日根野吉明が熊本藩主の細川忠利をもてなしたことが記されています。この記録は江戸時代の来迎寺の姿を描写したものですが戦国時代もこのように壮麗な寺院であったと考えられます。
                                                   = 案内板より =

 
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[豊後の名所・史跡] 天台宗 飛来山霊山寺

2016-08-18


大分市民に親しまれている霊山(りょうぜん)の山麓にある天台宗 飛来山霊山寺(ひらいざん りょうぜんじ)(写真)、由緒ある古刹である。元明天皇の和銅元年(708年)の建立で本尊は十一面観世音菩薩を安置し木彫で背丈1,8メートルの立像である。
 

伝説によれば田尻村(現大分市田尻)に住んでいた七郎祐世という猟人が夢のお告げにより山に登って観音像を見つけ罪障消滅のために自ら剃髪して草堂を建て尊像を安置したのがこの寺の始まりと伝えられる。その後、インドの僧、那伽法師の来山により山の姿がインドの霊鷲山(釈尊の説法した山)によく似ているのに驚き「霊鷲山の一角が日本に飛んで来たのではあるまいか」との事から飛来山霊山寺と名付けられ、また天台宗開祖である伝教大師最澄や弘法大師空海、慈覚大師円仁などが来錫され、弘仁5年(814年)に天台宗寺院となった。
 

文永5年(1268)の火災で伽藍、堂塔などが焼失したが本尊は難を逃れ、大友氏の外護もあって寺坊三百余ヶ寺を建て郷土文化の中心として盛大を極めたが大友氏落去後、衰徴し天正14年、薩豊の乱により観音像のみを残し焼失してしまった。元和9年(1623)6月越前より流された松平忠直(一伯公)が津守村(現大分市津守)に居住、仏道に信仰を求め当寺に参詣され本堂、山門、鐘楼が再建された。その際に植えられたと伝えられる樹齢400年、樹高35m、幹回り4,4mの杉が現存しており、昭和49年(1974)2月1日に大分市の銘木に指定されている。

 
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[豊後の名所・史跡] 軍師官兵衛と中津城

2016-05-29


一昨年(平成26年)のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の居城、中津城(写真)、ご当地に引っ越して間がなく、病み上がり、新米タクシードライバーを始めたばかりでなかなか機会がなかった。NHKの大河ドラマの舞台となると一気に観光客が訪れる事は、郷里の春日山城主の上杉謙信公の家臣、直江兼続が主人公の「天地人」が平成21年に放映された時を経験している。そのうちに落ち着いたらゆっくり行けばいいわ、、と言うことでだいぶ遅くなったが東九州自動車道も全線開通した事だし行ってきた。



激動の戦国の世、天下統一に突き進む豊臣秀吉の軍事参謀として支えた黒田官兵衛孝高(よしたか)は姫路城主の黒田職隆(もとたか)の嫡男として天文5年(1546)播磨国(兵庫県)で生まれた。
永禄12年(1567)、22歳で家督を継いで姫路城主となり、志方(しかた)城主櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘光(てる)と結婚、翌年に適男松寿丸(のちの長政)が生まれた。
天正5年(1575)東の織田信長と西の毛利輝元の両勢力に挟まれた播磨の諸将のなか、黒田官兵衛は主君小寺政職(まさもと)に職田につくように説得、自ら使者となって岐阜城の信長に謁見しました。こうして秀吉の配下に入り軍事参謀としての活躍が始まった。
天正5年(1577)官兵衛は中国地方討伐の司令官として播磨入りした秀吉に姫路城を差し出し、はりまの国人領主が織田につくよう交渉に奔走しました。しかし翌年、有岡城の荒木村重が反旗を翻したため、官兵衛は説得に単身で城に乗り込むも幽閉、1年もの間土牢に入れられ足が不自由になってしまいました。
天正10年(1582)備中高松城の水攻めの最中に信長が明智光秀に討たれたとの知らせが入りました。これを聞き泣き崩れた秀吉に官兵衛は「信長さまの仇を討てば天下が秀吉さまに回ってきましょう」と天下取りを進言したと言われている。その後、秀吉軍は1週間で京都までの200キロを移動しました、世にいう(中国大返し)です。そして一気に明智軍を粉砕しました(山崎の戦い)。この官兵衛の天下取りの進言で秀吉は官兵衛を頼もしく思う反面、以後警戒心を抱くようになったと言われています。
天正14年(1586)官兵衛は秀吉の九州攻めの先遣隊の軍師として諸大名の勧降工作に当たりました。秀吉軍本体の九州入り前に、かなりの大名を秀吉側に引き入れるなど大きく貢献し、翌天正15年(1587)、その功績により豊前6群(京都みやこ、仲津なかつ、築城ついき、上毛こうげ、下毛しもげ、宇佐うさ、)12万石の領主となりました。
天正16年(1588)、中津城の築城を開始、天正17年(44歳)で家督を嫡子長政ながまさに譲り文禄2年(1592)ころ「如水」と名乗っている、天正11年(1583)キリスト教の洗礼を受ける、洗礼名:ドン・シメオン。天正18年(1590)小田原城攻め、天正19年(1591)肥前名護屋城の縄張りを命じられる。文禄元年(1592)文禄の役、宇喜多秀家の軍監として朝鮮に渡る。慶長2年(1597)慶長の役、小早川秀秋の軍監として参加。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い。九州では石垣原の戦いが起こり黒田軍は中津より出陣し石垣原(別府)で大友郡を撃破(石垣原の合戦)。嫡子長政の筑前52万石移封に伴い福岡に移る。
慶長9年(1604)京都にて逝去(享年59歳)、葬儀は博多の教会で行われ墓は博多の黒田家の菩提寺、崇福寺にある。

 

官兵衛は豊前入国当初は馬ヶ岳城うまがたけじょう、(現行橋市)を居城としましたが、山城では城下町つくりが出来ないため、平地に移すことを考え、天正16年(1588)から中津城の築城を開始しました。中津は豊前国のほぼ中央に位置し、周防灘に流れ込む高瀬川(現中津川)に面しており、川を自然の堀として使えるうえ水陸交通の要地でした。又広い平野で地方有数の米どころでもあり、海運と商工業を押えるにはうってつけの場所でした。官兵衛が築いた石垣には当時の最高技術である穴太積み(あのうずみ)の技法が用いられています。天守閣から眺める景色は中津市、周防灘を一望でき、日本三水城(中津城、高松城、今治城)に数えられる(写真)。
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[豊後の名所・史跡] 浄土宗鎮西派、見仏山西巌院、浄土寺(じょうどじ)

2016-03-05


大分市内の国道10号線を別府方面に向かうと(大分市王子西町)浄土宗鎮西派、見仏山西巌院浄土寺(写真)がある。徳川家康の孫にあたり豊後国府内藩(大分市)に配流となった松平忠直(号は一伯)の墓所があることで知られ、本堂、一伯公廟などは平成20年10月23日に国の登録有形文化財に登録されている。浄土寺は戦国時代の文亀元年(1501)、豊後国府内藩主の大友親治(大友宗麟の曾祖父)が開基となり、近江国から巡錫(各地をめぐり歩いて教えを広めること)して来た満誉覚了上人が開山した。その後1573年に戦火で焼失し、再建の年代は分かっていないが大伽藍が復興された。しかし安永2年(1773)に付近の火事で再び全焼した。以後70年にわたって復興に努め、嘉永2年(1849)に現在の十二間四面の大伽藍を再建して現在に至っている。
 

元和9年(1623)徳川家康の孫(徳川家康の二男、結城秀康の長男)に当たる越前北ノ庄七十五万石(現、福井)の藩主の松平忠直が将軍家とトラブルを起こして豊後府内藩(現在の大分市萩原)へ配流となった。七十五万石からわずか五千石の扶持となった松平忠直公の行状はますます悪化していく。しかし、愛妾お蘭の方の死去がきっかけとなって、忠直公は浄土寺第十代の信誉上人と深い親交を結ぶことになった。この関係を通じて忠直公はこれまでの振る舞いを反省、阿弥陀如来がおわす西方極楽浄土の信仰一筋に生きる。その後忠直公は館を津守(現、大分市滝尾)に移し、付近の住民から慈父の如く慕われたと伝えられている。慶安3年(1650)に56歳で死去、浄土寺第十一代の単誉了宅上人によって葬儀が行われた。生前に忠直公を改心させた功によって、浄土寺は徳川家の葵の紋の使用を許され、一宗から豊後国筆頭職を命じられることになり大いに栄えるようになった。

 
 

忠直公廟(写真)は江戸後期に建造されたもので、松平忠直(一伯)とその愛妾であったお蘭の方の墓碑を安置する霊廟である。近世における廟所建築の好例とされる。お蘭の方を葬ったことが縁で浄土寺住職と親交を結び、浄土寺を菩提寺とした。境内には忠直公と、お蘭の方の墓石が残されており、その銘から忠直公の墓は逆修墓(生前に作られた墓)であることが分かっている。

 

 
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[豊後の名所・史跡] 山弥長者屋敷跡

2016-02-13



大分市中心部の大手町に山弥長者(さんやちょうじゃ)の屋敷跡がある(写真)。県庁横の遊歩公園通りと長浜町の塩九升通りを結ぶ一方通行道路(西向き)の途中(北側)にあり、車で通ると一方通行で進行方向からは建物の陰で見えない。偶然だが仕事でお客さんを迎えに行くと案内が建っている路地からお客さんが出て来られ存在を知った。1日数回も通る道路だが2年間も解からなかった。空車になり後からわざわざ見に行ってきた、好きだねー、、、
 
 
山弥長者(さんやちょうじゃ)は江戸時代の初めに活躍した豪商と伝えられる人物です。井原西鶴(いはらさいかく)の小説、「日本永代蔵」には「豊後の府内に住みて万屋三弥(よろずやさんや)とて名高し」と記され、また貝原益軒(かいばらえきけん)の紀行書「豊国紀行」には「日向の銀山にて銀を多く取て大富人と成り、府内に家宅を作る、其の家大にして美麗なり」と紹介されています。屋敷はこの一帯、旧府内城下町の万屋町(よろずいまち)と胡町(えびすまち)とにまたがる壮大な構えの屋敷であったと言われ「万屋」の屋号は町名にちなんだものと言われている。「山弥」は鉱山経営(宮崎県高千穂町の土呂久鉱山)で財をなし「上方(大阪)への船商い」などを通じ大富豪となりました。江戸時代の初期、府内藩の運営の基礎造りのため藩主は豪商の経済支援を必要とし、「山弥長者」も府内藩の財政に深くかかわっていたと思われます。しかし正保四年(1647)府内藩主日根野吉明(ひねのよしあき)の勘気にふれて一族もろとも刑死に遭ったと言う悲劇が伝えられています。「山弥長者」ゆかりのものとして「三弥之助逆修塔」(大智寺)と「守田山弥助寄進石灯篭」(金剛宝戒寺)が残されています。
                    == 案内板より抜粋 ==

 
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[豊後の名所・史跡] 三浦梅園資料館と旧宅

2016-01-27


国東半島の国東市安岐町富清に帆足万里、広瀬淡窓と並んで「豊後の三賢人」と称される江戸時代の哲学者、三浦梅園の国史跡の旧宅(写真)があり無料で見学できる。

 

旧宅に隣接して三浦梅園資料館(写真)がある。資料館には国重要文化財指定の三浦梅園(1723~1789)の遺稿や天球儀、肖像画など多数展示してあり、研究員が説明を行っており(電話予約が必要のようだ)医学、哲学、天文学、経済学、等あらゆる学問を勉強した三浦梅園の功績を知ることができる。また 三浦梅園の生涯や学説を紹介する短編映画も上映しています。
 
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[豊後の名所・史跡] 岩窟の古刹 羅漢寺

2015-12-14

青の洞門で有名な中津市の本耶馬溪を訪れ、名前には聞いていた羅漢寺の総本山で日本三大五百羅漢の一つ曹洞宗耆闍崛山(ぎしゃくつせん)羅漢寺へ行ってきた。羅漢山の中腹の岩肌を穿ち、しがみつくように建つ建物が印象的だ。険しい参道を登らずにリフトを利用すると数分で行ける。

 

山門(写真)は仁王門と並んで昭和18年の大火災を免れた建物のひとつで室町幕府の三代将軍足利義満により建立されたと伝えられています。



山門を入ると無漏窟(むろくつ)(写真)があります。無漏窟とは煩悩がない境地の大きな岩屋で、この中に中央に釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)が安置され両側にいろいろな顔の五百羅漢が安置されています。延文四年(1359年)逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん)という偉僧が昭覚禅師(しょうかくぜんじ)と共に僅か1年で700余体の石像物を建造したと伝えられています。羅漢とは仏さまの一つで下記の種類に分けられる、、、
  1. 如来仏(にょらいぶつ)
  2. 菩薩(ぼさつ)
  3. 明王(みょうおう)
  4. 天 (てん)
  5. 羅漢(らかん)
  6. 高僧(こうそう)


孝徳天皇の大化元年(645)にインドより法道仙人(ほうどうせんにん)が渡来されました。当山の霊峰に感動した法道仙人は地形がお釈迦さまの聖跡である 耆闍崛山(ぎしゃくつせん)に良く似ていることからこの洞中に滞在しました。去るに当たって念持仏として奉持された金銅仏一体を残しましたが、これが羅漢寺の起源だと言われています。
平安時代には、山岳仏教の霊地として天台宗の時期もあったようですが、その後後醍醐天皇の延元2年(1337)には臨済宗祖の円龕昭覚(えんがんしょうかく)が訪れました。この昭覚が十六羅漢の画像を描いて洞窟のなかに掲げたことから、羅漢寺と呼ばれるようになったと 伝えられています。さらに中国の逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん)がこの地へやって来ました。建順は昭覚と協力して羅漢寺に五百羅漢像など3700余体の地蔵を建造し延文5年(1360)に完成し1000人余りの僧侶が集まり開眼供養が行われたと言われています。この事を知った室町幕府の足利義満(あしかがよしみつ)も羅漢寺に帰依するようになり又この地を治めていた細川家からの支援もありました。しかし戦国時代になり大友宗麟(おおともそうりん)が領内寺院を邪宗として焼き払い羅漢寺もほとんどの伽藍(がらん)を焼失してしまいました。以来臨済宗26代を経て、慶長五年(1600年)に、長州深川大寧寺より曹洞宗の鉄村玄さく禅師(てつそんげんさく)が 入山され曹洞宗に改まってから現住職まで二十七代であります。鉄村玄さくは細川忠興(ただおき)の帰依や援助を受けて羅漢寺の復興に努めました。本寺は昭和18年に火災で焼失し現在の本堂は昭和44年に再建されたものです。


 

近くの耶馬溪の青の洞門の景勝地は有名です。競秀峰(きょうしゅうほう)と呼ばれる切り立った巨岩群があり、断崖を鎖だけを頼りに通る鎖渡と呼ばれる難所で、年に何人もの村人や羅漢寺を参詣する人々が転落し濁流に飲み込まれていました。しかし羅漢寺を参詣する人の列は絶えませんでした。羅漢寺を参詣に訪れた、親が越後(現新潟県)高田藩の僧侶の禅海和尚は一人岩盤に挑戦しました。最初は無駄な事を、と相手にしなかった村人もやがて共にノミを握り貫通した時は30年の年月が過ぎ去った宝暦13年(1763)でした。ぶ厚い岩盤をノミと槌だけで掘り抜いたトンネルです。参道の禅海堂には禅海和尚が使用したノミや槌、色々な資料が展示されている。



 
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[豊後の名所・史跡] 熊野磨崖仏

2015-11-28

国東半島の豊後高田市大字平野字登沢、国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から結構きつい山道を約300メーターほど登ると鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段が続きこの石段を上ると巨大な石壁に刻まれた日本一雄大な石仏が現れる、大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である。昭和30年2月15日に国の史跡に指定され、昭和39年5月26日に国の重要文化財に指定された。藤原時代末期(約900年前)の作と推定される、伝説では養老2年(718年)仁聞菩薩が設立したと伝えられ近くの山中に「御所帯場」と呼ばれる作業時の宿泊跡がある。
 

大日如来(写真)は全身高さ6,8メーターで石畳みが敷かれ半立像であり尊名は大日如来と言われているが宝冠も無く印も結んでいないので薬師如来ではないかとみるむきもあるが、やはり大日如来の古い形であろうと言われている。
 

 
不動明王(写真)は総高約8メーターで大日如来と同じく半立像で下部はあまり人工を加えていない。

 
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[豊後の名所・史跡] 本耶馬溪と青の洞門

2015-11-15


一昨年は耶馬渓でも深耶馬渓に行ってきたが、今日は天気もまずまずだ、思い切って中津市の本耶馬溪、青の洞門に出かけてきた。紅葉も見ごろでたくさんの観光客が訪れていた。

 

青の洞門は大正8年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で一躍有名になった、越後(現新潟県)の禅海和尚が掘った洞門(トンネル)で、山国川に面してそそり立つ耶馬渓を代表する名勝である競秀峰の裾野に掘られたトンネルである(写真)。江戸時代、諸国遍歴の旅の途中この地を訪れ、近くの羅漢寺を参詣した禅海和尚が、鎖渡しと呼ばれる難所で命を落とす人馬を見て、仏道修行者としてこの危難を取り除き衆生救済の門を開かんものと大誓願を発し洞門開削工事に取り掛かり、約30年の歳月をかけて明和元年(1764年)に完成したものです。ノミと槌だけで掘り抜いた隧道の長さは約342メートル、うちトンネル部分の延長が約144メートルあります。完成後には通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収し工事費に当てたという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。
 

 

禅海和尚がノミと槌で手掘りし、最初に明り取りの窓として掘った窓(写真上)などが残っている。
 

禅海(ぜんかい)和尚は元禄4年(1691)~ 安永3年(1774)の江戸時代中期の曹洞宗の僧であり、越後国(現新潟県)高田藩士の子で、本名は福原市九郎。生年については貞享4年(1687)説もある。詳しくは真如庵禅海といい、江戸浅草の住人であり、祖先は越後国高田藩の福原氏であると言い、両親が亡くなった事から世の無常を感じて出家し諸国を行脚、正徳5年(1715)に得度して禅海と称した。
 
 
 
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[豊後の名所・史跡] 国の重要文化的景観 田染荘(たしぶのしょう)

2015-11-02


 
国東半島の現豊後高田市の田染荘(たしぶのしょう)は中世の平安時代、鎌倉時代、全国の八幡総本宮の宇佐神宮の根本荘園として栄えた。


田染荘小崎地区にはパズルのように細かく区画された棚田が残されているが(写真)、平安時代、鎌倉時代の集落や水田などの位置がほとんど当時と変わらず、その当時の風景を色濃く残すことが高く評価され、「田染荘小崎の農村景観」は、2010年に国の重要文化的景観に選定、ユネスコの第3回「プロジェクト未来遺産」に登録され、世界農業遺産「国東半島・宇佐地域」(2013年に選定)の象徴的な場所として残されている。毎年6月の第2日曜日には御田植祭が行われ、昔ながらの苗植え体験は誰でも自由に参加できる。 又ホタルの名所としても有名で6月頃からはホタルの乱舞が鑑賞できます。

~ 空から ~ 色づく田んぼのパズル

 
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[豊後の名所・史跡] 国宝 臼杵石仏と名物臼杵せんべい

2015-10-19


40年近く前に一度見物に来た事がある臼杵石仏、もう記憶は薄らいでいる、縁が有りこちらに来て早く訪ねたいと思っていたが2年近く経ってしまった。薄らいだ記憶ながら石仏が建物で覆われ、土産店などが建ち目を疑う変貌ぶりには驚いた。昭和55年から14年間におよぶ保存修復工事が行われ、平成7年6月、臼杵磨崖仏4郡59体が磨崖仏では全国初、彫刻においても九州初の国宝に指定された。凝灰岩の岩壁に刻まれた多くの磨崖仏は平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたと言われているが、誰がどのような目的で造ったのか解かっておらず今なお多くの謎に包まれている。
我が国の石造美術の最高傑作と言われる臼杵磨崖仏、平安時代末期から室町時代末期まで磨崖仏と関連すると思われる寺院が存在していたと言われていたが、昭和51年から随時行われてきた発掘調査によって近くの満月寺や湿田から多数の存在を裏付ける物が発見されました。無料駐車場の奥にヤマコ臼杵美術博物館があるがこちらに発掘時の貴重な遺物や臼杵藩稲葉家の資料などが多数展示されている。




 
石仏へ向かう参道などに何軒かの食堂や土産店が並んでいる、どちらの土産店にも臼杵市の銘菓、臼杵煎餅(写真)が多数ならんでいるが臼杵せんべいの名前は知っていた。店のスタッフが、どうぞ食べてみて下さい! 一枚の煎餅を小さく割った物が置いてある、何だ、煎餅かよ! ちょうど昼で少し腹も減っていた、手に取ってたべてみると、 んッ、良いねー美味いねー! ちょっと品が無いが、ついつい三回、四回と口に入れた。べつに臼杵煎餅の会社の関係者でも、まわし者でもないんだが、美味しく癖になりそうだ、臼杵市内の複数の菓子店で製造、販売されているようだ、包装には臼杵石仏の大日如来像が使われている。
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[豊後の名所・史跡] 全国の八幡様の総本宮、宇佐神宮

2015-04-12

全国の八幡宮の総本宮で神興と神仏習合の発祥地として有名な宇佐神宮、738年に境内に建立された神仏習合文化発祥の弥勒寺(みろくじ)跡、国東半島の六郷満山文化に大きな影響をあたえました。明治時代に入り神仏分離により廃寺となったが、かってここで安置されていた薬師如来坐像は近くの大善寺に安置され国の重要文化財である。スピリチュアルスポットとしても有名で訪れる人も多い。
 

たくさんの土産物店などが立ち並ぶ宇佐神宮仲見世を通り寄藻川(よりもかわ)にかかる朱塗りの欄干の橋(写真)を渡って参道に入るとまず右側に黒男神社が見えてくる、境内には他に春宮神社、亀山神社など多くの神社がある。罰当たりかもしれないがお賽銭がたくさんいるんだわ、、、
 

大鳥居(写真)をくぐり広い境内へと入る、さすがに参拝者が多い。宇佐神宮は全国の八幡社の総本宮であり、八幡さまとは応神天皇の御神霊で欽明天皇の三十二年(571)に初めて宇佐の地に御示現になり、大陸の文化や産業を輸入して神徳も高く、皇室では伊勢につぐご先祖の神社として祟敬された。
 

御祭神は一之御殿 八幡大神 (応神天皇、おうじんてんのう)・二之御殿  比売大神 (多岐津姫命、たきつひめのみこと)、(市杵嶋姫命、いちきしまひめのみこと)、(多紀理姫命、たきりひめのみこと)・ 三之御殿 神功皇后 (息長帯姫命、おきながたらしひめのみこと)である。この三殿一徳の八幡宮の御神威は皇室だけでなく一般の人々にも鎮守の神として信仰された。清和天皇のとき僧行教により、貞観二年(860)に平安京の鎮護として宇佐の御分霊を祀りて石清水八幡宮を創立し、源頼朝は鎌倉幕府の鎮守として鶴岡八幡宮を建てるというように全国に四万社あまりの御分社が次々に祀られた。また聖武天皇の御勅願で神宮寺弥勒寺を建てられたことにより、国東半島を中心とした六郷満山の仏教文化発祥に多大な影響をあたえた。一之御殿、二之御殿、三之御殿の三棟が横に並び本殿を横から見ると屋根がM字に見える八幡造りという古い神社形式を今に伝えており国宝に指定されている。(写真は勅使門)  = 一部神社のパンフレットを引用 =
 

 
 
 
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[豊後の名所・史跡] 宇佐市平和資料館、宇佐海軍航空隊跡

2015-03-30


大分県西部の宇佐市に昔の海軍航空隊があった事はご当地に引っ越すまで知らなかった。こりゃ―行ってこなきゃいけねーなー!平成25年6月に開設された宇佐市平和資料館は、道路からうっかり見落としてしまいそうな小さな案内看板がある。館内には宇佐海軍航空隊の歴史や遺品、空襲の映像、映画の「永遠の0」の撮影に使用された零式艦上戦闘機21型の原寸大模型(写真)などが展示されている。
 



 いまは田園風景が広がる、のどかな所に昭和14年(1939)10月1日、実用機練習航空隊として隊員数約800名の宇佐海軍航空隊が開隊した。 ハワイの真珠湾攻撃に参加する航空母艦「翔鶴」・「瑞鶴」の艦上攻撃隊が宇佐航空隊で訓練をした。昭和18年7月、勤労奉仕隊により掩体壕(えんたいごう)が造りはじめられた、掩体壕は戦闘機などを敵の攻撃から守るための格納庫で、上空からは周囲と一体化した小さな山に見えるように造られている。「城井一号掩体壕」(写真)は平成7年に沖縄のひめゆり学徒隊が看護補助要員として動員された「沖縄陸軍病院南風原壕群」に続き全国で2番目に戦争遺跡に指定されました、3番目は広島の原爆ドームです。
敗戦が濃厚になった昭和20年2月16日宇佐海軍航空隊に110名の特攻訓練が命令され、4月6日沖縄方面へ特攻出撃し、以後5月11日までの特攻で81機154名の若い命が散った。

 

特攻で戦死した154名の氏名、出身県などを刻んだ碑が建立されている(写真)
 

いくつかの掩体壕が残っているが、農家の農機具の保管庫などとして使われている(写真)。他にも滑走路跡、爆弾池、落下傘整備所、など多くの遺品が残され、米軍のB29からの機銃の跡などがなまなましく残っている。
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78おすすめ

[豊後の名所・史跡] ムッちゃん平和像

2015-01-12


大分市の中心部より少し東の位置に長さ1,8キロにおよぶ細長い平和市民公園がある。市民の文化教養、休養散策、スポーツ等の多様なニーズに対応する施設として昭和54年から実に12年の歳月をかけて建設された総合公園です。園内には国際交流広場をはじめ、ワンパク広場、また行事やレクリエーションに利用できる多目的広場や芝生広場など様々な広場があります。また公園の南側に位置する能楽堂では能楽はもとより、日本舞踊、邦楽、民謡、茶道など広く古典芸能での利用が可能です。
公園の裏側の裏川沿いにはソメイヨシノが約650本、八重桜約160本を植栽し、国際交流広場には季節に応じた花を植えるなど四季を通じて楽しめる市民の憩いの場となっており、毎日多くの市民が利用しています。この公園の南側にあるワンパク広場の一角に 「ムッちゃん平和像」(写真)がある。

この「ムッちゃん平和像」は昭和52年に毎日新聞大阪本社が企画した、戦争体験(終戦三十三回忌の夏)に、京都府宇治市の主婦、中尾町子さんが疎開先の大分市で出会った少女「ムッちゃん」の思い出の手記を投稿し、それが記事として掲載されたことが建立のきっかけとなりました。
横浜で両親と弟を戦災で亡くし、大分のおばさんを頼って疎開していたムッちゃん(当時十二歳)は結核を患い飢えと孤独の苦しみの中、昭和二十年の終戦直後、西大分駅近くの防空壕の中でひとり寂しく死んでいったという。この戦争悲話は全国的な反響を呼ぶことになり、ムッちゃんの記念像建立にと各地から約650万円の寄付金が寄せられ、その平和を願う多くの浄財により昭和58年8月12日、ここ平和市民公園ワンパク広場に「ムッちゃん平和像」が建立除幕されました。二度と戦争による悲惨な惨禍を繰り返さないためにも、この平和像建立を機に平和への誓いを新たにするとともに、平和像が恒久平和のシンボルとして皆様に愛され、そして平和の輪がさらに広がることを願っております。  大分市     =案内板より抜粋=

昭和60年(1985)にはそのムッちゃん、こと山下睦子ちゃんの物語を綴った映画「ムッちゃんの詩」が上映されました。今でも大分市では毎年8月に「ムッちゃん平和祭」というセレモニーが行われ、市内の小、中学生による千羽鶴が飾られる。「ムッちゃん平和像」の周りには千羽鶴、お花が飾られていた。

 
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116おすすめ

[豊後の名所・史跡] 日本一 九重 夢 大吊橋

2014-11-16


大分県の北西部に位置する日本一の 九重(ここのえ) ”夢”大吊り橋、(写真)に行ってきた。紅葉も見ごろになった日曜日、大吊り橋に行く途中、大渋滞に会う羽目になった、他人の事は言えないが、よくまー集まって来るね!大部分は県外ナンバーの車だ総事業費20億円、平成18年(2006)10月30日に開通した、九重夢大吊橋は水面からの高さが173m、長さ390m、ともに日本一である。歩行者専用橋としては日本一の高さ、長さを誇る。橋の上からは日本の滝百選に数えられる震動の滝や紅葉が見事な九酔渓が臨める。標高777mから臨む紅葉はちょっとピークを過ぎた感がするが見事ですね、、また九重連山の壮大な景観を眺めることができます、、

 九重 ”夢” 大吊橋のスライドショーは = こちら =

 
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87おすすめ

[豊後の名所・史跡] 日本の滝百選 原尻の滝

2014-11-05


日本の滝百選に選ばれている原尻の滝(はらじりのたき)へ行ってきた。滝というとほとんどが山の中を思い出す、稲刈りの終わった、のどかな田園風景の中に滝が現れる(写真)。大分県の南西部、豊後大野市緒方町にある、
 

大野川水系の緒方川にある原尻の滝は「日本の滝100選」「大分県百景」のひとつにあげられている名瀑です、その雄大な姿から「日本のナイアガラ」と呼ばれています。幅120m、高さ20mからごーごーと音をたてて流れ落ちる滝は圧巻の一言だ、、、
 

約9万年前に阿蘇山の大爆発で流れた溶岩が滝周辺で堆積したものと云われています。滝の近くには吊橋がかかっており、その吊橋からは滝を正面から見ることができます(写真) 、また下に降りて滝の近くまで行くこともできます。
 

滝を上から見る事も出来、運が良いと虹がかかる(写真)わかるかなー、すぐ近くには「道の駅 原尻の滝」があり色々な特産物が販売されており、レストランで滝を見ながら食事をすることもできる、、、
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[豊後の名所・史跡] 日本の渚百選 「黑ケ浜」 と 姉妹岩

2014-10-24


佐賀関半島の関崎から少し南(漁港)に向かうと展望台がある、晴れた日に、ここから豊後水道、豊予海峡を望むと四国の島影、日豊海岸国定公園の島々が臨め心が安らぐ、、設置してある望遠鏡をのぞくと遠く豊後水道に浮かぶ水の子灯台が望めると言うが、、昔、船員時代に南太平洋のニューカレドニアからニッケル鉱を積んで佐賀関に向かうと最初に見えてくるのが、ぽっかりと浮かんだ水の子灯台だ、これを見ると、あー、日本に帰って来たなー! と言う気になったもんだ。
展望台から少し南に進むと 日本の渚百選 に選ばれている 黑ヶ浜(くろがはま)(写真)がある。名前の通り海岸が黒い、蛇紋岩と呼ばれる黒い石のために海岸が黒く見えることに由来している。黒ヶ浜は、対照的に白砂の海岸である白ヶ浜(しろがはま)に隣接している、このように白黒の海岸が隣接する地形は全国的にも珍しいようだ、、、

 

黑が浜の隣に姉妹岩(写真)がある、遠い昔、神武天皇ご一行の船がこの地の沖合を通ろうとしたところ、急に船が進まなくなりました。天皇御自ら海底をご覧になると、かって伊弉諾の命(いざなぎのみこと)が海に落としたと言われる御神剣(ごしんけん)を、大ダコが守護しているのが解りました。そこで天皇は海女の黒砂(いさご)、真砂(まさご)姉妹に御神剣を大ダコから受け取るように命じました。まず姉の黒砂が潜りましたが、ここは潮の流れが速いうえ、体力の限界を超えた深さまで潜ったので、御神剣を大ダコから受け取ったまま息絶えました。次に真砂が潜り、御神剣を姉から取り上げ、天皇にお渡ししましたが息絶えてしまいました。その夜、天皇の夢の中に姉妹が現れ、「ここを航海する船は、私達が御護りいたします」と告げました。翌朝、激しい雷雨で大岩が裂け、二つの岩となりました。それが姉妹岩で海の安全を護っていると言われています。又御神剣は佐賀関町の早吸日女神社(はやすいひめじんじゃ)の御神体となっています。                                 = 案内板より =



 
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[豊後の名所・史跡] 豊後高田市 昭和の町

2014-10-13


大分県の北部、周防灘に面した国東半島の付け根の部分に位置する豊後高田市、人口が23,000人ちょっとの小さな市だ。この町が元気で賑わっていた昭和30年代をもう一度よみがえらせようと平成13年から取り組んだ町づくり、ボンネットバスが走り懐かしい昭和30年代の町がよみがえっている。
 
     
    

子供の頃、河原の砂利採りを商売にしていた家に部落でただ一台あった自動車、オート三輪と呼ばれていた三輪の自動車だ(写真上)、トヨタ、だの日産ではない、確か、くろがね、とか 水島、と書かれていた記憶があるが、河原に水遊びに行って、オート三輪の運転席にまたがり、ぶー、ぶー、と声を出して運転している気分になったネ、キックを踏んでエンジンをかけ、アクセルはハンドルに付いているレバーを回すんだったな、大村 崑さんがコマーシャルで宣伝していた、ダイハツ ミゼット、スバル360 など懐かしい車が展示されている。


昭和30年代、日本の高度成長時代の家電用品、家庭用品、事務用品、カメラ、などなどから当時人気のあった食品、看板など、よくまー集めたねー! 昔懐かしいおもちゃなど、数万点が展示されていると言う。
 

昔の小学校の教室も再現してある(写真)、ちょうど見学に来ていた女の子がオルガンを弾いて、親子が黒板にチョークで何かを書いていた、昭和の町にいると昭和30年代にタイムスリップした感じだ、、、
 
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[豊後の名所・史跡] 天台宗 峨眉山 文殊仙寺

2014-10-03

 

国東半島にある六郷満山の古刹、天台宗 峨眉山 文殊仙寺(もんじゅせんじ)に行ってきた。国東半島を一周する国道213号線の富来から約10キロほど内陸に入る。のどかな稲穂が実る田園風景から段々と山に入る、奇岩怪石に囲まれた仙境一帯の大自然は「日本の自然100選」にも選ばれている。
駐車場(写真左)から約300段の石段を登り始めると、参道の左右に点在する石佛と林閑とした空気が出迎えているような気がするから不思議だね(写真右)、、境内には600年前の仁王石像、十六羅漢像、梵鐘、日本一の高さを誇ると言われる宝筐印塔など見るところが多い。又寺院周辺には1時間くらいのトレッキングを楽しめる遊歩道がある。

 

文殊仙寺の開山は648年(大化4年)で、中国唐時代仏教の五大霊場の一つである五台山より迎えられた文殊師利菩薩を御本尊に安置した役(えん)の行者の開基と伝えられている。この御本尊は秘仏で十二年ごとの卯年の春の大祭に御開帳される。
文殊菩薩は諸菩薩の首位におかれる大吉祥菩薩で、衆生の知恵と福徳円満の力を授ける知恵の母であり、 ”三人よれば文殊の知恵” の発祥地で日本三文殊の一つとして広く知られている。また奥の院の岩窟から湧き出る霊水は「知恵の水」と呼ばれ人々に古くから信仰されている。

 
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[豊後の名所・史跡] 岩屋寺石仏

2014-09-23


 
上野ヶ丘の丘陵地、大分市古国府の岩屋寺石仏、9月14日掲載の元町石仏から200メーター位のところに位置する(写真)
 

大分元町石仏同様に凝灰岩質で、ここの凝灰岩は特に岩質があらく、永年の風雨のため腹部から脚部に下る程侵食がひどく、すでに輪郭をとどめる像も少なくありません。全部で17躯の磨崖仏から構成されており、崖面の中央にある大きな如来坐像を挟んで、向かって右側には最も右側の十一面観音菩薩立像など六像が並んでいます。向かって左側には最も右側の不動明王立像など合わせて十像が彫りだされています。どの像も彫刻面がひどく傷んでいるため像名の解らないのもありますが、近くの元町石仏(国指定史跡)にならって考えると、中央の如来坐像を薬師如来とし、その左右に釈迦如来、阿弥陀如来の二組の三尊像を陽刻し、過去、現在、未来、の三世信仰を表わそうとしたのが基本の仏像配置であったと推定されます。平安時代後期の制作と思われ、当時の優れた仏教美術の技と仏教信仰の厚さをうかがう事ができます。国指定の史跡でしたが、傷みが著しいために県指定の史跡に変更されました。   = 案内板より一部抜粋 =

「岩屋寺」の寺名は平安時代後期の「宇佐大鏡」(宇佐八幡神宮文書)の中で、天喜元年(1053)、康平2年(1059)にその名が見えます。当時この一帯は宇佐神宮の領地で、現在の円寿寺で当時、石仏は岩屋寺の境内であったと言われている。

 
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[豊後の名所・史跡] 大分元町石仏

2014-09-14



大分市内、上野ヶ丘台地東端の凝灰岩の崖に刻まれた石仏で、国道10号線の岩屋寺入り口より徒歩数分である。昭和9年(1934)に国指定史跡となり(写真)、県南の臼杵石仏と並ぶ大分県を代表する磨崖仏です。
 

木造瓦葺の覆堂の中には、露出した溶結凝灰岩の岩肌に、高さ3メーターの薬師如来坐像を中央に(写真)、左に多聞天(たもんてん)立像をはさんで、その妻子とされる善膩師童子(ぜんにしどうし)と吉祥天像が左右に、右に不動明王をはさんで左右に矜羯羅(こんがら)、制タ迦(せいたか)の二童子が刻まれています。薬師如来坐像を本尊とする仏像群は定朝様式の見事な作風が見られ12世紀(平安時代後期)の制作と推定されています。平安時代後期、この付近は宇佐神宮領の「勝津留畠」(がちがずるはた)と言われていた場所であり、宇佐神宮の力が関係したものと言われています。「豊後国志」によれば敏達(びだつ)天皇の時代に、百済から来朝した日羅の作と伝えられていますが伝承にすぎません。 (一部案内板より抜粋)
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[豊後の名所・史跡] 日出城址公園、二つの碑

2014-09-07

日出町の日出城(暘谷城)跡に二つの碑があり、いつも綺麗な花が供えられている。

艦 海鷹(かいよう)の碑



空母海鷹は旧大阪商船所属の初代「あるぜんちな丸」である。昭和14年(1939)竣工した、総トン数12,755トンの豪華客船で南米航路に就航していた。しかし南米航路に就航していたのは僅か15か月で、昭和16年に海軍に徴用され、航空母艦に改装された。主に船団護衛や輸送の任務につき、南方作戦にて活躍した。また特攻機の訓練目標艦としての任務にもつき、航空機による特攻隊のみならず、人間魚雷「回天」の訓練にも使用された。
昭和20年7月24日、豊後水道で任務中に触雷、翌25日駆逐艦に曳航されて日出城跡下の城下海岸に係留着底した。以後、米軍機による空襲が頻繁になり、動けぬ海鷹は猛烈な攻撃を受けて中破しそのまま終戦を迎えた。軍艦海鷹の碑(写真)は、乗組員戦没者の鎮魂と世界恒久平和の願いを込め、昭和57年11月22日、元乗組員たちによる海鷹会の手によって建てられたものである。


小田先生の殉職碑

 

昭和20年7月25日、豊後水道にて触雷した航空母艦海鷹が、駆逐艦に曳船されて日出の城下海岸に係留着底した(上掲載)。この日以来、米軍機による空襲が頻繁に行われ、7月28日、日出国民学校(現日出小学校)訓導の小田三郎氏が空襲による銃弾に倒れ殉職した。当時小田三郎氏は37歳で学校に宿直出勤していた空襲を受け、登校していた生徒たちを防空豪に誘導中に被弾したと言われている。碑は小田三郎氏の遺徳を讃え冥福を祈るため、教え子や知友によって命日である昭和49年7月28日に建てられた(写真)

                                                   (案内板より一部抜粋しました)

 
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[豊後の名所・史跡] 日出城跡(ひじじょう)

2014-08-17

『古事記』によると、九州は6世紀前後には筑紫国・豊国(とよくに)・肥国・熊襲(くまそ)国に四分割されていたと言われる。豊国は景行(けいこう)天皇が九州で最初に上陸した場所であり、ここを前進基地として九州巡行を始めた。豊国という呼び名は、九州の中では大和政権との結び付きが強かったこの地域に与えられた。やがて豊国は豊前と豊後に分かれ、現大分県は豊前2郡(下毛、宇佐)と豊後8郡(国東、速見、大分、海部、大野、直入、玖珠、日田)からなっている。ここから豊(とよ)の国と呼ばれたとされる。幕末段階において、県下の支配形態は8藩7領であった、(中津藩、杵築藩、日出藩、府内藩、佐伯藩、臼杵藩、岡藩(竹田藩)、森藩(日田藩))。速見郡日出町にある木下氏(3万石)の日出城跡に行ってきた。
 

 
日出城は別府湾を望む台地に築かれた階郭式の平城で別名、暘谷城(ようこく)とも呼ばれる。初代藩主の木下延俊(きのしたのぶとし)は父家定と共に豊臣秀吉に仕え全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名で、初代藩主木下延俊の父、家定の妹おね(高台院)が秀吉の正室(妻)となった為、木下姓を許されました。関ヶ原の戦いでは義兄の細川忠興(ほそかわただおき)の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への取り成しによって豊後国速見郡(はやみぐん)日出3万石が与えられました。
慶長六年(1601)八月、日出に入国を果たしたの延俊は日出城の築城に着手、城の縄張(設計)は忠興が行い、石垣も忠興の家臣の穴生理右衛門(あのうりえもん)を棟梁に構築されました。天守は家定の助勢により築かれ、裏門の扉は富来城(国東市)の城門扉を転用したと言われています。本丸には、御殿を中心に天守、大手門、搦手門(からめてもん)、櫓が築かれ、鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅(いりずみ)の構造をなし、その上に築かれた鬼門櫓本体も隅欠きを施した特異な構造となっていました。裏鬼門(南西)の城壁も隅を欠き、横矢がかけられています。築城をはじめ1年後の慶長七年八月には概ね完成し、延俊は築城する間、領内の藤原村に設けていた仮館を離れ日出城に入城を果たしました。明治四年(1871)の廃藩置県以降、鬼門櫓を除き、城内の建物は次々に取り壊されました。

 

横矢(横矢掛り)
横矢(横矢掛り)とは、侵攻する敵に対して側面から攻撃する行為を指す。

 

日出城の石垣
日出藩初代藩主、木下延俊は約一年の歳月をかけて日出城を築きましたが、石垣の構築は細川忠興の家臣で築城の名手、穴生理右衛門(あのうりえもん)の指揮によってなされたと言われています。「穴生」は近江国穴太(おうみのくにあのう)、今の滋賀県の石工の集団、穴太衆(あのうしゅう)を指し、安土桃山時代から江戸時代にかけ多くの城の石垣を手がけました。穴生理右衛門もその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は「穴太積み」として呼ばれています。日出城の石垣は築石に自然石や粗割石(あらわりいし)を用いた「野面積み」の技法で「乱積み」(石材を不規則に積み上げ横目地が通らない」と「布積み」(石材を一段づつ横に並べて据え、横目地を通す)の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました(写真)

 

隅櫓(鬼門櫓)
隅櫓(すみやぐら)は日出城本丸の東北隅に築かれた二層二階櫓で、「鬼門櫓」とも呼ばれています(写真)。隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造に有ります、当時、東北の方位は禍を招く「鬼門」の方向として忌(い)み嫌われていたことから、これを除けるために隅を欠いたと言われています。こうした櫓は全国でも大変珍しく日出城の他に例を見ないと言われています。明治四年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると明治八年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。しかし隅櫓はこれを免れ、山村羊太郎氏、南喜平氏、を経て中村貢氏が所有し、大正十年(1921)に下仁王(現東仁王)に移築され、平成二十年に中村家より日出町に寄付されました。


 
 


日出城跡一帯は公園として整備され城内には現在、日出小学校があり、校門のあるところが大手門跡である、観光案内所、食堂などもあり(写真)、また周囲には日出町ゆかりの偉人の銅像、記念碑などがあり訪れる価値はあるだろう、、、。

 日出城跡のスライドショーは = こちら =

 
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[豊後の名所・史跡] 臨済宗妙心寺派万寿寺

2014-07-29


大分市金池4丁目にある臨済宗妙心寺派万寿寺(まんじゅじ)、萬壽興聖禅寺ともいう(写真)、歴史は古く平安時代の初め、百合稚麻呂と言うこの地の有力者が、娘の万寿姫の菩提を弔うために現在の大分市元町(大友氏遺跡体験学習館が建っている場所)に創建したのが始まりとされている。
その後衰退したが徳治元年(1306)、大友氏第5代当主、大友貞親が博多(福岡)から承天寺住職の直翁智侃禅師を開山に請じて諸堂を建立し室町時代の初めには禅寺の五山、十刹にかぞえられ隆盛したと言われている。当時はたびたび兵火や火災に遭い焼失し、天正10年(1582)には大友義統が焼き討ちを行い寺社領を没収している(大友氏の菩提寺であるが当時の大友氏の勢力衰退、キリスト教への傾倒が理由とされる)。又天正14年(1586)には島津軍の豊後侵攻により焼失している。

 

江戸時代初期の寛永10年(1633)、僧丹山が府内藩第2代藩主竹中重義の援助をうけて現在地に再興しました。広い境内(写真)には本堂、庫裡、仏殿、禅堂、経蔵、観音堂、山門、などが建ち並んでいる。境内には有形文化財の国東塔がある、音楽家の瀧廉太郎の墓があったが現在は滝家の墓所がある日出町の竜泉寺に移された。猿の自然飼育で有名な高崎山自然動物園に万寿寺の別院がある。
 
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[豊後の名所・史跡] 豊後一の宮 西寒多神社(ささむたじんじゃ)

2014-06-25



 
大分市寒田(そうだ)にある、豊後一の宮、西寒多神社(写真)、しかし豊後の国にはもう一つの一の宮、柞原八幡宮(ゆすはら)が存在する。しかし一つの国に一の宮が複数存在するのはここだけではない、私の故郷の越後の国にも、弥彦神社と居多神社(こたじんじゃ)がある。どちらにもそれぞれの歴史がありどちらが本当の一の宮かは私には解らない。
創祀は遠く、応神9年4月西寒多山上(本宮山)に宮殿を建立するとあり、延喜式内の大社として国司をはじめ武将の信仰があつく、特に大友能直、大友宗麟をはじめ代々の尊崇厚く応永15年(1408)3月、大友親世が社殿を現在地に遷し、家内安全、婚姻、学業、農業、食物、交通安全、などの守り神として人々の崇敬が深く、明治4年5月14日、国幣中社に列格され、豊後の国の一の宮として現在に至る。戦後神社本庁の別表神社となった。宝物として大友宗麟が愛用した印章、大友能直、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の古文書を有している。

 
  
 

26,506平方米の広い境内には樹齢450年と言われる、ふじ(市指定名木)があり毎年5月3日~5日まで、ふじ祭りが行われ、多くの人で賑わい、樹齢100年と言われる数百株の平戸ツツジも見事だ。また参道入り口の石橋、萬年橋(写真)は県指定有形文化財に指定されている。
 
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[豊後の名所・史跡] 日本名水百選 男池(おいけ)湧水群

2014-06-16


 
国道210号線の由布市庄内町から県道田野庄内線(621号線)でやまなみハイウエイの長者原方面に向かうと庄内町阿蘇野地区に「日本名水100選」に選ばれている男池(おいけ)湧水群(写真)がある。阿蘇くじゅう国立公園の一角を占める黒岳北麓の美しい原生林内に湧く名水である。
 

 
環境庁の「日本名水百選」に選ばれた男池(写真)は年中12,6度Cの水温を保ち、1日約2万トンという豊かな湧水量をほこっている。池の底まで透き通りモクモクと湧き出る水は神秘的だ。男池(海抜850m)は夏の最高気温が25℃で低地と比べて6~7℃低くすごしやすい。男池を基点に1.4kmの遊歩道が設けられていて原生林の中を森林浴も楽しめる、また黒岳にはシャクナゲが群生している。男池の東2kmくらいのところに二酸化炭素が含有された天然の炭酸水、白水(しろみず)鉱泉があり、県内には他に、竹田市の竹田湧水群、豊後大野市の白山川、が「名水百選」に選ばれている。
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[豊後の名所・史跡] 人間魚雷「回天」大神基地

2014-05-22

 

かって日本が世界を相手に戦火の中にあった時代から70年近くがたち、私を含め国民の多くは戦争を知らない。耐え難い過酷な日々を過ごしてきた人々は少なくなり記憶の灯は大地に深く刻まれた戦火の爪痕「戦争遺跡」へと受け継がれようとしている。今日の平和な暮らしは戦争によって犠牲となり、また過酷な生活を強いられた先人たちの上に成り立っている事を決して忘れてはならないだろう、、、

日出町大神(おおが)の牧ノ内、深江地区にあった人間魚雷「回天」の大神基地跡(写真)へ行ってきた。今なお当時の面影を残す戦争遺跡が多く残されている。

 

  

 

100ヘクタール以上の広大な土地が海軍により強制買収され造られた大神基地の魚雷調整場跡に3月に人間魚雷「回天」の実物模型が造られ設置された(写真)。跡地には当時の倉庫壕、変電所跡、燃料格納壕、士官浴場跡、魚雷調整池などが残っている。

 

 

「回天」の実物模型の横には魚雷調整プール(写真)が残っている。コンクリート製のプールは「回天」を巻揚機でこのプールに沈めて水漏れなどの検査をしていたと言う。基地内の本部に祀られていた「回天神社」は現在は近くの住吉神社境内の本殿脇に移され回天の模型と九三式魚雷機関が奉納されています。

3月22日の「人間魚雷回天と回天神社」も併せてご覧ください、、。

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[豊後の名所・史跡] 高崎山城跡

2014-05-07

 

瀬戸内海国立公園に属し、国道10号線(別大国道)にそびえる628メーターの高崎山はお猿の自然公園としては有名である。しかし南北朝時代にこの高崎山に城が築城され数々の戦の舞台になったことはあまり知られていない。頂上までは駐車場からハイキング気分で1時間~1時間半くらいで登ることが出来る、頂上はかなり広いがあまり整備はされていない(写真)。 頂上からは眼下に別府湾、四国、南方向には鶴見岳、由布岳、遠く久住連山が臨めるはずだが周りは樹木に覆われて視界はあまり良くなく残念だ。

 

  

 

高崎山城(たかさきさんじょう)、高崎城とも呼ぶ、の正確な築城年代は定かではないが建久2年(1191)、大友能直が豊後守護職に任ぜられ、その先発隊が豊後へ入国しようとしたが、土地の豪族の阿南氏が高崎山に篭り抵抗したことが知られているが、これが高崎山城の初めと伝えられている。天正13年、延文3年(1358)大友氏の第八代、大友氏時によって山上に本格的な城が築かれた。

当時は南北朝時代であって九州方面では南朝方の菊池氏、北朝方の一色氏、大友氏等とが対立抗争していた。その後も幾多の争いの舞台となったが天正7年(1579)2月4日火災により焼失してしまい、その後山上に城を築く事は無かった。山頂の主郭の周囲には土塁が残っている、また円形の凹を持つ井戸のような石垣があり(写真左)、烽火台と考えられている。南東側斜面には多くの竪堀(写真右)が残っており登山道はこの中を通っている。

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[豊後の名所・史跡] 杵築城

2014-04-27

 

国東半島の入り口、国道10号線の日出町より国道213号線に入り大分空港方面に向かうと暫くで杵築市に入り間もなく目の前にパッと海が開ける、潮干狩りで有名な守江湾だ、前方の高台に杵築城が見えてくる(写真)。  人口約3万の江戸時代の風情が今なお色濃く残る杵築市、杵築城を中心に南北の高台に武家屋敷群があり、その間に挟まれて商人の町がある。

室町時代初期の応永元年(1394)木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築城され、木村城と呼ばれたこの城は、北は高山川、東は守江湾といった天然の要害に囲まれた城であった。城主も前田、杉原、細川氏と入れ替わり、その後の小笠原氏、そして松平氏を最後に江戸の時代も終わりを告げ、杵築城は新たな城主を迎えることなく今に続いている。現在の城は昭和45年に建築され城山公園とともに市民に親しまれている。天守閣から海を望む景色は見事なものだ。築城当時「木付城」と命名されながら幕府朱印状に誤って「杵築城」と記されて以来「杵築城」になり、また島津藩の猛攻撃に2か月も耐えたことから別名「勝山城」とも呼ばれている。

また隣接して市内のあちこちで発見された国東塔など貴重な石造物を野外展示している石造物公園もある。

 

宮本武蔵が杵築に?

慶長17年(1612)関門海峡に浮かぶ巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行ったとき、この試合の検分役を務めたのが細川藩筆頭家老で杵築(木村)城代の松井興長であった。決闘が終わって門司城代、沼田延元のもとにいた武蔵は、佐々木小次郎の門人たちに命を狙われたので、鉄砲組に護衛されて養父、無二斎のいる豊後へ送り届けたと沼田記に記されている。「二天記」では松井興長は無二斎の門人でありと記述されており、地元では武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている  = 案内板より =

 

 杵築城スライドショーは   = こちら =

 

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[豊後の名所・史跡] 府内城跡

2014-04-19

 

府内城跡は大分市内の中心地、荷揚町にある(写真)。県庁などが建ち並ぶ官庁街へ向かうと、突如として現れる白い壁に立派な堀一帯は城址公園として整備され市民の憩いの場所となっている。府内藩主の居館および武家屋敷からなる近世城郭の特徴を色濃く残す平城です。築城当時は大分川、海辺などに面した府内城は白土の塀と、まるで水上に浮かぶかのようなその姿から、「白雉(はくち)城」とも呼ばれています。

築城者の福原直高は当時「荷落」(におろし)と呼ばれたところに築城し、完成した城に「荷落城」と名付けようとしましたが、荷落は不吉だということで「荷揚城」(にあげ)と名付けました(現在の荷揚町)。その後、城主が竹中重利に変わり、それまでの「荷揚城」を大規模な増改築を行い完成した城を「府内城」と命名しました。

 

 

三つの郭と三重の堀からなっていましたが明治の終わりごろに、三の丸外側と二の丸内側の堀は埋め立てられ現在では、二の丸と三の丸を区切る堀が残っています。かつては、四重層の天守閣を持ち、23の櫓と5つの門、3箇所の廊下橋が築かれていましたが、大火や大地震、空襲などにより失われてしまいました。現存する「宗門櫓(しゅうもんやぐら)」と「人質櫓(ひとじちやぐら)」は、県指定文化財となっており、江戸時代の建築を今に伝える貴重な文化財といえます。

府内城の築城は大きく分けて二つの築城段階があり、福原直高竹中重利の段階に分かれます。 福原直高は、慶長四年(1599)に府内城の本丸、二の丸(三重櫓)、三の丸(家臣屋敷)まで造っていました。また天守は入城できましたが完成していなかったと伝えられています。その後慶長六年(1601)に府内に入った竹中重利は、府内城の修増築と城下町の建設を始めます、防御を固めるため、石垣を築いたほか、天守、櫓、武家屋敷などが慶長七年(1602)に完成しました。その後、城下町建設に取り掛かり、慶長十三年(1608)に船の出入りの為に港「京泊」(きょうどまり)と呼ばれる船着き場を造るなど城下町を整備しました。

 

福原直高

安土桃山時代の武将で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に滅ぼされた福原則尚や福原助就の同族とされ、妻は石田三成の妹である。

 

竹中重利

戦国時代から江戸時代初期の武将で豊後府内藩の初代藩主である。元和元年(1615)10月16日、54歳で死去した。荷揚町の浄安寺に墓がある。

 

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[豊後の名所・史跡] 六郷満山 天台宗別格本山総持院足曳山両子寺

2014-04-07

 

瀬戸内海国立公園、国東半島の最高峰、両子山(ふたごさん)の山麓にある六郷満山の天台宗別格本山総持院足曳山両子寺(ふたごじ)(写真)に行ってきた。山門の仁王像は国東半島最大のもので、その彫の美しさから国東半島を代表する仁王像である。又境内一帯の紅葉は県内屈指と言われ素晴らしく、春の新緑、秋の紅葉と有名であり日本の「森林浴の森」百選にも選ばれている、又日本でも有数なパワースポットとして最近は若者の参拝客も増えていると言う。

 

 

養老二年(718)仁聞菩薩により開基されたと伝えられ、六郷満山の中山本寺で修行の中心地として栄えた。江戸時代には杵築藩の祈願所となり六郷満山の総持院として満山を統括する立場にあった。

 

 

両子山の大きな岩を掘ったところに建つ奥ノ院本殿は見事である(写真)。中央に十一面千手観音が祀られ左右に両子大権現(男女二天童子)が合祀されている。

 

六郷満山

国東半島のほぼ中央に位置する両子山から谷間は放射状に海岸へ延びている、約28の谷を六つの里に分け六郷と称し、この地に開かれた天台宗寺院全体を総称しして六郷満山と呼んでいる。奈良、平安、鎌倉の時代より、宇佐八幡宮〈全国八幡宮の総本社〉の庇護と影響の下に神仏習合の独特の寺院集団と信仰が形成され、最盛期には半島一帯に185の寺院、洞窟、僧坊、を含めて約八百の大小の堂、石仏、石塔が点在し、仏の里といわれる六郷満山仏教文化圏が開かれてきました。

 

 両子寺のスライドショーは  = こちら =

 

 

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[豊後の名所・史跡] 六郷満山 馬城山伝乗寺 真木大堂

2014-03-30


 

国東半島にある国の重要文化財に指定されている真木大堂(写真)、に行ってきた。のどかな田園風景が続く仏の里、国東半島、駐車場の周りに立つ、たくさんのカカシが迎えてくれた。

 

 

真木大堂(まきおうどう)は国東半島の豊後高田市田染真木にあり、六郷満山本山本寺(もとやまほんじ)の天台宗馬城山 伝乗寺(まきさんでんじょうじ)の堂宇の一つとして建立されたと伝えられています。伝乗寺は六郷満山65ヶ寺のうち本山本寺として36坊の霊場を有し、全盛期は広大な境内に七堂伽藍を有して隆盛を誇った大寺院であったと伝えられる。奈良時代の養老年間(717~724)に仁聞菩薩の開基と伝えられているが仏像などの作風からみて平安時代と思われる。現在の真木大堂は伝乗寺の各寺坊が衰退したので本尊をこの一堂に集めたものである。

 

 

約七百年前に火災のため寺院は焼失したが現存する九体の仏像は難を逃れ今日に至っている。大正7年に国宝に指定され昭和4年に仏像の大修理、昭和25年8月29日に重要文化財に指定され平成20年に収蔵庫(写真)が改修された。阿弥陀如来坐像、不動明王と二童子像、大威徳明王像、四天王立像など等、館内は撮影禁止で写真は掲載できませんが、これらの仏像には全霊を捧げ尽くして作った人達の魂がこもっているのでしょう、隣には旧本堂がある。

 

 

国東半島には六郷満山文化の遺産として宝塔、宝篋印塔、五輪塔、石佛など多くの石造文化財が残されているが、これらの文化財は半島全域の寺院や山岳地に散在しているため主に田染、河内地区の人々の協力により当寺院内に移されている。中でも国東塔(写真)は国東半島だけのもので壮重華麗な石造宝塔で他の宝塔と違う特徴を持っている。

 

本山本寺(もとやまほんじ)

六郷満山の全盛時には65の寺院があったとされ、本山、中山、末山の3群に分かれ、さらに本寺(28寺)末寺(37寺)に分けられていた。

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[豊後の名所・史跡] 銭瓶峠(ぜにがめとうげ)と道標

2014-03-19

 

県道51号線を大分方面から別府に向かうと、海抜335メーターの峠がある(写真)。この峠の十字路は昔から銭瓶峠(ぜにがめとうげ)と呼ばれ別府、湯布院、狭間、大分、へと通じる十字路で昔は重要な道路であったと言う。特に別府、大分間は海側を通る現、国道10号線と銭瓶峠を通る山側の二つの道があったが、海側のコースは近道であるが海が荒れると通行が出来なくなり安全な山側のこの道が本道とされてきました。目の前にはお猿で有名な高崎山がそびえ、高崎山の登山道へ続く林道はこの十字路の数十メーター大分寄りにある。この高崎山には古くから山城が築かれ大友氏時以来、高崎山城をめぐって幾多の戦いがくりひろげられました。南北朝時代、肥後の菊池軍を迎えうった戦い、安土桃山時代、薩摩の島津軍との戦いなどでこの峠が主戦場となりました。銭瓶峠の名前の由来ははっきりしないが、昔泥棒が盗んだ銭を瓶に入れてこの辺りに隠した、と言う言い伝えがあり峠の名前もこれに由来すると言われるが定かでない。

 

 

銭瓶峠にあるこの道標(写真)は中世かそれ以前に立てられたものと言われる。銭瓶峠は昔は重要な交通の分岐点で、ここから湯布院を経て政治の中心大宰府まで通じていた。

 

北別府道   西ゆふいんみち   南どうしり道   東府内道  と刻まれている。

 

 

峠の道標の隣に大きな銭瓶石(通称カンカン石)が置かれている(写真)、この石は鉄などの硬いもので叩くと、カンカンと響き音がするが、これはこの石の形状、置き方によるもので全国的に「カンカン石」と呼ばれる石は普通、讃岐石(サヌカイト)という石であるが、この石はいつの時代に誰がここに置いたかは明らかではないが、何百年も前からここに置かれていた事は確かのようである。くにさかいの「境界石」に使用されていたと言いう説が有力である。この石がはっきりと歴史に登場するのは約二百年前の江戸時代の中頃である。宝暦11年3月(1762)幕府の巡礼使がこの峠を通ると言うので銭瓶石から別府の赤松までの道路の掃除をすることで府内藩(大分)の農民と赤松村(幕府領)の農民が境界争いで大喧嘩をしているが、この争いを府内藩では「銭瓶石騒動」と呼んでいる。大きな石の上に小さな石ころが2個置いてあり試に叩いてみると成程カンカンと済んだ音がするネ、、。

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[豊後の名所・史跡] 天台宗 蓮華山富貴寺(ふきじ)

2014-03-10

 

四季折々に美しく表情を変える、みほとけの里、多くの古刹の寺院が存在する国東。豊後高田市の六郷満山 天台宗蓮華山富貴寺に行ってきた。富貴寺は平安時代の養老二年(718)仁聞菩薩(にんもん)の開基と伝えられ、宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。中でも阿弥陀堂(富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられています。現存する九州最古の木造建築物であり、昭和27年、国宝に指定されている、又阿弥陀如来坐像は大正7年に国宝に、昭和25年に重要文化財に指定されていて、まさに『仏の里くにさき』を代表する文化財です。

 

 

富貴寺大堂(写真)とその中に収められている本尊の阿弥陀如来像は970丈にも及ぶ一本の榧(かや)の巨木から、六郷満山寺院を開基したとされる仁聞(にんもん)菩薩の手によって造られたと伝えられています。大堂内は極楽浄土の世界を描いた壁画が施されておりますが、風化が激しいようです。他にも境内には僧侶が修行のときに使用したとされる、梵字が刻みつけられた仁聞石や鎌倉時代の笠塔婆、室町時代の国東塔等があり、かつての富貴寺の繁栄ぶりを偲ぶことができます。なお堂内の壁画保存の為、公開時間は08:30~16:30まで、又悪天候の場合は公開を停止しているようです。

 

六郷満山

国東半島には古代から、六郷満山と総称される天台宗の密教寺院が多く築かれ、大分県宇佐市の宇佐神宮を中心とする八幡信仰の影響を受けて神仏が習合した文化が栄えた。

国東六郷満山霊場は、六郷満山に数えられる寺院を中心に、国東半島に点在する33の寺院からなる霊場であり、宇佐神宮との密接な歴史的関係のため、霊場巡りは33ヶ寺に加えて宇佐神宮を巡ることになっている

 

 

 富貴寺スライドショーは     = こちら =

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[豊後の名所・史跡] 豊後国分寺跡

2014-01-11

 

大分市国分地内、久大線の豊後国分駅からほど近い大分川左岸に、天平年間に各国に建立された国分寺跡があり(写真)国の史跡に指定されている。

発掘調査の結果、寺域は東西183メートル、南北300メートルといわれ、この中に中門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南北に並び、金堂の南西に七重塔が位置し大伽藍を有していた。七重塔は高さが推定60メーター余りと言われる巨大な塔であったと考えられ、全国に64ヵ寺ある国分寺の中でも三本の指に入ると言われている。現在は広大な敷地跡に史跡公園と大分歴史資料館が建てられ散策しながら歴史、学習などに親しめる場として整備されている。大分市歴史資料館には、豊後国分寺の七重塔の復元模型や豊後国分寺からの出土品などが展示されている。

国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、天平13年(741)聖武天皇がその当時全国的にはやり病が多く発生したり、農作物の不作続きで人々が動揺していた時代であった、疫病神を取り除き人々のよりどころとし、平和な国にするのが狙いで各国に建立を命じた寺院である。正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。国分寺は僧20人をおき、国分尼寺は尼僧10人をおき、各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ建立され、国府があるところか、その周辺に置かれた。多くの場合国庁とともにその国の最大の建築物であったと言われる。大和国(奈良県)の東大寺法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。

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[豊後の名所・史跡] 大分県護国神社

2013-12-25

 

天気に誘われて今日のウォーキングはちょっと足を延ばして大分県護国神社まで参拝を兼ねて行ってきた。ずっと歩道を通って行けるので安心だし、片道4~50分はかかっただろうか、市内の真ん中に位置する小高い松栄山に鎮座しているので途中から緩い登りで百数十段の石段を登るのが足腰を鍛えるのにはちょうどいい感じだな。落ち葉を踏みしめて石段を登り二つ目の鳥居をくぐると広い境内の参道の両側には年末年始の参拝客を見込んでテントがいくつも張られ準備が完了していた。それに先日テレビのニュースで報じられた日本一の破魔矢、熊手、を見るのも楽しみの一つであった。

 

 

護国神社は国家のために殉難した人の霊を祀るための神社で、その都道府県出身者ないし縁故の戦死者、自衛官、警察官、消防士、等の公務殉職者を主祭神としている神社で、明治維新前後に日本各地に建立された招魂社が、昭和14年(1939)に内務省令によって一斉に護国神社と改称して成立した神社である。なお東京招魂社は明治12年(1879)に明治天皇の命名により靖国神社と改称した。

昭和20年(1945)8月のポツダム宣言により、日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に置かれると、護国神社は軍国主義施設とみなされた為、存続を図るために護国神社から「護国」の文字を外すなど改称を余儀なくされが、改称した神社は昭和27年(1952)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復すると、ほとんどの神社は旧社名の護国神社に戻している。 (写真はご本殿)

 

 

大分県護国神社は初代県令森下景端が慰霊顕彰のために明治8年に現在の松栄山に「招魂社」を創建したのが始まりです。佐賀の乱での戦死者、台湾出兵での戦死者や明治10年の西南の役での戦死者、熊本神風連の乱で殉職した人たちなど、それ以後も日清、日露戦争による戦死者、満州事変、第二次世界大戦などで戦死された人々など四万四千余柱が祀られています。 創建当時のご社殿の位置は現在の展望台のあるところで、現在の社殿にご遷座するまではずっとここにありました。(写真は招魂斎庭)、昭和18年(1943)北側展望台付近から現在地に遷座しました。しかし昭和20年(1945)の第二次大戦敗戦以降は「豊霊宮」と称していたが、日本の主権回復後の昭和27年(1952)元の大分県護国神社に戻りました。 境内にはご本殿のほか神門、照今殿、言霊記念館、神楽殿、参集殿などの他、大分県慰霊塔、招魂斎庭、西南の役戦死者墓地、満蒙開拓義勇軍慰霊碑、天皇皇后両陛下行幸啓記念碑、などなどがある。

                    

   

 

写真左は18.8メートル、日本一の大はまや!

写真右はさ12メートル重さ25.トンは日本一の熊手!

いずれも来年の3月末まで設置されているとの事。

 

 

展望台からは大分市の北、西、東方向が一望できる、晴れていれば遠く四国の山々、別府市街、国東半島、別府湾など素晴らしい景色が見渡せる、、。

 

 大分県護国神社のスライドショーは  = こちら =

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[豊後の名所・史跡] 日本一の大ソテツと松屋寺(しょうおくじ)

2013-12-14

 

別府市の隣の町、速見郡日出町(ひじまち)にある松屋寺(しょうおくじ)に行ってきた。以前より日本一の大ソテツがある事は知っていたんだが、、いやいやお寺もたいそう由緒ある古刹であった。山門を入り拝観料を払いよく手入れのされた境内を歩いていると住職さんが色々と案内説明して下さった。本堂の隣の秘宝殿にはたいそう価値のある物がたくさん並べられているが、まーたいしたもんですわ、、。

 

 

曹洞宗康徳山松屋寺は国東半島の六郷満山霊場(ろくごうまんざんれいじょう)の一つとして建立され水月堂と号した。鎌倉時代の文永年間、最明寺道宗(北條時頼)が水月堂に宿した事により以来、西明寺と称し天台宗を奉宗した。その後、慶長六年(1601)元播州姫路城主、木下右衛門大夫延俊が日出城(三万石)に封ぜられた、翌慶長七年延俊公は祖母の朝日局(豊臣秀吉の奥方北政所の母)の菩提を弔う為、西明寺を修堂し禅宗に改め朝日局のご法名(康徳寺殿松屋妙貞大姉)の号を頂き康徳山松屋寺と改号した。嘉永、大正の二度の大火に見舞われ本堂、山門を焼失したが大正八年に本堂が復興し現在に至る。

 

 

日出藩木下家墓所(大名墓)は慶長六年(1601)初代藩主木下延俊が姫路より日出に入部して以来、江戸幕府が終わる明治時代まで16代、約270年間続いた日出藩主木下家の墓所(写真)です。墓所の創設は寛永年間(1630年頃)と言われ当時は初代藩主の木下延俊の祖母、朝日、延俊の正室加賀(細川忠興の妹)及び延俊の父母の四基の墓を祀る場所として出発し、以後歴代藩主や木下家に関係のある人々の墓が建てられ、沢山の五輪の塔が林立している様は実に壮麗である。江戸時代の藩主の菩提寺は参勤交代により江戸と国本に設けられることが多く、日出藩主木下家においても国本の松屋寺に対し江戸では高輪の泉岳寺が菩提寺であり、それぞれ分祀されています。

 

 

日本一の大ソテツ(写真)は、大友宗麟が外国貿易をしていた頃、南方より取り寄せ、現大分し古国府の大友屋形にて育てたものを慶長二年(1597)府内城築城記念に府内城に移植した。日出藩二代藩主の木下俊治公が府内城の留守を申しつかり、明暦三年に交代帰城の際に城内の大ソテツを死馬と称し藩内に持ち帰り菩提寺の松屋寺の境内に植えたものである。これまで嘉永四年(1851)、大正四年(1915)の二度の火災に遭い、一部焼失したり、自然災害により損傷したりしたが、いずれも見事に樹勢を回復し現在に至っている。大正12年に国の天然記念物に指定された。

ソテツは高さ6,1m 株元の周囲(地上より1,2m)6,4m 南北幅9,7m 東西幅8,5mの巨樹である。このソテツは雌樹で一つの株元から十数本の支幹が分岐していて、いずれの支幹も天然記念物指定当時より1メーター以上大きく成長していると言う、樹齢600年以上と推定されている。

 

境内には他に、日本名園の一つに数えられる、雪舟の庭、放生池、秘宝殿、書院、木下家位牌堂、千手観音堂、有名人の墓、など等みどころが多い、。

 

 

 松屋寺のスライドショーは   = こちら =

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[豊後の名所・史跡] 豊後一の宮 柞原八幡宮

2013-12-03

 

豊後一の宮 柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)に行ってきた。

大分市の西、二葉山(八幡柞原山)の麓に鎮座しています。国道10号線の西大分から696号線に入るとすぐに一番目の大鳥居が建っている、神社はここから約4キロメートルほどカーブした道を登って行く。左に大きくカーブする右側に参道の入り口がある(写真)。参拝は回廊から履物を脱いで上がり拝殿前に正坐して行う。

 

 

柞原神社の起源は天長四年(827)、延暦寺の名僧金亀和尚(こんき)が宇佐神宮の参篭にて神からのお告げを受け柞原山に勧請したのが始まりと伝えられている。成るほど神社のあちこちに菊のご紋章があるのもうなずける。御祭神は、仲哀天皇「帯中日子命」(タラシナカツヒコノミコト)・応神天皇「誉田別命」(ホンダワケノミコト)・神功皇后「息長帯比女命」(オキナガタラシヒメノミコト)であり皇室も厚く尊崇された。拝殿より申殿(もうしでん)、本殿が正面に見え(写真)二棟が連結された典型的な八幡造りである。

 

 

山門を入ると大きな、ホルトの木(写真)がある。この木は享禄から天文のころ、豊後国主の大友宗麟が盛んに外船を引き神宮寺浦(今の春日浦)において外国貿易を営んだ際、ポルトガル人が持ってきて移植したもので、その名をとって樹の名前にしたと言う。樹高25m、幹回り4,8m、樹齢400年で大分市の名木に指定されている。(案内板より抜粋)

 

 

参道を進むと南大門の手前に樹齢3,000年以上と言われる、国指定天然記念物の大楠がそびえ立っている(写真)、樹高30m、根回り34m、地上2メーターの幹回りは19mもあり根元部は大人十数人も入る空洞になっている。平成元年の環境庁の巨木調査で全国で第7位と言われる。

 

 

長い参道の途中に日暮し門とも形容される見事な彫刻が施されている南大門(写真)がある。山道の石畳には踏めば願いが叶うと古くから言い伝わる「幸運の扇石」が二枚敷かれている、参拝の折にはこの二枚の幸運の石を踏み、願を掛けては如何だろう、、、。

 

 

拝殿前にある桜門(写真)

 

 

柞原八幡宮のスライドショーは   = こちら =

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[豊後の名所・史跡] 高崎山自然動物園

2013-11-26

 

野生の日本猿で有名な高崎山自然動物園は大分市の別府湾に面した別大国道(大分、別府間)のほぼ中間地点の標高628メーターの「高崎山」にあり、都市近郊における日本猿の生息地(国指定天然記念物)として全国的に知られている。 (写真は同園入り口)

 

 

高崎山の山麓にある万寿寺別院の境内に高崎山に生息する野生の日本猿に餌付を行う、猿寄場が設けてあり柵などが無く観光客は直接、猿に接することが出来る。B群とC群の二グループに分かれ時間をずらして山を下りて餌付け場所に下りてくる。以前はA群もいたがC群との争いに敗れ数が激減しB群C群に加わったと言われている。C群は朝の8時半頃山を下りてきて、B群は午後の1時過ぎにC群と入れ替わり山を下り餌付け場付近で夕方まで過ごす。最近有名になったボスのベンツはC群のボスだ。

 

 

元来、高崎山には野生の猿が住んでおり明治時代の末期には約600頭ほどが生息していたと言われる。しかし大正時代の山火事で数が激減したが昭和15年頃には100頭以上に増え、終戦後には200頭くらいにまで増え、今度は農作物に対する被害が深刻となり、狩猟などによる猿の駆除を行ったが良い結果を得られなかった。これを聞いた当時の大分市長の上田 保が逆に餌付けをして観光用として利用したのが始まりである。昭和27年万寿寺別院の和尚と猿に餌付けを初め翌昭和28年3月15日開園した。

 

 

高崎山自然動物園の写真は  = こちら =

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[豊後の名所・史跡] 紅葉の深耶馬溪

2013-11-19

 

朝、目が覚めると予想に反して晴れて太陽が輝いている、まだまだやる事はあるんだが急遽、耶馬渓に紅葉見物に行くことにした。 じっとしてない男だねー、、! そもそも耶馬溪と称される渓谷は全国に多数存在る。大分県の耶馬渓は、大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流を中心とした渓谷であり景勝地として知られており、日本三大奇勝や新日本三景の一つに選ばれている。1923年に名勝に指定されて1950年に耶馬溪一帯が耶馬日田英彦山国定公園に指定された。耶馬溪と言ってもいささかひろ~ござんす、! 青の洞門で有名な本耶馬溪、一目八景で有名な深耶馬溪(しん)、裏耶馬溪、奥耶馬溪、椎谷耶馬溪(しいや)、津民耶馬溪(つたみ)、などがある。  たまたま昨日のテレビのニュースで深耶馬溪の紅葉が見頃と 報じていた。よし、近いうちに今回は深耶馬溪に行こう、と言うことで高速道路を玖珠ICに向かった。別府を過ぎてからは鶴見岳、由布岳を眺めながら快適に走る、豊後富士と呼ばれる由布岳は今日、初冠雪で中腹から上はうっすらと雪化粧して綺麗だ、、玖珠ICで高速を下りて深耶馬溪に向かったが途中からは道路沿いの紅葉が綺麗だ、深耶馬溪に着いてみるとウイークデイにもかかわらず沢山の見物客が訪れている、休みでもないのに暇人だねー、俺も他人の事は言えないけどさ!水墨画にでも出てくるような光景で紅葉も綺麗で、ここ深耶馬溪は一目八景が有名だ、海望嶺、仙人岩、嘯猿山、夫婦岩、群猿山、烏帽子岩、雄鹿長尾嶺、鷲の巣山の八つの景色が一度に眺望できることからこの名が付けられた。深耶馬溪の紅葉を堪能し、帰りは下道を別府経由で家に帰った、今度は新緑のころに青の洞門で有名な本耶馬渓を訪れたいネ、、、。

 

深耶馬溪のスライドショー、興味のある人は   = こちら =

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プロフィール

名前は:ham 
年齢は:爺 ♂
血液型:B型 みずがめ座

辛い事もあったが楽しい事も、、
良い思いも沢山させて頂いた
激動の人生、
昔のこと、今の事、自由に綴る
我が人生、






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