2016-08-01

[豊後の偉人] 別府観光の恩人 油屋熊八


JR別府駅の正面に 山は富士、海は瀬戸内、湯は別府 と言うキャッチフレーズを作り、別府観光の恩人と慕われた油屋熊八の像が立っている(写真)。別府市民、いや大分県民であれば油屋熊八の名前を知らない人はもぐりだな、、別府の名前を全国、世界にPRし「日本一のおんせん県おおいた」の原点を作った人物と言っても過言ではないだろう。文久3年(1863)7月16日に愛媛県宇和島市横新町に裕福な米問屋に生まれ、明治21年(1888)には27歳で宇和島町議に当選。30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったが、日清戦争後に相場に失敗して全財産を失う。35歳の時に手提げカバン一つでアメリカに渡り放浪の上、サンフランシスコ滞在中に三谷牧師よりキリスト教の洗礼を受け帰国後、再度相場師となるがうまくいかず、熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼り、明治4年(1871)の別府港開港以来温泉地として飛躍的に発展していた別府温泉で再起を図ろうと移り住んだ。「旅人をねんごろにせよ」と言う聖書の言葉を常に実践するために明治44年(1911)10月1日、49歳で別府で亀の井旅館を始め、それ以来経営に専念精進し業務を拡張し設備を改善し名前を亀の井ホテルと改めた。現在の九州横断道路(やまなみハイウエー)の必要性を訴え湯布院の開発、別府ゴルフ場の建設、亀の井自動車(現亀の井バス)の設立、日本初の女性バスガイド解説付きの遊覧バスの開始など油屋熊八の残した功績は数えきれない。昭和10年3月24日71歳でこの世を去った。別府観光の父・別府の恩人として市民に慕われている、、、
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2016-05-22

[豊後の偉人] 福沢諭吉

大分県の北のはずれに位置する中津市留守居町にある福沢諭吉の旧居、記念館に行ってきた。福沢諭吉、昭和59年からの1万円紙幣の肖像に使用されている(写真)、日本人であれば知らない人はいないだろう。中津藩士で、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾大学の創設者であり、専修大学、一橋大学、などの創設にも尽力した。

 
  天は人の上に人を造らず、

            人の下に人を造らずと云ヘリ、、、、

 
 

福沢諭吉(写真)は天保5年(1835)1月10日、大阪堂島の玉江橋北詰にある中津藩蔵屋敷で13石2人扶持の下級武士、福沢百助の次男として生まれた。諭吉が1歳6ヶ月の時に父と死別し母子6人で中津に帰郷、貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14,5歳の頃からは勉学にめざめ、のちには儒学者、白石照山の塾で学びました。安政元年(1854)、19歳のときに兄三之助のすすめで蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大阪の緒方洪庵の適塾で勉学に励みました。安政3年、兄三之助が病死したため中津に帰り福沢家を継ぎ適塾のj塾長となる。安政5年(1858)には藩の命令で江戸の中屋敷に蘭学塾を開き教師になりました、これが慶応義塾の始まりです。西洋の文物に触れたいと考えた福沢諭吉は万延元年(1860)26歳のときに幕府使節の護衛船「咸臨丸」に軍艦奉行の従者として乗り込み渡米、文久2年(1862)には幕府使節の一員としてヨーロッパ諸国を歴訪、議会や郵便制度、銀行、学校、病院などを旺盛な好奇心をもって見聞しました。その後これらの経験をもとに「西洋事情」を著し、続けて「学問のすすめ」、「文明論之概略」などを次々と発表し、世界と隔絶されていた当時の日本人を啓蒙していったのでした。


 


享和3年(1803)築の木造茅葺平屋建ての福沢諭吉の旧居(写真)は諭吉が青年期を過ごした家です。
 

諭吉が少年の頃自分で手直しをし長崎に遊学する19歳の頃まで米をついたり、二階の窓辺で学問をした木造瓦葺の土蔵(写真)が残っている、、、



「独立自尊」の人とは、「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人としてその品位をはずかしめない者」と説いている、、、福沢諭吉は当時の日本人としてはかなり大柄な人で身長173センチ、体重70キロであったと言われている。明治34年(1901)1月25日脳出血症再発、2月3日66歳にて永眠、福沢諭吉は慶応大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている。中津市の旧居に隣接する福沢諭吉記念館では「学問のすすめ」の初版など諭吉の書、手紙、写真などのほか父百助の書や関係する人々の資料などが多数展示されている。

 
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2016-01-08

[豊後の偉人] 三浦梅園(みうらばいえん)

三浦梅園(写真)は、帆足万里、広瀬淡窓と並んで「豊後の三賢人」と称される。享保8年8月2日(1723)国東半島の安岐町富清(現国東市)に生まれる。江戸時代の思想家、自然哲学者で本職は医者でもある。三浦梅園は生涯で三度旅をした以外は故郷の大分県の国東半島安岐町を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、寛政元年3月14日(1789)その坦々とした生涯を終えた。複数の藩主から招待の声もあったが断ったという。地元の安岐町には三浦梅園の旧宅があり、近くにはキャンプ場、天文台、梅園などが整備された梅園の里があり、資料館には貴重な資料、膨大な自筆稿本類などすべてが保存されている。梅園の里は後日に紹介したいと思う。

 
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2015-01-24

[豊後の偉人] 日本画家 福田平八郎


大分市の春日神社前の交差点を西の方に200メーターほど進んだ左側(大分市王子中町)に日本画家福田平八郎の生家跡(写真)がある。明治25年(1892)2月28日、文房具店を営む父福田馬太郎と母、安(アン)の長男として生まれる。大正7年(1918)、京都市立絵画専門学校卒。翌年、第1回帝展初入選。以後、帝展、新文展、日展を中心に活躍。昭和11年(1936)、京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)教授。昭和36年(1964)、文化勲章受章。同年、大分市名誉市民の第一号となる。昭和49年(1974)3月22日死亡。大分市には福田平八郎にちなんだ、福田平八郎賞大分市小中学校図画展、通称「福田賞」「福田展」という名称の賞がある。生家跡は現在小公園となっている。

 
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2014-08-26

[豊後の偉人] 豊後の三賢、 帆足萬里(ほあしばんり)


豊後の三賢と呼ばれる、江戸時代後期の儒学者、帆足萬里(ほあしばんり)は安永7年(1778)、日出藩の家老、帆足通文(ほあしみちぶみ)の三男として生まれた。寛政3年(1791)14歳で豊岡の儒学者、脇蘭室(わきらんしつ)の門に入り独学で研究に努めた、21歳の時に大阪の中井竹山、京都の皆川淇園、にも学んでいる。経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあったと言われている。天保3年(1832)13代日出藩主の木下俊敦(きのしたとしあつ)に藩の立て直しを請け家老に任じられた。家老職を引き受けるにあたり、藩主から一切、口出しをしないと約束を取り付け、思う存分に改革の腕を振るった。嘉永5年(1852)6月14日、多くの弟子に見守られて75歳の生涯を閉じた。墓は木下家の菩提寺の松屋寺にある、墓のあちこちが欠けているが、萬里にあやかって学問の向上を願う人々が持って行ったためだ、現在は棚で囲まれている。帆足萬里の代表的著書に、「窮理通」「東潜夫論」などがある。三浦梅園(現、国東市安岐)、広瀬淡窓(日田市)とともに、豊後の三賢と呼ばれている。(写真は日出城址公園の萬里の像)
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2014-07-21

[豊後の偉人] キリシタン大名、大友宗麟

我が故郷、越後の歴史を語るには戦国の武将、上杉謙信公を避けては通れない。こちら豊後の国(大分県)に来て、歴史音痴のhamさん、恥ずかしながら初めて耳にした名前だが、いろいろ歴史をひも解いていくと、よく出てくる名前がある、大友宗麟(おおともそうりん)、ご当地では知らない人はいない、と言っても決して過言ではないだろう。
享禄3年(1530)1月3日、父大友義鑑、母大内義興(周防の戦国大名、大内氏の第30代当主)の娘の嫡男として豊後府内(現大分市)の上野と顕徳町の二か所に大友館があり、このいずれかで生まれたと思われる。幼名を塩法師丸、その後10歳の時に元服し、当時の室町幕府12代将軍「足利義晴」の義の字をいただき大友義鎮(よししげ)と名乗った。大友宗麟20歳の時、天文19年(1550)「大友二階崩れの変」と呼ばれる家督相続をめぐる内紛を治め、若くして大友家第21代の当主となった。
翌年の1551年には、当時山口で布教活動をしていた フランシスコ・ザビエル を豊後府内に招き会見をしている。この宗麟とザビエルの歴史的な会見により、キリスト教の布教が許可されました。ザビエルは僅か2ヶ月で豊後府内を去りましたが、この時、宗麟はポルトガル王へ親書と使者をむけ、翌年の1552年から多くのポルトガル人宣教師が豊後府内を訪れるようになり、これを契機に南蛮貿易が現在の大分市の春日浦から住吉泊地にかけてあったと考えられている「沖の浜」と呼ばれる港を窓口に行われるようになった。こうした貿易により蓄積した膨大な経済力をもとに、九州北部の6ヶ国の守護職を任じられ大友氏の歴史の中で最盛期を迎えました。
大友宗麟はキリスト教の布教を保護しながらも自らは禅宗に帰依し、剃髪して法号、宗麟(そうりん)と名乗っていた。
大友宗麟は天正6年(1578)、48歳の時にキリスト教の洗礼をうけて名実ともにキリスト教徒になりました。洗礼名はフランシスコ・ザビエルにちなんでフランシスコと自らが選んだと言われている。この年に日向に出兵し「日向高城、耳川の合戦」により薩摩の島津氏に敗れ、ここから大友氏の権勢に陰りが見えるようになり、9年後の1586年、宗麟56歳の時に薩摩の島津氏が豊後府内に侵攻し豊後府内は灰となりました。翌年の天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定の後、5月6日、57歳の人生に幕を降ろした。 (写真はJR大分駅前広場に建っていた大友宗麟の銅像だが現在は駅ビル建設に伴い撤去されている、来春の駅ビル完成時には再び駅前にその雄姿が見られるだろう)

 
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2014-06-29

[豊後の偉人] 瀧 廉太郎 終息の地


 
日曜日で仕事は休み、梅雨も一休みで朝から晴れあがっている、大分市内の中心部の裏通りは複雑に一方通行が入りくんでいて新米タクシードライバーにとっては頭の痛いところだ。こういう時は歩いてじっくりと道を覚えよう、と考え出かけた。県庁脇を南北に走る道路の真ん中に遊歩公園(写真)がある。この中にいくつかの記念碑などが存在していたことは以前から承知していた、そのうちにじっくりと見に来るか、と思っていたがいい機会だ、この遊歩公園を歩いていると有名な 瀧 廉太郎 の銅像の前に人だかりができている、まずいなー、写真を撮りたかったのになー!
 

 
銅像にはたくさんの花束が供えられている(写真)、正装した人の姿も見える、集団に近づき恐る恐る、すいません、今日は何かあるのですか? と尋ねてみると、はい、今日は滝廉太郎の命日で慰霊祭があるのです、と教えてくれた。
これから慰霊祭が始まるところのようだ、こりゃまずい日にきたなー!関係者らしき人に、すいません、写真を撮らせていただいてもよろしいですか?と尋ねると、えー、どうぞ! すると関係者と思われる女性が、どうぞ!と言って紙袋と何やら二枚の印刷物を差し出してきた、そういえば他の人はみんな紙袋を持っている、いえ、私は関係者ではないのです、、いえ、おせったいですから、どうぞ!紙袋を頂きそっと中を覗くとお菓子やらジュース、資料などの印刷物が入っている。内心、写真を撮ったらその場を去ろうと思っていたが、そうもいかなくなってしまいましたってー、、今日は瀧 廉太郎の112回忌とのことだ、ちょうどこの日にここを訪れたのも何かの縁だ、ご親族の挨拶、地元の○○の館長、○○新聞のお偉さん、など等の挨拶があり(色々と勉強になりました)、最後に綺麗な二人の女性が奏でるフルート、尺八、に合わせ参列者全員で 荒城の月、花 を合唱して式典は終わった。まさかこのようなところで歌を唄うなんて思ってもいませんでしたって―、、、

 

 
天才音楽家 瀧 廉太郎は明治12年8月24日東京市芝区南佐久間町2丁目18番地(現港区西新橋2丁目)で父、瀧 吉弘の長男として生まれた。父が内務省に勤めていた関係でたびたび転任したので、廉太郎もしばしば学校を変えている。小学校は明治19年5月神奈川県で入学した、すぐに富山県師範学校付属小学校に転じ、ここで1年半を過ごし、明治21年5月東京の麹町小学校尋常第3学年に転入し23年3月尋常科を卒業し高等科に入学した。このころ父は大分県大分郡の郡長であったため、同年4月同校を退学し帰郷、同年5月大分県師範学校付属小学校高等科第1学年に転入学した。そして24年父が大分県直入郡群長に転じたため家族と共に竹田の町(現竹田市)に移り、25年1月直入郡高等小学校第2学年に転入した。そして多感な少年期をここで過ごしたのである。そして明治27年4月竹田小学校(現竹田市立岡本小学校)を卒業した。ここでの2年余りの生活が廉太郎の音楽志望へ大きな影響を与えたと言われている。同年9月と東京音楽学校に入学、小山作之助先生(hamさんの郷里の新潟県上越市大潟区出身)をはじめ、多くの先生、先輩の庇護のもとで勉学に励んだ。明治29年12月12日廉太郎は学友会の音楽会に初演奏をしている、曲目はラインベルゲル作のバラードと言われている。彼の署名入りの写譜が見つかり、それに 明治二十九年十二月十二日音楽学校学友会二於テ此曲ヲ独奏ス、是レヲ予ノ独奏ノ初メトス。時専修部二年生 瀧廉太郎記 とある。この演奏で彼の実力がおおいに認められ称賛された。
また廉太郎は美しいテノールの声を持っていて、学友会の音楽会に重唱や合唱にたびたび出演している、また管弦楽でクラリネットを吹いていたと言う。専修部2年の頃から演奏だけでなく、作曲、作詞の方にも頭角を表し、明治30年2月「砧」作詞、3月「日本男児」作曲、7月「春の海」、8月「散歩」作曲、12月「枯野の夕景」作詞、31年7月専修部を優等で卒業、9月研究科に入学した。32年9月音楽学校の嘱託になって後輩の指導に当たる事になり、留学に出発するまでの2年間を熱心に指導した。この間に作詞、作曲した物が現在一番多く残っている。33年10月1日ピアノ曲「メヌエット」、11月1日組歌「四季」、そして「幼稚園唱歌」の編纂をはじめ「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」もこの頃の作品である。
明治33年6月付けで日本の音楽家としては二人目となるドイツへの留学が発令されたが、出発を延期し34年4月6日横浜港をドイツ船ケーニヒルアルベルト号で出帆した。42日におよぶ長い航海を終え5月18日にベルリンに到着、ここで巌谷小波(いわやこなみ)と再会した、そして3週間滞在、見物し6月7日ライプチヒに着いた。10月1日音楽学校(設立者メンデルスゾーン)のコンセルヴァトリウムの試験に合格、翌日より学生となり授業を受けた。冬の訪れに廉太郎はその寒さで風邪をひき、ついに全快することなく、翌35年8月下旬に帰国する事になった。途中、ロンドンのテームズ河畔のチルベリイドックで「荒城の月」の作詞者 土井晩翠(どいばんすい)と、最初にして最後の劇的な会見をし、10月17日横浜港に入港し、東京市麹町上2番町22番地の瀧 大吉の家に落ち着いた、しかしはからずも11月23日、最大の理解者である従兄の瀧 大吉が脳溢血で他界したため、葉山での転地療養を諦め、病を心配して葬儀にも参列せずに24日に東京を出発し大分の父母の許へ帰った。その頃、父は官職を去り、大分県大分市稲荷町339番地(現府内町)で悠々自適な生活を送っていた。廉太郎はここで療養につとめながら「荒磯」をはじめ多くの作品を書いたと思われます。しかし肺結核を患っていた廉太郎は明治36年(1903)6月29日午後五時23歳の若さでこの世を去った。結核に冒されていたことから死後、多数の作品が焼却されたと言う。瀧家の墓所は日出町の龍泉寺にあるが(瀧家は江戸時代日出藩の家老職を務めた上級武士の家柄である)廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られている。  = 一部案内板より抜粋 =

 廉太郎の墓は親族のご意向で2011年に瀧家の墓所の日出町の龍泉寺に移されました。

 
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