
先々週の
NHKの大河ドラマ 天地人 の御館の乱で敗れ鮫が尾城で自害した上杉三郎景勝のゆかりの地、勝福寺を訪ねてみた。
境内見学、写真撮影などお願いしたところ快諾を頂きちょうど住職さんもご在宅で色々と説明までして頂いた。
勝福寺
勝福寺
(写真)は、妙高市乙吉(おとよし)496番地 にあり創建当時は真言宗のお寺であったが今は浄土真宗のお寺。御館の乱で寺は焼失したと伝えられているが、過去2回火災にあい、現在の建物は寛政9年に建立されたもので200年ちょっと経っているようである。お寺の境内には景虎公の供養碑と石像があり、隣接して鮫が尾城々主の
館跡(立ノ内)が有ります。
立ノ内(館ノ内)
勝福寺に隣接した「たてのうち」と呼ばれる畑地一帯と周辺は鮫が尾城々主の館があったところと言い伝えられ、地元の人達に大切に護られています。
館とは、防御設備を備えた豪族や官吏などの邸宅のこと。
平常時は城主が起居して、この地方の行政を行い、戦いが始まると、城主は
本城(鮫ヶ尾城)に居を移して防御を固め、戦いの指揮を執った。
この館は春日山城主、上杉氏の時代に鮫ヶ尾城下の真言宗の古寺(勝福寺)寺域に構築され、寺は祈願所として厚く庇護されていましたが、御館の乱で、館と寺は焼失したと伝えられています。この地内では、陶磁器片などが当時の遺物として、現在も出土している。
上杉三郎景虎
景虎は
天文23年(1554)相模国、小田原城主、北条氏康の七男として生まれ、幼名を三郎氏秀と言う。
元亀元年(1570)4月17歳のとき、越、相同盟(越後、相模)の成立に伴い人質として春日山城に入り、上杉謙信の養子となって景虎の名を授かり、春日山城二の丸に住むこととなった。景虎は関東一の美懇の持ち主と称えられた17歳の少年であった。
上杉謙信は姉、仙桃院の娘(景勝の姉)華姫とめあわせるなど厚遇した。
しかし
天正6年(1578)3月13日、謙信が死去するともう一人の養子、景勝と跡目をめぐって御館の乱がおこり、
天正7年(1579)3月24日、戦いに敗れた景虎は落ち延びて来た鮫ヶ尾城でついに力尽きて華姫と共に自害、26歳で波瀾の生涯を閉じた。法名は徳源院要山淨玄居士。
この日を新暦4月29日と定め、城下の勝福寺で毎年法要が営まれている。(写真右)は上杉三郎景虎の石像
上杉三郎景虎供養碑
NHKの大河ドラマ 天地人 が始まりテレビで紹介されるようになり連日見物客が訪れるそうだ。特に日曜日ともなると遠く県外ナンバーの車、観光バスも訪れる、私が訪れた今日も、
もう少しすると観光バスが来るはずですよ、と住職さんが言っておられた。景虎の供養碑
(写真)にはお線香などが供えられていた、私も静かに手を合わせてきた。先日見学にみえた川崎市の景虎ファンだと言われるご婦人が、帰られてから送ってこられた花だそうだが、飾られていた。
忘れられていた出来事が430年経った今、こうしてテレビのお陰で思い偲ばれ、供養して頂けて景虎公も喜んでいるでしょう!
と言われた住職さんの言葉が印象に残った。
梵鐘
この鐘突き堂も200年経っているそうだ、合掌造りで、もちろん釘は一本も使われていない、梵鐘は戦争中持って行かれたが、親鸞聖人の750回忌の記念に復元されたそうだ。
お寺の本堂もこの鐘突き堂も大きな地震が来ればひとたまりもないでしょう、、と住職さんが心配されておられた。
私がいる間に2台の車が来て年配のご夫婦が降りてこられた、1台の車は隣家の屋敷に断りもなく止めている、そして観光バスが来て沢山の比較的ご年配の人が降りられた、、一人のご婦人、お寺の住職さんの住居の裏へ回ったり、家の中を覗いたり、、帰ろうとすると、釣鐘が、
ゴーン、、 と鳴った。
全く常識の無い人達だなー! よく
今の若い者は、、と口にする年代の人達だが、情けない話だ、、お寺も別に入場料を頂いているわけでもなし、好意的に見学をさせているのに、全く常識のない迷惑な話だ、、、
今日も
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