2009-06-15

[我が故郷、天地人] 茶臼山城跡

上越市頚城区にある雁金城とともに春日山城の支城の一つの茶臼山城跡に行って来た。県道、新井、柿崎線の頚城区上増田の信号を吉川町方面に暫く進むと案内板(写真)がある。矢住地内に入ると左側に小さな案内板(気が付きにくい)が有るが、その先を右に曲がると茶臼山(写真右)がある。


付近一帯は茶臼山城跡公園として整備されている。


    
茶臼山城は標高43メーターの円錐状の砦であり、戦国時代の典型的な山城である。山頂に本丸があり、虎口(こぐち、入口のこと)や土塁がある事から、そこに木柵をめぐらし、中央に櫓を築いていたと考えられる。本丸のすぐ下には井戸、空堀、腰郭、又3か所に削平地、などがある。
茶臼山城については史料がなく伝承によると手島清蔵源景行が城主であったが、「御館の乱」で敗れた上杉三郎景虎に仕えていた城主の手島氏は景勝方の敵軍に包囲され大潟湿地から柿崎浜へ逃れ、船で阿賀北の「島見浜」に逃れた。
写真左は頂上、本丸跡に建つ展望台、当時が偲ばれる形をしている。

上陸した手島清蔵源景行はその後、武士より出家し栄玄と称し、そこに堂宇を建立した。西厳寺(現、新潟市島見町)は浄土真宗の寺院で約400年の歴史を持ち、住職と御門徒は往古を偲び本丸跡に記念碑を建立した(写真右)
古井戸と琴姫物語
この古井戸は本丸の下、二の郭の東端に有り、直径2,7m、深さ3mの竪井戸である。「御館の乱」で敗れた景虎に仕えていた茶臼山城主は城を棄てて逃れる決意を固めた。城主には大変美しい一人の娘がおり、琴の名手であった。城主は落城の際、この姫を伴って落ち延びる事は不可能だと知り、姫を残す決意を固めた。まさか敵とて姫の命を奪う事はないと思ったからである。しかし姫は景虎公を恋い慕うあまり、古井戸に身を投じて死んでしまった。井戸に石を投じると、姫の奏でる悲しい琴の音が今でも響いてくるようである。真夏でも井戸の水は涸れる事がなく、不思議な井戸であり、琴姫の悲しみの涙だとも言い伝えられている。
試しにこっそりと石を投じてみたが、、 んー、どうだろう! 

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2009-05-20

[我が故郷、天地人] 勝山城(落水城)

NHKの大河ドラマ「天地人」前回の放送は勝山城(落水城)での四者会談、その舞台となった勝山城に行って来た。
事前情報でえらく険しい山道だって事は承知していたので万全を期しての登山だ。トレッキングシューズ、軍手、おにぎり持参だ、車で1時間、登山道入り口に到着、営業していないドライブインの狭い駐車場に車を停め、靴を履き替え出発。。。。。


登り始めたが、とにかく一気に登りだ、平坦なところ、下りは一か所も無い。普段、車のブレーキ、クラッチ、アクセル、位しか足を使っていないんだもん、堪える、堪える、、、、頂上までに数か所、鎖につかまり登る処がある(写真)、

とにかくきつかった!
途中こんな看板が、おー、もう少しか、、、
しかーし、、、ちっとも頂上に着かない、(まだ半分も来ていない)
頂上まで、もうふた頑張り、、と書いておいてもらいたいね!
勝山城跡(写真右)は、天下の険「親不知、子不知」(おやしらず、こしらず)の東端に位置する勝山(328,4m)にある。その昔、山頂と周辺の尾根には山城が築かれていた。山頂の本丸跡からは西に越中宮崎(富山県)東には姫川河口に広がる糸魚川市街地が展望できる。(写真下、左)

勝山城は落水城(おちみずじょう)とも呼ばれ、日本海沖を航行する船舶の監視にも絶好な位置にある為、春日山城を中心とする、越後勢の西の要城として重要な位置にあった。越中勢をはじめとした西方の動きは、上杉家臣の須賀氏を城主とするこの勝山城から東方の春日山城へは、狼煙によって、松山城(糸魚川市青海)金山城(糸魚川市田伏)不動山城(糸魚川市早川)徳合城(糸魚川市徳合)などを経て伝えられたであろう。

戦国時代末期、全国覇権を目指す豊臣秀吉は越前の柴田勝家、越中の佐々成政を倒し、越後の征圧に乗り出した。そのころ上杉謙信の家督を継いだ上杉景勝は家臣で知将として知られた直江兼読らを従がえて、越中、能登へと勢力をのばそうとしていた事から豊臣軍と上杉軍の対決は目前に迫っていた。

当時最強の勢力とされていた上杉勢との対決を避けたい豊臣秀吉は上杉勢との交渉を試みた。後の軍記物では、両軍の大将である、景勝と秀吉、それを補佐する上杉軍の兼読と豊臣軍の石田三成らは「勝山城で会見した」と記している。その真偽は定かではないがこの勝山城は東西勢力のその後を占う重要な会見が行われても不思議ではない、重要な位置にあった。

頂上まで40分と言うのは若い健脚の人だな私は途中3-4回休んで1時間かかったよ。   (^0^;)

頂上から眺める展望は素晴らしいーの一言、、、

頂上の下は断崖、絶壁、そしてすぐに海、
東方向(写真上)、西方向(写真右)の動きは手に取るようにわかる。
良いところに城を造ったねー!

  
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2009-05-13

[我が故郷、天地人] 樋口兼豊と賞泉寺

直峰城下にある直峰城主の菩提寺、賞泉寺(写真)に行って来た。
境内の見学、写真撮影などお願いしたところ快く許可を頂いた、昨年の晩秋の頃、仕事でセレモニーホールより住職さんをお供させて頂いた事が有り、その旨お話したところ、直ぐに思い出して頂き、色々と案内やら説明までして頂いた。俺も結構ずーずーしい男だなー! おまけに最後にあがってお茶でも飲んでいけ、とお誘い頂いたが、さすが手ぶらで行ってしまった事もあり丁重にお断りしたが、、、

NHKの大河ドラマ 天地人 の主人公である直江兼読公は、樋口兼豊公の子供として誕生し、その後直江家の養子となり、戦国時代、上杉謙信公の「義」の精神を学び、自らは「愛」の精神を持って戦国の世で活躍致しました。その直江兼読公の実父である樋口兼豊公は、上杉謙信公の死後に起きた跡目争い「御館の乱」の功績により天正12年(1584)直峰城主となっております。
賞泉寺は安塚区の直峰城主の菩提寺として明応7年(1498)、吉田周防守英忠公の創建で本堂には歴代の直峰城主の位牌が安置されており、多くの寺宝を有しています。
樋口兼豊公、直江兼読公とも、上杉謙信の「義」の精神のもと、私利私欲で動く戦乱の乱れた時代にあって、世の中の秩序を乱す武将たちと戦いました。上杉謙信公の「義」の精神とは「大きな流れ、大きな秩序に従わず、自分勝手な行動をとり、世の中を乱す邪悪な武将たちを成敗する」と言う仏法の教えにもとづく精神です。(賞泉寺寺報、63号より抜粋)
(写真左は賞泉寺を創建した吉田周防守英忠公のお墓、五輪塔)

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2009-04-29

[我が故郷、天地人] 樋口兼豊と直峰城(のうみねじょう)

NHK大河ドラマ 天地人 で直江兼読の父 樋口兼豊が城主を務めた直峰城(のうみね)を訪ねてみた。上越市安塚区にあり国道253から向かうと安塚高校を過ぎると信号がある、信号を左折、案内板に従い山を登ると駐車場にたどりつく。ここから2か所の登るルートがあるが行きと帰り別のルートを通ると良い。いずれも徒歩で約15分くらいで本丸跡に着く。結構きつい登りもあるが比較的良く整備されている。途中当時の家臣の屋敷跡、蔵跡、二の丸などをを通り頂上へ(写真)途中当時の面影を残す空堀、土塁などを見る事ができる。ちょうど山桜がピークを過ぎた頃だった、残念! しかし新緑が奇麗で、沢山のうぐいすが大合唱で迎えてくれた。本丸跡からは20数キロ先の春日山城が望める。
直峰城
直江兼続の父・樋口兼豊が御館の乱の後に城主となった直峰(のうみね)城は、春日山城から約24km東にある上越市安塚区にある城山(標高344m)に築かれていた。城の始まりは古く、南北朝時代には南朝方の風間信濃守信昭の居城であったと言う。
直峰城が古くから重要視されたのは、ここが、春日山から坂戸城周辺を経て三国峠を越え関東に至る三国街道の要衝だったからである。上杉謙信は、北条氏康氏に追われてきた関東管領上杉憲政の要請を受け、何度も関東出兵を行ったが、その際のルートは、春日山城から直峰、犬伏、琵琶懸、樺野沢、荒戸の各城を最短で結んで三国峠を越えるものであった。直峰城は春日山から関東に向かった場合の最初の宿営地に当たる。写真右は天然記念物の樹齢800年を超す大欅の木。
直峰城は、御館の乱で景勝方勝利の鍵となった。御館の乱の当初、上杉景勝が拠る春日山城周辺の諸城は景虎方に属しており、景勝の出身地で樋口兼豊らが在住する坂戸城とは分断されていた。景勝方は早い時期に直峰城を手中に収め、三国街道の次の宿営地である現松代町の犬伏城も押さえていた為、春日山城と坂戸城との連絡線を保つことが出来た。これに対し、景虎方は、実家の北条氏康氏の軍が上越国境を越えて樺野沢までは来たものの、そこから先には進めなくなり、景虎方は関東との連絡を絶たれて御館周辺で孤立する形となり、その敗北を招いてしまった。御館の乱に勝利した景勝は、天正12年(1583)11月24日、信任が厚く軍功のあった樋口兼豊を直峰城主に任じた。交通の要衝の支配は、流通、商業に明るい兼豊にはうってつけの役とみられたのであろう。兼豊は、14人の同心衆と共にこの城を守り、天正16年には「伊予守」を名乗ることを許されている。   (写真左は頂上本丸跡より安塚の街を望む、右方向が春日山城)
旧 三国街道
この道は、越後春日山城と上田長尾氏の根拠地、南魚沼市(旧六日町)の坂戸城とを結ぶ重要な道でした。
永正4年(1507)8月2日越後守護、上杉房能(ふさよし)が、守護代長尾為景の追撃を受けた古道です。
又天文21年(1552)関東管領上杉憲政が北条氏康に追われ、謙信に助けを求めてから、謙信が49歳の生涯を閉じるまで、この道を通って関東に出陣しました。
江戸時代に入ると、関東への旅稼ぎに行く道であり、年貢輸送で賑わった道です。「石敷きの道」として広く知られた道でもあり、今もその面影を残す敷石が約2キロにわたって続いている。 (写真右)

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2009-04-20

[我が故郷、天地人] 上杉三郎景虎と勝福寺

先々週のNHKの大河ドラマ 天地人 の御館の乱で敗れ鮫が尾城で自害した上杉三郎景勝のゆかりの地、勝福寺を訪ねてみた。
境内見学、写真撮影などお願いしたところ快諾を頂きちょうど住職さんもご在宅で色々と説明までして頂いた。


勝福寺
勝福寺(写真)は、妙高市乙吉(おとよし)496番地 にあり創建当時は真言宗のお寺であったが今は浄土真宗のお寺。御館の乱で寺は焼失したと伝えられているが、過去2回火災にあい、現在の建物は寛政9年に建立されたもので200年ちょっと経っているようである。お寺の境内には景虎公の供養碑と石像があり、隣接して鮫が尾城々主の館跡(立ノ内)が有ります。
立ノ内(館ノ内) 
勝福寺に隣接した「たてのうち」と呼ばれる畑地一帯と周辺は鮫が尾城々主の館があったところと言い伝えられ、地元の人達に大切に護られています。
館とは、防御設備を備えた豪族や官吏などの邸宅のこと。
平常時は城主が起居して、この地方の行政を行い、戦いが始まると、城主は
本城(鮫ヶ尾城)に居を移して防御を固め、戦いの指揮を執った。
この館は春日山城主、上杉氏の時代に鮫ヶ尾城下の真言宗の古寺(勝福寺)寺域に構築され、寺は祈願所として厚く庇護されていましたが、御館の乱で、館と寺は焼失したと伝えられています。この地内では、陶磁器片などが当時の遺物として、現在も出土している。

上杉三郎景虎
景虎は天文23年(1554)相模国、小田原城主、北条氏康の七男として生まれ、幼名を三郎氏秀と言う。元亀元年(1570)4月17歳のとき、越、相同盟(越後、相模)の成立に伴い人質として春日山城に入り、上杉謙信の養子となって景虎の名を授かり、春日山城二の丸に住むこととなった。景虎は関東一の美懇の持ち主と称えられた17歳の少年であった。
上杉謙信は姉、仙桃院の娘(景勝の姉)華姫とめあわせるなど厚遇した。
しかし天正6年(1578)3月13日、謙信が死去するともう一人の養子、景勝と跡目をめぐって御館の乱がおこり、天正7年(1579)3月24日、戦いに敗れた景虎は落ち延びて来た鮫ヶ尾城でついに力尽きて華姫と共に自害、26歳で波瀾の生涯を閉じた。法名は徳源院要山淨玄居士。この日を新暦4月29日と定め、城下の勝福寺で毎年法要が営まれている。(写真右)は上杉三郎景虎の石像

上杉三郎景虎供養碑
NHKの大河ドラマ 天地人 が始まりテレビで紹介されるようになり連日見物客が訪れるそうだ。特に日曜日ともなると遠く県外ナンバーの車、観光バスも訪れる、私が訪れた今日も、もう少しすると観光バスが来るはずですよ、と住職さんが言っておられた。景虎の供養碑(写真)にはお線香などが供えられていた、私も静かに手を合わせてきた。先日見学にみえた川崎市の景虎ファンだと言われるご婦人が、帰られてから送ってこられた花だそうだが、飾られていた。忘れられていた出来事が430年経った今、こうしてテレビのお陰で思い偲ばれ、供養して頂けて景虎公も喜んでいるでしょう!
と言われた住職さんの言葉が印象に残った。


梵鐘
この鐘突き堂も200年経っているそうだ、合掌造りで、もちろん釘は一本も使われていない、梵鐘は戦争中持って行かれたが、親鸞聖人の750回忌の記念に復元されたそうだ。お寺の本堂もこの鐘突き堂も大きな地震が来ればひとたまりもないでしょう、、と住職さんが心配されておられた。

私がいる間に2台の車が来て年配のご夫婦が降りてこられた、1台の車は隣家の屋敷に断りもなく止めている、そして観光バスが来て沢山の比較的ご年配の人が降りられた、、一人のご婦人、お寺の住職さんの住居の裏へ回ったり、家の中を覗いたり、、帰ろうとすると、釣鐘が、ゴーン、、 と鳴った。
全く常識の無い人達だなー! よく今の若い者は、、と口にする年代の人達だが、情けない話だ、、お寺も別に入場料を頂いているわけでもなし、好意的に見学をさせているのに、全く常識のない迷惑な話だ、、、

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2009-03-21

[我が故郷、天地人] 鮫ケ尾城(さめがおじょう)

鮫ヶ尾城(さめがおじょう)
朝からいい天気、よーし、行ってくるか。NHK大河ドラマ ”天地人 ”にちなんだ城跡だ。標高183メーターの山城で県、国の史跡に指定されている。
式内社斐太神社(ひだじんじゃ)の隣に駐車場入り口があり、本丸跡まで登るのに3コースある。(北登城道、南登城道、東登城道)行きは東登城道を行ってみた、途中結構きつい登りがある、雨上がりはこのコースは滑るのでやめたほうが良い、事実私は行き帰りで2回スッテンころりん、、、、
帰りは北登城道を下ってみた。この道は比較的歩き易いのでお勧めだ。
途中は森林公園でカタクリ(写真右)が奇麗に咲いていた、途中山の中なのに、車の走行音が聞こえる、、えッ、??? 樹木の間から眼下に上信越道が見えるではないか、、この山城の下を高速道路が通っている、、んー、何かアンバランスと言うか、歴史の流れを感じる、、、駐車場より歩くこと約25分くらいで頂上の本丸跡に着いた。
頂上からは遠く日本海、春日山まで望める。なーるほど、ここからは信濃の国方面から武田信玄が攻めて来ても一目両全だ、、おぬしもやるよのー!!
戦国時代(16世紀)の名将上杉謙信が、武田信玄の進出に対し信濃方面への備えとして築城したのが鮫ヶ尾城です。大小数十の曲輪跡や空堀、土塁、井戸などが残存し、春日山城跡に次ぐ規模を誇っている。謙信の死後、二人の養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」で、敗れた景虎が兄の北条氏政を頼って小田原城へ逃亡の途中、鮫ケ尾城へ立ち寄った。ところが城主堀江宗親(ほりえむねちか)の謀反にあい天正7年(1579)3月24日ここで自刃した(26歳)悲劇の城としても有名で、米蔵跡からは、今も戦火を伝える焼けた米を土の中から発見することができます。標高183mの本丸跡からは、高田平野を眼下に 日本海や米山までを一望することができます。昭和39年に県の史跡に指定され、平成20年国の史跡に指定された。

アクセス
妙高市(旧新井市)のR18号線の乙吉(おとよし)交差点から少し北西方向に入る。斐太神社を目印に向かうと良い。
神社横に駐車場がある(あまり多くは止めれない)。その上がハイキングコースの公園になっている。この中に管理棟があるがここでいろいろなパンフレットが手に入る、又米蔵から出てきた焼けたおにぎり等が展示してある。簡単なお土産を販売している。感じの良い管理人のおばさんがお茶のサービスをしてくれた。

総合案内所(管理棟)
入館料無料
4月初旬~11月下旬まで開館
09:00~17:00 (10月 16:00 11月 15:00 まで)
お問い合わせ 0255-72-0697

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2009-03-09

[我が故郷、天地人] 天地人と御館跡(おたてあと)

御館跡、御館の乱(おたてあと、おたてのらん) 

一年前までは恥ずかしい話だが、御館の乱、又舞台となった御館跡など全く興味もないし、、、、、、、御館の乱、何それ! と言うお粗末な感じであった。今の会社に入り観光地の説明の研修、NHK大河ドラマ ”天地人”の放映により興味が湧いてきたのが現状である。普段何気なく近くを通り過ぎた場所が歴史的に大変意味のある場所とは夢にも思わなかった。と言うよりは知らなかった。。恥ずかしい話、、 汗、、午前中カメラを持って行って来た(写真)。
御館(おたて)は小田原城主、北条氏康に破れ、上杉謙信公を頼って越後に逃れた関東管領、上杉憲政(うえすぎのりまさ)の為に謙信公が造営した館です。館の規模は外堀まで含め東西約250メートル南北約300メートルに及び、謙信公の政庁としても使用されたと言われている。
1578年3月9日
上杉謙信、脳溢血の為倒れる、3月13日意識が戻らないまま死去。遺言が無かった為後継者が決まらず。
3月15日
謙信の葬儀後、景勝は「謙信の遺言」と称し、春日山城本丸、金蔵、兵器蔵を占領し自身が謙信の後継者と宣言し、金3万両を得た。そして5月景勝が三の丸に立て篭もる影虎を攻撃した。その後春日山城を舞台としての交戦状態が続き、影虎は妻子を連れて御館に移り篭城し、兄である小田原の北条氏政に救援を求めた。
この争いの中でめざましい働きを見せたのが景勝公の重臣、樋口与六、後の
直江兼読公です。この戦功により兼読公は奉行に取り立てられ、上杉家の中で重要な地位を占めるようになった。約2年にわたり越後を二分した争いは御館の落城、影虎公の自害により幕を閉じた
御館跡の発掘調査で、鉛製の銃弾、武具、刀剣などが見つかった。
(写真左)は御館公園と御館跡の碑。
 
JR直江津駅より徒歩15分くらい、
直江津駅よりタクシーで約750円くらい。


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