2010-07-08

[我が故郷、上杉謙信] 上杉謙信と馬塚古跡、

   馬塚古跡
(謙信公、愛馬の墓)
永禄4年(1561)の第4次川中島の合戦で上杉謙信公(この時は上杉政虎を名乗っていた)が敵陣に切り込んだ時に乗っていた愛馬(放生月毛の駒)が傷ついてしまい謙信公と共に春日山に帰る途中、ここまでたどり着いて倒れてしまった、と伝えられています。この辺りは昔、馬塚町と呼ばれ、この馬塚が町名の由来と成っています。現在の南城町2丁目、上越大通り、南本町2丁目の交差点を東に向かい(高田農業高校方向)次の信号の50メーターくらい手前の左側、ちょっと解り難いが 毘沙門 の旗が目印だ。

第4次川中島の合戦
合計5回行われた上杉謙信と武田信玄の合戦の中で一番激しかった戦いと言われている。

            
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2009-10-16

[我が故郷、上杉謙信] 村上義清と安福寺

先日、春日山城の支城の一つ、糸魚川の根知城へ行った時に、北信濃の戦国の武将、村上義清(後に上杉家の家臣、根知城主)のお墓が有ると言う安福寺へ行って来た。平日の根小屋集落、人ッ子一人歩いていない、お寺の名前もはっきりと解らない、、たまたま通りかかった高校生に聞いてみた。試しに、村上義清って知っていますか? 聞いてみた。 村上義清?どこの高校ですか? ときた。 ガクーン!! やっぱりな、もっとも私もつい半年くらい前までは村上義清なんて名前知らなかった。丁度昼時、一軒の家に飛び込み聞いてみた、50代と思われる奥さん、 村上義清の墓??すいません解らないんですが、、と言う事でご主人さんに聞いてくれた、ご主人ニコニコしながら丁寧に教えて頂いた、同じ集落に3軒のお寺があるようだ、県道沿いの大きなお寺の向かいにデイサービスがあるがそこから少し山側に入るとすぐ小さな(失礼)お寺、安福寺がある(写真の向かい側が墓地)
村上義清
文亀元年(1501年)3月11日、村上顕国の子として信濃の葛尾城に生まれる。父の顕国の事蹟が明確でないため家督継承前後の義清の動静も明確ではない。永正14年(1517年)に、父より葛尾城を譲られ、永正17年(1520年)に病没した父の後を受けて城主となる。
当時の村上家は、北信濃では越後長尾氏と関係の深い名族、井上氏や水内郡の高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を押さえ込み、信濃の守護代であった佐久郡の大井氏を下して甲斐の武田信玄と抗争を続けていた。
天文22年(1553年)、武田氏に通じていた大須賀久兵衛が謀反し、また室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏したため、村上義清は4月9日葛尾城を一時脱出。再度体勢を整え、4月22日には奪還に成功している。武田晴信(後の武田信玄)は深志城に後退し、5月11日には甲府に引き上げた。しかし晴信は7月25日に大軍を率いて甲府を出発、8月に義清は窮地に追い詰められた。抗戦能力の無くなった義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ち延びていった。北信濃の独立勢力であった村上氏の没落により、武田家の勢力が越後長尾氏と関係の深い善光寺平にまで及んだことが、この後に続く川中島の戦いへの導火線となった。
その後、義清は根知城主となり、嫡男の国清とともに上杉家臣となる。国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えられている。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、義清は信玄と名前を変えた晴信と再びまみえ、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとされる。
元亀4年(1573年)1月1日、越後根知城にて病死。享年73。仇敵・信玄の死の5ヶ月前であった。
根知城、城下の安福寺のひっそりとした墓地に義清の墓がある(写真)。
その墓所については越後、魚沼郡赤沢の説もある。又信濃の坂城町田町の出浦家墓所に後年(天正4年、慶長4年、没後百年など数説あり)分骨されたという墓所が残る。

 
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2009-09-20

[我が故郷、上杉謙信] 根知城跡

朝から秋晴れの天気だ、かねてから密かに考えていた、上杉謙信の春日山城の支城群のひとつ糸魚川市にある根知城跡に行って来た。
糸魚川市内の国道8号線から国道148号に入り「根知谷入口」から県道225号へ入り、踏切を渡り(大糸線)すぐ右に、根小屋集落に入ると暫くで右側に集落の集会場があるがその手前左側に数台が停められる駐車場がある。その向かいが根知城跡入口(写真)。少し先、右側に勝蓮寺がありその先が登山道入口
 
根知城跡、根小屋口(写真)への手前の民家の前で2人の中年のおばさんが井戸端会議?、、、、 山へ行きなさんのかね? と声をかけられた、、、はい、根知城跡まで何分くらいかかりますか?、、あんたの足だと40-50分かね!、 どういう意味かねー、早いのか遅いのか? たまに熊が居るから気を付けてね、、えッ、その時はどうすればいいんですかね?、、、 そんなん、成るようにしか、ならんわね!、、、、、、いやー、ごもっとも、、正解です。
  
登り始めると結構きつい、たかが300メーターそこそこの山だが平地から一気に登る、あまり整備されていない山道だ、途中いたる所にクモの巣がかかっている、落ちていた木の枝でクモの巣を払いながら進む、途中、ガサガサッ、、と音が、、 んッ、熊か! 一瞬緊張が、、、途中、熊の糞と思われるものを発見、、この先は木の枝で周りの小さな木を叩きながら、へーへ―と息を切らしながら演歌を歌いながら進む、、下手な歌で熊も逃げるだろう、、何でこんなんまでして登らんといけないのかねー、

途中たくさんの土塁(写真)、削平地、堀切、などを確認する事が出来る。又当時からのものであろう石なども目にした。

登り始めて30分くらい、古城 地蔵の館 と書かれた山小屋風の建物がある、中を覗くと囲炉裏が有りたまに使われているようだ。

根知城は、標高320メーターの「根小屋城」を中心に、標高525mの城山の頂上に詰の城「上城山城」、標高100mの栗山に「栗山城」を配した大城塞であるが、一般的には「根小屋城」をもって根知城と呼ばれている。本丸跡と殿屋敷と呼ばれる郭跡を中心に、郭跡17、削平地201、堀切16、竪堀15というように大規模な城郭を持つ戦国時代の典型的な山城である。  
登り始めて45分、集落のおばさんの予想通りだな!、根小屋城本丸跡に着いた。信濃、越後、の国境を警備するには持って来いのロケーションだ、遠くに日本海も望める。ここで来る途中、コンビニで買ったオニギリを食べて、しばし殿様にでも成った気分にしたった。

西側に姫川、北側から東側にかけて根知川が流れており、築城年代は定かでないが、上杉謙信が武田信玄の侵攻に備えて築いた山城であるとされている。1565年、謙信が信濃の国を追われた、村上義清を城主に定めた。その後、根知城の警備を厳重にするようにと、幾たびか文書を発給しているが、これは根知城が信濃、越後の国境の要の地であった為、根知城を整備したものと思われる。村上義清の死後は御館の乱を経て仁科盛信、西方房家など幾たびか城主が変わり、1598年には堀清重が城主となった。これは堀秀治氏が春日山城主となったためである。そして1599年の上杉遺民一揆の際、堀氏は根知城を廃し、1601年に糸魚川市内一の宮に清崎城を築いたとされている。

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2009-08-12

[我が故郷、上杉謙信] 不動山城跡、

朝起きてカーテンを開けると晴れ、、よし、行こう! 糸魚川市にある上杉謙信ゆかりの、春日山城の支城群の一つである、不動山城跡(ふどうやまじょうせき)に行って来た。国道8号線糸魚川市梶屋敷地内、早川橋西詰の信号交差点を県道270号線、笹倉温泉方面に入り、車で10分くらいか、越のバス停の丁字路を(標識があるが気が付き難い)左に曲がる。早川の橋を渡りすぐY字路を左へ曲がる、ちょっと進むと狭い道を右に(小さな案内板が有るが字が剝げて草などの影になり見え難い)曲がり細い道を登って行く。とうとう不安になり、さて、困ったなー! ちょうど民家が有り田圃の帰りと思われる人を見かけたので近ずいて行くと、、、ニコニコして迎えてくれた、すでに察しているようだ、、 城跡に行きなんのかね~、、案内板が無いから解り難いんだわ、、先日も長岡からの人が来なすたわね!、、親切に教えて頂いた、しばらく山道を登ると右側にため池が有るが、その手前、右側に駐車場(10台くらいOK)がある。ここから歩いて20分くらいで本丸跡に着く。
   
不動山城
不動山城は449メーターの独立峰にあり、本丸、二の丸、三の丸、帯郭、等で整備され、削平地460ヶ所、堀切4、竪掘り19、土塁1、石垣8、井戸2、等が確認されており、本丸からの見晴らしも良く、根知城、勝山城、が一望でき、戦国時代の典型的な山城である。

      
不動山城の役割と歴史
不動山城は、越後守護上杉謙信の家臣、山本寺(さんぽんじ)(三本寺)氏の居城で、春日山城の支城のひとつでもある。西は越中を備える勝山城、南は仁科口を備える根知城、清水山城と共に、越中、北信濃との国境を警備する重要な役割を持っていた。西頚城、糸魚川の山城の中でも規模、築城構造からみても随一の物である。
上杉謙信死去による跡目争いの天正6年(1578)御館の乱では、山本寺家は兄弟が敵味方に分かれ、山本寺定長が上杉景虎に加勢したため、上杉景勝の攻撃を受けて敗北、弟、山本寺孝長が跡を継いで城主となったが、魚津城での戦いで天正10年(1582)6月3日戦死した。

   
450メーターの本丸跡からの眺めは素晴らしい、遠く能登半島、妙高連山、北アルプスが望めるロケーションだ。頂上の桜の木の木陰で周りの景色を眺めて、途中コンビニで買ったおにぎりをほおばる、、美味しい! 日本海から吹く少しの風が心地よい、ぜいたく独り占めだ。。
しかーしだ、、この歴史的価値のあるところに、えらい物が建っていた。(写真)各テレビ局の新しい地デジのサテライト局だ、電波伝搬等の多少の知識のある私は、なるほど、ここの場所はそういう意味から見れば最高の場所だわ、、だからと言って、なにもこの場所に、、?、建設する方も建設する方だが、これを許可する行政も、どうなっているんだろう?  そう言えば来る途中、案内板も整備されていない、NHKの大河ドラマで放映されているこの時期に、、、何故?? 

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2009-07-31

[我が故郷、上杉謙信] 三分一ヶ原古戦場跡

博学な私は三分一ヶ原古戦場(さんぶいちがはら)と言う地名も、ごく最近まで知らなかった。有難い事に今の仕事を始めてから、遅ればせながら地元の歴史、名所、に多少の興味を持ち、NHK大河ドラマ「天地人」で、 歴史と言うものは面白いねー!、、、ここ旧頚城村(現上越市頚城区)三分一地区の古戦場跡、何回も近くを通るんだが、なかなか場所が解らなかった。
昨夜仕事でたまたまご乗車頂いた旅行帰りの老夫婦、行き先を聞くと、”三分一”????>>><<、、 乗車中お客様に古戦場跡の場所を訪ねると、詳しく教えてくれた、 「だきも、(だけど)ちょっと解らん場所なんだわ!」、家に着くと、 運転手さん、ちょっと待ってなえ!、、、、、 内心、何か旅行のお土産でもくれるのかなー???? すると懐中電灯を持って出てきた。 ”俺、えま、その場所、教えてやんしけね”(翻訳、私が今、その場所を教えてあげますからね)。わざわざ夜中にその場所まで一緒に案内してくれた。
有難いことですね!! 早速、今日午前中カメラを持って行って来た。好きだね!
   
三分一ヶ原古戦場(さんぶいちがはらこせんじょう)
今から450年余前、室町時代末期には越後の国は守護上杉氏が治めていたが、次第に守護代長尾為景(上杉謙信の父)の勢力が増大して、主君上杉氏を凌ぐ勢いであった。これに反対する上条城主(柏崎市)上条定憲(じょうじょうさだのり)は1533年(天文2年)守護上杉定実を擁立して長尾為景打倒の兵を挙げた。1536年(天文5年)には柏崎に上条城を築城し、旧上杉氏の残存勢力もあわせ、宇佐美定満、柿崎和泉守景家、の連合軍を中心に、又長尾為景は春日山城から出陣して頚城平に進攻してきた。同年4月10日両軍はこの地、保倉川河原と泥沼地帯である三分一原において激突した。両軍は激しく戦ったが雌雄を決する事が出来なかった。やがて上条軍の一躍を担う柿崎景家が突如として反旗を翻し長尾為景勢に味方して上条軍の背後をついたので上条軍の将兵数千人が討ち取られ敗退、一方の長尾軍も多くの武将を失う激戦で、まさに頚城平における天下分け目の戦であった。
この三分一ヶ原合戦以来、長尾為景が上杉氏代わって越後の国を治めるようになり、文字通り下克上の戦国時代の代表的な事件であった。 =案内板より=

越後守護代長尾為景が天下分け目の戦いをしている頃、景虎(後の上杉謙信)は城下の林泉寺に預けられ天室光育和尚の文武にわたる指導を受けた。
合戦場跡には保倉川が流れている以外、当時を偲ばせるものは何も残っていない、直ぐ近くを高速道路が通り、たくさんの車が猛スピードで走り去って行く。。。 長い歴史を感じますなー!、、、、、、、、!、、

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2009-07-13

[我が故郷、上杉謙信] 関山神社

国道18号線、妙高市関山地内の信号を(西)関温泉、燕温泉方面に曲がりすぐカーブを曲がると右側に、関山神社(写真)駐車場がある。
関山神社が古くから修験の場として信仰を集め、木曽義仲、上杉謙信も崇敬していたとは最近まで知らなかった、   (^も^;) 
ここの神社は何度か参拝している、又、妙高カントリー倶楽部でゴルフのプレイの時も何度か立ち寄り、スコアー向上、技術アップを祈願したもんだ、しかしその割には上手く成らなかったなー! 祈りと努力が足らなかったね!!、、
     
関山神社
その昔和銅元年(708)裸行(らぎょう)上人が妙高山頂で神霊を感じ山麓に関山三社大権現を創建したと伝えられ、別当を関山宝蔵院、奥の院を妙高堂(本尊:妙高三尊阿弥陀如来像)として妙高山山岳信仰の中核として広く影響力がありました。鎌倉時代には木曽義仲、戦国時代には上杉謙信の帰依(仏を専敬してすがる事だそうです)が特に篤かったとされ最盛期には七堂伽藍(しちどうがらん)70余坊を抱えるほど繁栄を極め越後第一の霊地とされ、真言宗の山岳道場として栄えた。   謙信が死去すると後継ぎ争いが激化、"御館の乱"が起こり上杉家が一時弱体化すると間隙をついて織田信長の家臣で信濃の森 長可が越後に侵攻し堂宇(建物)は焼き討ちにあい焼失し一時衰退した。しかし、東叡山(正式には東叡山寛永寺円頓院と言うようだ)の天海(寛永寺の初代住職)の弟子大僧都俊海(謙信の甥)が再興し幕府から100石の社領を安堵され寺運も再び隆盛し文政元年(1818)には現在の本殿が再建された。明治時代に入ると神仏分離令により別当の関山宝蔵院は廃され関山神社と改称昭和6年には県社となっている。 (写真右は関山神社拝殿)
祭神は,国常立尊(クニトコタチノミコト),伊弉諾尊(イザナギノミコト),素盞嗚尊(スサノオノミコト)、御神体は銅造菩薩立像である。
上杉謙信は弘冶2年(1556)、出家を志し高野山へ旅立った、途中、関山の関山権現で祈とう中、箕冠城 城主、大熊朝秀(おおくまともひで)の謀反を知り引き返し駒帰(こまがえし)(今の糸魚川市青海)で大熊朝秀軍を撃破した。

関山宝蔵院
関山宝蔵院は和銅元年(706)に裸行上人が勧請した関山神社の別当寺院でした。関山神社は延喜式神名帳に記載されている式内社に比定されている神社で、早くから神仏習合し、妙高山関山三社大権現として妙高山山岳信仰の中核として広く影響力がありました。関山宝蔵院は事務、祭事など一切を仕切り山岳修験道の道場にも利用されました。
しかし明治時代初頭に発令された神仏分離令により関山宝蔵院は廃されました。堂宇(寺の建物)が破却されるなか庫裏(寺の住職、その家族が住んでいた建物)だけは明治11年(1878)に東本願寺新井別院に移設し明治天皇北陸巡幸の行在所に改修され現存しています。境内の関山宝蔵院跡地(写真)には石段や石庭、住職の墓碑などが残り新潟県指定史跡に指定されています。
妙高堂
妙高堂(写真)は関山神社の奥の院として建立されたもので、元々は妙高山山頂に鎮座していました。妙高山は山岳信仰の霊山として広く信仰され寿永元年(1182)には木曽義仲が自らの守り本尊で阿弥陀如来像を奉納し戦勝祈願しました。義仲は家臣である五位野与左ェ門に4年毎に堂宇の建替造営を命じると義仲死後にも引き継がれ明治時代初頭に神仏分離令が発令されるまで続けられました。上杉謙信も出陣の折妙高山山頂へ登り妙高堂に籠り戦勝祈願をしたとされ謙信が登れない場合は名代として南方山講が参拝しました。妙高堂は神仏分離令後に山頂から現在地に移されましたが明治28年に火災にあい焼失、大正15年に再建しています。本尊である妙高三尊阿弥陀如来像(阿弥陀如来像、勢至菩薩像、観世音菩薩像)は新潟県重要文化財に指定されています。又、境内には"生けこみ"式石仏群(胸から下を地中に埋め込んでいる。)は平安時代に製作された北陸地方を代表するもので新潟県重要文化財に指定されています。

軍艦妙高、記念碑
横須賀海軍工廠で昭和4年7月31日竣工した、一等巡洋艦「妙高」艦内の神社には、関山神社のご神体が分祀されていました。
海上自衛隊、舞鶴基地所属の最新鋭イージス艦 ”みょうこう”の初代艦長も同神社を参拝した。
(写真)は巡洋艦「妙高」の砲弾かどうかは解りませんが軍艦妙高、記念碑 。

毎年7月中旬、関山神社で「火祭り」が開催。仮山伏演武や松引き、奉納相撲などが行われます。今年は7月18日(土)18日(日)
火祭りについて
■仮山伏
妙高山関山神社は、約1300年前、和銅年間に裸行上人が妙高の山頂に神霊を感じ、神殿を現在の妙高市関山に造り、妙高三尊関山大権現としたと言われています。その後、弘法大使が諸国行脚の途中悟りを開き帰依されたと言われています。この由緒ある神社を戦乱などから守るため、修行僧が武術を身につけ山伏の棒使いとして今日まで受け継がれたものが、仮山伏の棒使いです。山伏の棒使いは、奈良宝蔵院流であり、神社氏子6ヵ村より選抜された若者、つまり関山の人で両親が健在でその家の跡取り、つまり長男でなおかつ独身の若者です。その若者6人が上と下に分かれ、役抜けの役、火切りの役、火見の役となって、長刀、太刀、六尺棒を使って20種類にも及ぶ演舞を行います。

■松引き
これは火祭りの名前の由来ともなっており、その昔、妙高山で修行した修験者が出峰する際に山中で得た験力を示す儀礼とも関山権現神社前を境として南北各村代表の若者が「若」と呼ばれる柱松に火打石で火をつけ、火の手が先に上がった村がその年は豊作という豊作祈願を占う素朴な信仰から始まったものと言われています。 (妙高市、観光サイトより)


   
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2009-07-06

[我が故郷、上杉謙信] 柿崎城跡、楞厳寺(りょうごんじ)

梅雨も一休み、蒸し暑い中、午前中、ちょっと遠いが柿崎城跡、楞厳寺(りょうごんじ)に行って来た。好きだね~! 

柿崎城
「謙信の四天王」とも評された、上杉謙信の重臣柿崎和泉守景家の居城で有るが、政務や住居などの平時の時は本城である柿崎城を利用し、有事の場合は本城である柿崎城よりも防御面などで戦闘向きな縄張りを施されている、近くの(現柿崎区城の腰)猿毛城(さるげじょう)を使ったと推測されているが決定的な資料は見つかっていない。猿毛城は標高479メーターの頑固な山城で有った。
柿崎城跡は国道8号線の上越市柿崎区地内、北陸高速道、柿崎IC入口にある小高い所(写真)にある。

楞厳寺(りょうごんじ) 
上越市柿崎区芋島にある楞厳寺は天文十三年(1534)春日山、林泉寺の第六世天室光育を招き、上杉謙信の重臣柿崎和泉守景家によって建立された曹洞宗の寺院で、柿崎家の菩提寺であり、大仏山楞厳寺と言う。(写真は境内入口) 
天室光育の「楞厳寺禅林記録」(新潟県文化財)、上杉景勝の寺領安堵状、柿崎和泉守夫妻肖像画などを収蔵しています。

楞厳寺の山門(写真)は柿崎城の搦手門(からめてもん)を移築した物と伝えられている。

山門を入ると、本堂(写真)と苔の美しい庭園があります。現在の本堂は正徳2年(1712)16世代に再建された。
本堂の背後には墓域となっている山があり、木々が繁り森閑とした中に柿崎景家や天室光育の墓があります。
天室光育は幼少の謙信(7歳~14歳)を文武両面にわたって教育したという禅僧で、謙信に大きな影響を与えたと言われています。光育は永禄六年(1563)に逝去しました。

柿崎景家は長尾為景、景虎(後の上杉謙信)父子二代に仕えた重臣で、「謙信の四天王」とも評されました。

上杉四天王とは
● 柿崎景家
● 直江景綱(実綱)
● 宇佐美定満
● 甘粕景持

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2009-05-31

[我が故郷、上杉謙信] 箕冠城跡(みかぶり)

天下の武将、上杉謙信の春日山城の支城群の一つで信越国境を警備する重要な拠点であった、箕冠城跡(みかぶり)へ行って来た。県道、新井柿崎線から眺める山容は中世の典型的な山城にふさわしい雄姿である。この箕冠山は海抜237メーターで三方向が切り立った断崖となっており、東に大熊川、西に小熊川が流れており、堅固な山城である。、、、、、、、、、、
新井、柿崎線、板倉区地内から、県道254を久々野、山寺薬師、やすらぎ荘、方面に入り山部地内(しみず屋の先)のY字路を右にしばらく進み、菰立(こもだて)地内に入ると大きな案内板(写真)が目に入る。
  
案内板を左に曲がりしばらく進むと駐車場(20台くらいOK)に着く。駐車場より頂上、本丸跡までは徒歩で10分くらいで行ける、良く整備されており、高齢者でも安心して行ける。現在でも、水濠(写真右)、空堀、土塁、井戸、屋敷跡等が残っている。あまり手入れが行き届いているとは言えないが公園になっており、便所、水飲み場、ベンチ、等がある。       

たくさんの大木が生い茂り当時を偲べる、の木もたくさん生い茂り春の桜の花の咲く頃、是非訪れてみたいもんだねー!

            
箕冠城(みかぶりじょう)は越後守護、上杉家の重臣として、段銭方(たんせん)「財政のことだそうです」を務めた大熊備前守朝秀(ともひで)の居城である。弘冶2年(1556)8月23日朝秀(ともひで)は武田信玄の誘いに応じ、上杉謙信に背いた。謙信はすぐに朝秀討伐の兵をおこし、駒帰(こまがえし)、今の青海町で撃破した。敗れた朝秀は甲斐の武田信玄のもとへ身を寄せた。
川中島合戦当時は前進基地として重要な城であったが上杉謙信が川中島合戦から引いた後はあまり必要がなくなり廃城となった。

本丸(写真)からは、春日山城をはじめ、頚城平野を一望に、妙高、信越境の連山を見渡し、さすがは上越の豪族、大熊氏の居城とうなずける。





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2009-05-07

[我が故郷、上杉謙信] いやー凄い人です、春日山城跡③

護摩堂、諏訪堂、毘沙門堂
本丸を少し下った所に護摩堂、諏訪堂、毘沙門堂、がある。謙信が出陣前に毘沙門堂に籠った事はよく知られているが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂です。護摩の修法(すほう)は、毘沙門天の信仰と共に謙信が真言密教を深く信仰していた事を如実に物語っている。
毘沙門堂
このお堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50センチ)
が安置されています。尊像は景勝公の時に会津を経て米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で傷み、、、、
昭和3年に第15代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、名匠高村光雲先生が1年余りを費やして修理しました。
そのさい先生は御分身をつくり、尊象の欠け損じたのをおなかに入れて同5年3月に完成し当時の春日村に寄進されました。
翌6年11月に、昔の堂跡(写真上)にこの祠堂(写真右)を建て奉安しました。毘沙門天は悪魔を降ろす神です。謙信公は事ある時はこのお堂の前で諸将に誓をたてさせました、毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもあります。
上杉景勝屋敷、直江屋敷
天主台の下、南西側に上杉景勝屋敷、東側に上杉家の重臣、直江家の屋敷跡(写真)がある。直江家は上杉謙信の父、為景の代から重臣として仕え、山城守兼読は謙信の跡目を継いだ上杉景勝の家老として活躍した。景勝が会津に国替えになったときに同行し、米沢藩30万石の城主となった事でもその活躍が偲ばれる。
お花畑

御堂などに献花するや、色々な薬草などを作っていた畑である。
千貫門跡
春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門である、それはこの門が古くから知られていた事を物語っている。今でも門が建っていたと考えられる部分のみが、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。三方が土塁と土手に囲まれ、左に2本、一見道と思われる切り通しがある、実はこれが空堀の底で、侵入者を空堀から急な崖下に落そうとしたものであろう。周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外とを区画する重要な地点であった事をうかがわせる。
土塁、空堀、虎口、油ながし
春日山城跡には、土塁、空堀、虎口(こぐち)油ながし、など等(写真)当時をしのばせる跡が沢山残っている。郭を普請する際に削平したときに出た土を盛り固め防御の役割を果しました。当時は各廓にこのような土塁が築かれ春日山城の守備をいっそう強固にしていたと考えられる。
春日山神社
春日山神社は最後の高田城主だった榊原家の家臣で小川澄晴氏が郵便の父と言われた前島密男爵や多くの人たちの協力を得て創立された神社です。
建ててある場所は上杉謙信の母、虎御前の屋敷跡と言われており、神社の祭神は上杉謙信公は勿論、菅原道真、たけみかずちの命、ふつぬしの命である。日本のアンデルセンと呼ばれている小川未明さんは小川澄晴氏の二男である。

5日6日と2日間休みを利用して春日山城跡見学に行って来た。過去にも数回行った事はあったが今回はじっくりと隅からすみまで見てきた。
普段の運動不足も考え駐車場からシャトルバスを使わず2日間とも歩いての行動だ、いやー、疲れましたわ、でもずい分と勉強になったネ!

      
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2009-05-06

[我が故郷、上杉謙信] いやー凄い人です、春日山城跡②

上杉三郎景虎屋敷跡
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で敗れた悲劇の武将三郎景虎。
小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられた事でも人質としては破格の待遇であった事がわかります。又美男として伝えられている。跡目争いでは越後国外からの人質であった為か次第に援助の武将も離れ、最後は鮫が尾城で自害し一生を終えた。
小説「炎の蜃気楼」で現代に蘇った景虎が美しい男性として描かれて人気を博しています。近年春日山城跡で最も賑わいを見せている廓の一つ。
井戸曲輪
本丸のすぐ裏(西側)にある井戸(写真)。廃城後400年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られている事を教えてくれる。城の古絵図にもここだけが㋼と井戸がある事を示しており、古くから注目されていた事がわかる。
どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と幾層でつながっていてサイフォンの原理が働いて水が湧くとの事である。なお数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や杓などが見つかっている。
天守閣、本丸
春日山城は頚城平野、日本海を一望できる標高180メーターの春日山にあった山城である。その規模、歴史的意味においても新潟県では最大級の文化財的価値があり国の史跡として指定されている。

この連休中は全国各地から沢山の人々が春日山城、天守閣、本丸跡(写真)を訪れた。NHK大河ドラマ 天地人 で放映されている事が今から400年ちょっと前、この地で実際に行われていた事を思うと長い歴史を感じる。
         ---この続きは又明日ーーー

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2009-05-05

[我が故郷、上杉謙信] いやー凄い人です、春日山城跡①

連休に入り春日山城跡周辺は車が渋滞するほどで凄い人だわ、、と言う話だ
野次馬根性むき出し普段の運動不足解消のため俺も行ってくるか、、、、
春日山城下で交通規制、いくつかある公的施設の空き地は全て臨時の駐車場だ、車がびっしり、、半分は県外ナンバーだ、、凄いねー! 天地人様様だ。。。
駐車場に車を置き大手道から登る事にした。大手道なんてのは墜最近まで知らなかった、勿論通った事もない、NHK大河ドラマ 天地人 がなければ知らないで終わったろうなー、、、
登り始めて暫くすると若い二人ずれが下りてきた、 すいません、頂上からここまでどの位かかりましたか? えー、1時間くらいかかりますよ、、内心、、なにー、1時間、、、早く言ってくれよなー、若い二人、下りで1時間じゃ、登りのこの俺じゃ1時間半だなー、、ここまで来たんだ、この際行ってみるかー、、道理でこの道、下って来る人が比較的少ない訳だ。。。。   (^0^;)
南三の丸屋敷「ジョウ(城)の畑」と呼ばれ古くから城内と意識されてきた、土塁や堀で区画された郭が連なり春日山城の最も重要な屋敷が集まっていた。城の東側裾野から本丸に至る大手道はこの屋敷に入るところで門が造られ、さらに西側の上正善寺(かみしょうぜんじ)に至る道にも門が有り、道以外は急な斜面を作って敵の侵入を防ぐようになっている。
大手道の中程、本丸を始めて目前にする地点に「番所跡」 (写真)がある。標柱のある小山は木戸が造られていた土塁の跡で門があったところ。ここから見る春日山城は、晩秋から春先までが絶景と言われている。
上杉謙信の重臣、柿崎景家の屋敷跡、春日山城で最も大きな郭の一つ、城内の山地で唯一ハンノキが自生する場所で、植性から水分を多量に含む土地であった事がわかる。ここに池、もしくは水掘りが有った事が考えられ、池であったとすれば春日山城で唯一庭園を合わせ持った郭の景観が想像される。屋敷へわ、大手道から木橋をかけた南側の空堀を渡って入るように古絵図に描かれている。又廓の東側を通り景勝屋敷へ登る古道も残っている。
御成街道(おなりかいどう)、時の関白近衛前嗣(このえさきつぐ)が通ったことから御成街道と呼ばれている。謙信は二度の上洛を通じ前嗣と親交を温めました。お互いに年も近く、酒が好きだったと言われている。謙信が後奈良天皇、正親町天皇、と拝謁(はいえつ)出来たのも前嗣の力添えによるものでした。前嗣は、永禄3年(1560)謙信を頼って越後府中に下向し3年間滞在しました。当時京都に次ぐ大都市と言われ、繁栄の極みにあった越後府中文化は前嗣の来訪によりさらに、洗練される事になった。
        ーーー 続きは又明日 ---

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2009-04-10

[我が故郷、上杉謙信] 上杉謙信の母、虎御前

上杉謙信の母、虎御前の墓が春日山の近くにあると言う話は以前から聞いていた。思い切って行って来た、林泉寺から春日山に行く途中 宮野尾 の道路標識が有り、写真左の標識(謙信公の母 虎御前の墓へ 1500M 徒歩30分)が有る。車一台がやっと通れる山道を進む、宮野尾 と言う集落がある、現在は住んでいる家は一軒だけらしい、後は廃墟となっている。道を進むと左側に一軒の人家がある、そこに上記の写真の標識がある。ははー!この辺だな、、右に曲がって細い道があるが、左方向に(人家の裏側)山に入る道らしき物もある、多分昔のお墓だ、山の中だろう、、、しかし行けども行けども10分くらい山道を歩いたら一軒の廃家に出た、、違うなー、、
また戻り、今度は右方向に歩くと細い道路わきの林の中にお墓らしき物が有る、、ここだなー!、、、、、
武将長尾為景の後室。虎御前(とらごぜん)の呼び名で知られ、上杉謙信の母にあたる。父親について『上杉家御年譜』では「栖吉城主長尾肥前守房景」、 『謙信公御書集』では「栖吉城主長尾肥前守顕吉」と記されている。
虎御前の父は長尾政景の祖父に当たる上田長尾家当主長尾顕吉と同一人物であるとする説も存在するが、 『栖吉城主の娘』という記載はどの史料もほぼ共通しており、一般的には古志長尾家・房景の娘とされている。
本名は不明であるが、虎御前の名も、子の上杉謙信の幼名である虎千代に因んで後に、そのように呼ばれたとも言われる。夫為景との間には景虎(上杉謙信)、晴景(謙信の兄)、仙桃院(謙信の姉)がいると言われている、信心に篤く、謙信の信仰にも影響を与えたという。為景の死後は仏門に入ってその菩提を弔う余生を過ごした。春日山城の春日山神社のあるあたりが虎御前の屋敷跡と言われている。
案内板(写真右)には1524年、夫長尾為景の死後は仏門に入り、、、、、
んっ、、上杉謙信の生まれたのは1530年、、???、、、よく見ると親切な方??が1524の24に鉛筆で線を引き42と直してある、、、これって間違っているんでは?? 

細い道路からちょっと入った杉林の中に謙信の母 虎御前 の五輪塔のお墓がある、ちょうど春日山の裏方向、北西に当たるか、静かに眠っている。最近は訪れる人も多いんであろう、墓前に新しいお花が供えられていた、私も450年前の戦国時代をしのびお参りをしてきた。



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2009-02-22

[我が故郷、上杉謙信] 上杉謙信、 十念寺

上越市五智の十念寺(じゅうねんじ)は浄土宗のお寺で浜善光寺(はまぜんこうじ)とも呼ばれている。

弘治元年(1555)、第2次川中島合戦のおり(現在の長野市犀川付近)が戦乱の舞台となりました。武田信玄軍と約半年にわたり睨みあい、今川義元の調停で両軍撤退(両軍引き分け)した。この時上杉謙信は信玄の侵略から守るために、本尊の善光寺如来尊を越後に持ち帰り、府中に善光寺を建立したと伝えられています。
現在十念寺(じゅうねんじ)のあるあたりはかつて善光寺浜と呼ばれていました。十念寺の境内には善光寺浜から出土したという鎌倉時代や室町時代の石塔が数多くあり、そのうちの二基の五輪塔は鎌倉時代後期のもので、上越市の文化財に指定されています。


謙信の携えてきた本尊は現在米沢市御廟1丁目の法音寺に安置されており、謙信の信仰篤かったといわれる「泥足毘沙門天像」も所蔵されています。
不捨山(写真右)とあるのは、長野市の善光寺の発祥の霊地である元善光寺の正式名称、不捨山如来寺からきていると言われている。


所在地   新潟県上越市五智2丁目11-6
アクセス  北陸自動車道「上越」ICより車で10分
      JR、直江津駅より徒歩15分位

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2009-02-14

[我が故郷、上杉謙信] 上杉謙信、 五十君神社

上杉謙信、五十君神社

「延喜式」神名帳 (えんぎしき、じんみょうちょう)(927年完成)に記載されている五十君神社は頚城郡十三座のうちの一座である。イソキミ、イチキミノ、イホキミ、イキミノ、などとも呼ばれるが今日は「いぎみ」神社と呼称している。
神社は昔、五十君山(地元の人は「いずみやま」と呼称)に鎮座していたがいつのころからか現在地に鎮座している。
第十一代垂仁天皇(すいにん)の第五皇子五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ)を祭神としている。本殿は文化11年(1814)5月の建立、拝殿はかっての本殿で、同年以前の建築である。
上杉謙信は五十君神社を祈願所とし、永禄6年(1563)11月、社用人馬通行の朱印状を与え、翌7年6月3日祈願料として五十七貫五百文を寄進した。
天正8年(1580)4月3日、上杉景勝は神境の制礼を掲げた。後の春日山城主、堀秀治が福島築城にあたって、神社の大木を伐採したと伝えられる。

五十君神社には金銅虚空蔵菩薩懸仏(こくうぞうぼさつかけぼとけ)、銅造十一面観音立像、木像狛犬(こまいぬ)が所蔵されている。金銅虚空蔵菩薩懸仏は鎌倉時代末期の美しい典型的な懸仏で県の文化財に指定されている。

●上越市三和区所山田に鎮座、
 高田駅前バス営業所から岡田行きに乗車、所山田で下車、徒歩3分。

県道脇に木製の今にも崩れそうな一番目の鳥居がある、鳥居の横の農道らしき道を少し進むと境内入り口の二番目の鳥居が見える。農道脇に小さな車なら駐車可能。神社めぐりに興味がありここ五十君神社も数回参拝に訪れた。大祓祝詞をあげていると何か異様を感じる不思議な神社の一つである。 それだけに御利益が有るかな?

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2009-01-07

[我が故郷、上杉謙信] 春日山城の鬼門を守る鎮守、春日神社

春日神社

創建は958年(天徳2年)、奈良春日大社の分霊を祭った神社で鉢が峰山頂に創建された。春日山城の名前の由来はここから付いたものである。
1381年(永徳1年)春日山城築城の際に長尾高景が春日山城、鬼門守護の神として山頂から現在地に遷座させた。

旧加賀街道より林泉寺方面に向かうと右手に神社入り口の朱色の鳥居がある(写真)。ここをくぐり進み二つ目の鳥居をくぐると参道は大きな杉木立ちに囲まれ更に石段を登ると神社本殿だ(写真右)。
春日新田の春日神社(踏み切りの横)は、堀秀治が春日山から福島城(旧古城、現港町)に移った時(1607年)に分霊したもの。

● JR直江津駅から徒歩で約30分くらい、
  駅前よりタクシーで約10分、1,200円くらい。
  春日山神社、林泉寺より徒歩で5-10分くらい
  で来れる。
● JR直江津駅より頚城自動車バスで春日山下
  経由高田行きで13分、林泉寺入り口下車、
  徒歩約8分。

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2008-12-08

[我が故郷、上杉謙信] 上杉謙信、 春日山神社

上杉謙信の居城、春日山の中腹にある春日山神社(写真)は最後の高田城主だった榊原家の家臣、小川澄晴さんが郵便の父と言われた前島 密男爵や多くの人達の協力を得て1901年(明治34年)に創建された神社です。
この神社の祭神は上杉謙信は勿論のこと、菅原道真、たけみかずちの神、ふつぬしの神、である。 山形県米沢市にある上杉神社より分霊され、社殿は神明造りである。神社のある所は上杉謙信の母、虎御前の屋敷跡です。
境内にある宝物館には上杉謙信、小川未明に関する資料が展示されている。
又小川澄晴さんは日本のアンデルセンと言われた有名な童話作家小川未明さんの父にあたります。

神社は年末年始は大勢の参拝客で賑わう、又毎年8月の最後の土、日、に行われる謙信公祭は神社境内及び付近で繰り広げられ近年は20万人を超す人出だ。

●JR春日山駅より徒歩20~30分くらい。
境内入り口(上杉謙信の銅像)に10台位の駐車場があるが100メーターほど手前を右に折れると数10台止められる駐車場、トイレがある。前の石段を登ると鳥居の前に出る。
境内、銅像前の駐車場付近に数件のおみやげ物屋、食堂があるが、冬季は閉店している事がある。

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2008-11-21

[我が故郷、上杉謙信] 上杉謙信、 春日山城、、

春日山城
春日山城は頚城平野と日本海を一望できる標高 180メーターの春日山にあった山城である。その規模、歴史的意味においても新潟県では最大級の文化財的価値があり国の史跡として指定されています。遠くから眺める春日山はこんもりとした小山のイメージだ。駐車場から歩くと15分位で頂上の本丸跡(写真)にたどり着く。謙信の居城として鉄壁を誇った要塞であった事が伝わってくる。緑に埋没する「土塁」や「空堀」、「塹壕祉(ざんごうし)」小さな石碑などが当時を偲ばせてくれる。「直江屋敷跡」上杉家の重臣・直江兼続の屋敷があった場所だ。当時、薬草を植えたといわれる「お花畑」、出陣の際に戦術を練ったといわれる「毘沙門堂」、「諏訪堂」、「護摩堂」を過ぎ、 「本丸・天守台」に辿り着く。
戦国武将 上杉謙信は享禄3年(1530)越後守 護代長尾為景の末子として生まれる。 7-14歳までを林泉寺の名僧、天室光育の もとで文武の修行を重ね9歳のときに兄、 晴景に替って越後守護代となり天文19年 (1550)には事実上の国主となる。 以後、春日山城を居住として越後を平定する 一方、信濃、関東、北陸へ出兵する。武田信玄との川中島における5度にわたる合戦は有名である。そして49歳で没するまで1日として身の休まる日は無かったと言われている

名将上杉謙信を偲び毎年8月の最後の土、日、と春日山を中心に謙信公祭が盛大に行われる。武者行列、など色々な行事が行われ昨年、今年とミュージシャンのGacktさんが白馬にまたがり謙信公役にふんし武者行列、合戦復元に登場、20万人を超す見物客で賑わった。最近は全国から観光客が来られる、来年ははたして誰が来るか今から市民は楽しみにしている、、、、、

ここからの眺めを上杉謙信も望んだのであろうか、、、、、 (写真)春日山城のあった春日山の名前の起こりは山頂に春日大明神があった事から春日山の名が付いたと言われている。



駐車場脇にある上杉謙信の銅像(写真)は郷土の彫刻家滝川美一先生の作品で昭和44年に造られた。銅像は川中島合戦場を睨んでいると言われている。又駐車場脇には春日山神社、何軒かのお土産や、食堂、等がある。又シーズンに成ると地元の観光ボランティアの方々が無料でいろいろと案内をしてくれるので利用されると良い。

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激動の人生、
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我が人生、






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