
国道18号線、妙高市関山地内の信号を(西)関温泉、燕温泉方面に曲がりすぐカーブを曲がると右側に、関山神社
(写真)駐車場がある。
関山神社が古くから修験の場として信仰を集め、木曽義仲、上杉謙信も崇敬していたとは最近まで知らなかった、
(^も^;)
ここの神社は何度か参拝している、又、妙高カントリー倶楽部でゴルフのプレイの時も何度か立ち寄り、
スコアー向上、技術アップを祈願したもんだ、
しかしその割には上手く成らなかったなー! 祈りと努力が足らなかったね!!、、
関山神社
その昔
和銅元年(708)裸行(らぎょう)上人が妙高山頂で神霊を感じ山麓に関山三社大権現を創建したと伝えられ、別当を
関山宝蔵院、奥の院を
妙高堂(本尊:妙高三尊阿弥陀如来像)として妙高山山岳信仰の中核として広く影響力がありました。鎌倉時代には木曽義仲、戦国時代には上杉謙信の帰依(仏を専敬してすがる事だそうです)が特に篤かったとされ最盛期には七堂伽藍(しちどうがらん)70余坊を抱えるほど繁栄を極め越後第一の霊地とされ、
真言宗の山岳道場として栄えた。 謙信が死去すると後継ぎ争いが激化
、"御館の乱"が起こり上杉家が一時弱体化すると間隙をついて織田信長の家臣で信濃の森 長可が越後に侵攻し堂宇(建物)は焼き討ちにあい焼失し一時衰退した。しかし、東叡山(正式には東叡山寛永寺円頓院と言うようだ)の天海(寛永寺の初代住職)の弟子大僧都俊海(謙信の甥)が再興し幕府から100石の社領を安堵され寺運も再び隆盛し
文政元年(1818)には現在の本殿が再建された。明治時代に入ると神仏分離令により別当の関山宝蔵院は廃され関山神社と改称昭和6年には県社となっている。
(写真右は関山神社拝殿)
祭神は,国常立尊(クニトコタチノミコト),伊弉諾尊(イザナギノミコト),素盞嗚尊(スサノオノミコト)、御神体は銅造菩薩立像である。
上杉謙信は
弘冶2年(1556)、出家を志し高野山へ旅立った、途中、関山の関山権現で祈とう中、
箕冠城 城主、大熊朝秀(おおくまともひで)の謀反を知り引き返し駒帰(こまがえし)(今の糸魚川市青海)で大熊朝秀軍を撃破した。
関山宝蔵院
関山宝蔵院は和銅元年(706)に裸行上人が勧請した関山神社の別当寺院でした。関山神社は延喜式神名帳に記載されている式内社に比定されている神社で、早くから神仏習合し、妙高山関山三社大権現として妙高山山岳信仰の中核として広く影響力がありました。関山宝蔵院は事務、祭事など一切を仕切り山岳修験道の道場にも利用されました。
しかし明治時代初頭に発令された
神仏分離令により関山宝蔵院は廃されました。堂宇(寺の建物)が破却されるなか庫裏(寺の住職、その家族が住んでいた建物)だけは
明治11年(1878)に東本願寺新井別院に移設し明治天皇北陸巡幸の行在所に改修され現存しています。境内の関山宝蔵院跡地
(写真)には石段や石庭、住職の墓碑などが残り新潟県指定史跡に指定されています。
妙高堂
妙高堂(写真)は関山神社の奥の院として建立されたもので、元々は妙高山山頂に鎮座していました。妙高山は山岳信仰の霊山として広く信仰され
寿永元年(1182)には
木曽義仲が自らの守り本尊で阿弥陀如来像を奉納し戦勝祈願しました。義仲は家臣である五位野与左ェ門に4年毎に堂宇の建替造営を命じると義仲死後にも引き継がれ明治時代初頭に神仏分離令が発令されるまで続けられました。上杉謙信も出陣の折妙高山山頂へ登り妙高堂に籠り戦勝祈願をしたとされ謙信が登れない場合は名代として南方山講が参拝しました。妙高堂は神仏分離令後に山頂から現在地に移されましたが明治28年に火災にあい焼失、大正15年に再建しています。本尊である妙高三尊阿弥陀如来像(阿弥陀如来像、勢至菩薩像、観世音菩薩像)は新潟県重要文化財に指定されています。又、境内には"生けこみ"式石仏群(胸から下を地中に埋め込んでいる。)は平安時代に製作された北陸地方を代表するもので新潟県重要文化財に指定されています。
軍艦妙高、記念碑
横須賀海軍工廠で昭和4年7月31日竣工した、
一等巡洋艦「妙高」艦内の神社には、関山神社のご神体が分祀されていました。
海上自衛隊、舞鶴基地所属の最新鋭
イージス艦 ”みょうこう”の初代艦長も同神社を参拝した。
(写真)は巡洋艦「妙高」の砲弾かどうかは解りませんが軍艦妙高、記念碑 。
◎毎年7月中旬、関山神社で「火祭り」が開催。仮山伏演武や松引き、奉納相撲などが行われます。
今年は7月18日(土)18日(日)
火祭りについて
■仮山伏
妙高山関山神社は、約1300年前、和銅年間に裸行上人が妙高の山頂に神霊を感じ、神殿を現在の妙高市関山に造り、妙高三尊関山大権現としたと言われています。その後、弘法大使が諸国行脚の途中悟りを開き帰依されたと言われています。この由緒ある神社を戦乱などから守るため、修行僧が武術を身につけ山伏の棒使いとして今日まで受け継がれたものが、仮山伏の棒使いです。山伏の棒使いは、奈良宝蔵院流であり、神社氏子6ヵ村より選抜された若者、つまり関山の人で両親が健在でその家の跡取り、つまり長男でなおかつ独身の若者です。その若者6人が上と下に分かれ、役抜けの役、火切りの役、火見の役となって、長刀、太刀、六尺棒を使って20種類にも及ぶ演舞を行います。
■松引き
これは火祭りの名前の由来ともなっており、その昔、妙高山で修行した修験者が出峰する際に山中で得た験力を示す儀礼とも関山権現神社前を境として南北各村代表の若者が「若」と呼ばれる柱松に火打石で火をつけ、火の手が先に上がった村がその年は豊作という豊作祈願を占う素朴な信仰から始まったものと言われています。
(妙高市、観光サイトより)
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