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[我が故郷] 日本三大夜桜 第89回高田城百万人観桜会 

2014-03-25

 

南の国では各地で桜の開花が伝えられていますが、2〜3日前より急に春めいてまいりました。今年はこちらに来て初めて南の国の花見を経験します、。しかーしだ! 花見は故郷の夜桜は何といっても日本一だろう、4,000本の桜、3,000個のボンボリの灯り、本丸の三重櫓、幻想的な世界を醸し出す。日本三大夜桜 第89回高田城百万人観桜会が4月4日から4月20日まで開催される(写真)。毎年期間中100万人を超える見物客が訪れる、今年開府400年を迎える我が故郷、上越市高田に沢山の人に訪れてもらいたいネ、。

 

 

 百万人観桜会の情報は  = こちら =

 

 

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[我が故郷] 開府400年を迎えるスキーヤーの聖地、上越市(高田)

2014-02-26

 

 

ロシヤのソチで行われた冬のオリンピックも日本選手団のメダル8個獲得と言う大活躍で幕を閉じた。しかし今回ほど日本国民に感動を与えた大会はなかったのではないだろうか、、今回の日本選手の活躍で若い人たちに夢を与え、スキー、スノーボード、スケート熱が高まり、スキー、スノーボード、スケート、人口が増えれば喜ばしい事だ、、、。

しかし、偉そうに言う訳ではないが、日本におけるスキーの歴史をご存知の人はどれだけいらっしゃるだろうか。明治44年(1911)1月12日、オーストリアの軍人、テオドール・エドラー・フォン・レルヒが我が故郷の新潟県の高田(現 上越市)の歩兵第58連隊の営庭で14名のスキー専修員にスキーを伝授したのが日本におけるスキー普及の第一歩と言われ、その後、金谷山(写真)でもスキー指導が行われ、1月12日を「スキーの日」と言われている。市内の金谷山公園に「スキー発祥の地」の碑が立っている(写真左) 、以前は金谷山スキー場にはジャンプ台(写真右)があり国体のノルディック種目が行われたが今はジャンプ台は無い。ジャンプ台の横にレルヒの銅像が立っている(写真右、ジャンプ台の左の銅像)。最近は温暖化のせいか、少雪の為スキー場の営業期間が短く、又標高が低い為、雪質も良いとは言えず、スキーヤーにとって良いスキー場とは言い難いが、スキーヤーにとって聖地とも言える、上越市の金谷山を是非訪れて頂きたい。

今回のオリンピックのジャンプの団体で銅メダルに大きく貢献した清水礼留飛(しみずれるひ)20歳の名前は日本にスキーを伝えたレルヒさんの名前からとったものだ。父親も国体のジャンプの選手、兄の清水亜久里さんも複合ジャンプの選手、スキー一家に育った清水礼留飛君、我が故郷の上越地方に夏冬を通して初めてメダルをもたらした英雄だ、、、。

昔のジャンプ競技の空中での姿勢は、スキーの両足を揃えて両手は前に伸ばす姿であったなー、、その後スキーは揃えて両手も両足にピタリと付ける姿、、そして今はV字型とやらでスキーはV字に開いて両手は両足つけている、、時代の流れを感じるねー!

 

 金谷山公園の詳細は         = こちら =

 

 レルヒさんの詳細は         = こちら =

 

 日本のスキーはここから始まった   = こちら =

 

 

旧直江津市と旧高田市が合併して人口21万の上越市が誕生して43年になる、越後の国府が置かれ、浄土真宗の開祖、親鸞聖人がご上陸された地、数々の歴史とロマンの残る直江津地区、天下の武将上杉謙信が居城した春日山、徳川家康の六男松平忠輝が直江津の福島城から高田に城を構えたのが1614年、今年高田開府400年を迎え、多彩なイベントが企画されている。4月には高田城址公園(写真)に4000本の桜が咲きほこり高田城百万人観桜会が開催され例年100万人を超す見物客が訪れる、夏には高田城址公園のお濠に東洋一と言われるハスが咲きほこり高田公園ハス祭り が開催され、8月には春日山地区を中心に謙信公祭が開催され今年もミュージシャンのGacktさんが謙信公役で出演される予定と言う、たくさんの偉人を輩出し、魅力、企画がてんこ盛りの上越市を是非訪れてみてはいかがでしょうか、、、。

 

 高田開府400年 詳細は     = こちら =

 

 

 

     まってんでねー!

 

 

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[我が故郷] 安寿と厨子王の悲話を今に伝える「日本の百名橋」、直江津橋

2013-06-02

上越市直江津地区にある一級河川 関川 にかかる二本の橋の内、上流の直江津橋(写真)が、新潟県から二つ選ばれている「日本の橋百選」の一つに選ばれていることを知っているのは地元の人でも少ないであろう。橋長が約238メーター、昭和63年(1988)に完成した県道488号に架かる橋、昔は銭取橋(ぜんとりばし)と呼んだ。昔この直江津橋の近くに 応化の橋(おうげのはし)があり春日山城主の上杉謙信はこの橋に通行税を課していました。謙信死後のあとめ争い「お舘の乱」で崩れ落ちた橋を上杉景勝が修復しましたが、松平忠輝の高田城築城によりこの橋は再び壊され、渡しのみとなりました。以後、明治5年(1872)まで橋は架けられませんでした。その橋は明治30年(1897)に流され、2年後に現在の位置に架けられた。昭和24年(1949)の架け替えを経て現在の橋は昭和63年(1988)関川改修のため架け替えられた。

 

この直江津橋が「日本橋百選」に選ばれている理由は解らないが、この直江津橋の欄干に有名な「安寿と厨子王」のレリーフがはめ込まれている(写真)。

 

陥れられて筑後(九州)へ追放となった奥州陸奥国の大守、岩城判官正氏のあとを追って旅立った妻は、安寿姫と厨子王丸の二人の子供を連れて岩城(福島)からはるばると父を尋ねて行く途中、直江津の応化の橋のたもとで山岡大夫にだまされ、妻は佐渡へ、安寿姫と厨子王丸の姉弟は丹後の国(京都府宮津)の山椒大夫へ売られてしまいます、、、、、、。

 

「日本橋百選」に選ばれている新潟県のもう一つの橋は、新潟市中央区にある有名な 萬代橋 である。

 

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[我が故郷] 鉢崎地蔵尊(はっさき)

2013-05-01

 

 江戸時代中期、この地から二キロほど西の海岸に大小数十体の石像地蔵尊が祀られていました。この辺りは北国街道が海沿いを通り、高波には命がけで往来するという所でした。その通行安全を願い、たくさんの地蔵尊が祀られていました。ところが明治29年、信越本線敷設の折、この地蔵尊が法線にかかり、岩に刻まれたご本尊の移転はできませんでした。工事請負業者はやむなくダイナマイトで爆破したところ、ご本尊は粉々に飛び散り海に沈んだと言われます。ところがその直後から工事中に事故が多発し工事は中断に追い込まれることになりました。仏罰なり、、と深く感じ入った業者らは散逸した仏体を拾い集め、新たにお堂を建てて安置したところ工事は順調に進み始めました。以来この地蔵尊の話が広まるにつれ、その霊験を求める信者が増え昭和初期には門前市となす盛況となりました。この地蔵尊の霊験は殊に難病快癒、交通安全はもとより受験合格など、広くご利益をもたらすとして県内外の多くの信者から篤い信仰を得ています。国道8号線、米山を過ぎてトンネルの手前(大きく右にカーブする)海側にある。

 

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[我が故郷] 安産の神、胞姫神社(よなひめ)

2013-04-23

 

安産の神として有名な胞姫(よなひめ)神社は柏崎市上輪(平成元年3月までは柿崎町)国道8号線の上輪大橋のたもと(山側)に鎮座する(写真)。安産の神として県下に知られる当社は四季を通じ各地から大勢の参拝者が訪れる。産院での出産が普及する以前「胞姫さん」に献灯された短い蝋燭を貰いうけ、出産の際に灯せば「産が軽い」と言われた、時代が変わった今でも安産を祈る切実な思いは変わらず当社への熱い信仰として今も受け継がれている。胞姫神社の「胞」とは胞衣(えな)、胎児を包む膜や胎盤のことを意味する。近世紀には「胞衣姫大明神」とも記された。

 

 

文治三年(1187)源義経が兄頼朝の追い打ちを逃れ、藤原秀衡(ひでひら)を頼って、直江津から海路、奥州平泉(岩手県)を目指す途中、嵐に遭って上陸し、ここ亀割坂(かめわりざか)にさしかかった。この時、急に北の方(正室)が産気づき苦しみだした。同行の武蔵坊弁慶が当社の社前にぬかずき、ひたすら祈願したところ陣痛もたちまち和らぎ、めでたく安産にて嫡男(ちゃくなん)亀若丸を出産した。義経主従は手をとりあって喜び境内に亀若丸の胞衣(へその緒)を納め、あわせて源氏の氏神である諏訪・八幡の両神を祀り、 「霊験あらたかな安産の守護神よ」 と奉賽(ほうさい)感謝し立ち去ったと伝えられる。以来全国的に安産守護の神として祟敬を集め四季を通じて参拝者が跡を絶たない。付近には産所跡の「亀割坂」や弁慶が金剛杖を突いて湧出させた「弁慶の産清水(うぶしみず)」などの地名、遺跡が残る。

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[我が故郷] 陀羅尼 八幡宮(だらにはちまんぐう)

2013-03-27

 

上越市北本町二丁目にある 陀羅尼(だらに)八幡宮(写真)、創建は十六世紀の中頃、上杉氏の武将らが春日山城の南の岩木村(現在の上越市岩木あたり)に、京都男山の石清水八幡宮の分霊を祀った事にはじまる。上杉謙信死後の内乱(御館の乱)で焼け、松平忠輝の高田城の築城(1614)後、城下町に移り、1700年頃、現在地に祀られてから町名にちなみ「陀羅尼・八幡」と呼ばれるようになった。相殿の大国主命(おおくにぬしのみこと)は榊原候が前任地の姫路の惣社分霊を祀ったもので榊原家は厚く当社を崇敬した。祭神は 品陀別命(ほんだわけのみこと){応神天皇、おぅじんてんのう}である。末社として、子安神社、稲荷神社がある。

 

北本町二丁目は、松平忠輝の高田開府から昭和五年三月までの三百十七年間「陀羅尼町」と呼ばれたところである。永禄二年(1559)、小田原北条氏の一族、仏元(ぶつげん)が諸国行脚の道すがら当地の大水害にであった時、梵語(釈迦の時代に使われていた古代インド語)の呪文(じゅもん)「ダ―ラニ―」を繰り返し唱えて熱心に祈り続けたところ、大雨が治まった。「ダ―ラニ―」の功徳に感激した住民たちはその、お経を地中に埋めて「波除陀羅尼塚」を造り、近くにお堂も建てて長く祀ったと言われている。そしてこの辺一帯の広大な原野がいつしか「陀羅尼原」と呼ばれるように成り、町名もそれにちなんで付けられたと言う。

 

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[我が故郷] 現役最古の映画館、 高田世界館

2013-02-04

 

 

 

 

上越市(旧高田市)本町6丁目にある洋風の建物(写真上)、現役では日本最古級映画館「高田世界館」である(旧、高田日活)。明治44年(1911)の建築で、野口孝博設計によって生まれた建て物で、当初は芝居小屋「高田座」として営業を始めました。その後 「日活世界座」、「高田東宝劇画劇場」、「松竹館」、「高田劇場」、「テアトル高田」、「高田日活」と名称を変えながら営業を継続し現在に至っております。明治、大正、昭和、平成、と一世紀にわたり活躍し、明治大正ロマンのレトロな建て物は今もなお現役で活躍している。平成21年2月に経済産業省から「芝居小屋としてスタートし、時代の流れと共に映画館となり繁華街の主役として人々に親しまれた」 とされ 「民力の高まりに寄与した大衆娯楽」 にかかわる産業遺跡と評価され、近代化産業遺産として認定をされました。近年、この建物を保存、活用する会が立ち上がり、不定期であるが映画の上映、寄席、コンサートなどが行われています。写真下は雁木通りに面した切符売り場のあるところ、こちらで切符を買い通路を通り館内に入る訳だ。時代の流れとともに殆んどの映画館が姿を消すなかで高田地区では最後まで残っていた映画館だ、晩年は成人用のポルノ映画を上映していた、、、。

 

 

昔は娯楽と言えば映画が最大の娯楽、旧、高田市だけでも私の記憶では本町3丁目になるだろうか、今のライオンズマンションのある辺りに、「シネマ」 裁判所前の信号を南に入ったマンションのあるところに「文化劇場」 仲町に 「東映」 その向かいに 「中劇会館」 現在のロワジールホテルが建つ前にあった、いづもや百貨店に名前は忘れたが映画館が一軒あったような記憶がある、そして上記の「高田世界館」と高田地区だけでも6軒の映画館があった事になる。小林 旭 の渡り鳥シリーズの映画を学校をさぼってよく見に行った、、「さすらい」 「北帰行」 「ギターを持った渡り鳥」 、、、などなど、、。上記の映画館にも内緒でポルノ映画を見に行った、映画館に入るのが恥ずかしくて、顔を隠して切符を買い、早足で館内に入ったもんだが、、、 (写真は高田世界館、内部)

 

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[我が故郷] 日枝神社

2013-01-21

 

高田地区では榊神社と並んで参拝者の多い日枝神社は上越市寺町3丁目(JR信越線、高田駅の西)に鎮座する。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)であり、相殿に天照皇大神・ 豊受大神・ 建御名方命・ 宇賀之魂命・ を祀っている。仁寿3年(853)、日吉大社(現、大津市)を国府鎮守の神として、衾野(ふすまの、今の直江津の川東あたり)に勧請したと伝えられ古い歴史をもつ。太田道灌によって江戸に日枝神社(現、東京都千代田区永田町)が勧請されたのに先立つこと600年余りの昔である。

上杉景勝の会津移封により、堀 秀治が春日山城主となり(1598)、その後、堀 忠俊(堀 秀治の子)が春日山城を廃し福島城を築城し、社地共に城内となり城内の守護神として崇敬された。その後、堀氏に変わり城主となった松平忠輝が慶長19年(1614)、高田城の築城により高田城鎮守の神として裏寺町(現、寺町3丁目)に遷座した。寛文5年(1665)の大地震で社殿が倒壊したため現在地に移った。現在の社殿はその後も度々火災にあい明治15年に造営したものである。毎年5月15,16日の山王祭(青葉祭)は賑わう。神社には当時の高田城主、戸田能登守忠真(ただざね)が献納した自筆の馬の絵の額がある。広い境内には多くの境内社が並んでいる、菅原神社・ 三峰神社・ 塞神三柱社・ 秋葉神社・ 西宮神社・ 諏訪神社・ 稲荷神社四社・ など、、、。 

 

日吉大社

比叡山の麓に鎮座する当大社は、およそ2100年前、崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれてよりは天台宗の護法神として多くの方から崇敬を受け、今日に至っています。 (日吉大社、サイトより)

 

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[我が故郷] 故郷の名所、史跡巡りを振り返って

2012-12-29

全く郷土の歴史には興味のなかった私が少し歴史と言うものに最近になり興味を持ち始めたのには訳がある。一番の要因は今の仕事、(新米タクシードライバー)を始めてからだ、社内に 観光案内資格 と言う制度がある、観光案内のお客様があった場合、この資格を持っているドライバーが基本的に案内する、勿論、僅かだが有資格者は少しの手当てにも有りつけるって訳だ、、1年に1回ある講習を受けて一応、学科、実地の試験がありこれに合格する必要がある、勿論試験に落ちる人もいる。面白半分、興味半分で受験し合格した。昼間の勤務の時に観光案内のお客様を案内し感じた事は、頭の悪い私のこの程度の知識じゃとてもお客様に案内なんて出来ねーな、、それから市内の有名な名所史跡に何回も足を運び自分なりに色々と調べて行くと、故郷にはたくさんの歴史的価値のある名所、史跡がある事に驚いた、こんな素晴らしい土地に生まれ育ち知らないで人生を終えるなんて勿体ない話だ。

 

もう一つの要因はNHKの大河ドラマ 「天地人」 だ、今までは自慢じゃないが大河ドラマなんて全く興味が無かった、 しかーしだ! 多少、郷土の歴史と言うものに興味を持つと、夢中になり日曜日の夜8時が楽しみであった、仕事で見れない時は再放送を見る、それも出来ない時はビデオに録画する、以前の私からは考えられない事だ、、、そして春、上越市が行った 上越市「謙信・兼続」 検定を受験し合格、秋、新潟日報社が行った、 愛・天地人検定を受験し合格、その後 上越市「謙信・兼続」検定の合格者を対象に行われた上級資格、上越市「謙信・兼続」検定の「義の級」を受験したが僅か合格点に達しなく不合格、悔しかったねー! その次に行われた 「義の級」 に合格した。嬉しかったねー! ますます地元の名所、史跡に興味がわき、新聞、ネット、歴史本、などで見たり聞いたりすると休みの時に出かけて写真に撮り自分なりに調べてブログにアップする、、、仕事であちこちと走り回り途中でそれらしき案内看板などを見つけると休みの時に出かけて見てみる、自分でも、 好きだねー、、、 と思うネ、、と言う事でなんやかんやで200ヶ所近く廻っていた。

 

私の郷土の歴史などの情報源、先生は意外にも、いろいろなお寺の住職さんだ、仕事でよく住職さんをお供する機会がある、葬儀であったり法要であったり、特に法要の時の住職さんは大体一杯が入っている、当然、口も滑らかになる、、、住職さんは中学、高校の先生が意外と多い、それも社会、歴史、国語、の先生が多いネ、いわば歴史のプロだ、 ご住職さんは、○○寺で何代目ですか、、、、、、と切り出す、 はい、うちはそんなに古くないんですが私が○○代目で未だ400年ですヨ、、、、、、いろいろな話がタダで聞ける、段々と調子が乗って、お寺に着くと、 運転手さん、チョットお茶でも飲んで行きませんか、、とくる事がたまにあるが仕事中だ、丁重にお断りするんだがネ、、、

 

そろそろ私の廻りたいところも終わりに近づいた、折角あちこちと廻って自分なりに調べたんだ、なんとかこれを形に残したいな、、と言う事で自分なりに一冊の本に纏めようと考えた、本と言ってもそんな立派なもんじゃない、自分でプリントアウトしてホッチキスで綴じる、、と考えたんだが段々と欲も出てページ数も増えてホッチキスで綴じると言うのは難しくなってきたのが悩みの種だが何とかしようと思う。今度こそ冬の、うろうろ動き回れない時期に本用に纏めあげて少しずつプリントアウトし1年後くらいには作りあげたいと思う、、来年の私の大きな目標でもある。

 

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[我が故郷] 人魚塚伝説と人魚塚伝説公園

2012-12-17

「人魚は、南のほうの海にばかり住んでいるのではありません。 北の海にも住んでいたのです。 北方の海の色は、青うございました。 あるとき、岩の上に女の人魚があがってあたりの景色を眺めながら休んでいました。、、、、、」

 

上越市(旧高田市)出身の「童話の父」 「日本のアンデルセン」 などと呼ばれ多くの童話を発表した、小川未明 の有名な 「赤い蝋燭と人魚」 の書き出しです。この「赤い蝋燭と人魚」は上越市大潟区雁子浜(がんごはま)の人魚塚にまつわる人魚の伝説にヒントを得て、書かれたと伝えられています。

 

 

人魚塚伝説

 

その昔、松林に囲まれた雁子浜の神明様の境内からは、崖下には青々とした日本海の波が押し寄せ、遠くには遥か佐渡島が見渡せ一幅の絵のように浮かんでいました。近くに母親と二人で暮らす素直な若者がいて毎夜、境内の常夜灯に灯りを入れていました。この常夜灯の灯りを目当てに毎日、佐渡から通ってくる美しい不思議な娘がいました、そして米山さんのいただきが見える頃になると彼女は寂しそうに佐渡へ帰って行きました。母親と二人暮らしの若者には親と親の許しあった、いいなずけがいました。若者はこの娘を嫌っていた訳ではありませんが、ふとした事からこの佐渡の娘と知り合い、毎晩、常夜灯を仲立ちに相い引きをして逢う瀬を楽しんでいました。ある晩、母親から 「一晩くらい家にいても罰はあたらない、、、、」 と強いて止められ仕方なく家にいました、勿論、彼女との約束の常夜灯には明りを点けませんでした。一夜明けて、神明様の崖下の磯に一人の女の溺死体がありました、村人の騒ぐ声に驚いた若者は、もしやとばかりに恐る恐る近寄って見ると、まさしくいつも逢っていた佐渡の娘でした。恐らくいつもの常夜灯の明りが見えずに溺れ死んだのでしょう。後悔と自責の念に、放心したような若者は佐渡の娘の後を追って海に身を投げてしまいました。純情可憐な二人に同情した村人達は常夜灯の近くに埋葬して比翼塚(ひよくずか)を建て弔いました。誰が付けたのか解りませんが、この比翼塚を人魚塚と呼ぶようになりました。

 

人魚塚伝説公園

 

浜線(旧8号線)の鵜の浜温泉を過ぎ少し行くと左側(海側)に雁子浜を見下ろす小さな公園「人魚塚伝説公園」 (写真)がある。公園内には人魚塚伝説にちなみ 人魚塚伝説の碑(写真中央)、 伝説の悲恋をいたみ伝説に登場する 常夜灯(写真左) も設置されている、又近くの浜辺には人魚像が建てられている。

 

 この地の雁子浜の地名は、昔この地にあった池にガンなどの水鳥が多数飛

   来していた事に由来していると言われている。

   又、近くの九戸浜の地名は、アイヌ語の川や池のほとりなどを意味する「ク」

   と丘陵を意味する「ド」が合わせ地名となったと言う説と、昔、この地で大き

   な地震があり、多くの住民がこの地を去り海に面した9戸の住民だけが残り

   「九戸浜」となったと言う説がある。

 

初冬のある日、この公園を訪れると、この時期には珍しく空は晴れわたり真っ青な日本海の水平線には佐渡ヶ島がくっきりと見え、瞼の奥に伝説の悲恋の二人が浮かんでくるようだ、、、、。

 

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[我が故郷] 越後三十三観音霊場第三番札所、大泉寺

2012-12-02

国道8号線、上越市柿崎区を過ぎ左手に米山海水浴場があるあたり(看板が有る)、霊峰米山の山麓216メーターに(柏崎市大清水地内)越後三十三観音霊場第三番札所、真言宗豊山派 東山 延命院 大泉寺がある、一般的には大清水(おしみず)観音と呼ばれている。 

 

 

広い境内には幾つもの由緒ある建物等が存在する、本堂(写真上)にはご本尊、阿弥陀如来を祀っている。正面の後背(ごはい)の彫刻や内部の格天井の絵図は非常に珍しいと言われています。真言宗の修験霊場として多くの修行者が訪れた。巡礼歌は「みなかみをたずねのぼりて大清水 つきぬめぐみの流れとぞ思う」である。

 

 

 

境内中央に国の重要文化財に指定されている観音堂(写真上)がある。朱鳥元年(686)泰澄禅師によって創建されたと言う真言宗の名刹である。源義家の社参以来、歴代武将の尊崇を受けた。戦国時代には越後守護上杉房能、越後国主上杉謙信、城主上杉景勝、等が参詣し武運の長久を祈っている。永禄2年(1559)5月21日の落雷により堂宇を焼失したが直ちに再建に着手し翌3年に再建された。そして昭和25年春、国費400万円で修築に着手し翌26年10月復元した。桁行三間、はり間四間の建物で寄棟造り、かやぶきの屋根、板壁で室町時代の禅宗様建築様式を伝えている。本尊は泰澄禅師の作と言われる秘仏で、十一面千手観音像で五十年に一回ご開帳される、昭和46年に一般に公開された。本尊の前仏は永正2年(1505)越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)が寄進したものと言う。     = 一部案内板より抜粋 =

 

 

 

大泉寺仁王門(山門)は寺院の守護神として一対の金剛力士像を両脇に配しており、稲刈り仁王の伝説がある。かつては寺院の入口はこちら(写真上)でした。今は駐車場、入口は反対側(海側)になる。市指定の文化財である。

 

 

 

木喰堂(もくじきどう)は境内に入ると直ぐ左側にある(写真上)、全国を歩いて千体の仏像を残そうと決めた木喰上人が2度目の越後入りをした88歳の時に彫られた子育地蔵と木額が市の文化財に指定されている。お堂のすぐ後ろの銀杏の生木に仏像を刻まれたと言う、その跡が残っている。

 

 

境内には県の文化財に指定されている、飯縄神社(いいづなじんじゃ)本殿がある(写真上)。神社の創立、由緒は解らないが昔、大泉寺の守護神であったが、のちに大清水集落の氏神様となった。一間社流造の社殿で室町時代の和様、禅宗様式がみられ室町時代とされている。

 

このほか境内には、六地蔵と言われる六体の地蔵さんは、六道のそれぞれに配され亡者の身代わりとなって人々を救済してくださると言われる 地蔵堂 、西の国まで行かなくともご利益があるようにと、江戸時代に築かれた石仏、 西国三十三ヶ所観音札所の石仏、 宝きょう印塔、 等などがある、、、。

 

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[我が故郷] 東本願寺、新井別院

2012-11-15

 

真宗大谷派東本願寺新井別院は妙高市(旧新井市)下町、旧北国街道沿いにある。新井掛所、新井御坊とも呼ばれている。親鸞聖人の高弟善性が開いた願正寺が上杉謙信の招きでこの地に移り、広範囲に影響を及ぼしていました。ところが十五世英誓の時、高田の(現、上越市)の浄興寺との間で教義上の論争を起こした。異安心(いあんじん)事件である。教義異安心論争に敗れ、裁定を取り持った東本願寺は貞享二年(1685)英誓を追放しその後に新井道場としました。元禄元年(1688)東本願寺十六世一如上人が荒井掛所と改称し、以後教化統制に力を入れ、高田別院や稲田別院(光明寺)などの支院や願楽寺、聞称寺、照光寺などの寺院を合わせて60余ヶ寺の崇敬寺院を擁する中心道場となりました。明治9年(1876)に新井別院と改めた。何度も災害にあい現在の本堂は明治11年(1878)に雷による火災で焼失後、明治28年(1895)に再建されたもので桁行き、梁間それぞれ十八間は木造建築として新潟県最大級を誇っています(写真)

 

 

 

新井別院の庫裏は明治11年の火災で全焼したが同年、関山の関山神社の宝蔵院の庫裏を移築した。ここに明治天皇は9月11日午後1時3分御到着され、ご昼食後、高田へ向われた。この時の行在所がそのまま保存されている。境内には鐘楼、樹齢四百年を越す銀杏の大木、又昭和31年に恵信尼公堂(写真)が建立され親鸞聖人奥方恵信尼公の尊像を安置している。墓地に嘉永6年(1853)、俳人和田清風らによって建立された芭蕉句碑 「人声やこの道かへるあきの暮」 や江戸時代の画家、森蘭斎の墓、新井問屋和田家の墓、大相撲立行司、式守鬼一郎の墓碑などがある。

毎年11月1日~4日までの「報恩講」は ”おたや” の名で親しまれ上越地方最大の仏事とされている。

 

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[我が故郷] 越後三十三観音霊場第二番札所、魔尼王寺(まにおうじ)

2012-10-30

 

 妙高市(旧新井市)の信越本線の北新井駅の真西くらいになるが、矢代川を挟んだ左岸に十日市(通称、堂庭、どうにわ)と言う地区がある。ちょっと解り難いがこの集落の中の畑の一角に、越後三十三観音霊場の第二番札所、魔尼王寺(まにおうじ)がある。民家と民家の間の参道(参道と言うよりも農道と言う感じだが)の入口には数十基の五輪塔(ごりんとう)と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が祀られている(写真)、が何れも戦国時代の頃の物と言われている。

 

五輪塔(ごりんとう)

下から四角形の地輪、円形の水輪、笠形の火輪、請花形の風輪、宝珠形の空輪、からなる。

 

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

墓塔、供養塔などに使われる仏搭の一種で五輪塔と共に石で造られているのが多い。

 

 

 

魔尼王寺は空海(弘法大師)が真言宗のお寺として開いたと伝えられている。ご本尊の聖観世音菩薩は空海作と言われ、市の指定文化財に指定されている。この寺はかっては七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったと言う。しかし上杉謙信死後の天正7年(1579)、跡目争いの御館の乱の際に兵火に遭い堂宇、宝物などがことごとく焼失し、以後は廃寺になった。この時、上杉景虎は上杉景勝に追われて鮫ヶ尾城にたてこもったが天正7年3月24日自害してはてた。鮫ヶ尾城から魔尼王寺までの一帯は戦場となった。お寺の前に五輪塔があるが(写真左)、鮫ヶ尾城で自害した上杉景虎の胴体を埋葬したと伝えられている。妙高市乙吉(斐太神社の近く)の勝福寺に「上杉三郎景虎供養塔」がある。

寛永年間(1624~44)十日市村(妙高市十日市)の石川某が夢告により、居多が浜(上越市五智)で魔尼王寺の本尊にめぐり合い、村民と謀って一宇を建立して本尊を安置したと言う。その後、正保元年(1644)、板倉町大字針(現上越市板倉区)の曹洞宗宝寿院の葉山和尚により中興され魔尼王寺は曹洞宗となった。

 

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[我が故郷] 日本の滝百選、 苗名の滝(なえな)、惣滝(そうたき)、

2012-10-22

久しぶりの日曜、月曜の2連休、天気も良さそうだし、長野県にある百名山、四阿山(あずまやさん)に行く予定でいた、 しかーしだ! 勤務先の運行管理者から、 ○○さん、日曜日夕方から3時間ほど出勤頼むわね、、、ときた、県知事選挙の投票箱を投票所から開票所に運ぶため、担当者を投票所から開票所へ、そして又投票所まで戻るのをお供するわけだ、開票所にはおびただしい数のタクシーが集まってくる。新米ドライバーとしては、まさか山に行くのでダメです、、、と言うのもなんだし、解りました、、 と成ったわけだ。朝から天気が良いので妙高方面に紅葉を見に行ってきた。

 

 

妙高高原の燕温泉あたりが見頃と思い向かった。国道18号線から関温泉を通り周りの山々を見ると紅葉が見事だ、一番奥の燕温泉に着くと駐車場は満杯だ、やっと一台分無理矢理に見つけてほっと一息、朝の10時頃でもうこの人だ、目の前に 越後富士と呼ばれる 妙高山(2、454m)が綺麗に見えている、去年の8月にあそこに登ったんだが、あれから1年も過ぎたのか、、、、登山道をぞろぞろと人が下りてくる、、日本の滝百選に選ばれている 惣滝(写真)を見に行ったのだろう、登山道を少し登り露天風呂の先に滝の展望所がある。同輩と思われる男女数人が三脚に高そうなカメラを備えてシャッターを切っている、私も負けじと持っていった2台のコンデジを構えて何枚か撮ってみた、、こうなるともっと望遠の効くいいカメラも欲しいような気がするが、猫に小判、、に成りそうだな、、一番いい時期に来たようだ、、落差が八十メーター あり妙高山の噴火によって出来た自然の流形美は圧巻だ、、、、折角出かけてきたんだ、ちょいと腹も減ってきたし、戸隠に蕎麦でも食べに行くか! と言うことになり戸隠へ向かった。

 

 

 

県内には日本の滝百選に選ばれている滝が3箇所あるが2箇所がここ、妙高高原にある、(もう1箇所は村上市の鈴ケ滝)。もう1箇所の百選の滝 苗名の滝(なえなのたき) だ(写真)、妙高高原の杉野沢にある、数年前の10月に行ったんだが紅葉には少し早すぎた、落差は55メーターだが水量はすごい、、、

           

 

妙高高原で紅葉を堪能し国道18号線を信濃町へ、ここから県道に入り15分くらいで戸隠神社、奥社入口の駐車場に着いたがこちらも大変な人、駐車場も満杯、どうしよう! すると近くの車が1台出た、すかさずそこの場所に車を入れてOK、今日はついてるね、、! 奥社の参道を歩くと途中から素晴らしい杉並木の参道に変わる、駐車場から30分くらい歩くと戸隠神社奥社にたどり着く。ここも大変な人だ(写真)戸隠も紅葉が見頃、6月に戸隠山に登るのに神社の社務所の横が登山道入口になる、6月以来だ、写真の後ろに見える険しい山々が戸隠連山だ、、、参拝を済ませて何軒かのそば屋に行くがこちらも駐車場が満杯で車の置き場所が無い、やっとの思いで一件のそば屋に入った。 しかーしだ! 待てども待てども注文したものが出てこない、、、注文したものは未だですかねー、忘れているんじゃないでしょうねー、、と喉まで出かかっているんだが、、、待つこと40分、ようやく注文した蕎麦が出てきた、、やっぱり本場の新そばだ、美味いねー、やっと機嫌も直り帰途についた、、そして家に帰り、着替えて出勤、、、参ったね、、\(●o○;)ノ

 

 

 妙高高原、紅葉狩りのスライドショーは   = こちら =

 

 

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[我が故郷] 蟹池地蔵尊(かにいけじぞうそん)

2012-10-12

 

市内の大ショッピングゾーン(商業施設)で、すっかり様相が変わった下門前地内の一角、ホテルビジネスイン上越 の道路を挟んで西向かいの小さな公園の一角に 蟹池地蔵尊(かにいけじぞうそん)がある(写真) 。昔は富岡線の藤野新田と下門前のほぼ中間地点で三田新田へ行く道路の丁字路に粗末な小さな建物の中にひっそりと祀られていた、子供の頃は がにいけのお地蔵さん、 と呼んでいた記憶がある、その裏を 大道川(だいどうがわ)と言う用水が流れていた。子供の頃、毎年夏になると母親にリヤカーに乗せられて直江津の海まで海水浴に連れて行ってもらった、砂利道を歩いて2時間近くはかかったろう、、、お地蔵さんの前にくると母がリヤカーを停めて両手を合わせてお参りをしていたのを子供心に覚えている、、そして母が、 昔、この近くの池の中に捨てられていたお地蔵さんを拾い上げて、ここに祀ってあるんだ、、、 と聞かされていたんだが、、、、。

 

 

大昔、近くを流れていた応化川(関川)が蛇行、湾曲していた頃の田、川の跡が池となり蟹池と呼ばれていた。昔この付近に善光寺村があったが、春日山城主、上杉景勝の会津移封により代わりに入城した豊臣秀吉の家臣、堀 秀治が春日山城を廃し港の近くに(古城)福島城を築城したが堀氏の要請により諸役を免ぜられ城下の今の下門前の地に移り、元善光寺新町と呼ばれていた。ある日、霊夢があって、池より探し上げたのがこの地蔵尊である。以来、街道の傍らに立ち近隣の信仰を集め、道行く人々の憩いの場とも成ってきた。一方で下流の旧、川跡も蟹池を用水源として開田が進み、善光寺新田が開村されている。後に大道用水の傘下に入った為、蟹池用水の役割も移り、池も開田され蟹池の地名だけが残った。大正15年魚行商人をはじめ多くの人々より浄財を頂きお堂が建てられた。昭和30年橋本朝夫氏の寄進により再建され、平成9年、関川東部土地区画整理事業の一環として公園内に立派な地蔵堂が建立され(写真上)現在に至っている、俗に一般信仰として「イボ取り地蔵」としても知られている。  =案内板より一部抜粋=

 

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[我が故郷] 「メテレスキー」 日本のスキーはここから始まった

2012-09-27

 

日本で初めてスキーが伝えられたのがご当地、上越市高田地区(旧、高田市)である事は有名であるが、実際にどの場所で伝えられたのか、、、私は地元の金谷山スキー場とばかり思っていたが、(ほとんどの人はそう思っているに違いない、)実は初めてスキーが伝えられた場所は違うんだ、、、。

 

今から約百年前の明治44年(1911)1月12日、オーストリア・ハンガリー帝国の軍人、テオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐がご当地にあった旧陸軍第13師団第58連隊、営庭内の第1大隊雪中演習所で、第58連隊の14名の将校にスキーの指導をした。 スキー指導は「メテレスキー」 Mettez  les  ski  (スキーを履きなさい) から始まりました。市民団体「レルヒの会」がスキ―発祥100周年を機にレルヒ少佐の日記、第58連隊の地図など色々な資料を参考に調査し、上越市南新町の市立城西中学校の西側と特定し、歩道に面した城西中学校の敷地内に記念碑と案内板(写真)を設置した。レルヒ少佐が伝えたスキーはその後高田から日本全国に広まり、スキー倶楽部の結成、スキーの競技会の開催、スキー用具の製作、スキー民謡の誕生、、、などなど全てが高田から始まり、この地(写真)が日本におけるスキーの原点である。金谷山公園スキー場にはレルヒ少佐の銅像、スキー発祥記念館、スキー発祥の記念碑、等がある、、。  =案内板より一部抜粋=

 

 

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[我が故郷] 最賢寺と仏教学者、金子大榮

2012-09-13

 

上越市南本町3丁目にある真宗大谷派 最賢寺(写真)、慶長9年創設の約400年の歴史を持つ寺院である。境内墓地の一角に青々と茂る「大イチョウの木」 (写真)、樹齢300年、樹高35メーターのイチョウの木は上越市の文化財に指定されている。 仏教学者であり元大谷大学名誉教授 金子大榮師生誕の地である。

 

金子大榮

明治14年(1881)5月3日最賢寺住職勇榮の長男として誕生した。少年期はこの地で過ごし、中学4年の時に高田を離れ、真宗京都中学(現大谷高等学校)に編入した。明治37年(1904)真宗大学(現大谷大学)を卒業、その後郷里の高田へ戻り布教と郷土の子弟の教育に専念していたが、著書「真宗の教養及其歴史」が世に認められ、大谷大学教授に迎えられた。この間、宗教誌「精神界」 「見眞」 「佛座」 の刊行などに関わり、仏教界の発展に心血を注いだ。

昭和3年(1928)教義の解釈上の問題から大谷大学を去るが昭和17年(1942)再び大学教授に復帰し、昭和19年、大谷派の最高の学階である講師を授与された、1951年同大学名誉教授となり、昭和24年まで大学で教鞭をとった。以後も思索と執筆を続け「金子大榮選集」など数多くの著書を残した。仏教哲学一途に燃焼した生涯は、仏教界はもとより、日本哲学の道においても高く評価されている。昭和51年10月20日享年95歳の生涯を閉じた、、、。直江津の居多ヶ浜(親鸞聖人ご上陸の地)に建つ 念仏発祥の地 の碑は師の揮毫である、、。  

                             = 案内板より一部抜粋 = 

 

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[我が故郷] 月不見の池(つきみずのいけ)

2012-09-02


今年5月の晴れたある日、月不見の池(つきみずのいけ)に行ってきた。糸魚川市の国道8号線、梶屋敷から焼山温泉方面へ進んで行くと、新潟県観光地100選、新潟県森林浴100選、に選ばれている、で有名な月不見の池がある(写真)。



月不見の池(写真)は糸魚川市大字上出にあり面積は2,9ha ,最大深度は5mである。池の周りは樹木が鬱蒼と茂り、大きな岩に囲まれ藤のツルが樹木に絡みつき、水面に映る月が見えない事からこの名が付いたと言われている。
 

月不見の池は藤の名所として知られている(写真)、毎年5月の中旬の日曜日に 「月不見の池と藤祭り」 が開催され多くの人が訪れる。又藤の花の咲く5月に近くの新町地区(あらまち)で 「藤祭り」 が開催されて、各家庭で丹精込めて作った藤の鉢などを家の前に並べて通り一面が藤の花で見事である、一見の価値があるネ、、、、。



月不見の池を散策した帰りにすぐ近くにある ぼけ封じ 月不見観世音 を見つけた(写真)、最近ちょっと加齢とともに呆け も否定できない、、この際、観音様にお願いして行こう、、、、 と言う事で丁寧にお願いして来た、、、、。
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[我が故郷] 後谷(うしろだに)部落と殉難碑

2012-08-20

 

 頚城平野のどこからでも見える南葉山(949m)、地元の人であれば知らない人はいない位に親しみのある山である、しかし冬になると日本海からの季節風で標高からは想像できないほどの豪雪をもたらす。その南葉山の中腹にキャンプ場が整備されていて夏は沢山の人が訪れる、そのキャンプ場の手前、変則十字路を右方向(後谷ダムの標識がる)に狭い道を暫く進むと旧後谷部落があった跡がある。

 

 

道路が右にカーブする左側に二つの碑がひっそりと建っている(写真上)、以前はこの地に後谷部落があり、昔は部落の人々は僅かの耕地を耕し、山菜を取り、炭焼きなどをしてお互いに協力し合い仲よく生活していた所である。小学校の分教場もあった、その後時代の流れと共に分教場も廃校になり過疎化も進み、子供たちの通学、豪雪、除雪、、、など等の諸状況を鑑み部落の廃村を余儀なくされた。この地に当時の植木市長の揮毫で碑が建立されている(写真左)。現在は若い一家族の方が(地元の人ではないようだ)雪のない時期だけこちらで生活されているようだ。

 

 

右側に 殉難碑 (写真右)が建っている、昭和2年2月9日小学校の分教場が雪崩に襲われ上野先生と児童4人が雪崩の犠牲になり命を落としたのである、先生、児童の名前が刻まれているが薄れて時の流れを感じさせられる、以前は分教場のあったところに建てられていたが、こちらの道路脇に移設されたようである。この様な悲しい事故があった事をどれだけの人が知っているであろうか、今では滅多に人の通らなくなったこの地、私は静かに碑の前で手を合わせて来た、、、、。 

 

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[我が故郷] 稲田 諏訪神社と大ケヤキ

2012-07-29

 

市内稲田1丁目、現在の稲田保育園の横に諏訪神社がありここに樹齢800年と言われる大ケヤキの木(写真)がある。かつては現在の保育園のある場所に市立新道中学校があった、hamさんの母校である、毎日の通学時、この諏訪神社の参道を通り学校に行った。休み時間にはたまにこの欅の下で遊んだり、教室の窓から先生の話も聞かずにケヤキの木を眺めた懐かしい思い出がある。昔は境内で盆踊り、草相撲(昔は土俵もあった)、子供たちの遊び場として地域の住民から親しまれていた。 このケヤキの大神木は樹齢800年と言われ幹周り9,3m 木の高さは25mにもおよび地元の人々に「お諏訪さんの大ケヤキ」と親しみをもって呼ばれています。約800年前の鎌倉時代、浄土真宗の開祖、親鸞聖人が布教の折にお手植えされたと伝えれれている。平成10年に 新日本名木100選 に選ばれ、平成14年 上越市文化財(天然記念物)に指定されている。

 

 

この大ケヤキ、長寿の一方で10年ほど前に菌の「コシキサルノコシカケ」の着生が確認され、又今年の大雪で大枝が2本折れ(写真)腐敗の加速が懸念され年々、大ケヤキの樹勢が衰えている、この様な現状を受け「大ケヤキ保存会」が発足し、地域のシンボルとして雄姿を次世代に引き継ぐため日々、大ケヤキの保存、手入れを行っている。隣の稲田小学校の児童も保存のための作業に協力し、大ケヤキとふれ合う中で、大切な自然を守る気持ちを学んでいると言う。

 

稲田諏訪神社は、鎌倉時代に信濃の諏訪付近の農民が、諏訪大社の「建御名方命」のご分霊をお招きして祀ったのが始まりと伝えられる。又神社付近を開田した事から現在につながる「稲田」の町名が付けられました。私が子供の頃の稲田は、1~3丁目まで商店が建ち並び賑やかな街並みであった。江戸時代、高田城が築城されてからは、高田の町の繁栄の為、直江津の関川にかかる橋が外され新潟方面からきた旅人も一旦、稲田を通り稲田橋を渡り(橋の西側に番所があった)高田を通り直江津に行った。稲田の町並みは当時の繁栄をうかがう事の出来る姿を今も残している。

 

 

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[我が故郷] 直江津、 八坂神社

2012-07-19

 

四国、関西、東海、関東甲信、に続き昨日、北陸地方も梅雨明けとなった。いよいよ来週23日から上越祭りが始まる、ここ数年は梅雨明け前で期間中ハッキリしない天気で大民謡流しが中止になったりイマイチ盛り上がらなかった気もするが今年は梅雨も明けた、やっぱり夏祭りは暑い方が盛り上がるネ、、、上越市合併前の高田市、直江津市の頃は高田の祇園祭、直江津の祇園祭、と呼ばれたが合併して41年、合併によって上越祭りと呼ばれるようになったのであろう。直江津の八坂神社(写真)の祭りである、昔は「祇園社」とも呼ばれた。

八坂神社は京都の八坂神社を勧請し創建されたと言う由緒ある神社である、素盞鳴命(すさのうのみこと)夫妻と八人の王子を祀っている事から「八王子」(はっちょうじ)とも呼ばれ武勇・商売繁盛の神として信仰が厚い。

 

 

 八坂神社の鳥居の額には「日吉・諏訪・八坂・三柱神社」と書かれている(写真上)。北側参道入口の鳥居には「諏訪神社」と書かれている、八坂神社は素盞鳴命(すさのうのみこと)、諏訪神社は建御名方命(たちみなかたのみこと)、日吉神社は大山昨命(おおやまくひのみこと)、この三社が元禄2年(1689)に合祀されたと伝えられ昭和3年に「八坂神社」と改称されたと言う。 「延喜式」神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載されている頚城郡十三座の一座である佐多神社の論者とする説がある。

 

「延喜式」神名帳 ーーー 延長5年(927)にまとめられた「延喜式」の巻九・十のことで、全国の神社の一覧である。

 

論者 ---延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔(こうえい)「代々血でつながって来た血筋のある人、一族」と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)と言う。

 

頚城郡十三座 --- 奴奈川神社(糸魚川市)、大神社(糸魚川市、論社あり)、阿比多神社(上越市、長浜)、居多神社(上越市五智)、佐多神社(糸魚川市、論社あり)、物部神社(上越市清里区)、水嶋礒部神社(上越市清里区、論社あり)、菅原神社(上越市清里区)、五十君神社(上越市三和区)、江野神社(上越市名立区)、青海神社(糸魚川市)、圓田神社(上越市柿崎区、論社あり)、斐太神社(妙高市)。

 

 

境内には「松尾神社」 「神明宮」 「稲荷神社」 「秋葉神社」 の末社がある。写真上は秋葉神社で、明治36年に静岡県の秋葉山本宮、秋葉神社より御御霊をお迎えし創建されました、防火の神様です。

 

 

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[我が故郷] 上杉謙信公ゆかりの、曹洞宗 越州春日山 林泉寺

2012-07-03

林泉寺の歴史

 

春日山下にある春日山(かすがさん)林泉寺は曹洞宗のお寺である。明応6年(1497)越後守護代長尾能景公(ながおよしかげこう、上杉謙信公の祖父)が亡父、長尾重景公の17回忌にあたり菩提を弔うために、柿崎町下小野(現柿崎区)にあった禅寺をこの地に移し、上州雙林寺(そうりんじ、現、群馬県子持村)の高僧曇英恵応禅師(どんえいえおう、長尾重景が尊敬した)を招いて春日山城下に建立し、重景の法号を取って春日山林泉寺とし、以後長尾家の菩提寺となった。それから40年後、天文5年(1536)7歳から天文12年(1543)までの7年間、虎千代(後の上杉謙信)は林泉寺六世天室光育(てんしつこういく)大和尚に文武の道を学び、更に七世益翁宗謙(やくおうしゅうけん)大和尚について禅の教えを学び、さとりを開いたと言われ、武将上杉謙信の素養はこの時に培われたと言われている。上杉謙信の後を継いだ景勝公のとき、上杉家が会津に移封となり、変わって越後領主となった、堀家、高田城主、松平越後守(まつだいらえちごのかみ)家、榊原家の菩提所となり、又代々から「禁制状」を下され厚く保護されていました。又徳川二代将軍秀忠公以来、御朱印地(江戸時代において,将軍の朱印状によって領有を認められた寺社の領地)の寺領を受け、「下馬・下乗」(ここから人は馬、乗り物から降りなさい)の札を立てる特遇も許されるなどの歴史を重ね、創建当時は七堂伽藍が建ち並び威容をほこっていたが、寛永年間(1624~44)と弘化4年(1847)の火災で本堂、庫裏、楼門、宝物などが焼失したが信徒の献身的な努力により復興し現在に至っている曹洞宗の名刹である。

 

 

惣門

 

 

入口に立つ惣門(写真)は春日山城の搦手門(からめてもん)を上杉謙信によって移築されたと伝えられる往時を今に伝える唯一の門である。門の右側にある石標は禁牌石(きんはいせき)と言い「不許葷酒入山門」と書かれており、無端国龍和尚が建立したと言われており、お酒を飲んでいたり生臭い匂いをさせてこの先に入る事を禁ずる、と言う意味であろう。

 

 

 

山門

 

 

境内に入ると参道に立派な山門 (写真左)がある、謙信公は七世益翁宗謙大和尚から「第一義」の真意を学ばれ二階造りの山門を寄進、更に山号「春日山」、「第一義」の大額を揮毫され山門に掲げました。謙信公建立の山門は江戸末期の地震で焼失しましたが、現在の山門は大正14年に謙信公生誕400年を記念して建立されたと言われています。2階は唐様式、下の方は和様式の総ケヤキ造りで釘は1本も使われていません。左右の仁王様は仏法を守る守護神と言われており、郷土の彫刻家、滝川美堂作です。現在山門の上部に掲げてある大額の 「春日山」、「第一義」 (写真右)は謙信公の直筆を模写したもので、本物は宝物館に展示してあります。山門の前、本堂の後ろに広がる庭園は室町時代の様式の庭園と言われています。

 

 

 

春日山懐古詩碑

 

 

春日山懐古詩碑(写真右)を詠んだ大槻磐渓翁(1818~1878)は江戸時代後期の漢詩文にすぐれた史家頼 山陽先生(1780~1832)と並んで有名な仙台、伊達藩の儒学者。上杉謙信公を特に敬い慕って、雄図なかばにして亡くなられた、春日山の天守閣跡に立って名将、上杉謙信公を偲んで詠まれた「春日山懐古」は名詞として有名である。   = 案内板より抜粋 =

 

 

本堂

 

 

本堂は創建以来2度の火災にあい、明治22年に再建されましたが、現在の建物は林泉寺開基500年を記念して平成10年(1998)10月に完成し翌年の5月16日に落慶法要が盛大に行われました。正面から見ると鳳凰の形をした屋根となっており、屋根の上部に五領主さまのご紋が並んでいます。真ん中が越後守護代長尾家の家紋の九曜巴(くようともえ)、その右側が上杉家の家紋の竹に雀(竹輪双飛雀)、右はじが高田城主、松平家の家紋の三葉葵、左側に堀家の家紋の丸に梅、左はじが最後の高田城主、榊原家の家紋の源氏車となっている。本堂の内陣に本尊として釈迦牟尼仏(お釈迦様)、脇侍として象に乗っておられるのが普賢菩薩、右側の獅子の上は文殊菩薩、右に大権修利菩薩、左には達磨大師像、脇間には、開山雲英恵応禅師像ならびに五大名霊牌と大謙信公座像を祀っている。

 

 

 

あ宝物館

 

宝物館(写真左)は昭和46年に開館、林泉寺を菩提所とされた上杉謙信公をはじめ、各大名ゆかりの品々が多数展示されている。生前中に描かれたものとして唯一現存する上杉謙信公の肖像画、謙信公直筆の山門の「春日山」・「第一義」の大額、往時をしのばせる春日山城図、上杉軍の軍旗、仏像、甲冑、馬具など等、、、

 

 

お墓所

 

 

林泉寺の綺麗に手入れのされた境内は七万五千坪と言われているが、その一角の山手に歴代城主、川中島合戦戦死者の供養塔、林泉寺歴代住職のお墓などがある。

 

 

墓地に入ると間もなく右側に堀家三代のお墓がある。謙信公の後を継いだ上杉景勝が会津に移封となった後、春日山城主となった堀 秀治公のお墓(写真左)、慶長3年3月上杉景勝が会津に移り、代わって豊臣秀吉の功臣、堀 秀治が越前北庄城(福井市)から45万石の大名として春日山城に入った。秀吉は江戸城の徳川家康を見張るため、信頼のおける秀治を越後に封じたのである、慶長11年(1606)5月26日、31歳の若さで死去した。堀 秀治公の墓は堀家三代の墓の入口にある。その隣に秀治公の祖父の堀 秀重公のお墓がある、秀重公は美濃(岐阜県)の斉藤道三に仕え、その後織田信長、豊臣秀吉に仕え堀家の基礎を作った方だと言われています、慶長11年(1606)11月2日春日山城で75歳で死去した。堀家墓地の一番奥に秀重公の子で(秀治公父)堀 秀政公の墓がある、秀政は織田信長の側近として活躍、本能寺の変ののち、豊臣秀吉に仕え、北庄城(福井市)主となる。天正18年(1590)5月27日、小田原攻めの陣中、38歳で病死した。

 

 

堀家の墓の横を先に進むと上杉謙信公のお墓がある(写真)、前後して二つ並んでいるが何れも五輪塔です(空、風、火、水、地、を表すと言われている)。前の小さなのが謙信公の墓で後ろの大きい五輪塔は大正5年に上杉家の供養のために立てられたもの。いつ訪れてもお墓の前にお花が供えられている。その左隣に大きな川中島合戦の戦死者供養塔がある、林泉寺14代住職、玄室和尚が川中島に行き、敵、見方を問わず遺骨を拾い供養されたそうです、元和9年(1623)8月9日に建立されたと言われています。謙信公の墓の横の歴代住職の墓の隣に謙信公の父、長尾為景公、その隣に祖父の長尾能景公の墓がある。又林泉寺の西、宮野尾地区に謙信公の母親、虎御前の墓が林の中にひっそりと建っている。

 

 

突き当たりの一番高いところにある墓地は高田城四代目城主松平光長公の一粒種、綱賢(つなかた)公の墓(写真)で、大きな岩の中に蓮の花をもった聖観音像が浮き彫りになっております、綱賢公は延宝2年(1674)、42歳の若さで高田城で亡くなられました。続いて妻の松平土佐さまが61歳で亡くなり城主、光長公が非常に悲しんだと言われています。すぐ近くに土佐さまの墓があります、大きな岩には法名と命日が大きく刻んであり、参道の燈篭は綱賢が24対、土佐さまは12対ありましたが、今でも跡が残っています。綱賢公が亡くなられて世継ぎがないため家老、小栗美作(おぐりみまさか)と氷見大蔵の越後騒動が起こり松平光長の時代は終わってしまいました。

 

三つ並ぶ墓の中央の大きな墓(写真)は榊原政岑(まさみね)公の墓です。榊原藩の藩祖、榊原家政は知勇兼備の名将で徳川四天王として活躍した話しは有名である。小牧、長久手の戦いは天下に名をとどろかせました。姫路15万石の榊原8代、榊原政岑は旗本の身分であったが本家に子が無く、榊原家を継いだと言われております、政岑は堅苦しい事は嫌いで正妻を持たず江戸吉原の遊女と遊び高尾を身請した事がもとで質素倹約令の八代将軍、徳川吉宗は怒って寛保元年(1741)隠居を命じ、政岑の子供で幼少の政永を高田城15万石に転封させ、政岑も翌年罪人を乗せる青乗物で高田に護送された。政岑の墓には明治になるまで金網がかけてあったと言う。

高田城主、榊原家は、 政永(まさなが)⇒政敦(まさあつ)⇒政令(まさのり)⇒政養(まさきよ)⇒政愛(まさちか)⇒政敬(まさたか)

 

 林泉寺のスライドショーは   = こちら =

 

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[我が故郷] 東本願寺高田別院 稲田支院 光明寺

2012-06-22

 

上越市稲田の十字路、信用金庫の東側にある光明寺(こうみょうじ)は上越市下門前にあった廃寺を稲田の竪町(現在の稲田2丁目)に移して小庵をつくり、新井別院(現妙高市)の通所(出張所)としたのが始まりです。その後、享保18年(1733)高田別院創建が認可され(享保15年の説もある)、寺号が高田へ移転しましたが、稲田竪町の通所は、光明寺旧庵として残されました。やがて高田別院が本願寺掛所となって、寺号は再び稲田に復帰しました。以来、本願寺抱寺(かかえてら)となり、明治13年(1880)には高田別院支院として今日に至っています。

天明6年(1786)荒川(現、関川)の大洪水で稲田2丁目南裏から現在地に移転しました、昭和30年代に成り県道が境内を通る為、一部改造されて現在の寺院となりました。毎年10月16日より親鸞聖人の報恩講があり「稲田のおたや」として昔は近郊から人々が集まり賑わいました。

hamさんも子供の頃「稲田のおたや」になると母親に連れて行ってもらい、竪町(現、稲田2丁目)の通りの両側にたくさんの屋台などが建ち並び、それは賑やかであった。稲田の商店街も今はすっかり寂れてしまって寂しい限りだ。

 

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[我が故郷] 天下の険 親不知、子不知(おやしらず、こしらず)

2012-06-11

26年振りの大雪に見舞われた今年だが、丁度2か月前の4月、陽気に誘われて、北陸地方最大の難所と言われた天下の険、親不知(おやしらず)に行ってきた。国道8号線、糸魚川市内を過ぎ北陸高速道、親不知インターチェンジを過ぎて幾つかのトンネル、洞門を抜けると「天険トンネル」が見えてくる、その手前から海側に向かい岩を切り開いた道が、「天険親不知線」だ、(通称、親不知コミュニティーロード)この約1キロの道は「日本の道100選」に選ばれ現在は遊歩道になっている。ちなみに新潟県内からは「日本の道100選」に2ヶ所選ばれているが、一つはこちらで、もう1か所は国道148号線(糸魚川市から長野県、白馬、大町市に向かう国道)糸魚川市根知入口から姫川温泉などがある糸魚川市大所までがそうだ、糸魚川市から2ヶ所選ばれている、偉そうな事を言う私も知らなかったねー、、、! 天険トンネル入口の海側に小さなホテル「親不知観光ホテル」がある(写真)が、行った当時は営業をしていなかった。

 

道路脇の駐車場に車を止めて、北アルプスの北端が日本海になだれ落ちる絶壁に造られた古道、「親不知コミュニティーロード」を遠い昔の先人達の苦労に思いをはせながら歩いてみた。海側の大きな岩に詩が書かれている、、、、

親不知 雪が 海から 天へふる、   と書かれている。冬は季節風の強い日本海、シベリヤからの西風が岩肌にぶち当たり、空から降る雪が天に吹きあげられる様を詠んでいるのだろうか、、、。

 

親不知・子不知(おやしらず・こしらず)の名前の由来については、二つの説が有ります。一つは、危険な波打ち際を通る時には、自分の身を守るのが精いっぱいで、親は子を忘れ、子は親をかえりみる余裕が無かった事から「親しらず子しらず」だと言う説です。もう一つの説は、今から約800年前の平安時代の末、平 清盛(たいらのきよもり)の異母の弟、池中納言 平 頼盛(いけのちゅうなごん たいらのよりもり)は平家滅亡後も一人栄えていましたが、京の子供たちの悪口に耐えきれず、所領である越後五百刈村(現在の長岡市、旧中之島町五百刈)へ移り住みました。この夫の後を慕って、ここを通りかかった夫人が、二歳の愛児をふところから落とし、波にさらわれてしまいました。その悲しみのあまりに詠んだ歌が

親しらず子はこの浦の波枕 越路の磯のあわと消えゆく、

であり、それ以来この地を、親不知・子不知と呼ぶようになったと言う説です。断崖に荒波が打ち寄せる景色は迫力があり、新潟県の名勝に指定されています。

 

(第一世代の道)

この親不知の難所を越えればまるで極楽浄土を旅するようだという事で、この辺りは浄土と呼ばれており、そこには波除不動が祀られています。旅人は皆 「無事通り抜けられました」 と手を合わせて、先へと旅立って行ったと言われています。

(第二世代の道)

この天下の難所も明治11年(1878)、明治天皇の北陸御巡幸の時に海岸沿いは危険がある為、山道を遠回りした事を契機に国道建設運動が盛り上がり、明治16年(1883)に東西日本を結ぶ日本海側の大動脈が完成しました。この工事は断崖絶壁を縫って、すべて人力で行われ苦難を極めたと言われております。この様に明治人が近代国家建設に向けて開削した道が現在の「市道天険親不知線」です。高さ80メーターの断崖の上、国道としては道幅も狭く今から見れば決して快適な道とは言い難いが、この道が出来る前は、潮の満ち引きを考え、崖下の海岸線を命がけで通った事を考えれば当時の人達の喜びの姿が目に浮かぶようだ、、、、。

(第三世代の道)

その後、何回も改良と災害復旧が重ねられましたが、現在の車社会に対応して昭和41年(1966)、国道8号線 天険トンネル(延長734メーター)が完成しました。

(第四世代の道)

昭和63年(1988)、近年の高速交通時代に向かい、現在の道路建設技術の粋を集めて、日本初の海上高架橋、親不知海上インターチェンジを含む、北陸高速道が完成しました。

 

1代目が、親不知・子不知の名前の由来になった海岸線の旧北陸道、2代目がこの「天険親不知線」、海岸線に張りつくように続く現在の国道8号線は3代目、そして少し先の海に目をやれば海上を走る4代目の高速道路が見える。 青海八景 四世代道暮色 (写真)から眺めていると、遠い昔から現代社会までが見えて不思議な雰囲気にさらされる、、、、、。

 

この道を中程まで進むと、道路から見上げる大きな一枚岩に、約1メーター四方の字で、 「如砥如矢」 とのごとく、やのごとし、と刻まれている(写真)。砥石のように滑らかで、矢のようにまっすぐな道、という意味で、開通の喜びが表されている。この道路の工事に力を尽くした青海の人で、富岳磯平(とみおかいそへい)の書と言われています。

 

遊歩道を行くと東屋があり、その隣にイギリスの宣教師、ウォルター・ウェストンの像がある。ウェストンは明治22年(1889)から大正7年(1948)までの間に3度来日しました。日本アルプスや富士山など多くの山岳を紹介し、日本の近代登山の振興に大きく貢献しました。明治27年(1894)7月に、ここ親不知を訪れその景観に感動しその著書「日本アルプス登山と探検」のなかで一枚岩に刻まれた「如砥如矢」を紹介しています。毎年5月の下旬に 海のウェストン際 がここで行われ多くの関係者が訪れる、今年も27日に盛大に行われた。

 

ここ親不知は著名作家に愛され、古来より多くの文学作品に登場しています。

「源平盛衰記」 、、、作者不明。  「善光寺紀行」 、、、尭恵。   「奥の細道」 、、、松尾芭蕉。   「諸国道中金の草鞋」 、、、十辺舎一九。   「山椒大夫」 、、、森鴎外。   「親不知・子不知」 、、、深田久弥。   「日本海の波」 、、、久保田万太郎。   「越後つついし親不知」 、、、水上 勉。   「日本アルプス登山と探検」 、、、ウォルター・ウェストン。   「日本美の発見」 、、、ブルーノ・タウト。   など等たくさんある、、。作家の水上 勉(大正8年~平成16年)は著書「新日本紀行」のなかで親不知について次のように書いている。

越後の「親不知」を私は好きである。美しい日本の風土のなかで、私はいちばん「親不知」が好きである。私はこれまで「親不知」を何度訪ねたことだろう。東京に住むようになってから私は若狭へ帰るたびに、わざわざ北廻りの汽車に乗ったのは、「親不知」の風光を見るためであった。「親不知」は激しい断崖と荒波の海しか見えない、日本の中心部を横断する中部山岳地帯が、北の海へ落ちこむのはこの親不知付近である。山は固く、頑固な壁となって北陸道へ険しく襲いかかるように、樹木の少ない荒ぶれた肌をみせて落ち込んでいる、、、、、、

多くの著名人に愛され、色々な舞台となった親不知(おやしらず)を訪れたのは、ところどころ道路の脇に除雪の雪が残る季節であったが、今は日本海になだれ込む断崖に、はえつくばるように生い茂る木々の緑がきれいだろう、、、。

 

 天下の険、親不知、子不知のスライドショーは  = こちら =

 

 

      

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[我が故郷] 旗持城跡

2012-06-01

 

国道8号線、旧北国街道の米山峠を抑える要所に位置する旗持城跡に行ってきた。国道8号線の米山の信号を過ぎると登りになるが、その山側に旗持山(城山)の登り口がある(写真)。車が3~4台ほど停められるスペースが有り、そこに車を止めて登り始めた。

 

 

標高366メーターの低い山だが、海岸線にそびえる山で、低い割には登山気分を味わえる山だ、十数分歩くと 水場 がある、暫く歩くと お城坂 と言う名前の案内板が立っていた、枯れ葉を踏みしめて登って行くと、左側がパット開けた、見ると みはらし と書いた案内板が立ち木にぶら下がっていた、今年は雪が多かったからなー、、 紐で木に縛り付けてきた、日本海が眼下に見渡せる、なかなか見応えがある景色だ、、案内板では登り1時間とあったが、50分で頂上、旗持城跡に着いた(写真)。なかなかの絶景だ、視界が良ければ遠く佐渡島、弥彦山なども見えるんだろうが、今日はダメだ、、、、

 

 

 旗持城は標高366メーターの堅固な山城であり、天嶮の地形を巧みに利用して構築された為、大規模な普請は見られない。旗持城が歴史上に登場するのは天正6年(1578)の 「御館の乱」 の時である、ここ旗持城に上杉景勝軍の佐野清左衛門尉が立て籠り、柏崎方面より春日山城を攻撃しようとする上杉景虎軍を抑え、景勝軍の勝利の一翼を担ったと言われている。

 

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[我が故郷] 松尾芭蕉、「奥の細道」鉢崎宿

2012-05-18

 

俳人松尾芭蕉(1644~1694)が「奥の細道」へと旅立ったのは元禄2年(1689)3月27日。越後、新潟県に入った芭蕉は旧暦の6月27日岩船郡山北町、28日村上市、7月1日中条町、2日新潟、3日弥彦、4日出雲崎、5日鉢崎(現柏崎市)、6日今町(現上越市直江津)を訪れ、翌7日も滞在し、8日~10日まで高田(現上越市高田)で過ごしたようである、11日能生町(現糸魚川市)、12日市振(現糸魚川市)13日滑川市(富山県)。

出雲崎を立った芭蕉は柏崎の天屋に泊まる予定で紹介状まで用意して来たのであるが、思わぬ事から米山峠を一気に歩き通して鉢崎まで来てしまった。同行の弟子の「曾良日記」には 「申の下尅、至鉢崎、宿たわらや六良兵衛」 とのみ記している。鉢崎での宿、たわら屋、は代々庄屋で三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で宿屋を業としていた。大正の頃まで刈羽郡高浜町の椎谷(現、柏崎市)に5月1日(旧暦)に馬市があって、その前夜はこの町も馬の往来が激しく、たわら屋 は馬宿でもあったと言う。  = 案内板より抜粋 = (写真は、たわら屋跡)

すぐ近くに鉢崎関所もあった事から、この辺りは当時は随分賑やかであったにちがいない。

今町(現、上越市の直江津)に入った芭蕉は 古川市左衛門宅に宿泊したようであるが、直江津駅前にある古川屋旅館(2月で廃業された)の本店が現在の直江津郵便局の当たりにあったと言われているが、これが古川市左衛門宅の事とhamさんは推測します、、、、そして近くにある聴信寺(中央3丁目、市が開かれる通り)で句会が開かれたと推測します、その時に詠まれた句、、、、下記

 

   文月や 六日も常の

           夜には似ず

 

8日に高田の医師細川春庵を尋ねている、その時に詠まれた句、、、、下記

高田には8日~10日まで滞在している。

 

   薬欄に いずれの

            花をくさ枕

 

★ 上越市内の松尾芭蕉の句碑などの史跡は   = こちら =

 

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[我が故郷] 北国街道、関川関所跡と道の歴史館

2012-05-11

 

国道18号線、妙高高原町の旧国道、長野県との県境に高田藩の三つの関所の一つ、北国街道 関川関所が有った。関所跡は平成9年に史跡として整備され、古絵図や発掘調査などをもとに御番所が復元され隣に博物館「道の歴史情報館」、御門、一ノ橋(長寿橋)、うば坂、御食事処「御宿せきがわ」が建設された。道の歴史情報館は入場料500円が必要である。 (写真は旧国道18号線、向こう側が新潟県)

 

 

ちょうど当所を訪れた時はところどころに雪が残り桜の花が満開で有った。当関所は高田藩が管轄した三つの関所、 鉢崎関所、 市振関所、 関川関所、 の中でも最も重要な関所「重き関所」であった。特に佐渡の金、銀、を江戸に運んだ道で 御金荷(おかねに)街道とも呼ばれ、又加賀の殿様などの参勤交代や旅人の往来で大変賑やかであったと言われている。 (写真は関所入口の復元された御門)

 

 

御番所には高田藩から派遣された二人の役人が常駐し、通行手形と人改めを行った。(写真) 関所は明け(あけ)六つ(午前六時)に開き、暮れ六つ(午後六時)に閉じられた。関所には「突棒」 「刺股」(さすまた)「袖搦」(そでがらみ)と言った三つの道具が備えられていて、関所破りを逮捕するのに使ったが、関所破りは重罪であり、はりつけ・獄門となった。

 

 

特に女は「入り鉄砲に出女」と言われたように厳しい調べを受けた。人見女(ひとみおんな、改女)が密書を持っているかどうかを確かめる為、髪や着物の中まで調べられた(写真) 。

「入り鉄砲、出女」 

幕府が各藩主の妻室を江戸に住ませて人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒したためであり、地方から江戸へ鉄砲を持って入ることが治安上危険と考えられていたため、と言われています。
 

 

 平成10年に一ノ橋(長寿橋)にちなんで、当時、百歳百歳で話題を巻いたお婆ちゃん、きんさん、ぎんさんの来町がかない、座像と手形のレリーフが作成された(写真) 。

「道の歴史情報館」には貴重な資料が展示してあり、歴史的価値や意義が学習できるようになっている。

 

市振関所跡      = こちら =

鉢崎関所跡      = こちら =

           

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[我が故郷] 松尾芭蕉、「奥の細道」市振宿

2012-05-02

ポカポカ陽気の4月のある日、「市振の関」の有った西頸城郡青海町市振(現、糸魚川市)に行ってきた。隣は富山県だ、家から車で1時間近く、ここには高田藩の関所が有ったところだが、有名な松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中この地で一夜の宿をとり名句を詠んだと伝えられている。

 

 

国道8号線を幾つかの洞門をくぐり天下の険、親不知を過ぎると間もなく市振地内に入る、中ほど左側に長圓寺(写真上)があるが、こちらの境内に松尾芭蕉の句碑がある(写真下)

 

 

「奥の細道」の芭蕉は元禄二年(1689)7月12日、この市振(いちぶり)の宿(桔梗屋)に泊まり妙趣に香る遊女の句を詠んだ。この句碑は糸魚川が生んだ文豪「相馬御風」の書により大正14年に建立されたものである。

    

一つ家に遊女も寝たり

               萩と月

 

この句に登場する遊女は、二人で新潟から伊勢参宮の旅の途中で翁と同宿となった。翌朝、旅の心細さから旅の道ずれを切望されたものの吟行の旅ゆえこれを断った。しかし別れてからも遊女の心情が思いやられ「哀れさしばらくやまざりけらし」と記している。  = 案内板より一部抜粋 =

 

 

国道8号線から旧道に入り市振小学校(市振関所跡)の少し糸魚川寄りに、松尾芭蕉が一夜の宿をとった桔梗屋跡(写真)がある、桔梗屋は市振宿における脇本陣でしたが大正3年(1914)の大火で焼失してしまい現在はその跡地が残るのみとなっています。(糸魚川市指定文化財に登録されている)

 

安政3年(1856)に刊行された俳人、中江晩籟(ばんらい)の句集「三富集」には次のように記されている。

 

市振の桔梗屋に宿る。 むかし蕉翁、比宿に一泊の時、遊女も寝たる旧地なり。

寝覚めして 何やらゆかし 宿の花。

 

良寛もこの地に一泊し、次の句を詠んだと言われています。

 

市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月

 

 松尾芭蕉の県内の足跡、、、

7月2日 新潟   7月3日 弥彦   7月4日 出雲崎   7月5日 鉢崎   7月6日 今町(直江津)   7月7日~7月10日 高田   7月11日 能生   7月12日 市振   7月13日 滑川

 

 

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[我が故郷] 鉢崎関所跡

2012-04-17

朝目が覚めるとカーテンの隙間から明るい光が差し込んでいる、 んー、晴れているなー! 今日は仕事は休みだ、1週間前の休みは、市振から親不知子不知(おやしらずこしらず)まで史跡を見に行ってきた。高田藩の三つの関所の一つ、 市振関所跡を見てきた、ここを見たのなら他の二つも見ない手は無いだろう、、と言う事で鉢崎関所跡(はっさき)に行ってきた。ここには、松尾芭蕉 が奥の細道の途中宿泊した旅籠跡もある、又近くには旗持城跡、大泉寺観音堂、胞姫神社(よなひめ)など史跡が多いが又いずれ紹介したいと思う、車で約40分、柏崎市米山町にある。柏崎市と言っても上越市柿崎区の隣だ、他の用事もあったので郵便局に寄り、ついでに窓口の人に関所跡を尋ねて、旗持城跡などの史跡場所を尋ねたが解らないと言う、ちょうど地元の長老のおじいさんが居合わせて色々と詳しく教えてくれた、 おまさん(貴方)、歴史の学者さんかね、、、、 と言う、 いえ、とんでもない、タダの物好きですがネ、、 すると嬉しい事を言う、 いやー、頭の良さそうな顔をしているからさ―、、だって。 先日は変態な男と間違えられたしー、、、crying

 

 

戦国期、鉢崎関所は、当地域の戦略的拠点であった旗持城を擁する旗持山山麓が海に迫っているという地の利を生かし、軍事、治安上の要衝地として重要な役割を果たしていました。江戸時代に入り、この機能は高田藩に引き継がれましたが、最も取締りが厳しかったのは女子と鉄砲に対してで、「出女入鉄砲(でおんないりでっぽう)」という言葉さえありました。これは、幕府が各藩主の妻室を江戸に住ませて人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒したためであり、地方から江戸へ鉄砲を持って入ることが治安上危険と考えられていたためと言われています。
当時の覚え書きによると、関所の木戸が開くのは午前6時で、閉まるのは午後6時とあり、夜間の通行は一切禁止されていましたが、飛脚などの通るときは、委細を改めて(理由を聞いて)通行を許したと言われています。        = 案内板より抜粋 =
 

 

 

この地に立つと、なるほど前は日本海、後ろには旗持城を擁する旗持山山麓が海に迫っているという地形だ、何故ここに関所が設置されたのかが理解できるであろう。

 

 

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[我が故郷] 市振関所跡(いちぶり)

2012-04-10

新潟県の西の端、富山県との県境の糸魚川市青海町市振(旧西頸城郡青海町市振)にあった市振関所は高田藩三関所(市振、鉢崎、関川)の一つである。江戸時代初期、徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に五十三の関所を設け、街道を行き交う人々を取り締まった。「市振の関」は五十三関所の中でも特に重要な二十三関所の一つであった。親不知子不知(おやしらずこしらず)の険難の地を東に控え、北陸道における越中との国境の要所として寛永(1624~)年間の初め、幕府は高田城主、松平光長に命じてここに関所を造った。越後から越中、加賀へ行く女性は高田城主の通行手形がないと通してもらえなかったと言う、関所では女性と鉄砲の出入りを厳重に取り締まった、「改め女」がいて、通行女性の所持品、髪の中や着物の中まで調べ、時には裸にして検査したと言う。

関所関所で髪改める

        娘十七髪解けん  、、、と今に伝えられる。

この関所の特徴は旅人の検問の為の番所と海上監視の遠見番所からなっていた事である、関所は東西21間、南北95間面積6反6畝15歩で、その中に「番所」 「上役長屋」 「足軽長屋」 「遠見番所」 「井戸」 などがあり又西門の近くに「馬の足洗井戸」があった。現在の市振小学校のある場所である。

 

 市振小学校のグラウンドの真ん中に大きなの大木がある(写真)、は古くから神の宿る樹と信じられ、境内、屋敷、村境、などはもちろん江戸時代には街道の一里塚などにも植えられ旅人の目印や木陰となっていた。本樹は樹高17,5メーター、目通り幹周り4,6メーターで樹齢が推定250年以上と言われる古い巨樹で、当時、番所で「怪しい通行人はエノキに縛って厳しく取り調べたそうだ」、、、、。明治に入り関所の役目は終わり小学校の中庭として残っていた、1990年の校舎建て替えで校舎とグランドの位置を入れ替える事になりグランドの中央に位置する榎を切る話も出たが住民による行政への要望で現在もグランドの真ん中で見守って、当時を知る唯一の生き証人である。 (糸魚川市指定文化財)

 

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[我が故郷] 日本最古の飴や、高橋孫左衛門商店

2012-02-28

上越市南本町、旧北国街道沿いに日本最古の飴屋と言われ、国の登録有形文化財に指定されている(株)高橋孫左衛門商店がある(写真)、創業は寛永年間(1642年~)で粟飴、翁飴、笹飴、と飴一筋を創製、販売し続けている。水飴と寒天で作る翁飴は当時の高田城城主の参勤交代の土産として使われていた程で日持ちの良さと独特の食感が江戸を通じて全国に広まったと言われている。

「東海道中膝栗毛」の著者としても名高い、戯作家の 十辺舎一九(じっぺんしゃいっく) も訪れ、「越後道中記・金の草鞋」に、 「評判は高田の町に年を経て豊かに澄める水飴の見世、、、」 等と紹介されている、又、夏目漱石の「坊っちゃん」にも笹飴が登場する。明治7年の火事で奥の土蔵以外は焼失したが翌8年には再建している、能生(現糸魚川市)から山、一つ分の木を筏を組んで運び、又高田城の旧材も譲り受けたと言われている。
 

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

江戸時代後期の大衆作家、浮世絵師で、明和2年(1765)駿河国(現、静岡市葵区)で町奉行の同心の子として生まれた。静岡市葵区両替町一丁目に生誕の地の碑が建っている。、弥次さん、喜多さんでお馴染の「東海道中膝栗毛」は有名である。天保2年(1831)9月12日没。

 

 

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[我が故郷] 城下町、高田と雁木、

2011-12-06

有数の豪雪地帯である城下町高田(上越市高田地区)には、総延長16キロメートルに及ぶ日本一の雁木(写真)が残されている。雁木は、雪が積もった時に、生活通路を確保するため、私有地の軒先を歩道にしたものだ。そこは私有地である点が今時の歩道のアーケードとは大きく違っている。雁木はお互いに私有地を出し合いながら雪と戦ってきた地域社会の絆のシンボルともいえる空間だ。雁木は新潟県だけではなく、東北から山陰までの日本海側の広い範囲に分布していますが呼び名は地方により異なり、東北地方の盛岡、弘前、黒石などでは「こみせ」、米沢、鶴岡、酒田では「こやま」と呼ばれています。高田城下町で雁木が作られたのは、江戸初期の松平光長の治世と言われており、寛文5年(1665)真冬の大地震では4mを越える積雪の重みが加わり、城下町全体が壊滅的打撃を受けました。当時の高田藩の家老小栗美作が幕府から借りた資金で城下町の復興を行いましたが、この頃に雁木が整備されたといわれています。現在でも中心地の本町通り、仲町通り、大町通り、南本町通り、北本町通り、東本町通り、稲田通り、直江津地区の一部で見られます。雪だけでなく突然の雨や真夏の日差しを避けられる安全な通路でもあり、小学生の通学路としても安心です。雁木は大きく分けて「造り込み式雁木」と「落し式雁木」の2種類あり「造り込み式雁木」は二階建て家屋の一階部分を歩道として開放したもので、江戸時代にはこの形式が主流だったといいますが、明治期以降は、母屋から庇を伸ばした「落し式雁木」が主流になり、現在見られる雁木のほとんどがこれに該当します。豪雪地の都市に多く見られた雁木も明治以降さまざまな事情で消滅してきた中で、今日でも高田の雁木は総延長16キロ、日本最長の規模で生き続けています。


                
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[我が故郷] 錦の陣屋跡と三国街道

2011-11-07

上越市三和区の県道、新井柿崎線の錦の交差点を東に進むと三和中学の手前、右側に錦山と呼ばれるもっこりとした小高い丘がある、広い駐車場の奥が ”月見塚広場” その一角に錦の陣屋跡がある。

陣屋とは武士が移動の途中に立ち寄る休憩所のような場所である、戦国時代、三国街道が高田平野から山道にさしかかるところに陣屋が作られ春日山城と連絡をとっていました、米の貯蔵も兼ね「お館の乱」の時には当初景虎方の食糧庫となっていましたが景勝方が攻め落としその後の戦いを有利に進めたと言われている。

 

上記の”錦の陣屋跡”に隣接して旧三国街道が通っていた、春日山城から最初の山道にかかるのがこの道で(写真)戦国時代の大切な道であった、武将上杉謙信も関東遠征にはこの道を通ったであろう。現、安塚区にある直峰城近くにも旧三国街道が残っている。

 

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[我が故郷] 川浦代官所跡

2011-10-26

三和村川浦字番町(現上越市三和区川浦)、川浦郵便局の斜め向かいを入ったところにある、稲荷神社境内に川浦代官所跡(陣屋跡)がある。江戸時代、幕府は四百万石の幕府領(天領)を代官(旗本)に支配させた。寛保2年(1742)4月に川浦に代官所が設置された。それは延宝9年(1681)越後騒動で高田藩主松平光長が改易となり高田藩が小藩となった為、川浦、新井・吉木(現妙高市)、高野(現板倉区)、百間町(現頚城区)、潟町(現大潟区)、馬正面(現柿崎区)、稲村、戸の目、黒井、(上越市)などに代官所が置かれた、これらの代官所は統合や廃止されたりで常時置かれたものではなかった。川浦代官所は寛保2年に設置されてから明治元年(1868)、廃陣となるまで、途中文政4年((1821)6月から天保2年(1831)10月までの約10年間は、脇野町(三島郡)代官の支配となったが36代にわたり116年間天領を支配した。

 川浦代官所は最初、79ヶ村、六万石を支配した、初代の代官は萩原藤七郎、最後の代官は大草太郎左衛門、特に安永年間(1772~1781)には449ヶ村、八万二千六百二十四石を支配した。代官所は堀と土塁で囲まれていて代官所の西に牢屋があったそうである。代官所には代官が一人と、手付(てっき、事務をとる人)、手代、書記などの属史(役人)が十数人いた。支配地の村々の租税徴収、民政、勧農、警察、裁判などの事務をとった。慶応4年(明治元年、1868年)江戸幕府が崩壊すると、代官所の第二門は三和村野にある善巧寺の山門となった、建物の一部は上越市四辻町の浄雲寺や三和村末野の蓮花寺に移されたと言われている。稲荷神社(写真)は陣屋の鎮守の為に天明8年2月、竹垣三右衛門代官の願いにより建立したもので(祭神・倉稲魂命)ある。

 

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[我が故郷] 大間城跡

2011-10-14

上越市三和区にある大間城跡に行ってきた。県道、新井柿崎線の錦の交差点を東に進み三和中学を過ぎて暫く行くと島倉集落を過ぎて北代集落に入ると田んぼの左手に昔、大間城が有った、こんもりとした山が見える(写真)、集落の途中で北代ブドウ園、浦川原方面に左折して暫く進むと左手に大間城跡の看板が目に入る(写真下)

大間城跡は、標高96メーター程の城山に存在する山城である、現在は雑木林の中に埋もれているが山城の特色をよく残しています、特に上越地方ではあまり見られない本丸跡の「囲郭土塁」(かこみくるわどるい)や壮大な空掘、土塁などは見事です。また、県内に存在する山城跡の中でも、当時の遺構を留めている点では非常に少ない城跡の一つといわれています。築城の時期など詳しい事は解らないが南北朝時代には安塚の直峰城の支城として、戦国時代には上杉氏の春日山城の支城として重要な役割を果たしていました。また春日山から関東へ通じる三国街道に沿って造られた最初の関門の役目も果たしていたと思われる。

山城には全く知識の無いhamさん、案内標識などが無ければ ただの山だな、、、くらいにしか思わないんだが、県内に存在する山城跡の中でも、当時の遺構を留めている点では非常に少ない城跡の一つ、と言われているが、なるほど土塁、虎口、空堀、、、などなどハッキリと解る、特に本丸跡(写真)の囲み土塁は保存がよく当時の原形をほぼとどめていると言われる。本丸跡に物を燃やした跡が有る、、、 なんだ、こんなところで、、、、??  どうやら、夏の謙信公祭の時、狼煙をあげた跡だね、、、、

 

大間城跡の写真のスライドショーは    = こちら =

 

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[我が故郷] 寺町界隈、常顕寺と宝蔵寺

2011-10-04

すっかり秋を感じさせる晴れたある日、カメラを持って寺町界隈を歩いてきた。60数ヶ寺が建ち並ぶ緑の多い静かな寺町に改めて深い興味を覚えた。

日蓮宗 高顔山 常顕寺(じょうけんじ) 
寺町三丁目にある常顕寺は、日弁(鎌倉時代の僧)によって建治元年(1275)に開かれた越後で最初の日蓮宗寺院と言われている、後に越後の触頭(ふれがしら)として中心的な役割を担いました。その後、大瀁村、五智、三王屋敷と寺地を替えましたが、元禄元年(1688)、日遄(にっせん)によって現在地に再興されたと言われている。日蓮の真筆と伝えられる書のほか、江戸時代の当時の天皇が参拝したと伝えられる天拝十八枚大曼荼羅(まんだら)など多くの寺宝を所蔵している。
真言宗智山派 如意山 宝蔵寺(ほうぞうじ) 
寺町二丁目にある宝蔵寺は市内で唯一の真言宗智山派の寺院である。虚空像菩薩を本尊とし、もとは金蔵院といったので昔は「金蔵寺さん」と呼ばれ親しまれていたそうです。創建などについては不詳ですが高田城下の寺町へは、寛保2年(1742)に榊原政永にしたがって、姫路(兵庫県姫路市)から移ったといわれています。明治9年(1876)、宝蔵院と合併して宝蔵寺と改められました。智山派の総本山智積院(ちしゃくいん)は京都東山七条にある。


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[我が故郷] 日蓮宗 法頂山 妙国寺

2011-09-24

上越市寺町3丁目、裏寺町通り、本誓寺裏、(モンマートかわだ北隣り)に「よなひめさん」と親しまれている、日蓮宗法頂山 妙国寺がある。杉並木の参道を行くと本堂、御庫裏があり裏手に広い墓地が続いている。静まり返った参道を歩くと一世紀も二世紀も昔にタイムスリップした雰囲気になった。

安産、子授けの寺として、「よなひめさん」と呼び親しまれている、 興国4年(1343)に日宣により結城(現茨城県結城市)に創建されました。その後、北庄(現福井市)に移り、高田寺町へは寛永元年(1624)第4代高田城主、松平光長に従って移って来たと伝えられています。 (上記、日宣は日蓮正宗の総本山大石寺の第44世法主であり、だとすると年代が合わないが、、良くわかりません、、、ペコン)

境内には子王「安寿と厨子王」で有名な山椒大夫の墓があります、、、(上記写真だと思います)

 

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[我が故郷] 真宗大谷派 笠原山 本誓寺

2011-09-13

「越後高田に過ぎたるものは、犬、寺、道心(仏道に帰依する心)、時の鐘」 と言われた上越市のシンボルである高田城は慶長16年(1614)徳川家康の六男、松平忠輝の居城として築かれたが、築城に伴い城下の整備も合わせて行われ儀明川の西側に寺院を集中させましたがこれが寺町の始まりと言われています。現在見られる寺院の配置は、寛文5年(1665)の高田大地震の復興に伴うものと考えられています。寺町の寺院は南北にのびる2本の通り(寺町通り、裏寺町通り)に沿って並び、今でも63ヵ寺(現在は64と思います)の寺院が残り全国的にも稀な寺院群と言われています。そのほとんどが高田城を向いています、各宗派の寺院が混在しますが、本堂が国の重要文化財に指定されている浄興寺を始めその約6割を浄土真宗が占めている。戦後多くの寺院境内に民家が建ち並びましたが今もなお緑が多く残されているのも寺町の特徴と言えるでしょう、、、、、、。 (写真は本誓寺入口の寺町界隈の寺院案内板)

 

本誓寺は上越市寺町3-6-37 に有る真宗大谷派の寺である。寺町通りに面した門から入ると左右にそれぞれ2ヵ寺あり正面に本堂がある(写真)、境内裏の広い墓地にはたくさんのお墓が建ち並び当地方きっての大寺であった事を偲ばせる。

 

 源義経の子孫である信濃国の井上太郎満政が菩提心をおこして出家し、下総国相馬郡布川(現茨城県利根町布川と思います)で天台宗、真宗寺を開き法名を教念(きょうねん)と改めた。親鸞聖人が常陸国稲田で専修念仏を説いている事を聞き稲田郷を訪ね御門弟となり後に真宗となった。後に信濃国高井郡笠原村に移った事から笠原御坊と呼ばれた。この時に本願寺の蓮如上人が滞在し蓮如の勧めで寺号を本誓寺と改めたと言われている、当時は高井郡にあった高梨氏を背景に寺勢を拡大した。第10世超賢の時、当時の上杉謙信と対立していた一向宗徒をまとめ、謙信の上洛を助けた事から越後国の創録として迎えられ佐内の地に寺領が与えられ越後国内の布教が許された。超賢は川中島合戦に従事したほか、石山合戦でも目覚ましい活躍をしたと言われています、これらを物語る古文書が多く残されています(市文化財)。堀 秀治の時代に高田に移り、東本町4丁目に本誓寺町の旧名を残すのはこれによるものである、更に高田城の築城に伴い現在の寺町3丁目に移った。寛文5年(1665)の大地震で倒壊したが復興した、延享3年(1746)の明細帳に寺中8ヶ寺、末寺119ヶ寺と記されおり当地方きっての大寺であった事を物語っている。後に本願寺の連枝(れんし)が寺に入り文久2年(1865)に笠原別院とも称したが明治18年(1882)に再び本誓寺となった。 (写真は本誓寺本堂)  本堂は、大正4年(1915年)の寺町大火後再建されたもので、屋根が入妻なのが特徴です。

石山合戦

石山合戦(いしやまがっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦ったことから石山合戦と言われる。石山戦争ともいう。

境内に高田藩士を養成した儒学者,倉石典太(くらいてんた)の経堂(写真) 、墓がある。

 

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[我が故郷] 高田事件記念碑

2011-08-28

上越市高田の金谷山公園の登り、医王寺の先、対米館の向かい側の木立の中にひっそりと建つ記念碑がある、知る人も少ないであろう今から120年余り前の高田事件の記念碑である。

高田事件

明治16年(1883)3月20日未明、高田警察署は頚城自由党員を中心に、大臣暗殺と内乱陰謀の容疑で37名の自由民権活動家を逮捕、拘置した。いわゆる高田事件の発生である。前年には福島・喜多方事件が、翌年には加波山事件が起きており、高田事件がおきた1883年は全国的に自由民権運動が大きく転回しようとする時期でもありました。
高田事件はかねてからの急進的な活動を行っていた頚城自由党を弾圧するために裁判所と警察が捏造した事件であった。事件は赤井景韶(あかいかげあき)の内乱予備罪、八木原繁祉(やぎはらしげとみ)の不敬罪、頚城自由党の集会条例違犯の3件であったが立件出来たのは内乱予備罪と不敬罪のみであった。重禁獄9年の刑を受けた赤井はその後脱獄して殺人を犯し明治18年(1885)7月、東京の市ヶ谷監獄署で死刑になった。

 

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[我が故郷] 至徳寺跡(しとくじ)

2011-08-16

上越市の直江津駅南口前に曹洞宗の徳泉寺があるが境内入口に、史跡 至徳寺跡 の碑がある(写真) 。このへん一帯の旧町名(字名)は至徳寺(しとくじ)と呼ばれていた(現東雲町)。




至徳寺
臨済宗聖寿山至徳寺は、越後守護代上杉憲将(のりまさ)の子、久庵僧可(きゅうあんそうか)が父の菩提を弔うために至徳年間(1384~1387)にこの地(越後府中)に建立し、越後守護家の菩提寺として厚い保護を受け繁栄した。塔頭(たっちゅう)として長松院、最勝院も出来越後府中の名所的存在であったと言われている。
長享2年(1488)に京都相国寺(そうこくじ)の僧、万里集九(まんりしゅうく)が越後府中を訪れた際、越後三名刹の一つとして書き残している。又明応8年(1499)将軍足利義澄が天下の十刹の一つに列していると述べた。文明18年(1486)京都常光院の僧暁恵が長野の善光寺へ参詣の帰りに府中を訪れ塔頭最勝院に宿泊し、京都、聖護院道興が府中を訪れ塔頭長松院を宿にした。
永禄3年(1560)近衛関白前嗣(このえかんぱくさきつぐ)、西洞院時秀、常光院暁恵、聖護院道興らお従えて越後府中に下向、至徳寺を約2年間宿にあて上杉謙信、直江実綱らの歓待を受けた。隆盛をほこった至徳寺も天正6年(1578)3月13日上杉謙信の死後相続争いとなり、翌天正7年3月、御館の乱 の折、至徳寺も焼失、再建されないまま(上杉景勝によって復興されたと言う説もある)慶長3年(1598)上杉景勝、会津転封となり、この時直江兼続と共に山形県の米沢に移り聖寿山鳳台寺(ほうだいじ)として今日に至っている。

「至徳寺」と言う字名などから至徳年間に上杉憲将の菩提を弔う為に開かれた至徳寺跡とされてきたが昭和50年代に入ってからの発掘調査で一辺が220m幅7mの堀をめぐらした館の跡である事がわかり、その規模や出土品などから越後守護所と見るのが有力となっている、至徳寺は守護所と寄り添うようにして、ゲストハウスとして利用されていたようである。

塔頭(たっちゅう) 
禅寺で祖師や名刹の高僧の死後、弟子が師の徳を慕って墓の近くや敷地内に建てた小院のこと、、、

越後の三名刹
至徳寺、
安国寺、  
雲門寺、

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[我が故郷] 人柱供養堂

2011-07-19

上越市板倉区猿供養寺にある人柱供養堂に行って来た、隣には地すべり資料館がある。

人柱供養堂がある場所は平安の初期、天台宗正浄寺(今より150年前、栃木県佐久山町に移住)のあった場所である。寺野村(旧板倉町に合併)は古代から地すべりの多い土地で昔からいろいろな伝説があった。中でも、この村へ旅僧が来て村人の話を聞き、人柱となって地すべりを止めたという話が広く伝わり、村人たちは毎年7月に旅僧の供養を行ってきた。

昭和12年に村人が正浄寺跡で客土を採掘中に大甕(おおかめ)を堀り出し、中から座禅姿の人骨を発見したところから、伝説が事実であったことが証明され、全国的にも珍しい発見となった。
昭和36年に新潟大学医学部の調査により、関西系の40~50才位の若い男の人骨と判明し、村人たちはこの遊行僧に感謝して人柱供養堂を建立したものである。

地すべりの人柱

 寺野地区に於ける地すべりの沿革は、800年前、(鎌倉時代)現在の猿供養寺部落には次のような伝説が村人達の間に語り伝えられていた。当時この附近は山寺三干坊と呼ばれ沢山の寺が建立され栄えた所でありますが、当時この地に続く地すべりの惨害は、山林は勿論の事、仏閣や宅地が次々に崩れ流れ血と汗とで開拓した耕地も使えなくなり、苦労の末建てた家は傾き壊れ、泣いても泣ききれぬ悲惨事がくり返されて、精も魂も尽き果てた村人達は、土地に無限の愛着をもちながらも、離散せねばならぬような苦難な立場に追込まれている折でありました。

ある日1人の盲目の旅僧が信州から黒倉山の峠越した猿供養寺村に入ろうと黒倉峠にさしかかった際、にわかに雲り、雷雨となったのでしばらく風雨を凌ぐため林の中に休んでいると、あたりが急に騒がしくなったので、何事かと覗くと、宇婆ヶ池(黒倉山頂にあり宇婆神社がある)のほとりに大蛇どもが集り「丈六山に“大ノケ”を起して我々の住む「大溜」を造ろう、但し人間達がこれを知って、栗の枕木を造ってこれを使い、姫鶴川に“四十八タタキ”をし、生きた人を人柱とされたのでは“大ノケ”も出来なくなる、まさか人間どもは知るまい」との話しをしているの聞き、びっくりした旅僧が逃げようとしたところ、運悪く大蛇たちに発見されてしまい、我々の話を聞いたからには無事にこの峠を越えて村へ下る事はならぬと言われ、既に一命も危かった。この時旅僧は私は盲目でしかも聾であるので何も聞こえなかった、ましてや仏につかえる身であれば必ず他言せぬという堅い誓約の上で、ようやく難をまぬがれて、急ぎ猿供養寺村に辿り着きました。

ところが聞きしにまさる惨状に又、村のあわれな姿を見、且つ村人達から衣の袖にすがっての、将来の安泰であるよう教えを乞う嘆願を聞いては、もとより衆生再度が仏に仕える僧侶の念願と、黒倉峠での大蛇との誓言も破棄して事情の顛末を考え、大蛇から聞いた「栗の杭木で四十八タタキと人柱の」秘話を村人に話しました。村人はこれを聞き早速村総出でタタキを始め、仕事は順調に進んで行きますが、人柱の人選に付いては、どんなに考え相談しても人選出来ません。これを聞いた旅僧は「私は大蛇との約束を破ったからには一命は亡きものと覚悟をせり、且つこの無限地獄そのままの災害をみては僧侶の身として何んで黙過出来ようや、衆生の苦難は我身の苦難である、我「人柱となりてこの地すべりを防ぎ、この村を守らんとの決意を語り、我亡き後は7月17日を我が命日として香花なりと手向けてくれよ」と言って、みずから進んで“人柱”となられたと言う、古老達からの語り伝えがあり、毎年7月17日には部落の青年の手で祭りをやってきました。

昭和12年3月10日の事、部落の人々が客土をすべく伝説の大地正浄寺裏を掘り返したところ、地下1尺位のところから実際に尊い人柱の道骸が大きな “ザル猿”と共に発掘されました。発掘当時は坐禅を組んだ姿そのままで“ザル瓶”が上からスッポリかぶさって居りまして、頭蓋骨は勿論歯並びまで崩れずしっかりしていたと言う。

客土       客土(きゃくど)とは、ある土地になんらかの目的で他の場所から

          土を搬入すること。

四十八タタキ  杭打ち谷止めの事を言ったものと考えられる。 

 

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[我が故郷] 栗沢信連房修行の地 「聖の窟」

2011-07-09

上越市板倉区の山寺薬師の背後にそびえる丈六山の北斜面の中腹にある自然の窟を利用して作られた「聖の窟」(ひじりのいわや)は天平年間(729-749)裸形上人が山岳仏教のためにこの地に来て窟で修行したのが始まりと言われ、修験道の修行道場と言われている。浄土真宗の開祖、親鸞聖人、妻の恵信尼の三男、栗沢信連房の修行の地でもある、多くの修行者、修験者が不断念仏を行じた歴年の面影を今に残している(写真) 。窟の入口は多少崩れているが、中は畳数枚分の広さがあり、十人程度は座れたと思われる。又京都から越後に下りられた恵信尼公はひと時、信連房とこの辺りに住まわれたと言われている。

「聖の窟」の少し下に親鸞聖人と妻、恵信尼の顕彰碑(写真)が建てられ東屋等があり休憩所となっている、しかし訪れる人もいないのだろうか、荒れ果てていたのが気に成る、もっと多くの人に知ってもらい訪れてもらいたいものだ、、、、、。

   

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[我が故郷] 曹洞宗蜘池山 瑞天寺

2011-07-04

真夏を思わせる暑いある日、上越市大潟区蜘ヶ池にある、曹洞宗のお寺蜘池山瑞天寺へ行ってきた。当時このへん一帯の大潟耕地は大きな沼で一帯に葦が生い茂り、民家も無く小堂が裏山に建てられているだけであったと言われている、ちょうど島のように見えた事から「島の観音」と呼ばれていた。

この観音を信仰した佐橋庄(柏崎市南条)の地頭毛利経光が、真言宗観音山瑞天寺を創建した。経光は鎌倉幕府の公文所別当大江広元の孫にあたり佐橋庄の地頭に補任された、経光の子孫が後に北条城主(柏崎市)となった。戦国時代に瑞天寺も戦乱に巻き込まれ焼失したと伝えられているが、寛永10年(1633)高田城主松平光長が高田城の鬼門除けのために再興して曹洞宗に改め寺号を蜘池山瑞天寺とし寺領十二石九斗五升を寄進した。

寛永14年(1637)高田城主松平光長の家老小栗正高が上州浪人、神戸三郎佐衛門、茂田七右衛門、高田の町人、宮嶋作右衛門に大ぶけ新田(頚城村)の開発を命じ正保元年(1644)までの6年間に百間町など40の新しい村々が誕生した、引き続き高田藩は中谷内新田の開発を計画し、小栗正高、正矩(まさのり)父子は上州浪人の平石彦左衛門に開発を命じ、平石は正保3年、上原八郎右衛門とともに神戸、茂田らの協力を得て開発にとりかかり明暦元年(1655)中谷内新田が開発され36の新しい村々が誕生した。開発にあたっては毒蛇に悩まされ工事は、はかどらなかったと言われている、そこで「島の観音」に毒蛇退治を祈願し、そのかいが有り難工事を成功させたと言われている。

 

文化11年(1814)第17世廓淫和尚により本堂(写真上)が改築され、幾度か修復されてきた、本堂脇の観音堂(写真)に千手観音が安置されている、神亀3年(726)聖武天皇の命により諸国を巡教されていた行基菩薩が一刀三礼、自ら彫刻されたと伝えられている座像1,75メートルの木彫で文化財に指定されている。又吉川区西野島で行基菩薩が彫刻されたと伝えられる、聖観音像もしばしば安置場所が変わり文化11年(1814)現在の本堂が再建されここに安置されている(文化財に指定)。大同3年(808)弘法大師が巡教された時に千手観音を礼拝され、感銘のあまり、不動明王像、毘沙門天像の二体を彫刻されて、脇立てにされたと伝えられている(文化財)。

 

境内の路肩に大きなイチョウの木が生育している(写真)、樹齢は400年と推定され文化財に指定されている、樹高は23,6メーター、目通り幹囲は3,8メータ、根周り5,4メーター、枝張りは東西に25,3メーター、南北に25,8メーター、で毎年たくさんの銀杏をつけている。

 

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[我が故郷] 越後の三大刹,曹洞宗瑞鳳山雲門寺

2011-06-22

上越市吉川区赤沢にある、越後の三大刹(えちごさんだいせつ)の一つである、曹洞宗瑞鳳山雲門寺に行ってきた。県道524号から(写真)わき道の山裾を這うように進むと山門に辿りつく。長享2年(1488)10月、越後守護上杉房定を訪問した京都五山の学僧、万里集九(ばんりしゅうく)は旅の途中、雲門寺に立ち寄り、「雲門精舎に寓す」と題する詩を詠み、<梅花無尽蔵>と言う書物に「越の越州(越後)に至徳、雲門、安国の三大刹有り」と書き残している。この丘陵にひっそりと佇んでいる雲門寺は越後を代表する禅宗の名刹の一つであった。

 

雲門寺の開山は越後の曹洞宗の中心、村上市の耕雲寺の四世だった清和天皇の末裔、岡山県出身の瑚海仲珊(こかいちゅうさく)禅師で文正元年(1466)のことである、瑚海仲珊和尚は応永9年(1402)岡山県で生まれ、後に種月寺(西蒲原郡岩室村石瀬)で剃髪し耕雲寺(村上市)で修業した。その後に中国に渡り雲門寺の住職となり、帰国後、耕雲寺に入った、後、東福院(刈羽郡刈羽村赤田)を建立して師を住職とし、自らは現、吉川区赤沢に雲門寺を建立し住職となった。

寺には室町時代の貴重な七条袈裟二点、袈裟袋一点が所蔵されている、蓮糸織の法衣で古式の物であり、法衣を入れる袋の刺繍から桃山時代の物と思われ、瑚海仲珊和尚の袈裟と言い伝えられ市の文化財に指定されている。

ここに名刹が開かれたのは、この地がかって「西大寺領佐味荘」(さいだいじりょうさみのしょう)と言う荘園の中心だった事と関係が深いと言われている。

越後の三大刹とは、雲門寺、安国寺、至徳寺を言う。

雲門寺の写真説明は = こちら 

雲門寺の写真スライドショウは = こちら =

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[我が故郷] 終南山悟真院善導寺

2011-06-06

「高田にある大きなものは善導寺の仁王さん」と唄われた、上越市寺町2丁目5番5号に有る終南山悟真院善導寺は浄土宗の総本山知恩院の末寺で文明5年(1473)蓮開の創建で当初は直江津の西浜に有り光明寺と呼ばれていたが蓮開が夢のお告げにより、善導浜(直江津)の捨て小舟の中から善導大師像を発見し、善導大師の像を安置して善導寺と改称したと伝えられる。

慶長19年(1614)松平忠輝が高田城に入城した時に現在地に移った、五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院が本尊善導大師を信仰し供養料三百両と五十石を寄進したと言う。本尊の善導大師立像は鎌倉時代中期の作と推定され、像高150センチの檜材の木造で市の文化財に指定されている。

墓地には高田地震後の被災者の救援と城下町の復興、中江用水の開削など上越地方の発展の基礎を築いた、小栗美作の墓、、、戊辰戦争に参加し、地元の発展に寄与した室 孝次郎の墓がある。

善導寺の山門(仁王門)を入ると左側(写真の左側、看板のところ)に竜神井戸がある、坊が池(清里区)の竜神が8月15日に善導寺を参詣したと言う伝えがある。

 

                            

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[我が故郷] 浄土宗天崇寺(てんそうじ)

2011-05-23

上越市寺町2丁目にある浄土宗天崇寺、初めは長恩寺と言い、天正年間(1573-1578)に上杉謙信が春日山城下に創建した。慶長19年(1614)福島城主松平忠輝の高田城入城に従って高田城下に移った。寛永元年(1624)松平光長が高田城主に成ると越前宰相松平秀康(徳川家康の二男)の位牌所に、宝永7年(1710)には高田城主となった松平定重の菩提所となった。明治21年(1888)上杉謙信創建の極楽寺(寺町3丁目)の本堂を移築して極楽山天崇寺と改称した。

墓地には高田姫、高松宮好仁親王妃、小栗美作守の妻お勘(かん)の墓などがある。

高田姫は二代将軍徳川秀忠の三女勝子(勝姫)で、越前宰相松平忠直に嫁ぎ、光長、亀姫を生んだ、寛永11年高田城に入り、町民に地子銭(宅地税)を免除した為高田姫と呼ばれた、寛文12年(1672)没。

高松宮好仁親王妃は高田姫の子、亀姫である、寛永7年後陽成天皇第七皇子、高松宮好仁親王に嫁いだ、親王の死後、高田城三の丸新殿に住み、延宝9年(1681)没した。

小栗美作守の妻お勘は、松平忠直の子で、光長の異母妹である。

山門(写真上)は延宝2年の建立の高麗門で高田城の蹴出(けだし)門と同型で市の文化財に指定されている。

 

 境内入口にある天明地蔵(写真)は天明の大飢饉の時、

その死者の冥福を祈って天明4年(1784)に建立されたものである

 

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[我が故郷] 親鸞聖人の足跡を辿る旅、、

2011-05-14

愚禿親鸞(ぐとく)、、、、。越後国府に流された親鸞は、自らをそう名乗った。

謎の多い中世の越後で何を見、何を思ったか。

親鸞の教えのルーツにつながる七年間を、八百年の時を超えてその足跡を辿る。

今年は親鸞聖人の750回忌御遠忌の年でもあります、おりしも作家、五木寛之の 親鸞 激動編 が新聞に掲載されています、この機会に是非、浄土真宗の開祖 親鸞聖人の激動の七年間の足跡を辿る旅に出かけては如何でしょうか、、、、、、。

  • 親鸞聖人、上陸の地                          = こちら =
  • 越後一宮 居多神社                          = こちら =
  •  国分寺                                  = こちら =
  • 本願寺派、 国府別院                         = こちら =
  • 親鸞聖人の妻、恵信尼公                       = こちら =
  •  
  • 親鸞聖人と日の丸の御名号                      = こちら =
  • 養爺清水と鏡が池                            = こちら =
  • 柳清水と恵信尼公納骨塔                        = こちら =
  • 川越の御名号と御枕石、 浄善寺                   = こちら =
  • 浄福寺                                   = こちら =
  •   
  •  浄土真宗興行寺(浄興寺)                       = こちら =
  • 真宗大谷派、 光源寺                          = こちら =
  • 仏光寺派 性宗寺(しょうしゅうじ)                   = こちら =
  • 親鸞聖人の孫、唯善上人の開基、常敬寺(じょうきょうじ)     = こちら =
  • 小黒女房の伝説が伝わる 専敬寺(せんきょうじ)          = こちら =
  •  
  •  山寺薬師と延命清水                           = こちら =
  • 真宗大谷派(東本願寺)高田別院                    = こちら =
  • 尾神岳、報尽碑                               = こちら =
  •  

 親鸞聖人と越後の七不思議

  • 片葉の葦                                   = こちら =
  • 鳥屋野の逆さ竹                               = こちら =
  • 田上の繋ぎかや                               = こちら =
  • 山田の焼鮒                                 = こちら =
  • 保田の三度栗                                = こちら =
  • 小島の数珠掛け桜                             = こちら =
  • 小島の八房の梅                              = こちら =

 

                        

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[我が故郷] 曹洞宗保寧山,顕聖寺

2011-04-24

曹洞宗保寧山、顕聖寺へ入る石段の脇に 不許葷酒入山門 と書かれた禁牌石(きんばいせき)が建っている。(お酒を飲んだり生臭い匂いをさせている人は山門から中に入ってはいけません)という意味であろう、、、、

 

上越市浦川原区顕聖寺(けんしょうじ)地内にある、曹洞宗のお寺、保寧山顕聖寺へ行ってきた、顕聖寺集落は、かっては顕聖寺の寺領であった。長い石段を登ると杉の生い茂る広い境内には、本堂(写真)、庫裏、鐘楼、経堂、などが建ち並び、ところどころ未だ雪が残っていた。

顕聖寺は応仁元年(1467)の創建で、開山は快庵妙慶、開基は坊金城(安塚町)主、石田大膳小弼である石田大膳は鎌倉将軍第六代宗尊親王の後裔と伝えられている。当寺は最初は現在地の東方の小字牧山に有ったが二世、黙室周言が文亀3年(1503)、竜神の住む池の水が枯れて竜神が退散した為、その跡に寺を移したと言う、現在の場所である。境内の東隅に黙室周言手植えの杉と伝えられている大杉がうっそうと茂り、二代杉と呼ばれている。黙室周言は直峰城(安塚)主、吉田周坊入道英忠の菩提寺、賞泉寺の開山となった。

 

  

顕聖寺の第31代住職、武田範之は文久3年(1863)11月23日久留米藩、士沢四兵衛の三男として誕生、明治17年顕聖寺第29世住職、玄道和尚の教えを受けて得度し、雲水として厳しい修行に励んだ。明治25年韓国に渡り日本との関係を深めようと努めた。明治33年顕聖寺住職となると、寺内に黄葉学院(写真上)という図書館を開設した。寺に範之の書いた屏風、書籍、遺品などが所蔵されている、明治44年6月23日49歳の波瀾にみちた生涯をとじた。

 

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[我が故郷] 瑞泉寺と時の鐘

2011-04-15

 

上越市南本町3丁目9番13号に 時の鐘 として有名な瑞泉寺(写真)が有る、「いずみ幼稚園」のあるところと言った方が解るかもしれない。 信濃国高井郡の井上越後守善勝の嫡男、義親が親鸞聖人の弟子となって善性と称し、承久3年(1221)下総国磯部村(現茨城県猿島郡総和町磯部)に勝願寺を建立した。そして後、十二世慶順の時信濃国水内郡南条町(現飯山市)に移った。松平忠輝は福島城(上越市港町)から高田城に移った翌年の慶長20年(1615)、真宗本願寺派の録所接頭として、信濃より勝願寺を出雲町(現南本町1丁目)に招いた。そして寛永元年(1624)松平光長が高田城に入ると横春日町(現南本町3丁目)の現在地に移った。寛文元年(1661)後小松天皇勅願所で越中井波町の井波園瑞泉寺の寺号を承継し今日に至っている。

瑞泉寺には高田城下に時刻を知らせた釣鐘が所蔵されている。高さ132,1センチ、口径92,2センチで上越市の文化財に指定されている。梵鐘として現在している時の鐘は、銘文から寛文9(1669)年、光長の母、高田姫勝子(かつこ)が鍋屋町(東本町5)の大鐘屋、土肥佐兵衛藤原宅次(どいさへえふじわらたくつぐ)に鋳造させたものである。この時の鐘は、呉服町(大町2)の町年寄、吉田七兵衛の屋敷に設けられました。代々の七兵衛が、尺時計(日時計)などで時刻を計って、一時(いっとき・2時間)ごとに昼夜12回打ち鳴らしたようです。この鐘の美しい音は遠く直江津まで響いたと言われている。明治9年(1876)の大火以後、時報の役を終え、瑞泉寺の釣鐘になるまで「越後高田にすぎたるものは、犬、寺、道心(一般に、仏道に帰依した人)、時の鐘」と歌われ町民に親しまれた。 天保6年(1835)12月、伏見宮貞敬親王の第十王女、政子姫が、瑞泉寺二十五世広了に降嫁した、歌人であったが夫広了に早く死に別れ78歳で死去した、本堂の裏に立派なお墓がある。

 

                             

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[我が故郷] 越後一宮、居多神社(こたじんじゃ)

2011-04-01

越後一宮、 居多神社は上越市五智6丁目1番11号に鎮座し、媼嶽(おうなだけ)明神・居多明神とも言う、祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)、奴奈川姫(ぬながわひめのこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと=諏訪神)、事代主命(ことしろぬしのみこと)である。境内には大国主命、奴奈川姫、建御名方命、の三神像、親鸞聖人石像、越後七不思議の一つ、「片葉の葦」、子宝と安産のご利益で有名な雁田神社などがある。 (写真は神社入り口)

 

居多神社は弘仁4年(813)に朝廷から従五位下を、貞観3年(861)には従四位下を賜った。醍醐天皇の命によって編さんされた「延喜式」に記載されている延喜式内社であり、越後国府(現直江津)に鎮座した事から国司の保護を受け、又当地は上杉謙信の居城の春日山があった為、越後守護・上杉家の厚い保護を受けまた、徳川家康以下歴代将軍・徳川家や高田藩主・松平氏・稲葉氏・榊原氏等の崇敬が篤かったといわれている。
当初は日本海に面した山腹にあったが、慶応2年(1866)海岸浸食のため、山崩れにあい、明治12年(1879)現在地に遷座。老朽化により平成20年6月新しい神殿が完成した。 (写真は神社本殿)

 

越後の歴史は「古事記」に登場する大国主命と奴奈川姫とのラブロマンによって微笑ましく幕を開けた。
出雲の国(現島根県)の大国主命は高志国(越後の国)に奴奈川姫と言う絶世の美人と噂に聞き、妻にしたく、いてもたってもおれず、長旅の末、やっとの思いで奴奈川姫の元へやってきた、旅装のまま太刀の緒を解く間も惜しんで求愛すると、姫もこれに答えて二人はめでたく結ばれた。この事からしてもご当地は諏訪神社発祥の地と言っても過言ではないと思うが、、、、このラブロマンは遠い昔に日本海を通じ出雲と高志(越後)との間に交渉があった事をものがたっている。大国主命はこの地で農業、漁業等の技術を教えられた、この事は出雲文化の伝搬であり、越後文化の幕開けであったと言えるでしょう。 (写真は三神像)

 

親鸞聖人は承元元年(1207)念仏を唱えれば救われる、と言う専修念仏の教えが弾圧され、越後国府に配流となり居多が浜にご上陸された親鸞聖人は居多神社に最初に参拝し、


すゑ遠く法を守ら居多の神

   弥陀と衆生のあらん限りは


と詠み、神前に供えて早く赦免となり越後に広く念仏が広まる事を祈願したところ、一夜にして居多神社境内の葦が片葉になったと言う、親鸞聖人越後の七不思議の一つ「片葉の葦」の由来である。
又一句を添えて祈願されると、たちまち海面が夕日に輝き「南無阿弥陀仏」の6文字が浮かび上がったと言う、親鸞聖人、自筆の「日の丸の御名号」も居多神社に所蔵されている。 (写真は親鸞聖人石像)

 

居多神社は越後守護上杉家、上杉謙信ゆかりの神社である、足利尊氏は暦応元年(1338)征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと、義兄弟の上杉憲顕を越後守護に任命した、越後府中(現直江津、五智地区)に入った上杉憲顕は観応2年(1351)8月13日居多神社に荒蒔保(清里区荒牧)を社領として寄進した、居多神社は以前にも室町幕府から田井保(板倉区田井)三分の二を賜っていた。この様に居多神社の社領は頚城郡だけでなく、刈羽、古志、魚沼、蒲原五郡にまたがっていた、上越市の土橋、横曽根、青野、旧新井市の高梨、中河(中川)板倉区の利苅(戸狩)、清里区の厩村(馬屋)、田嶋(上田島)、三和区の河浦(川浦)、鴨江(鴨井)などもそうである。
天文2年(1533)上杉謙信の父、長尾為景に敵対する武将たちが居多神社を焼いた、そこで長尾為景は同年の10月24日国内を平定したら社殿を造ると居多神社に戦勝を祈願した。天文17年(1548)長尾景虎(上杉謙信)は兄晴景に替って春日山城主となった、すると北条城主(柏崎)北条高広が武田信玄に内通し、謙信に背いた。天文24年、謙信は北条城攻略を安田城城主(柏崎)安田景元らに命じ、同年2月3日安田景元との連携を居多大明神に誓い自ら出陣して北条城を攻略した。起請文には謙信の奉行、本庄実乃、直江実綱、大熊朝秀が連署している。

居多神社の第29代神主、花ヶ前盛貞(はながさき)の子、智光院頼慶は上杉謙信の使者(外交官)として京都に何度も赴き朝廷や幕府との上洛の折衝などにあたっている、智光院頼慶は後の花ヶ前家盛、第30代の神主である。一乗院覚慶(のちの室町15代将軍足利義昭)が永禄8年(1565)8月5日、花ヶ前盛貞にあてた書状に、頼慶を謙信の使者として京都へ派遣してほしいと書かれている。
永禄12年11月5日、謙信の家臣で魚津城主(富山県魚津市)河田長親は花ヶ前盛貞に宮津八幡宮(魚津市宮津)の社務を兼務させ謙信の前線基地である宮津八幡宮の神主も兼ねたのである。
天正6年(1578)上杉謙信が49歳で死去すると養子の景勝と景虎が家督相続をめぐって争った、いわゆる「御館の乱」である。その際、居多神社は上杉景虎に味方をした為、上杉景勝軍の攻撃を受け神主の花ヶ前盛貞とその子、家盛は宝物を携えて能登の国(石川県)へ逃亡した。ここで5年間身を潜め天正11年越中国、魚津八幡宮(宮津八幡宮のこと)に移った、そして翌12年盛貞が没した、家盛は慶長3年(1598)上杉景勝が会津に移封となり堀 秀治が春日山城主となると晴れて越後に帰る事が出来た。しかし社領は景勝に没収されてなにも無かった、翌慶長4年2月21日居多神社は堀 秀治から社領13石を賜った、第31代、花ヶ前盛知の時である。
 
居多神社の写真及び各説明は = こちら =
 

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[我が故郷] 直江津、春日新田、馬市跡

2011-03-07

 

上越市春日新田1丁目2番、覚信寺の入口の(有田郵便局向かい)秋葉神社に馬頭観世音の石碑と、高浪忠太夫の墓碑、又神社入り口に「史跡、春日新田の馬市跡」の石碑が建っている(写真)

春日新田の馬市は宝暦14年(1764)この地の又左衛門が秋田から馬を買ってきて、馬市を開いたのが始まりと言われている。当時、春日新田は天領で秋田城主、佐竹家の預かり地であった。秋田は名馬の産地であった為、秋田藩も積極的に又左衛門の馬売買を保護した。この人が初代の高浪忠太夫である。

毎年6月25日から7月5日まで馬市が開かれた、馬市の時は、佐竹家の定紋の入った幔幕(まんまく)と定紋入りの高張り(たかば)ちょうちんが掲げられた。盛時には1,200頭以上の馬が売買されて賑わった。

二代目高浪忠太夫も馬市の発展に努力した、その為、忠太夫が天保12年(1841)に死去すると博労(ばくろう)達が忠太夫の徳を称え墓を建てた、これが高浪忠太夫の墓である(写真)。明治に入って8月1日から五日間になった、そして昭和に入ると交通機関の発達によって運送用の馬の需要が減り昭和18年を最後に開かれなくなった。   = 花ヶ前盛明著、上越の史跡、案内板より一部抜粋 =

 

                           

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[我が故郷] 直江津、佐内町、 道標、、

2011-02-28

 

上越市佐内町地内、バス停「佐内」すぐ近くの丁字路に道標(写真)がある、一般の民家の敷地内の為、注意して見ないと見落としてしまう、、、、

 

 

この道標は江戸時代、街道を往来する旅人の便宜を図る為に建てられたもので、

「右  さいみち」      「左  おう志う道」   と書かれている。

北陸方面からの旅人は一旦、高田の町に入り稲田橋を渡り下門前、春日新田の宿場を通り奥州路へ向かうが、ここ佐内町の丁字路が「さいみち」 「奥州道」のわかれ道であった。ここで言う「さいみち」と言うのは薄学なhamさんには解らない、、案内板も昭和59年に建てられたもので肝心な部分は消えていて解らず、管理している市役所の担当課に問い合わせたが30分位して全く的を外れた回答が返ってきた、、恐らくここから浦川原、大島区、方面に続いていたのであろうと想像するところである。 「おう志う道」はここから現在の黒井駅、黒井宿場跡、を通り出雲崎方面へ続いていた、江戸へ金、銀、を運んだ重要な脇往還であった、(五街道の奥州街道とは違う)。

 

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[我が故郷] 直江津、春日新田宿場跡、

2011-02-22

 

上越市春日新田(旧直江津)、春日新田の踏切を渡ったあたりは江戸時代、宿場があったところである。慶長19年(1614)松平忠輝による高田城の築城により、それまで直江津にあった福島城が廃城となり、高田の町が繁栄するように多くの施設が高田へ移りました。又関川に掛かっていた橋も壊され奥州方面から今町(現直江津)に行く旅人、北陸方面から直江津を通り北に向かう旅人も全て高田を通るように街道が設けられ、それ以後、高田を起点とした街道が設けられた。

長野方面からの北国街道は現、南本町から本町へ入り本町7丁目の変形十字路(道標あり)から現北本町を通り加賀街道、北陸街道へ続く道、、、十字路から東本町を通り稲田橋を渡り稲田、富岡、藤野新田、下門前、春日新田へと通じていました。さらに佐内町、黒井、に通じる北国街道の重要な拠点である春日新田には宿場がありました。宿場は幕府の指定した場所に限られ、勝手に旅人や荷物の運搬、茶屋や旅館営業も禁止されていた。春日新田には本陣(間口八間)をはじめ、旅籠が6軒、角の茶屋、中の茶屋、蔵番などの名前が残っている、又道路には馬に水を飲ませる井戸もいくつか有り、馬つなぎ場も造られていた。 (写真は春日新田、踏切付近)

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[我が故郷] 直江津、黒井宿

2011-02-15

国道8号線、黒井の信号を北西(海の方)に進むと信越線の陸橋を渡りセブンイレブンを過ぎると旧8号線(通称、はま線)の信号があるが、この辺一帯の黒井地内には昔は宿場があり大変栄賑わったところであるが、今の黒井地内からは想像できるであろうか。黒井郵便局から荒浜に至るあたりまで、 (写真は同地にある本敬寺入口)

   
黒井宿の始まりは、約400年前の天正年間の頃と伝えられており、越後府中(現、直江津)と奥州(東北地方)とをつなぐ奥州道(ここで言う奥州道は、宇都宮と白河間の奥州街道とは違う、高田の城下より春日新田、黒井を通り出雲崎までの街道を言う)の一番目の宿場として栄えた。松平忠輝により高田に城が築かれた江戸時代には直江津の橋が壊され街道も高田城下を通るように変えられたが、それでも黒井は稲田橋を通り春日新田の次の宿場として多くの人に利用されていた。当時の宿場には大名や重臣の泊まる本陣や脇本陣、旅人が泊まる旅籠(はたご)、木賃宿などがあり、これらは街並みのなかでも幕府の決めた一定の場所に造られ、街道の道幅よりも広く道が造られていた、又道には井戸などが有り主に馬に水を飲ませる為に使われていた、しかし明治以降になると交通機関が発達し、次第に黒井宿もその使命を果たす事がうすれてきた。他の町より広い道幅が黒井宿の有ったただ一つの名残である。 (写真で途中まで道路が広いのがわかる)


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[我が故郷] 親鸞聖人と浄福寺

2011-01-22

柿崎町(現上越市柿崎区)にある浄福寺、正式には浄土真宗本願寺派扇谷山浄福寺、夏の猛暑の中訪ねてきた、純日本風の本堂が周りの緑と調和して美しい姿を醸しだしていた(写真)。同じ柿崎町にある浄土真宗本願寺派、浄善寺と同じく浄土真宗の開祖、親鸞聖人ゆかりのお寺である。当地の扇屋某が親鸞聖人の門弟、善順となり開基したと伝えられているが、当柿崎町の浄善寺、枕石の言い伝えに出てくる一夜の宿とした家のご主人の事ではないかと、自称 素人歴史家のhamさん の推測するところである。寺宝として本尊阿弥陀如来像、親鸞聖人授与の「川越の御名号」を所蔵する
 
柿崎町(現上越市柿崎区)の代表的なイベントに「お引き上げ」と言うのがあるがそのメイン会場である、「お引き上げ」というのは「報恩講お引き上げ」というのが正式で、親鸞聖人をお祀りする催し物であるが、本来12月開催の報恩講を降雪期のため、6月20日~22日に引き上げて開くからと言われており、毎年、露天商が集まり、大変な賑わいを見せている。又当寺院は明治11年(1878)9月、明治天皇北陸御巡幸時、御宿泊行在所となったところである、建て物は明治30年に焼失したが御座所跡は切り石で囲み石段を築き保存してある、入口の戸には菊のご紋章が付いているのが印象的であった。 (写真は境内の鐘楼)
 
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[我が故郷] 親鸞聖人上陸の地、

2011-01-06

専修念仏の弾圧により流罪となった親鸞聖人が現上越市直江津の居多ケ浜(こたがはま)に上陸されたのは承元元年(1207)、海岸線が切り立った崖の続く上越地方の海岸線の難所を避け、木浦(このうら)現糸魚川市能生から舟に乗って二人の供と上陸されたのが居多ケ浜、季節は今の暦で4月の中旬から下旬、春先の日本海は親鸞聖人の目にはどう映っただろうか、、、、、

 親鸞聖人は承安3年(1173)、日野有範の子として京都(現在の伏見区)で生まれた。日野家は藤原家の流れを汲む下級貴族であったと言われる。有範の朝廷での地位は皇太后宮大進で、恵まれた家庭ではなかった。4歳の安元2年(1176)に父を、8歳の治承4年(1180)に母を失ったといわれている。養和元年(1181)、9歳の春、青蓮院の慈円の門に入って得度し、比叡山延暦寺に登った。以後、建仁元年(1201)、29歳で山を下るまでの20年間、常行三昧堂で不断念仏を行ったがなんの光明も得る事が出来なかった。当時の社会は、平安時代の終わりにあたり、自然の災害や、平氏と源氏の戦いが続き、この世の終わりが近づいたと人々の目に映っていました。建仁元年、京都の吉水に聖徳太子が建てられた六角堂にこもり、百日参りをされた、そして95日目に親鸞は夢を見、法然上人を訪ねるようお告げがあった、親鸞聖人の夢記にはこう書かれています。
六角堂の救世大菩薩、顔容端政の僧形を示現して、白柄の御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮に端座して、善信(親鸞の当時の名前)に告命して言はく。行者宿報にて設ひ女犯すとも我れ玉女の身となりて犯せられむ。一生の間、能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめむ。
この夢が後の親鸞聖人の性に関する思想のベースになったとされています。
親鸞はこの年、法然の門をたたいた、親鸞29歳。法然により念仏によってのみ人間は救われることを 教わった。元久元年(1204)、法然は延暦寺の宗徒と対立し「七箇条起請分」を延暦寺に送った。この中に親鸞の名前「綽空(しゃくくう)も見える。承元元年(1207)1月24日、念仏禁止令が出され、法然が土佐に流され、そして親鸞も越後国府に流された、親鸞聖人35歳の春であった。

 越後での親鸞は、追放された流人として、国府の代官荻原年景に預けられ、現在の五智国分寺にあたるところに小さな竹ノ内草庵を建てて頂き生活されたと言われている。一年後にそこから南の竹ヶ前草庵(現在の国府別院)に移られた。親鸞は、念仏の教えを広めることも禁じられ、僧の身分さへ許されず、「藤井善信(よしざね)」という俗名を名乗り、「僧に非ず俗に非ず」という生活を送る。
赦免まで5 年、その後の2年間も越後で過ごした。そのうち遅くても承元4年には恵信尼と結婚し 、信蓮房が生まれる。
1211年に流罪は赦免になりますが、法然がまもなく亡くなったこともあり、建保2年(1214)、親鸞上人は京都には戻らず、常陸国(茨城県)へと旅立ち、、常陸の国の稲田(現在の笠間市)を本拠地にして、関東方面で布教につとめる一方、教行信証・唯信鈔文意・愚禿鈔などの多くの著作を書き浄土真宗を開き、弘長2年(1262)京都で末娘の覚信尼にみとられ90歳の生涯を閉じた。


慧眼門(えげんもん)と呼ばれ、ここをくぐって中に入ると親鸞聖人にお会いする事が出来、又ここを出る時は悩みの多い現世に出発しよう、と言われる門である。

 

念仏発祥の地の碑、拝んでいるような形をしているので、一名、向拝(こうはい)の碑、とも呼ばれ揮毫は郷土出身で元京都、大谷大学教授の故金子大栄さんです。

親鸞聖人は流罪の身となり俗名、藤井善信(よしざね)となのり、ここ越後の居多ケ浜に上陸された時から、民衆の為の念仏を浄土真宗の根本とされる教行信証の基礎となる念仏をつくりだされたと言われております、そこで念仏発祥の地、と成ったわけである。

 

           波風よ 心してふけ 居多ヶ浜

              聖はいまも ここに 満します

                                三楽

三重県 出身で大阪の実業家であった、広瀬精一さんの作品で三楽は広瀬さんの和歌における号である。

 

見真堂は、「見真大師」から号をいただいて、八角堂の見真堂が建てられた。八角堂は、親鸞聖人が敬っておられた聖徳太子が建立された法隆寺夢殿にならって作られた。見真堂内は、親鸞聖人の座像が安置され(広瀬精一さんの作品)、この上陸の地を大切に守ってこられた方々の想いを偲ぶ資料が置かれている。「見真大師」は親鸞聖人が明治天皇から頂いた大師号である。

広瀬精一
三重県桑名出身で大阪の産業界で活躍され平和な毎日を送っておられたが、不幸な事に1才の次男が僅か2、3日の病で亡くなられ茫然自失の毎日であったが、み仏により自分をとりもどされ、この喜びを一人でも多くの方に分け与えてやりたいと思われ、仏像を造るのが人の為にもなると一発発起され、100体以上も造られた。

 

居多ヶ浜記念堂は真宗大谷派林正寺を中心に檀信徒の方々の努力で親鸞聖人上陸の地を記念して、昭和42年に記念堂が建てられた。聖人と恵信尼公の御影が並べて掛けられており、檀信徒の方々が無料で心温まる接待をしてくださる。海を眺めながら、じっくり聖人に想いをはせることのできる場所であり、又少しではあるが地元のお土産、記念品などの販売もされている。但し開館しているのは3月15日~11月30日までで午前9時から午後5時までである。(電話 025-543-0536)

林正寺ご住職様にご連絡すれば御都合によるが、親鸞聖人、流罪のお話、聖人と海の話し、「赤倉ホテルのおばあちゃん」平井ショウさんのお話しなど、上越の人々がいかに聖人の教えを大切にされ、守り続けてこられたかをお聞きすることができるようである。

 

親鸞聖人上陸の地の写真のスライドショウは = こちらをクリック =

親鸞聖人上陸の地のいろいろな写真、説明は =こちらをクリック 

 

                           

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[我が故郷] 越後 国分寺

2010-12-21

越後の国分寺は、親鸞聖人ご上陸の地から200メーターほど内陸に入った、上越市五智3丁目にあり、表門の朱塗りの山門を入ると真ん中に鎌倉時代の建築様式をとりいれた本堂、三重塔、経堂、鐘楼、親鸞聖人が上陸後1年間住まれた竹ノ内草庵、聖人像、など等、多数存在する。桜咲く春から新緑の初夏にかけての境内の景観は見ごたえがある。

国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、天平13年(741)、聖武天皇が、その当時全国的にはやり病が多く発生したり、農作物の不作続きで人々が動揺していた時代であった、疫病神を取り除き人々のよりどころとし、平和な国にするのが狙いで各国に建立を命じた寺院であり、寺格の一つともいえる。正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。
国分寺は僧20人をおき、国分尼寺は尼僧10人をおき、各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ建立され、国府があるところか、その周辺に置かれた。多くの場合国庁とともにその国の最大の建築物であったと言われる。大和国(奈良県)の東大寺法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。

五智国分寺の由来

五智国分寺の創建は天平年間(729~49)に聖武天皇の勅願によって各国ごとに建てられた国分寺の一つとされます。越後国分寺の分祀とされ本尊を大日如来像、薬師如来像、宝生如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像の五智如来を祀っていることから五智国分寺と呼ばれています。その後、衰退した為、創建当時の国分寺の位置は不明で境内が海中に没したという説など幾つかの説があります。承元年間(1207~11)に、越後へ流された親鸞上人が、国分寺に滞在した旧跡でもあり信仰の対象でしたが時代によって隆盛、衰退を繰り返し戦国時代にはかなり荒れ果てた状態だったとそうです。上杉謙信はそれを愁い、永禄5年(1562)に臨済宗の廃寺の有った跡に堂宇を整備、再興し70余坊を抱える大寺院となりました。江戸時代に入っても幕府が庇護し、寺領200石の朱印状(差出しに朱印を押した公的文書)を寄進しています。江戸時代では何度も火災にあい現在の建物は元禄6年(1693)に建てられた経蔵(上越市最古)をはじめ天保6年(1835)に建てられた仁王門、慶応元年(1865)に上棟された三重塔が残されています。特に三重塔は棟梁、木曽武川常右衛門、江崎長三郎が20年の年月をかけて建てられたもので壁面には石倉正義銘が彫り上げたという十二支と中国十二孝がはめ込まれています。五智国分寺三重塔は昭和51年に新潟県指定重要文化財に指定されています。  

親鸞聖人と国分寺

平安末期から鎌倉時代にかけて、法然聖人の開宗した専修念仏へ弾圧が加わり、承元元年(1207)75歳の法然は土佐に流され、その高弟の35歳の親鸞聖人は藤井善信(ふじいよしざね)と還俗させられ越後に遠流と成りました。五智の居多ヶ浜にご上陸された親鸞聖人は国分寺境内の竹ノ内草庵で国府代官、萩原敏景の監視のもと、流人の生活を約1年間送られました。翌年代官の命令で「竹ノ内草庵」から近くの「竹ケ前草庵」に移られる。建暦元年(1211)勅使岡崎中納言が国府に到着し、「赦免の宣旨」を授かった。赦免を喜んだ親鸞聖人は、別れを惜しむ同行の心根を想い、国分寺の北にある鏡ケ池に自らの姿を写し刻まれたと伝えられる、親鸞聖人坐像が竹ノ内草庵(親鸞堂)に安置されている。国分寺のすぐ東には聖人が日常用いた清水が今もなお涸れる事なく湧き出ている養爺清水があります。又境内には聖人旅立ちの像、御配所草庵跡地の碑、句仏上人の碑があります。

代官萩原敏景は始めは親鸞聖人を快く思っていませんでしたが、妻の病気が重く成り死期に臨んで浄土真仰のありがたいお話を聞き、安楽往生されたのを機会に聖人様を敬うようになり、そんな折信者も多く成り、竹ノ内草庵も手狭に成った為、萩原敏景が中心に成って竹ケ前草庵(たけがはなそうあん)を造り移り住んで頂いたと伝えられています。(写真は竹ノ内草庵)

 

国分寺境内の色々な写真、各説明など、興味のある方は是非ご覧ください。    = こちら =

                            

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[我が故郷] 浄土真宗本願寺派、本願寺国府別院

2010-12-07

 

境内のイチョウの老木、記念樹メタセコイヤの大木の葉がすっかり落ちたポカポカ陽気の師走のある日浄土真宗の開祖、親鸞聖人がお住まいに成った竹ヶ前草庵(たけがはなそうあん)があった、本願寺国府別院を訪れてみた、何度も来ている寺院だが改めて歴史を感じた。

 

親鸞聖人と国府別院

承元元年(1207)、専修念仏停止の法難(承元の法難)により、親鸞聖人は35歳の時、越後国府にご流罪になられ ました。
居多ヶ浜にご上陸後約1年間は、現在の国分寺境内「竹之内草庵」(たけのうちそうあん)に住まわれ、約1年後にはそこから南方の「竹ヶ前草庵」(たけがはなそうあん)に移られました。
ここが越後国府での配所御草庵の地であり、現在の国府別院の地であります。
建暦元年(1211)に流罪赦免になりましたが、御師法然聖人の亡くなられた京都へはお帰りにならず、しばらくの間(42歳まで)越後に滞在し念仏のみ教えをおひろめになりました。
恵信尼公とご結婚生活を営まれ、「愚禿親鸞」(ぐとくしんらん)と名乗り、在家止住の凡夫が救われる道を身をもってきりひらいてくだされたのがこの国府の地であり、この越後国府での7年間はご生涯の中で最もご苦労なされた時期でありました。

建保2年(1214)に聖人が関東へご出立された際、聖人門侶の覚善はその後を守り、「親鸞配所御草庵安養道場」と 称し、お念仏を相続していましたが、やがて信州に移りました。宝徳元年(1449)第8代蓮如上人が聖人配所御旧跡参拝をされたころ「安養道場」は一端ここに戻りましたが、長尾為景の無碍光宗追放令により再び信州に難をさけ、上杉謙信が禁をゆるめると再度ここに戻り、念仏の教えを広め、 御旧跡をお守りしました。
江戸時代の松平家の高田城築城の際、春日山附近の寺院も高田に移転しましたので、「安養道場」も移り、その後、配所は愛宕権現別当宝持院の支配地となりました。
江戸時代に入りしばらくすると、聖人の御遺徳を偲ぶ気運が興って来ました。本願寺でも旧跡復興を願われ、蓮如上人ご参拝より200年余を経て第14代寂如上人の命をうけ、高田瑞泉寺(南本町3丁目)善珍は「 親鸞聖人御旧跡」の石碑を建立し、延宝9年(1681)には瑞泉寺善珍が、貞享2年(1685)には直江津勝蓮寺(中央2丁目)円応 が、碑前に各石灯籠1基を寄進し、旧跡復興の端緒をつくりました。親鸞聖人御旧跡がクローズアップしてきたので、高田の瑞泉寺と信州の康楽寺が宝暦11年(1761)親鸞聖人五百回忌を記念して、宝持院(愛宕神社の別当寺{神仏習合が許されていた江戸時代以前に神社に付随して置かれた寺}で今日廃寺)所有の「小丸山」の地に仮小屋を建て、翌12年、宝持院が信徒の為に阿弥陀堂を建立した。以後小丸山の阿弥陀堂は宝持院の所有となった。天明2年(1782)瑞泉寺善芸をはじめ越後の門信徒の熱意と努力の結果、阿弥陀堂・茶所等の敷地、380坪を宝持 院より10ヶ年、一時礼金200両、年貢毎年玄米2石で借用することに成功し、文化2年(1805)に、現本堂が建立 されました。しかし、借地の悲しさ、寺号を称えることが出来ず、ただ「小丸山」と言うだけでしたが、多くの障碍を克服して聖人の 御遺徳を讃仰し、配所御旧跡を心のよりどころとして、聖地の護持によせた先輩達の情熱がしのばれることであります明治4年(1871)諸政一新による社寺御朱印地返還にあたり、小丸山の地を宝持院から金150両で買いもとめ本願寺の所有地となり、明治9年(1876)に本願寺直属寺院に指定され、「小丸山別院」と公称、昭和5年(1930)に「本願寺国府別院」と改称して今日に至っています。 
(国府別院案内パンフレットより一部抜粋)

 

◎国府別院には八ツ切りの御名号と柳清水の御名号が宝物となっています。

八ツ切りの御名号

親鸞聖人が関東に旅立ちされる時、信者が心から名残を惜しんでいたので、一枚の紙を八つに切って、六字の御名号(南無阿弥陀仏)と「恋しくば、南無阿弥陀仏を唱うべし、吾も六字の中にこそ住むなり」の一首をそえて信者に与えられたと言われています。

柳清水の御名号

信者の藤左衛門が毎日、柳清水から飲み水や硯の水を汲んできてくれたので、お礼に六字の御名号を書き与えたと言われています。

 

国府別院の写真、各説明は こちらをクリック

 

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[我が故郷] 3つの春日神社

2010-11-24

上越市春日にある、春日神社の創建は、天徳2年(958)に鉢が峰の山上、現在の春日山山頂付近に奈良県にある春日大社の分霊を勧請したのが始まりとされます。祭神は天児屋根命(あめのこやね)、武みか槌命、経津主命(ふつぬし)、比売神(ひめ)、である。越後国府全域の鎮護の神として広く信仰され永徳元年(1381)に時の守護代長尾高景が春日山城を築城するにあたり現在地に遷座したと伝えられる。この場所は春日山城から見ると鬼門(北東)にあたる為、領内の守護として歴代領主に崇敬され、特に上杉家(藤原家の血筋)を継いだ長尾影虎(後の謙信)は春日神が藤原家の氏神にあたる為深く信仰したと伝えられています。恐らく室町将軍、足利尊氏の命で上杉憲顕が越後守護として入国した時、上杉氏の祖である藤原氏の氏神、春日大社の神霊を祀ったものであろうと思われる。
   
謙信の後を継いだ上杉景勝は居城が鶴ヶ城(会津若松市)に移った事で庇護者が失われますが慶長16年(1611)に幕府から50石の朱印状を受け取ると明治維新まで代々幕府から庇護されました。 上杉家はその後、関ヶ原の戦いで西軍についた為、徳川家康により米沢(山形県米沢市)へ減封になりますが春日神社の信仰は変わらず現在でも米沢城の片隅に春日神社の分霊を勧請した春日神社が祀られています。従って春日山の名前は当時の鉢が峰に春日神社が有った事に由来する。 (写真は春日神社本殿)

慶長12年(1607)堀 秀治の子、忠俊が春日山城を廃し福島城(現港町2丁目)に移った、その際春日の春日山神社の分霊を福島城下に祀ったのが春日新田3丁目(踏切の横)にある春日神社である、従って祭神は春日の春日神社と同じである。当時春日神社の付近、福島城の南側には、浄教寺、高安寺、善導寺、高岸寺、長恩寺、海隣寺、などがあったがこれらの寺院は後の松平忠俊の高田城築城の際、高田城下に移った。 (写真左は春日新田3丁目の春日神社)
 
慶長15年(1610)堀 忠俊に替って福島城主となった徳川家康の6男、松平忠輝は入城後、まもなく高田城の築城を始めた。高田築城は江戸幕府の築城政策、すなわち天下普請の一つとして実施されたと言われている。松平忠輝は慶長18年(1613)4月に福島城下の春日町と春日神社の分霊を高田城下に移したのが、現在上越市本町1丁目にある、春日神社である。従って祭神は前記二つの春日神社と同じである。翌慶長19年8月、忠輝は福島城を廃し夫人の五郎八姫(いろはひめ)と新築なった高田城に入った。高田城下の春日町は、のち横春日町(現南本町3丁目)と竪春日町(現本町1丁目)とに分かれた。 (写真右は本町1丁目の春日神社)


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[我が故郷] 真宗大谷派 光源寺

2010-11-15

真宗大谷派 光源寺は上越市国府1丁目4番1号にある(写真は本堂) 。
承元元年(1207)、親鸞聖人が流罪となり越後国府に御上陸されたときに、木曽義仲の家臣で、俗名、堀徳兵衛光政が親鸞聖人に深く帰依し、覚円坊最信の名を聖人から賜り建暦元年(1211)に開いた寺社であると言われている。聖人が関東へ旅立たれた後も、最信は同行せず、この地に一宇を興し、覚円坊と称した。天正3年(1575)13世浄亮の時、虫生岩戸(上越市)に移り、教如上人より寺号をいただき、真宗大谷派光源寺と改めた、今日も、虫生岩戸に「寺屋敷」と言う地名が残っているが光源寺の跡である。宝永4年(1707)16世恵雲の時に現在地に移り、享保18年(1733)、真如上人より御坊の名を賜り光源寺は本山(東本願寺)の抱地と成りました。現在の本堂は嘉永2年(1849)に再建されたものである。
    
親鸞聖人が流罪赦免の際に自ら写されたとされる「御満悦の御真影」は、左手が上に上がっているため「左上御影」ともいわれ、全国でも数点しか見られないものである。本堂(写真右)は、中央に「御真影」を安置する御影堂、向かって右に宮殿があり、御影堂と本堂とを併設した全国的にも珍しい形態をとっており、大谷派本願寺高田別院の支院として国府影堂または国府御坊と呼ばれてきました 。
宝物として親鸞聖人が流罪赦免と成った時自らを写された「御満悦の御真影」 「旅立ちの立像」 「流罪標札」 「越後七不思議の標本」など聖人ゆかりの物が多く展示保管されている。
高浜虚子,句碑
山門の右側にある石碑(写真)は親鸞聖人が流罪となりこの地に上陸されて750年の法要の時に記念して建てられた高浜虚子の句碑です。

  野菊にも 
   配流のあとと  
     偲ばるる

親鸞聖人と越後の七不思議の一つ、八房の梅
八房の梅、の記念碑の横の梅の木は、北蒲原郡京ヶ瀬村の梅護寺から株分けされた梅で、一つの枝に8個の梅の実がぶどうの様に実を付けると言う。
東洋越陳人の墓
本堂の左側の墓地の一角に上越市三和区出身の画家、東洋越陳人(とうようえっちんじん)の墓がある(写真)。


 
村上義清供養塔
本堂の裏手の墓地の一角に村上義清建立の供養塔(写真)が有る。
信濃の葛尾城(長野県埴科郡坂城町)主村上義清は武田信玄に敗れ天文22年(1553)高梨政頼、須田満親、島津忠直、井上清政らと上杉謙信を頼ってきた、こうして5回にわたる川中島の合戦が行われたのである。村上義清建立の供養塔は義清が父の供養と国家安泰を祈願して建立したものである。
永禄8年(1565)義清は根知城(糸魚川市)主と成ったが天正元年(1573)1月10日、信濃への帰還がかなわず根知城で没した。

        
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[我が故郷] 米山薬師と別当寺、 密蔵院米山寺

2010-11-08

密蔵院は柿崎区下牧に位置する真言宗豊山派のお寺で、霊峰米山山頂(写真右下)の薬師如来の別当寺として創建されたもので、密蔵院米山寺と言う。急な石段を登ると杉の大木が生い茂り、正面に護摩堂(写真)、右に本堂、庫裏が建っている。創建された年代は不明である。
慶長5年(1600)の上杉遺民の越後一揆の際、七堂伽藍が破壊されてしまったが、元和2年(1616)、長峰城主牧野忠成、高田城主松平忠昌、住職が復興に努力し現在地の堂宇を再建した。慶安元年(1648)江戸幕府三代将軍、徳川家光から朱印地十二石と下牧集落十九戸を賜った。現在の堂宇(護摩堂)は文化11年(1814)に再建されたもので横、裏側に施されている彫刻は上越地方第一の彫刻美を誇り重要文化財に指定されている。

 
米山山頂の米山薬師は、三河の鳳来寺薬師、日向の法華岳薬師と並んで日本三薬師の一つとして知られています。
米山は姿の美しい山で古来より詩歌に詩われてきた。和銅5年(712)越前(現福井県)「加賀、白山との説も)の泰澄大師が越後行脚の折米山で薬師如来にあわれた、以後米山薬師は日本三薬師のなかで、もっともご利益があるとして信仰されてきた。
永承6年(1051)源義家が奥州の安倍貞任討伐の際(前九年の役)米山薬師に戦勝を祈願し、勝利の後康平6年(1063)霊峰に登り一宇を建立して御守本尊薬師如来を収めたと伝えられている。

米山の伝説
仏師として有名な人がこの山にこもり、薬師を刻んでいたときその弟子である沙彌(さみ)は、托鉢で師と自分の生計をまかなっていた。
毎日海岸の岬まで下山し、沖を通る船乗りたちに法力で鉢を飛ばして施しを受けていた。ある日、米俵を山と積んだ船が通りかかったので『鉢一杯で良いから、米をわけていただけないか?』と、丁重に頼んだのだが、強欲な船主は一粒もわけてくれなかったので真言を唱えると、船上に積み上げてあった米俵が次々と舞い上がり、山の頂上に積み上がってしまった。困った船主は上陸し、登山して、沙彌に自分の欲深さを詫びたところ、見る間に米俵は船上に戻ったという。以来、米俵の積み上がったこの山を、人々は親しみを込めて『米山さん』と呼ぶようになった。


 
密蔵院には県の文化財に指定されている太刀(銘助宗)一口が所蔵されている。高田城主、松平伊予守忠昌が天和9年(1623)に米山薬師に奉納したものである。米山薬師を厚く信仰した松平忠昌は元和8年、高田城下に密蔵院の里坊(出張所)として医王山密蔵院(写真)を建立した。寺町2丁目の金谷公民館分館の前、、
 
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[我が故郷] 高田城下、3つの番所跡、

2010-10-31

戦国時代、無敵を誇った武将上杉謙信の居城春日山城、謙信の死後養子の上杉景勝が城主となり上杉家の会津移封により徳川家康の家臣、堀 秀治が春日山城に入った江戸時代に入り秀治の死後、子の堀 忠俊が春日山城主を継ぐがまもなく今町(直江津)に福島城が完成、春日山城は廃城となった。1610年、堀 忠俊に替り徳川家康の6男、松平忠輝が城主となったが1614年、高田城が完成し忠輝は高田城に移り福島城は廃城となり城下は今町(直江津)から高田へと変わった。
江戸時代、幕府によって主要な街道に、旅の目印として1里(4キロ)毎に塚が建てられた(1里塚)。高田城下の北と南の出入り口にあたる陀羅尼町(現北本町)、伊勢町(現南本町)にも1里塚が設けられ、又口留番所が置かれ、番所では通行人や荷物を厳しく取り締まり、商品の運上金(営業税)の徴収も行った、規模の小さな関所である。ここから高田城下に入ると通行人は馬から降りなければならなかったし、くわえたばこも禁止された。高田城下ではこの他に稲田口(現東本町5丁目)にも番所があった。
陀羅尼口番所跡、一里塚跡
上越市北本町3丁目の国厳寺の北側に陀羅尼口番所、一里塚(写真)があったが、道路工事に伴い数十メーターほど北に移動したようである(北本町4丁目、樋口石材の少し北、小菅商店の向かい)高田城下から加賀街道に出入りする人、荷物を取り締まった。又ここに「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔(写真上)が建てられている、藩政史料によれば寺町の長遠寺から寛政12年(1800)6月に藩宛てに建立願いが出されている。これらの題目石塔は「北の宝塔、南の宝塔(伊勢町口)」と言われ今日まで市内の日蓮宗寺院で護持してきました、特に僧俗一体となって行われる寒中修行の唱題行脚ではこの題目宝塔まで巡拝します。 =案内板より抜粋=

伊勢町口番所跡、一里塚跡
南本町1丁目のバス停のちょっと南に伊勢町口番所跡、一里塚跡(写真右)がある。 ここでは高田城下から信州方面へ(北国街道)出入りする人、荷物を取り締まった。又「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔(南の宝塔)がある、題目の下に日蓮宗の本山、身延山久遠寺第64代日仲上人の署判があり、その在任期間からして弘化年間(1844~1847)に建てられた物と推測されます。南本町1丁目、高田新田の信号、(中華料理ピオニ―ズの有る処)交差点、道路新設工事に伴い、旧地より北西約30メーターの現在地に、1里塚、番所跡の史跡標柱と共に移設した。 =案内板より抜粋=

        
稲田口番所跡、高田銭座跡
東本町5丁目、稲田橋の西側に稲田口番所跡と高田銭座跡(写真左)がある。ここは高田城下から奥州街道、今町(直江津)方面へ行く出入り口である、松平忠輝は高田城築城にあたり関川河口の往下(おうげ)橋を廃止した、軍事上の目的と、高田城下に旅人を入れて町の繁栄を考えたのである、従って糸魚川方面から新潟方面に行く旅人は五智から加賀街道を通り、陀羅尼口番所を通り高田城下に入り稲田口から奥州街道を利用しなければならなかった、その為直江津、今町の発展は大きく阻害された。
又この地に銭貨の鋳造発行所である銭座(ぜにざ)があった。江戸幕府は民間に鋳造を請け負わせた、高田の銭座は松平光長時代(1624~81)鍋屋町(東本町)にあった。瑞泉寺(南本町3丁目)の「時の鐘」は寛文9年(1669)松平光長の、高田姫の命でここで鋳造された。

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[我が故郷] 能登島と塩浜町、日野宮神社、

2010-10-13

能登半島の七尾市の沖合に能登島と言う島がある、私も二度ほど訪ねた事があるが、今は島まで立派な橋で結ばれている。この島にある小さな村落と、上越市の中央五丁目(旧 塩浜町)、地元では 「はまちょう」 と言った方が通りが良いようであるが、 
、、、にある日野宮神社(写真) 、塩浜町が関わりがあると言う事は一年ほど前までは知らなかった。 私自身、月参りで何度も参拝に来ている(割烹 松風園の西側)。
能登国に鎮座する劔大権現で,慶長年間に当地に移って日野宮神社と改め遷座したという。

江戸時代の初め、能登半島の七尾湾に浮かぶ能登島の小浦村の人々が村を挙げて塩浜町に移住したのが起源と言われている。その後、塩浜町から塩屋新田(下門前の西側、ホテル ルートイン上越の辺り)に移った住民もいた。

能登島、小浦村の先祖が島を離れた理由については幾つかの諸説がある。
『能登誌』によれば、
慶長10年(1605)、あるいは寛永年間(1624~1643)に加賀藩への年貢米の未進により、一村あげて越後に逃散したと言う説。
前田利家が石動山を焼き討ちにした際に、石動山側で参戦した小浦村、村人が上杉景勝を頼って越後に落ちのびたとの説、
揚浜式塩田による塩づくりの技術に長けていた村人が越後の上杉氏に召喚されたとの説。など諸説は絶えない。

いずれにしても神社の石碑の銘文、残された資料などからしても能登の小島から塩浜町に移住したのは間違いないようだ、塩浜町と能登島の住民は相互訪問など明治時代からの交流が続いている。

  
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[我が故郷] 松尾芭蕉、「奥の細道」と我が故郷、

2010-10-05

松尾芭蕉(1644~1694) 
松尾 芭蕉(まつおばしょう)は正保元年(1644)現在の三重県伊賀市出身で江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作、通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎、名は宗房、俳号としては初め実名の宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。
寛文12年(1672)江戸に出て創作活動続け、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』が有名である。「奥の細道」をはじめ多くの紀行を残し元禄7年(1694)51歳で他界した。(写真は三重県上野市駅前の芭蕉像)

 
芭蕉は、旧暦7月2日新潟、3日弥彦、4日出雲崎、5日鉢埼(現在の柏崎)を経て6日に今町(現在の直江津)を訪れ、翌7日も滞在して、8日から10日まで高田で過ごしたようである。
今町(直江津)では古川市左衛門の家に宿泊しました。近くにある聴信寺(写真)において『文月や六日も常の夜には似ず』の芭蕉の発句で句会が開かれました。 翌日も聴信寺、夜には地元の俳人元仙(げんせん)宅で句会が開催され丁度旧暦の7月7日に披露したのが『荒海や佐渡に横たふ天の河』です。
高田の医師春庵(しゅんあん)宅に呼ばれ『薬蘭(やくらん)にいづれの花を草枕』を詠んでいます。毎日雨が降り続けここに足止めをされたようで、2日間更に宿泊し、ようやく晴れたので、高田を出発し、五智如来、居多神社に参拝し越中へと旅立ったと言われている。市内には6ヶ所、松尾芭蕉の句碑が残されている。

上越市五智の国分寺境内にある句碑で「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭の泉水その他美しい庭だったと言われている。この句碑は明和7年(1770)に建てられたものである。

薬蘭に
  いづれの花を草枕

 
上越市中央にある船見公園向かい、琴平神社境内の芭蕉の句碑で「明夜は七夕である、一年に一度の牽牛、織女の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ。」という句意と思われる、文月は旧暦7月、元禄2年 1689年七夕の前夜直江津での作句である。
 
文月や
 六日も常の夜には似ず


 
上越市黒井にある本敬寺(ほんきょうじ)境内にある句碑で、「あすならふ」は翌檜(あすなろ)でヒノキ科の常緑高木、葉が檜に似ているところから「明日は檜になる」と言う意味でこの名が付けられており、「花が咲き盛っているあたりに、あすは檜になろうと思いつつ立って、年を経て行く翌檜の姿がさびしい」と言う句意と思われる。この句は笈日記に掲載されており、特に黒井には関係がないが、奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅籠屋、伝兵衛で休んだのに因み、寛政の頃、地元の俳人、熊倉平十郎幸亭らによって建てられた句碑と言われている。

さびしさや
 花のあたりのあすならふ



上越市北城町1丁目にある北城神明宮境内にある、芭蕉が直江津と高田の句会で詠んだ句二点を刻した昭和60年6月に建てられた句碑である。

薬蘭(やくらん)にいづれの花を草枕

文月や六日も常の夜には似ず



上越市の金谷山、割烹 対米館 の手前(東側)にある芭蕉の句碑である。この句碑は文化3年(1806)榊原藩士、安田縫之助らによって金谷山、薬師堂前に建てられたが昭和初期に現在地に移転された。

薬蘭(やくらん)にいづれの花をくさ枕

 

上越市南本町3丁目にある正輪寺境内(瑞泉寺、いずみ幼稚園の前を東の方に細い路地を入ったところ)にある芭蕉の句碑である。芭蕉が武士達の花見を通りすがりに見て詠んだものと思われる。「景清」とは平家の特大将で「悪七兵衛景清」と言われた人並み外れた剛勇の士のことであり、「悪七兵衛と呼ばれた景清のような強い武士も、花見の席ではただの七兵衛になって花見を楽しんでいるようだ」と言う句意であろう。宝暦13年(1763)地元南本町の俳人で、芭蕉の孫弟子と言われる南嶺庵らによって建てられた句碑である。

景清も
 花見の座には七兵衛



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[我が故郷] 親鸞聖人と、日の丸の御名号

2010-09-28

親鸞親鸞は承安3年(1173)、日野有範の子として京都(現在の伏見区)で生まれた。日野家は藤原家の流れを汲む下級貴族であったと言われる。有範の朝廷での地位は皇太后宮大進で、恵まれた家庭ではなかった。4歳の安元2年(1176)に父を、8歳の治承4年(1180)に母を失ったといわれている。養和元年(1181)、9歳の春、青蓮院の慈円の門に入って得度し、比叡山延暦寺に登った。以後、建仁元年(1201)、29歳で山を下るまでの20年間、常行三昧堂で不断念仏を行ったがなんの光明も得る事が出来なかった。当時の社会は、平安時代の終わりにあたり、自然の災害や、平氏と源氏の戦いが続き、この世の終わりが近づいたと人々の目に映っていました。建仁元年、京都の吉水に聖徳太子が建てられた六角堂にこもり、百日参りをされた、そして95日目に親鸞は夢を見、法然上人を訪ねるようお告げがあった、親鸞聖人の夢記にはこう書かれています。

六角堂の救世大菩薩、顔容端政の僧形を示現して、白柄の御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮に端座して、善信(親鸞の当時の名前)に告命して言はく。行者宿報にて設ひ女犯すとも我れ玉女の身となりて犯せられむ。一生の間、能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめむ。

この夢が後の親鸞聖人の性に関する思想のベースになったとされています。
親鸞はこの年、法然の門をたたいた、親鸞29歳。法然により念仏によってのみ人間は救われることを 教わった。元久元年(1204)、法然は延暦寺の宗徒と対立し「七箇条起請分」を延暦寺に送った。この中に親鸞の名前「綽空(しゃくくう)も見える。承元元年(1207)1月24日、念仏禁止令が出され、法然が土佐に流された。親鸞も3月、越後国府に流された、35歳であった。
親鸞は、京都から北陸道を通り能生町木の浦から舟に乗り長旅のすえ弟子と共に居多ヶ浜(上越市五智6丁目)に上陸された。 (写真は上陸の地)

居多ヶ浜に上陸された親鸞聖人は案内人の浜の助惣にそこに見える神社は、と尋ねられた、浜の助惣は、大国主命、と奴奈川姫命を祭った居多神社だと告げ、早速、越後一宮 居多神社を参拝されると、一瞬にして夕日が海面に輝き 南無阿弥陀仏 の6字の御名号が現れたと言われています。
親鸞聖人は直ぐに筆をお取りになり、日の丸の中に 南無阿弥陀仏 とお書きに成り
 --- すゑ遠く方を守らせ居多の神
     弥陀と衆生のあらん限りは 
---

と詠み一首を添えて神前に祈願し、早く赦免になり越後に念仏が広がる事を一心に願われたところ、一夜にして居多神社境内の蘆(あし)が片葉になったという
(越後の七不思議の一つ)。今日も居多神社境内に「片葉の蘆」が群生している。居多神社には、親鸞自筆の「日の丸の御名号」も所蔵されている。

越後での親鸞は、追放された流人として、国府の代官荻原年景に預けられ、現在の五智国分寺にあたるところに小さな竹ノ内草庵を建てて頂き生活されたと言われている。一年後にそこから南の竹ヶ前草庵(現在の国府別院に移られた。親鸞は、念仏の教えを広めることも禁じられ、僧の身分さへ許されず、「藤井善信(よしざね)」という俗名を名乗り、「僧に非ず俗に非ず」という生活を送る。
赦免まで5 年、その後の2年間も越後で過ごした。そのうち遅くても承元4年には恵信尼と結婚し 、信蓮房が生まれる。
1211年に流罪は赦免になりますが、法然がまもなく亡くなったこともあり、建保2年(1214)、親鸞上人は京都には戻らず、常陸国(茨城県)へと旅立ち、、常陸の国の稲田(現在の笠間市)を本拠地にして、関東方面で布教につとめる一方、教行信証・唯信鈔文意・愚禿鈔などの多くの著作を書き浄土真宗を開き、弘長2年(1262)京都で末娘の覚信尼にみとられ90歳の生涯を閉じた。
(写真右は国分寺の裏門の前、鏡が池の直ぐ東にある日の丸の御名号の碑)

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[我が故郷] 安寿と厨子王、と乳母嶽明神、、

2010-09-17

上越市五智六町目の ”越後一宮 居多神社(こたじんじゃ)”の北参道入り口(鳥居の手前右側)に鎮座する、乳母嶽明神 (うばたけみょうじん) (写真)、道路脇に木が生い茂った一角が有る、その気に成って見ないと気が付かないだろう、、、恐らく近所の人でも若い人はその存在も解らないと思う、偉そうな事を言う私も知らなかった、良く見ると案内板と木と木の間にしめ縄が張ってある。有名な安寿と厨子王の物語に出てくる乳母 宇和竹 は悲しみのあまりに海に身を投じ、毒蛇となった、この乳母を篤く祀ったのが乳母嶽明神である。特にお乳の出ない人に信仰されている。

   
乳母嶽明神については、江戸時代の終わり、元治元年(1864)に書かれた紀興之の「越後土産」という本に、、、、、、
「姥嶽明神 居多浜式内居多神社の末社也、里人伝云、昔丹後の人買船来て、今町湊にて安寿姫と買取行、其乳母たけと云女是を聞、慕ひ来りし二、舟ハはや沖に出、たけ女一念毒蛇となり、海中に飛入、追かけしとぞ、其霊を祭りて居多の末社とす伝々、今も、丹後舟今町湊へ入時ハ、必海荒ると伝、安寿姫の事ハ世人知るところ故に略す」    
とある。 又宝暦6年(1756)に丸山元純が書いた「越後名寄」に、、、、
「居多神社 居多浜村 神領百石、 祭神 うはたけ明神ト鳥居ノ額二有」とある。 既に18世紀中頃には居多神社に「うばたけ明神」が祀られていた事がわかる。  =上越の史跡と人物= 花ヶ前盛明著より、

           
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[我が故郷] 安寿と厨子王丸の供養塔

2010-09-11

安寿と厨子王丸(津志王丸)の物語で有名な「山椒大夫」は森鴎外が中世の説教節「さんせう大夫」を題材に大正4年(1915)小説化したものである。
安寿と厨子王の父は奥州岩城国信夫郡(福島県)の領主岩城判官(いわきほうがん)正氏は国の役人であったが中傷により九州、筑紫の国(福岡県)へ流された。14歳と12歳の姉弟、安寿と厨子王と乳母の宇和竹と安寿と厨子王の母とともに父の無実を訴える為、父を訪ねる旅に出た。京へ上る途中ここ直江津の関川にかかる応化(おうげ)の橋付近で人買いの山岡太夫に騙されて売られることになる、、、、、。
母と乳母は佐渡へ、姉弟は丹後(たんご)の由良湊(京都府宮津市)の山椒大夫に売られました。北と西とに漕ぎ別れて行く舟に、子を呼ぶ母、母を呼ぶ子、その悲観のうちに海に身を投げ毒蛇となった乳母、宇和竹を土地の人々が厚く弔ってここに供養の塔をたてました。安寿は悲しみのあまり沼に身を投じて死ぬが、厨子王は逃れて上洛し学問に励み名を正道と改め、父の無実を証明して旧本願と丹後5郡を領有するに出世した。安寿姫が実を投じた沼のほとりに尼寺を建立し菩提をとむらい、山椒大夫を討った後、母を捜しに佐渡に渡る。島内を廻っている時、たまたま「安寿恋しや、ほうやらほ、厨子王恋しや、ほうはらほ、鳥も生(しょう)あるものなれば、とうとう逃げよ、追わずとも、、、、、、」と歌を耳にし、盲(めしい)になった母に逢えた。厨子王は父の形見の放光王地蔵菩薩を母に握らせると再び目が開いたという。宇和竹の供養塔の脇に沼に身を投げた安寿姫の供養塔が建てられた。
乳母 宇和竹
この乳母を厚く祀ったのが乳母嶽明神(うばたけみょうじん)で五智六丁目の居多神社の北参道入り口に鎮座する。

昭和29年(1954)安寿と厨子王の供養塔(写真)が直江津の関川河口近くの琴平神社の境内に建てられた。直江津は中世海陸交通が盛んに成るにつれ遠国との交通の要路となり、人買いも行われた様である。市内寺町3丁目の妙国寺(日蓮宗)に山椒大夫の墓と称するものが伝わる。又佐渡の相川町、畑野町に安寿塚があり、伝承から中世の姿を偲べる。
安寿と厨子王の供養塔(写真)にはいつも綺麗な花が供えられている。土地の古老は「丹後の船が入ると海が荒れる」と言っていたと言う。
 
山椒大夫(さんしょうだゆう) 
「山椒大夫」は説教節の「さんせう太夫」の想を得て書かれたと言われていますが、「直江の浦」つまり直江津の情景がより細かく描かれています。
鴎外は明治15年、軍医として新潟県を訪れて高田に宿泊、直江津を徒歩で通過しています。「北遊日乗」(ほくゆうにちじょ)と言う日記には、加賀街道の景色や町で出会った人々の事が漢詩に残されていますのでこの時の印象が物語の中に強く反映されたようです。写真の石碑は近くの三八朝市周辺まちずくり協議会が建てたもの。(森林太郎は鴎外の本名)


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[我が故郷] 越後国分寺守護神、白山神社

2010-09-06

国府1丁目、赤い鳥居の愛宕神社の北隣に鎮座する白山神社は五智の国分寺の守護神として加賀一の宮、白山比咩神社(石川県白山市)より勧請され国分寺境内に鎮座された。その後江戸時代に現在地、五智国分松山に移転す。
春季例大祭(5月4,5,6日)は「五智まつり」とも呼ばれている。社殿より御神体を国分寺境内の神輿殿に移され祭りのクライマックスは国分寺本堂を神輿が勇壮に駆けまわり三周する「堂回り」である、神仏習合の名残を今に伝えている。

 
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[我が故郷] 愛宕神社

2010-08-30

五智、国府、この辺りには名所、史跡が多く存在する、歴史の里、国府1丁目、愛宕山麓に鎮座し、上杉謙信公が深く崇敬した愛宕神社に行ってきた。赤い鳥居(写真)をくぐり大きな杉の大木が立ち並ぶ参道を上ると社殿がある。上杉謙信公は出陣の折は必ず当神社に祈願されたと言う、私も参拝し大祓い祝詞を奏上してきた。
赤い鳥居のすぐ右側にある参道は白山神社であるので為念、、、、
祭神
火産霊命(ほむすびのみこと)
伊邪那美命(いざなぎのみこと)

 
愛宕神社
愛宕神社は延暦元年(782)今から1228年前勧請して愛宕大権現と号す、古代春日山麓、愛宕谷に鎮座されしを上杉謙信公が深く崇敬せられ永禄4年6月(1560)に山紫水明の地、愛宕国分に奉還せられ、神領境内地、九町七反歩(約十ヘクタール)を寄付せられる。当時の領地内には愛宕神社の別当寶持院を始めとして親鸞聖人の旧跡、小丸山坊、白山社、太良坊社、等多数の社寺が散在し、上杉謙信公は出陣の際必ず当神社前にて祈願せられた。能州(能登の国、今の能登半島)征伐に出陣の砌(みぎり)誓書を神前に奉し聖徳太子の作と言われる毘沙門天王、謙信公自ら将兵を指揮する軍配扇陣貝等(重要文化財)を奉納寄願せられたり。軍配の入っている箱は、高田城主、戸田能登守忠真が元禄16年(1703)に奉納したものである。
徳川時代に至り三代将軍、徳川家光公始め歴代将軍より社領録高二百石の御朱印地を賜る。高田城主松平伊予守公深く崇敬せられ神刀一振り(銘越後高田住 時宗)を献納さる。
社殿は享和3年(1803)当時小丸山別院の堂主を兼務する当神社別当で寶持院住職、亭海が再建したものである。用材は全部欅材を用いた社殿、向拜などに精巧な彫刻を施してある。
 = 案内板及び、上越の史跡と人物(花ヶ前盛明著)より =

 
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[我が故郷] 会津墓地、、

2010-08-20

上越市大貫、山麓線、大貫の信号(関根学園)を西に入り関根学園のグラウンドの手前、左側にある「会津墓地」に行ってきた。
明治元年9月、戊辰戦争に敗れ会津城落城に伴い会津藩は領地を没収され、藩士と家族は官軍の捕虜となった。これらの捕虜を高田藩、信濃(現長野県)松代藩が預かる事となり、高田藩から家老の原陀一学らの一行が会津に出向き明治2年(1869)1月、1,742名の会津藩捕虜を引き取った。捕虜は寺町の各寺に分散して収容され、善導寺(寺町2丁目)が会議所、来迎寺(寺町2丁目)が病院などに充てられたが、当時の高田藩は不作と戊辰戦争による物価上昇により捕虜たちに必ずしも良い待遇をする事が出来なかった。明治3年(1870)6月、当時の政府は青森県斗南藩(3万石)にて会津藩を復活させ旧藩士(捕虜)を入植させた事により、捕虜はその生活の幕を閉じた、しかし厳冬の越後路を傷病の身体に鞭打ってのながたび、苦しい捕虜生活に疲れ死者が続出し、僅か1年余りにして68名(67名の説も有る)の人がこの地に葬られる事に至った、その墓地が「会津墓地」と称される。
その後高田に在住された福島県人(旧会津藩関係)の墓が33基ある。
この墓地には高田の医学に尽くした中川昌泰、西南の役に参加した大八木義方、等の墓も有る。
幕末から明治維新にかけ高田藩は長州再征、戊辰の役で多大な出費を強いられ、更には会津藩捕虜を預かる事になり、藩の資金を使い果たし維新の近代化に遅れをとる事に成った。

戊辰戦争(ぼしんせんそう) 
慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868 - 1869)は、薩摩藩・長州藩らの西南諸藩 (薩長土肥)が明治天皇を擁立して明治政府を樹立し、江戸幕府側、及び奥羽越列藩同盟と戦った日本の内戦。 慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。

薩長土肥(さっちょうどひ)
薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)
奥羽越列藩同盟は、戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王(東京都千代田区、皇居に隣接する北の丸公園に銅像がある)を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成した同盟である。


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[我が故郷] 医王寺薬師堂,,

2010-08-11

上越市の金谷山の上り口右側にある医王寺薬師堂に行ってきた、真言宗のお寺だ、正式には 金谷山多宝院医王寺、薬師堂、(写真は薬師堂)
当寺の創立や開基については記録が無く不詳である、寺伝によると、医王寺の創建は前九年合戦、後三年合戦の折り源頼義、義家親子が堂宇を建立したのが始まりとされています。江戸時代に入り高田藩が立藩すると医王寺のある方角が高田城からみると裏鬼門にあたる為、歴代藩主から篤い信仰をえた。特に寛永年間(1624~44)に建立された薬師堂は薬師如来を信仰していた時の藩主松平越後守光長の母、高田姫勝子が寄進したといわれています。薬師堂の本尊である薬師如来像(銅造如来坐像)は奈良時代前半の白鳳期の作と推定される古仏で、童顔童身の姿は金谷薬師として信仰の対象となり「田舎なれども金谷の薬師 花の高田は目の下だ」と民謡「米大舟」に歌われるほどでした。薬師如来像(銅造如来坐像)は平成3年に国指定重要文化財に指定されています。  =境内案内板より=

    
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[我が故郷] 榊 神社(さかきじんじゃ)

2010-08-03

榊 神社(写真)は上越大通り(旧国道18号線)の大手町交差点、高田郵便局の向かいにある神社である。
榊 神社の創建は明治8年に榊原高田藩祖、榊原康政を祀る神社が許可されたことが始まりで、旧高田藩士の勇志達が広く募金を募り翌明治9年に社殿を建立し榊神社としました。明治39年になり県社に昇格し、康政公以降の名君とうたわれた3代忠次公、11代政令公、14代政敬公が順じ合祀されています。康政公の鎧、冑、刀剣など榊原家に縁の品を多数所有しています。
高田藩は,松平忠輝改易の後,めまぐるしく藩主が交代したが,寛保元年(1741)に姫路から榊原政永が入城してから安定し,政敬の時,明治維新を迎えた。

榊原康政
榊原康政は徳川家康に仕え「徳川四天王」とも呼ばれた武将である。
天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市)に生まれる。康政は幼くして松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆の平定に従軍したとき、家康からてがらを賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き、榊原家の家督を相続している。

徳川四天王
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政・四氏を言う。


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[我が故郷] 北国街道、奥州街道、道標、、

2010-07-28

信濃の善光寺を通り越後(新潟県)に入った北国街道は旧新井市を通り高田の現在の、南本町、本町1丁目から北へ向かい、昔は問屋街であった本町7丁目の十字路、一見して丁字路に見えるカギの手に喰い違った十字路がある、これは昔城下の防衛の為に工夫されたものであり、ここが旧 北国街道、奥州街道、北陸街道へ続く、加賀街道の分岐点だ。奥州街道はここから現在の東本町1丁目から5丁目へと続き稲田橋を渡り現在の直江津の関川東岸から黒井、柏崎方面へと続いていた、、、、、加賀街道はここから現在の北本町を通り現、木田新田の追分地蔵から今町(現在の直江津)方面と加賀街道、北陸街道と延びていたのではないだろうか、、、、

北国街道
中山道と北陸道(北陸街道)を結ぶ街道で信濃の追分宿から越後の高田宿までの約35里(140キロ)の街道で加賀藩をはじめ北陸の諸藩の参勤交代の街道であり又佐渡の金山から掘り出した金を江戸に運ぶ重要な街道であった。
江戸時代高田藩は城下の繁栄を図る為、今町(現直江津)の荒川(現関川)に架かる橋を落してしまい、稲田橋一つにして、直江津に行く人も高田を通るようにした。

         
江戸時代、幕藩体制の整備が進み、高田城下を往来する旅人も多くなると加賀街道(五智、糸魚川方面)と奥州街道(稲田、柏崎方面)の交差点(上記)に「右おゝしう道 左かゝみち」の道標(写真上)が建てられた。これは直江津の福島城の石垣の石を用いて彫り込んだものである、しかし交通の障害に成った為、昭和十年頃現在地の、宇賀魂神社(写真)に写された。交差点から30メータ位北、(大谷ビジネスの北隣)にある。

 
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[我が故郷] 親鸞聖人と性宗寺(しょうしゅうじ)

2010-07-02

上越市寺町3丁目にある(高田駅裏、日枝神社の直ぐ北側)性宗寺に行ってきた。正式には 高雲山 真宗仏光寺派性宗寺(しょうしゅうじ) 別名和田御坊と呼ばれている当地では数少ない仏光寺派のお寺である(私の知る限りでは性宗寺に隣接する円光寺、常徳寺の3ヶ寺)

天正3年(1575)当時勢力を誇っていた福井県にある浄土真宗本願寺派の和田山 本覚寺(ほんがくじ)の分寺として春日山城下に創建された寺院である。本覚寺は貞永元年に親鸞聖人の直弟子の心象が和田村(現福井市)に開いた寺院であり、なぜ性宗寺が春日山に来たかと言うと、当時上杉謙信が宿敵で有った浄土真宗(一向宗)と和解するのに越後に一向宗の布教活動を認めた為だと言われている、これにより上杉謙信は上洛が容易に成ったと思われる。その後現在地に移り、(高田城、築城により城下繁栄の為か、、)延宝元年(1673)浄土真宗本願寺派から仏光寺派(ぶっこうじは)、和田御坊となり現在にいたる。
寺宝として親鸞聖人配所御真影、聖人が流罪になり越後に来る時に身に着けていた烏帽子と下垂れ(当時の肌着)が残されている。これらは性宗寺を開いた先祖が、越後で聖人と共に生活していた時に頂いたものと伝えられている。(写真右側、石柱の見真大師とは親鸞聖人が明治天皇から頂いた大師号)

仏光寺派
真宗佛光寺派(しんしゅうぶっこうじは)は、浄土真宗の一派で本山は京都市下京区の「佛光寺」、末寺数は全国で約390ヶ寺、県内では40数ヶ寺、真宗仏光寺派とも書く。

平出 修の墓所
浅学な私は恥ずかしい話、平出 修 と言う名前も知らなかった、この寺には明治43年(1910)に起こった大逆事件(社会主義者を弾圧した事件)の弁護士を引き受けた平出 修の墓所がある(写真)。
平出 修は明治11年4月3日中蒲原郡石山町(現新潟市)に生まれ23歳の時高田馬出町(現上越市大町2丁目)の弁護士平出善吉の妹ライと結婚、同家に入籍した、そして東京の明治法律学校を卒業し、司法官試補と成ったが、その後弁護士に転じ法律事務所を開業した。彼は有名な幸徳秋水の大逆事件などで法廷に立つ一方、矩歌革新運動に加わり、又石川啄木、吉井 勇らと共に文芸雑誌「スバル」を発行した。このように彼は弁護士として、明星派の歌人及び評論家として、そして又社会小説の作家として法と文学両面にかがやかしい業績を残し将来を期待されていたが大正3年3月17日過労の為37歳の若さで他界した。永訣式には相馬御風、阿部次郎、森鴎外らが弔辞をのべ彼の死を悼んだ。
  = 境内 案内板より =

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[我が故郷] この地域で唯一、時宗の寺 称念寺

2010-06-26

我が町には多くの寺が存在するが、上越市寺町2-11-12 にあるこの地域で唯一、時宗の寺、称念寺(しょうねんじ)(写真)に行ってきた。浅学な私は勿論時宗と言う宗派も初めて知ったのである。
鎌倉時代の元弘3年(1333)府中(今の直江津)に創立、異説に鎌倉時代の嘉暦2年(1327)建立の説も有る、長尾影虎、上杉景勝、らの保護を受ける。遊行9代白木、19代真寂の遊行開始の地と言われている。

称念寺の開基とされる一鎮(1277~1355)は越後国妻有庄(つまりのしょう)、現在の十日町市、出身で時宗(じしゅう)の開祖一遍(いっぺん)から数えて6代目の遊行上人(ゆぎょうしょうにん)である。本像は寄せ木による等身の木彫像で合掌する姿は時宗の上人像の特徴を示す。京都長楽寺の重要文化財七件などが伝来しているが、倚像(椅子に腰かけた像)である点、類例は極めて少ない。写実性豊かな頭部の表現から、仏師運慶の技法を継承した京都七条仏所(しちじょうぶっしょ)による制作と判断され、慶派の肖像彫刻として、県内唯一の貴重な遺品である。称念寺は元来、直江津の国府にあったが高田開府とともにこの寺町に移った。本像は彫刻史上の価値と共に、今はない中世越後国府の謎を多く物語っている。 県指定文化財である。  =境内案内板より=

時宗
鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)である。「藤澤山無量光院 清浄光寺」が本当の名前であるが、時宗の法主が遊行上人と言われるところから、遊行寺と呼ばれるようになった、藤沢は遊行寺の門前町として生まれ「藤澤山」の山号がそのまま現在の藤沢市になっている。
遊行上人
念仏の教えをひろめるために、広く全国を巡るのを遊行(旅をしながら教えを説くこと)といいます。遊行上人や遊行寺の名はそれからきています。


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[我が故郷] 唯善上人と常敬寺(じょうきょうじ)

2010-06-19

上越市寺町には70近くの寺が存在するが、裏寺通り、浄興寺さんを少し南に行くと右側に赤い門の、浄土真宗本願寺派、常敬寺(じょうきょうじ)がある、写真撮影をお願いすると快く快諾を頂いた。浄土真宗の開祖、親鸞聖人の孫に当たる唯善上人開基の寺である。 「赤門さん」と親しまれている(写真)。
中戸山西光院 常敬寺
当山は弘安7年(1284)の創立にして親鸞聖人の孫唯善上人(1253-1317)が開き、唯善上人は始め京都東山大谷に母、覚信尼公(親鸞聖人の末娘)と居住するも将軍の招請により鎌倉常盤井に下向法義を正し、人々を教化し、将軍の奏達により亀山法皇の叡慮により下総国(今の千葉県野田市)関宿中戸に大伽藍を建立し寄進した。後に後宇多天皇は勅願所として中戸山西光院の勅額を下さった上、真宗阪東総棟梁と言って関東で真宗最高の寺という格式を与えられ、天正元年(1573)焼失、後信濃静間(長野県山田郷平塩)に移り、蓮如上人より常敬寺の寺号を与えられ、幾多の沿革を経て寛文6年(1666)越後高田に移り現在に至っており古い歴史を有し「簾の阿弥陀如来」(親鸞聖人直作日本一体)「鼻取聖徳太子」などは文化財、又信仰としても多くの参拝があり、近くの人からは「赤門」と称されて親しまれている。法宝物は毎年8月7日「お虫干し」の時開帳、一般の参拝、拝礼が出来る。  =境内 案内板より=  (写真は常敬寺本堂)

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[我が故郷] 真宗大谷派(東本願寺)高田別院

2010-06-14


真宗大谷派(東本願寺)高田別院
承元元年(1207)浄土真宗の開祖、親鸞聖人が御配流になり、直江津の居多ヶ浜にご上陸されたご縁をいただき、地域の住民、門徒からの強い嘆願によって、享保15年(1730)東本願寺第17代真如上人の時に寺社奉行からこの地に東本願寺直轄の高田掛所(高田別院の前身)の設立が認められた。
設立に向けて8年間、幕府の新しい寺、建立の禁止などの政策にも係わらず、不屈な熱意、嘆願で元文2年(1737)掛所建立の願いが実を結び完成した。現在の高田別院の場所は頚城開墾の祖と呼ばれる、小栗美作の屋敷跡で当時の高田城主榊原政永(高田藩初代藩主、榊原家9代当主)より寄進を受けた土地であり、当初は東西14間半、南北15間の本堂と総門、食堂、鐘楼、等大伽藍が建立されたが、延享2年(1745)、宝暦5年(1755)、宝暦10年(1760)、昭和33年(1958)と4度の火災で消失したが、何れも頚城3群に亘る250余ヶ寺の寺院とその門徒の浄財で再建され、明治2年(1869)東本願寺高田別院と改称し、全国にある真宗大谷派、52別院の一カ寺として現在に至り、”お多屋” ”高田御坊” ”越後高田掛所”として親しまれている。

真宗大谷派
京都市下京区烏丸通り七条 にある東本願寺が本山であり、所属寺院数は約8,900寺と言われており、通称 ”おひがし”とも呼ばれる。大谷大学は、1665(寛文5)年、京都・東六条に開創された東本願寺の学寮をその前身としております。
なお、東京都台東区にある「浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺」を本山とする「浄土真宗東本願寺派」は、宗派の維持・運営をめぐる見解の相違により、1981年に真宗大谷派から離脱・独立した宗派であり、両者は別の宗教法人である。(お東騒動)



山門
総欅の入母屋作りで文政10年(1827)第20代達如上人の願いで建立され、「別院大門」の名で親しまれている。現在上越市に存在する山門では最も荘厳な門である、当時の藩主も緊縮財政の中、町の繁栄、活気を願い特別に許可したと言われ、棟梁、竹澤志摩則行の手による彫刻は中国の故事や12支を見事に彫っている(写真下)。




鐘楼
現在の鐘楼堂(写真右)は文政元年(1818)に建立されたが、梵鐘は天明3年(1783)門徒の宮崎勘助氏(旧三和村)が寄進したもので重量が480貫と言われ、当時の城下に時を知らせ、住民と深い結びつきを持っていたが、第2次世界大戦の末期に近い昭和19年(1944)国に没収され、大鐘の音が消えたと思われたが、その後昭和20年8月埼玉県で無傷のまま発見され、当時の別院筆頭総代、広瀬収造さんの努力で再びこの地に帰り時を刻んでいる。

浄土真宗本願寺派
浄土真宗開祖親鸞聖人の墓所である大谷本廟を発祥とする本願寺(西本願寺)を本山とする。末寺数は約10500ケ寺を数え、浄土真宗(真宗)の各宗派中最大であり、又仏教系の宗教法人の中でも最大数を誇っており通称”おにし”とも呼ばれる。龍谷大学は、1639年に京都・西本願寺に設けられた学寮をその前身としております。

願寺の歴史
秀吉の時代になると、天正19年(1591)に、本願寺宗主顕如上人は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如上人(1558-1614)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都烏丸七条)を与えられ東本願寺を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如上人(1577-1630)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如上人を十二代宗主とする東本願寺とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、現在の名称に影響している。
また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
真宗教団連合は、親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。
加盟団体は以下の10派であり、「真宗十派」といわれる。

真宗教団連合加盟宗派
宗派名         本山    通称    本山所在地   所属寺院数        浄土真宗本願寺派  本願寺   西本願寺  京都市下京区  約10,500
真宗大谷派     真宗本廟  東本願寺  京都市下京区  約8,900
真宗高田派    専修寺   高田本山   三重県津市   約640
真宗佛光寺派    佛光寺          京都市下京区  約390
真宗興正派     興正寺          京都市下京区  約500
真宗木辺派     錦織寺          滋賀県野洲市  約200
真宗出雲路派    毫摂寺  五分市本山  福井県越前市  約60
真宗誠照寺派    誠照寺  鯖江本山   福井県鯖江市  約70
真宗三門徒派    専照寺  中野本山   福井県福井市  約36
真宗山元派     證誠寺  横越本山   福井県鯖江市  約 21

その他の宗派
浄土真宗別格本山  西念寺   稲田の草庵  茨城県笠間市
原始眞宗     大本山願入寺 大網門跡  茨城県東茨城郡
      =など=

明治以降に分派した宗教団体
浄土真宗浄興寺派  浄興寺        新潟県上越市
真宗長生派      長生寺        横浜市鶴見区
真宗北本願寺派   北本願寺       北海道小樽市
浄土真宗同朋教団  方今道平等院    石川県鹿島郡
      =など=

*上越市国府にある別院は浄土真宗本願寺派国府別院(おにし)である。


 
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[我が故郷] 道案内と無病息災の守仏、追分地蔵、

2010-05-31

上越市木田新田地内、三叉路に有る「追分地蔵」、(旧18号線、上越大通り、高志小学校入口の信号から入り、旧道と交差する右角)、「追分」とは分かれ道、道の分岐点のこと、電気などの無い昔は暗くなってからの人通りの無い夜道、山道は旅人にとっては大きな不安の一つでした。
この木田新田地内に建てられている「追分地蔵」と呼ばれているお地蔵さんは道しるべを兼ねた供養碑です、旅人に道案内をし、旅の安全を祈り、又途中事故に遭った人達の冥福を祈る、当時の人達の深い思いが偲ばれるお地蔵さんである。いつ通ってもどなたがあげているのか、綺麗な花が供えてある。
   
高田には昔、加賀街道(北陸街道)奥州街道(江戸時代の五街道の奥州街道ではなく、春日新田、黒井、を通り出雲崎までを奥州街道と呼んでいたようである)、信州街道(北国街道)など三つの脇往還が集まっていた。このお地蔵さんには「左かゝかいたう」 「右いまゝちみち」 と刻んである(写真)。左は加賀街道と言って糸魚川、親不知、富山を経て加賀百万石の城下町金沢へ通じ、右は今町と言って今の直江津である。北国街道は直江津から黒井に通じていたが、高田の城下町の繁栄を図る為、当時の高田藩は今町(直江津)にある荒川の橋を落とし、富山、柏崎方面から往来する旅人を必ず高田城下に廻らせるようにした為、このお地蔵さんのところからでないと今町には行けなかった。旅人の道案内と道中の無事息災を祈る守仏として親しまれ今日に至っている。

木田新田地内、三叉路にある「追分地蔵」(上記)は2代目地蔵菩薩として復元されました。慶応年間に造られた元々のお地蔵さんは近くにある諏訪神社境内に移設されているが、左半分は破損している(写真)。

             


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[我が故郷] 直江津捕虜収容所と平和記念公園、

2010-05-24

上越市の旧直江津地区、保倉川が関川に合流する南側、佐渡汽船に向かって古城橋の手前左側に平和記念公園(写真)がある。しかしこの公園には第2次世界大戦の悲しい歴史が残されている。ここには直江津捕虜収容所があった。戦後半世紀が過ぎ捕虜収容所の悲劇は市民から忘れられていました。

しかし、オーストラリア元捕虜兵との交流は、1978年、一通の手紙がもとで英会話サークルとの文通が始まり、1988年、Tグリン神父がオーストラリア元捕虜兵と一緒に直江津を訪問し、元捕虜兵が故人をしのぶ銘版を当時の市長に託しました。その時の日本人参加者は、オーストラリアのカウラ捕虜収容所事件で戦死した日本兵と犠牲になったオーストラリアの警備兵を弔い、毎年慰霊祭を行っているカウラ市民のことを初めて知りました。そして6年後、その参加者と有志が「平和友好像を建てる会」を組織して募金活動を始め、多くの障害もありましたが、市民の間に賛同の輪が広がり、元捕虜の一部と日本の犠牲者遺族との和解が成立し、両者の除幕式参加が決定し、1995年10月8日、市の協力もあり、両国関係者と多くの市民が参加。元捕虜代表ミューディーさんは「心が愛で満たされていれば憎しみの余地はありません」と挨拶し、二つの銘板と平和友好像の除幕式が行われここに平和記念公園が完成しました。

カウラ捕虜収容所事件
カウラ事件は、第二次世界大戦時の1944年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラで起こった日本兵捕虜脱走事件。捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られる。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、日本人負傷者数108名。

カウラ
カウラ (Cowra) は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州(シドニーの有る州)にある人口80,000人くらいの街。カウラ事件が起きたことで知られる。カウラ日本人墓地とカウラ日本庭園がある。
カウラにある日本庭園は「回遊式庭園」と呼ばれるもので、日本を代表する造園家として海外でも広く活躍した中島健(1914年 - 2000年)によって設計され、南半球では最も面積の広い日本庭園である。



直江津捕虜収容所
第2次世界大戦時日本軍は、5ヶ月でアジア各地の連合軍約26万人を捕虜にし、うち3万2千人を日本国内91箇所の捕虜収容所に収容した。開戦から1年後の昭和17年12月に、古い塩の倉庫を改造した直江津捕虜収容所(正式には、東京俘虜収容所第4分所)が設置されオーストラリア兵300人をはじめとする連合軍の捕虜が収容され、最大で700人余りの捕虜が近隣の工場での労働を強いられていたということである。その後、戦局の悪化によって、捕虜に支給するための食料や医療品が不足するなか、昭和18年に異常寒波が襲来し、厳しい冬を越すことができなかった60人のオーストラリア兵捕虜が、栄養失調や病気によって死亡するという悲惨な出来事が起こってしまったのである。

終戦後、GHQの指示で収容所の看守は逮捕され、BC級の戦争裁判で15人が捕虜虐待の罪でその責任を問われた。そして、8人の看守が有罪となり(兵卒2名、軍属6名)悲痛な遺書を残し巣鴨プリズンで絞首刑にされた。日本国内に数多くあった捕虜収容所のなかで、8人もの看守が処刑されたのは直江津捕虜収容所だけである。直江津捕虜収容所の看守が、捕虜のために調達したゴボウを食事に出したら「木の根っこ」を食べさせられた、脚の治療のためにお灸をしたら「身体に火を押し付けられた」などの捕虜の証言が、極刑の判決につながったと言われている。戦後(1953年)政府はこれを公務上の死と認め、年金など戦死者と同等に待遇しました。同事件を題材にした「貝になった男-直江津捕虜収容所事件」上坂冬子著がある。 慰霊碑(写真)には、、、 平和の空に八つの星  と書いてある。
巣鴨プリズン
巣鴨プリズンは、昭和38年にGHQから日本に返還され、東京巣鴨拘置所となった。その後、新しい東京拘置所が小菅に新設され移転したあと巣鴨拘置所は解体、昭和53年にサンシャインシティーに生まれ変わった。現在ではサンシャイン60が高くそびえ立っている。ビル建設中も、しばらくのあいだ鉄板で囲まれてそのままになっていた巣鴨プリズン当時の処刑場も、いまは池袋中央公園となっている。絞首刑台のあった場所には平和を願う記念碑がひっそりと置かれている。

平和友好祈念、飛天の像(写真右)
右側がユーカリの枝をまいている西洋の少女
左側が日本のサクラの天女
2人は横笛をもって平和のメロディを吹き鳴らしているのだそうです。
オーストラリア兵慰霊の碑(写真右)
碑には、 「この碑を1942年から1945年にかけて直江津で没した2/20オーストラリア歩兵大隊長ロバートソン中佐および59人のオーストラリア兵軍人の霊にささげる。私たちはこの人たちのことを永久に忘れない。」 と英語で書いてあるらしい。

 
資料館(写真右)
敷地内には当時の資料を展示する資料館があり、当時の資料などが展示されている。資料館は通常は無人で施錠されているが、公園向かいの保坂さん宅から鍵を借りて見学が出来る。又平和を願う「上越日豪協会」などが中心となり、市民レベルでオーストラリアとの交流が続けられている。

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[我が故郷] 黒井公園と直江津空襲、

2010-05-14

第2次世界大戦で広島、長崎、での原爆投下、東京大空襲、の話は昔からよく耳にしたが、我が町にも爆弾が投下され犠牲者が出た、、と言う話も何回か耳にした、そして毎年被爆の日に犠牲者の鎮魂と平和を考えることを目的に平和の集いが開かれている、との事、何処に爆弾が落ちたんだろう、何かがある筈だがなー、、、、! 以前から思っていたんだが、先日仕事で市内、黒井地区を走っていると、ある公園の一角に 被爆 という文字のある標柱が目に入った、、 あッ、ここだな! 先日、興味はんぶん、頼りにならない記憶を頼りに行ってきた。 自分でも、好きだなー、と感心するわ、、
国道8号線の黒井の交差点を北(海の方)に入り、150メーターくらい、セブンイレブンの道路を挟んだ向かい、黒井公園の一角に 直江津空襲、黒井被爆の地 の標柱がある(写真)。

直江津空襲
第二次世界大戦も日本の敗戦が濃厚となった昭和20年5月5日、近くの信越化学工業、直江津工場を爆撃目標に南のテニアン島から飛び立った米軍のB-29 戦略爆撃機(写真)が信越化学に数個の爆弾を投化した、しかし目標を外れた1個が近くの現、黒井公園近くに落ちた。県下で初めての空襲で犠牲者3人、重軽傷者5人を出した。毎年5月5日、ここ黒井公園で被爆時間の午前11:15 犠牲者に黙とうを捧げ 平和の集い が開かれている。同公園には市民らの協力で10年前に標柱が建てられ、植樹したケヤキの木も平和を象徴するかのように枝、葉を大きく広げている。

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[我が故郷] 加賀街道と松並木、

2010-05-09

上越市に僅かに残っている 加賀街道 の両側に今なお残っている松並木、昭和の始めの頃は100本以上も数えられたと言う松並木も今は数本が残るのみと成った。最近に成っても大風で途中から折れて、危険な為、伐採された。ここ加賀街道は江戸時代、北陸と江戸を結ぶ大切な公道、脇往還(わきおうかん)で、正しい名前は北国街道である。江戸時代、加賀百万石の殿様や北陸の大名たちが特別な事がない限り、この街道を通って参勤交代をしなければなりませんでした。多くの家来を連れた大名行列が通ったり、多くの旅人達も賑やかに通った事であろう。このような事から加賀街道と呼ばれている。当時の街道の管理は高田藩が行っていた為、この松並木も高田藩が植えたものと思われます、多くの松は樹齢170年~200年くらいと言われている。

小学校の頃、遠足で五智の国分寺などに行く時には良くここを通ったもんだ、当時はまだ道の両側に松の大木が沢山残っていた記憶がある、時代の流れを実感する。   (写真は加賀街道に残る松の老木)

脇往還(わきおうかん) 
脇往還は、江戸時代の 五街道 以外の主要な街道、枝道の事で勘定奉行の管轄に置かれていて、1里塚、宿場、並木、等が整備されたところも多い。中原街道、川越街道、鎌倉街道、水戸街道、三国街道、北陸街道北国街道、、、、、など、、

五街道 
慶長9年(1604)に日本橋が五街道の起点として定められ一里毎に一里塚を設けて他、一定間隔毎に宿場を設けた。
東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道、

北国街道 
中山道、追分宿から分れて善光寺を通り、高田まで。

北陸街道 
北国街道から加賀(金沢)を通り、近江木之本を経て中山道にいたるまで。


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[我が故郷] 府中八幡宮

2010-04-27

上越市西本町3丁目に有る 府中八幡宮 に行ってきた、境内の前は殆んど毎日と言っても過言ではないくらいに通るんだが、じっくりと見たのは初めて、こんなに由緒ある歴史的価値の有る神社とは恥ずかしい話、知らなかった。ヨーカドウの北口の直ぐ向かいに境内の入口があるが、今は一部が町内などの駐車場となっている、ちょっと残念な惜しい気もするが、これも時代の流れか、

府中八幡宮(ふちゅうはちまんぐう) 
府中八幡宮は鎌倉時代に鶴岡宇佐八幡神を移し迎え、誉多別命で沼河姫命と建御名方命の二神を合わせ祀っている、府中石清水八幡宮と称し、一国一社の八幡宮であります。上杉氏の敬仰が特に厚く、謙信公をはじめとして、江戸幕府になってからも崇信し、慶長十六年九月に社領百石と定め、将軍墨附や閣老連名の添書を交附して神馬一頭の寄進(別記)をされています。歴代の高田城主の帰依も深く、頚城における由緒ある神社である。
社宝には掛額、制札、長太刀、文書が多くあり、中でも新潟県、上越市、の文化財指定の 府中八幡宮の鰐口(わにぐち)は有名である。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)
京都市八幡市の男山山頂に有る神社で大分の宇佐神宮、福岡の 筥崎宮(はこざきぐう)と共に日本の三大八幡宮に数えられる。

ここに有る御神馬は慶長15年(1610)8月廿2日徳川家康の六男松平忠輝が、福島城主の堀 忠俊(父は上杉景勝の後の春日山城主堀 秀治)に替って越後入りした時にこの八幡宮に寄進した。 それは次の資料による、、、

徳川家ヨリ御神馬寄付状
為御祈念御神馬壱疋御寄進被成候
於神前可被抽丹誠者也
    大隅守(三条城代)  ㊞
    隼人正(村松城代)  ㊞
    刑部少(福島城代)  ㊞
    筑後守(糸魚川城代) ㊞
戌八月廿二日 
    府中八幡宮神主殿 


忠輝の近臣4人の連名によって、八幡宮神主に宛てているのは、福島城主となった忠輝の為に府中の民心の安定のため、神主に丹誠を込めて八幡宮に祈ってほしいと、この御神馬を奉納したもの、、、 = 案内板より =

写真ではちょっと反射して見難いんだが、400年も経っている品物なんですかね、、、


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[我が故郷] 長岡外史と旧師団長官舎

2010-04-17

久し振りの天気に誘われて、ちょっと寒かったけどね! 大町2丁目に有ると言う旧師団長官舎に行ってきた。車の駐車場は無いので、直ぐ北側に有る東北電力、高田営業所の駐車場に、黙ってことわって? 置けばよい。私は大手町通り青田川、西側の市の駐車場に止めた。ここから青田川の堤防、遊歩道を歩くのも良いだろう、2~3分で行ける。堤防の桜並木は満開で見事だ。 (写真)旧師団長官舎の裏側、庭園から表に出られ静かな住宅街の一角にある。
旧師団長官舎
旧師団長官舎は明治43年(1910)旧日本陸軍、高田第13師団の3代目師団長 長岡外史中将によって建てられたもので、市内に残る数少ない明治期の洋風木造建築である。旧所在地は、南城町3丁目(高田高校の西側)に有り、平成3年までは陸上自衛隊高田駐屯地の幹部宿舎として使われていたが老朽化した為、初代と2代目師団長が居を構えていたと言われる「旧市長公舎跡地」に移築、復元したものである。復元に当たっては当時の記録に基づいて、外装、内装をはじめ、家具、調度品にいたるまで、出来る限り建設当初に近い形で復元されている。

所在地     上越市大町2-3-30
電 話      025-526-5903
開館時間    09:00~06:30
休刊日     毎週月曜、休日の翌日、年末年始
入館料     無料 但し2階の和室を会議などに使用する場合は有料

長岡外史(ながおかがいし) 
長岡外史(1858~1933)は明治。大正期の陸軍軍人である。安政5年山口県の下松市で生まれ10歳の時に萩藩士、長岡家の養子となり長岡外史と称する。陸軍士官学校を卒業、日清戦争では大島混成旅団の参謀、明治30年(1897年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣などを経験し、明治35年(1902年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長。明治41年(1908年)には軍務局長となり、翌年には陸軍中将に昇進している。
明治43年6月1日上越市(旧高田市)の陸軍13師団の3代目師団長として赴任、第13師団長時代、視察に訪れていたオーストリアの軍人レルヒ少佐が伝えたスキーを軍隊にはじめて導入した(これが日本スキー発祥と言われている)来年はスキー発祥100周年にあたる。長岡外史のひげは19,7インチあったと言われ(写真)あまりにも有名である。

初代13師団長、  原口兼済中将
2代13師団長   岡崎生三中将 


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[我が故郷] 高田公園の桜、、

2010-03-29

いよいよ高田公園の 日本3大夜桜
第85回高田城百万人観桜会まであと4日となったが、昨日、今日は真冬に逆戻り、、朝はうっすらと白くなった、しかし、明日から比較的晴れの日も多くなり、気温も上がり始める、開花時期の前に一旦冷え込み、その後気温が上がると、桜も春を感じ一気に蕾が膨らむんだそーだ、、
4月2日からの観桜会に備えボンボリは既に設置すみ、300軒を超す露店も場所によっては出来ている、、
(写真は昨年、桜ロード

高田公園の桜と花見
陸軍第13師団が高田に設置されるのを記念して、高田の在郷軍人が広く郡内、各町村の軍人に呼びかけて寄付を集め明治42年3月にソメイヨシノの苗2,200本を植えたのが始まりです。総経費は当時のお金で391円60銭であったと言われる。しかし当時この場所に騎兵隊が有り桜の若葉が馬に食べられてしまい、よく育たなかったが、大正3年に成り、ようやく美しい桜の花が咲きそろい、大正6年になり、市民が師団に入り花見をする事が許されました。大正14年に保勝会(現在の観光協会)が出来て10日間、偕行社(かいこうしゃ)「将校集会所」付近まで露店や見せ物興行の入る事などの許可がおり、全国にその美観を宣伝し大正15年(昭和元年)に第1回の観桜会が開催されました。その後、第2次世界大戦で観桜会は一時中断されたが、戦後間もない昭和22年4月、占領下の重苦しさを払いのけるかのように再開され、平成2年4月、「財団法人日本さくらの会」から 桜の名所百選の地 に選ばれました。 現在は4,000本を超す桜が植えられています。高田公園内の陸上競技場入り口に、高田公園の桜の由来を伝える 櫻之碑 (写真)が昭和3年11月に建立されました。名実ともに日本を代表する桜の名所だ。
 
 =第85回高田城百万人観桜会= についての詳細


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[我が故郷] 観音寺と兜池(かぶといけ)

2010-03-23

JRの直江津駅北口よりまっすぐに200メーターほど北へ向かい、(右折して直江津橋方面に行かないで)更に進むと(通称、寺道)左側に真行寺幼稚園、その先、中華食堂
”ハルピン”の手前に曹洞宗の観音寺(写真)と言うお寺が有る。仕事で殆んど毎日前を通るんだが、このお寺が源義経にまつわる伝説が有ると言う事は半年くらい前まで知らなかったが興味半分行ってきた。

兜池(かぶといけ)の由来
文治3年(1187)源義経が兄、源頼朝よりいわれなき勘当を受け京都を忍び出て6人の家来(武蔵坊弁慶、亀井六郎、片倉七郎、伊勢三郎、駿河次郎、常陸坊)と共に奥州へ下る途中、越後、国府であった現直江津に立ち寄り、ここ観音寺に一夜の宿を借りた。深夜の事、義経の夢枕に宝冠を載せ蓮華の花を手にした童子が現れ「今や北陸道には鎌倉の追手が迫っている、その難を逃れる為に義経の証の鎧兜(よろいかぶと)をこの池に捨てよ」と告げて忽然と消えた。驚いた義経は兜のほか、所持品の全てをこの池に捨てて旅立ち、迫って来た代官、浦こんの守らの手から逃れて、無事、鉢崎(はっさき)の関所を越える事が出来た。 (写真は兜池)

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[我が故郷] 名立町、機雷爆破事件とお地蔵さん、

2010-03-12

国道8号線の上越市名立区、地内(旧、西頸城郡名立町)北陸高速の名立、谷浜IC入口の信号を少し富山方向に進むと、右側に名立漁港があるが、漁港入口付近のR8号線沿い海側にひっそりと建つお地蔵さん(写真)が有る。恐らく何気なく前を通り過ぎ、存在も知らない人がほとんどだろう。私も恥ずかしい話、そー言われてみれば何か有ったなー
と言う程度だ、今からちょうど60年前、この場所で機雷が爆発し63人が死亡した、「名立機雷爆破事件」の犠牲者供養のお地蔵さんだ、どなたが活けられたのか、たくさんの新しい花が供えられていた、今日は痛ましい事件を忘れさせるような穏やかな名立の海だ、、、、

           
名立機雷爆破事件
事件は戦後間もない1949年(昭和24年)3月30日午後5時過ぎにここ名立町の海岸で起きた。連合軍が遺棄したと思われる、国籍不明の機雷1基が名立漁港に漂着、警察官が取り除こうとしたところ、突然爆発し、付近にいた住民63人が爆風などで吹き飛ばされ死亡、36人が負傷した。死亡した63人のうち59人が20歳以下、小中学生が特に多かった。ちょうど春休み中の子供たちが漂着物を見ようと海岸に集まり、被害が拡大したと言われる。今であれば自衛隊の爆発物処理班が出動して、付近の住民は避難させられ、このような痛ましい事故は起きなかったろうに、、、、日本は当時、連合軍の占領下だった為、原因調査は行われず、機雷は米軍、ソ連軍の何れの物か不明で、犠牲者への補償もされていない。
又ここ名立町は宝暦元年(1751)4月25日の地震の名立崩れ で406名の尊い命と、民家80戸余り、お寺、神社をのみ込む大惨事が発生している。
忘れ去られようとしている「名立機雷爆破事件」を後世に語り継ごうと言う取り組みを同区の住民が始めた。元気であれば私とそうは変わらない年代だ、そっと手を合わせ黙とうを捧げてきた。   合掌

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[我が故郷] 直江津と安国寺跡、、

2010-02-21

上越市の山麓線を直江津駅方面に進み上越大通りの交差点(セブンイレブン五智店の有る信号)を過ぎ100メーター程進むと小さな交差点(右先角が藤原医院)がある、右(南方向)に曲がり、すぐに交差点があるが、右に(西方向)曲がりすぐ左側(現、西本町2丁目)、民家の一画に「史跡 安国寺跡」の碑がある(写真)

安国寺と利生塔
安国寺(あんこくじ)と 利生塔(りしょうとう)は南北朝時代に室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)、直義兄弟が、北海道、沖縄を省く全国各地に設けた寺院と仏塔である。
後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔い又疫病神を取除き人々のよりどころとして平和な国にする為、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したように(新潟県は直江津と佐渡)、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てた。
1345年(興国6年、貞和元年)に、北朝光厳院の院旨を得て、寺の名を安国寺、塔の名を利生塔とした。
安国寺と利生塔は新しく造られたものもあるが、既存の寺院を修理して、これにあてた国もある(新潟県は直江津{廃寺}、佐渡市畑野町)。安国寺による禅宗(特に臨済宗)の地方への波及、又、利生塔による禅宗以外の宗派の統制など、文化的、政治的意義が大きかったと言われている。しかし、室町幕府の没落と共に、安国寺と利生塔も衰退した。

越後府中(現直江津)の安国寺は越後守護、上杉家の保護を受け、越後三大刹(えちごさんだいせつ)の一つに列するほどに栄えていたが、慶長3年、
(1598)上杉景勝の会津、移封により廃寺となった。
今も残る、安国寺、と言う地名は上記の由来であり、近くに安国寺公園(写真)がある。

足利尊氏   鎌倉時代後期から南北朝時代の
        武将、室町幕府の初代、征夷大将軍
光厳院    北朝初代天皇
越後三大刹  至徳寺、安国寺、雲門寺(吉川区赤沢)
畑野町    佐渡市畑野町に有る阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺


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[我が故郷] 琴平神社と松尾芭蕉

2010-02-01

琴平神社
妙高山麓からの支流を集めて日本海に流れ出る関川の河口、直江津港の西側に鎮座する。向かいの海側が船見公園、以前は色々な祈願によく訪れた神社だ。
文化年間(1804-1817)洪水の時に石祠が見つかり,航海安全の神として社殿を建て四国の琴平神社から分霊したと言われている、祭神は大物主神、社殿は写真の左側。
境内には松尾芭蕉が「奥の細道紀行」の途中立ち寄り呼んだ句碑、又すぐ近くに安寿と厨子王の供養塔等がある。

百度石
拝殿の右側にひっそりと建つ「百度石」、神様に願いを叶えてもらおうと、100回祈願するお百度参りをする際の標識として設けられている。
四角く削られている処に回数を間違えないように、小石、こより、さい銭、等を100個用意して置き、参拝のたびに一つずつ拝殿に置いていく。
芭蕉句碑

 文月や六日も常の夜には似ず

「明夜は七夕である。一年に一度の牽牛、織女の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ。」という句意と思われる、文月は旧暦7月、元禄2年 1689年七夕の前夜直江津での作句である。  =案内板より=
芭蕉は、旧暦7月2日新潟、3日弥彦、4日出雲崎、5日鉢埼(現在の柏崎)を経て6日に今町(現在の直江津)を訪れ、翌7日も滞在して、8日から10日まで高田で過ごしたようである。
今町(直江津)では古川市左衛門の家に宿泊しました。近くにある聴信寺において『文月や六日も常の夜には似ず』の芭蕉の発句で句会が開かれました。
翌日も聴信寺、夜には地元の俳人元仙(げんせん)宅で句会が開催され丁度旧暦の7月7日に作ったのが『荒海や佐渡に横たふ天の河』です。
高田の医師春庵(しゅんあん)宅に呼ばれ『薬蘭(やくらん)にいづれの花を草枕』を詠んでいます。毎日雨が降り続けここに足止めをされたようで、2日間更に宿泊し、ようやく晴れたので、高田を出発したと言われている。
文化年間、地元の俳人福永里方らが建てた句碑であるが、幾度かの大火で焼け、慶応年間に福永珍玩らが再建したものである(写真)

長い年月、日本海の厳しい風雨にさらされた句碑であるが、昨年同じ境内に新しい句碑(写真右)が建立された。

松尾芭蕉
芭蕉は、正保元年(1644)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(1672)江戸へ出て創作活動を続け、元禄2年3月末、弟子の曽良を伴い、奥の細道の旅に出ている。

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[我が故郷] 名立崩れ(なだちくずれ)と宗龍寺

2010-01-12

昨年の秋、名立崩れの慰霊碑を見てきたが、名立崩れにまつわるお寺が有ると言う事で行ってきた。好きだねー! (自分でも思うわ)勿論知っていれば慰霊碑を見に行った時、一緒に見てこえばよかったんだが、当時は知らなかったからなー、今でも国道8号線、名立区名立小泊地区を通ると260年前の傷跡がはっきりと残っている(写真)。

     
名立崩れと宗龍寺、竜宮の鐘
名立崩れの慰霊碑より少し行くと左側に宗龍寺の山門があるがこの宗龍寺に「竜宮の鐘」 (上越市の文化財指定)がある。
名立小泊の宗龍寺の本堂入口にある梵鐘。高さ106cm、口径54.5cm、重さ67.5kgもあるこの梵鐘は、宝暦元年(1751)の名立崩れの際、土砂とともに海中に投げ出されましたが、100余年も経った明治初年頃、異様な海鳴りに気づいた漁師によって引き上げられた。梵鐘は安土桃山時代以前の作とみられ、この地方では珍しい古鐘である。鐘のいぼが三分の一欠けていて、当時の惨状が偲ばれ、竜宮の鐘として親しまれている。 =案内板より=

    
名立の民話、「名立崩れ」 
とんと昔にあったといね。
西頸城(にしくびき)の名立(なだち)ちゅう小泊(こどまり)(港のこと)に、五郎兵衛(ごろうべえ)という猟師がおったそうな。
女房のお仲と、ひとり娘のお今と三人で、仲むつまじゅう暮らしておったと。なかでもお今という娘は、別嬪(べっぴん)(美人)でのう、そのうえ信心深くて心の優しい娘じゃと評判じゃった。
ある年の話じゃ。どういうわけか、その年は天気の具合がおかしくての、春先から空はどんより曇って昼間でも薄暗く、風ものうて波も立たんのじゃ。海の向こうの空が赤くなったりしてのう、みんな気味悪くなって噂しあったもんじゃ。
「なんか、たいへんなことがおこらねばよいがのう」
四月の終わりの頃かの、五郎兵衛の家に一人の旅の坊さんが入ってきたと。
年とった坊さんで、ぼろぼろの衣に破れ笠といういでだちは、いかにも乞食坊主といった様子じゃったが、お顔はおだやかで不思議な気高さを漂(ただよ)わせておられたそうじゃ。
その坊さんが言いなさるには、「むかし、今日のようなおかしな天気がありましてな、やっぱり海や空が赤く見えたり、昼から薄暗くなったりしたそうじゃ。これは大地が割れて天地がひっくりかえる前ぶれでな、やがては人も家もみんな呑み込まれてしまうそうじゃ。ただ、この前ぶれの天気を見て遠くへ逃げたもんだけが助かったということじゃ」
それを聞いていた猟師たちは、少しは気味悪く思うたけんど、この名立ちの町がまるごと呑み込まれてしまうなどとは、とても信じられんのでな、「この乞食坊主め。口から出まかせを言うんじゃねえぞ」と、坊さんを外へ叩き出してしもうたと。
ただ一人、信心深い娘のお今だけが坊さんのあとを追い、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」。貴方はもしや、偉いお上人さまではありまでんか。この町を災害からお救いにいらっしゃったのですね、とお坊さんに手を合わせたと。
お坊さんはお今に優しくほほえみかけると、「たとえ、お前一人でも今夜のうちにこの町から逃げだしなさい」と言うたと。お今が顔を上げると、おぼうさんの姿はどこにも見あたらなんだ。お今は「ありがたや、ありがたや」ともう一度手を合わせ、となり町へ逃げだしたそうじゃ。
そのころ、沖で漁をしていた猟師たちが、港がまっ赤に燃えているのを見たと。 「たいへんだ。港が火事だ」と急いで港へとって返すと港は何事もない。狐につままれたように猟師たちもぼんやりしての。すると「あっ、海が燃えている」こんどは海を見ていた一人の猟師が叫んだと。「恐ろしいことじゃ。不思議なことじゃ」と怯(おび)えながら猟師たちは家に帰ったそうな、、、、、、、、、。
その晩のことじゃ。ドーン、ドーンというものすごい音がして、裏山がまっぷたつに割れての、町の上に崩(くず)れ落ちてきたと。真夜中のことじゃ。寝ていた人達は逃げるひまなどあろうものか、あっというまに町ごと海へ押し出されてしもうたんじゃと。
あとには、赤茶けた山土砂だけが、土ぼこりを上げておるばかりでな、人っ子一人助からなんだと。そして、旅の坊さんの言葉を信じてとなり町へ逃げたお今だけは助かったそうな。
それからというものは、名立の沖の海の底から、泣くような声が聞こえてくるという噂じゃ。恐ろしいことよのう。
明治の始めになって、一人の若者が名立の海に潜(もぐ)るとな、岩陰に大きな釣り鐘が沈んでおっておんおんと泣いていたそうじゃ。
「その鐘は名立崩れで流された宗竜寺(そうりゅうじ)の鐘じゃ。死んだ五人の坊さんたちと一緒に泣いておったのじゃろう。かわいそうに」と、町中の人たちがこの鐘を引き上げ、新しく建てられた宗竜寺に納めたと。
今でもこの鐘を、町の人たちは「竜宮の鐘(りゅうぐうのかね)」と呼んで供養しておるそうな。 (写真は宗龍寺)

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[我が故郷] 長峰城跡

2009-12-06

先日、晴れた日に吉川区長峰地区にある長峰城跡に行ってきた。県道、新井、柿崎線の長峰の交差点(セブンイレブン、道の駅、温泉施設、ゆったりの郷、等があるのですぐに解る)を西方向に曲がり暫く行くと左側に長峰の池がある。すぐ手前を左に折れると長峰の集落に入るが(ちょっと解り難いので私は通りがかりの人に聞いた)集落から池に出る右側一帯が城跡であるが、城跡を道路が分断しているらしい。郷土の人でも長峰城跡を知る人は少ないであろう。長峰城入口の看板から5分くらいで主郭跡に行ける。

     
長峰城は、長峰池のほとりにあり、中世に那須氏の居城として築城され、その後衰微。 2代将軍徳川秀忠配下の牧野忠成 (越後長岡藩初代)が元和2年(1616)上野国(現在の群馬県前橋市河原浜)の大胡城城主から越後の長峰藩主5万石として移封・転入すると、那須氏居城の遺構に再築城した。山城から平城への移行段階にある竪固な平山城です。しかし2年後の元和4年(1618)3月、牧野忠成が幕府に長岡城(6万2千石)に移封を命じられ、その後は高田藩領に編入されて長峰城に入城する領主は無く、長峰城は廃城となったとされています。

 
城の規模、施設
主郭跡は、東西110メーター、南北100メーター、主郭は戦時に立てこもる城の中心で、建物は物見櫓及び一棟程度で、居館は別のところに有ったと推定される。
空堀
幅6~20メーター、深さ10メーター前後。

土塁
高さ3メーター前後。
虎口(こぐち)
長峰城には3か所の虎口が想定される。
物見櫓跡
高さ6メーター、広さ10メーター X 6メーター
船着き場
城の北西200メーターの長峰池の渚。

     =案内看板より抜粋=

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[我が故郷] 尾神岳と報尽碑(ほうじんひ)

2009-11-25

23日の勤労感謝の日、朝から良い天気だ、、もともとじっとしているのが苦手な性分、かねてより行きたいと思っていた、尾神岳(おがみだけ) (写真左)の報尽碑へ行ってきた。 好きだねー、、! 自分でも思うわ、、、、、、、
吉川区に入り源地区より左に折れどんどん山を登っていく、すでには終わっている、約1時間で中腹の見晴らし荘に到着した。尾神岳は標高757メーターの山だ、日本海、佐渡ヶ島、遠くは能登半島も晴れた日は望める。又スカイスポーツのメッカだ。

尾神岳伝説
神の時代の頃、天照大神が天の岩戸に隠れた時、天手力男命が岩の開いた岩戸を力いっぱい開けた、勢いよく岩は空に飛び、信州に落ちて戸隠山に成ったと言う。しかしこの地では、この岩戸が空で二つに割れ、その一片が尾神岳になったと伝えられている。かってこの山の頂には神を祭る社があった。
地元ではこの小さな岩山こそが飛んできた岩戸だと伝承され、「岩が尾神に落ちたと言う話が伝わるうちに、どこかでその岩が尾神岳だと言うふうに変わった」とも、更に「飛んできた岩は岩戸の尾の部分で『尾神』の名がついた」とも語り継がれている。

見晴らし荘より数10メーター登ると上越市指定の文化財、報尽碑、入口の看板(写真)がある。数年前に道路も綺麗に整備されたようだ。1キロほど進むと10数台は停まれる駐車場があり、階段を登り小高い丘に報尽碑がある。犠牲になられた方のご遺族だろうか、関係者だろうか、綺麗な花、お線香が供えてあった。しかしこの地もあと1カ月もすれば深い雪に覆われ訪れる人もないだろう。私も100年も前の出来事を偲び、そっと手を合わせてきた。
       
報尽碑(ほうじんひ) 
正式には報尽為期碑(ほうじんいごひ)と言う。ご当地、新潟県は、宗祖親鸞聖人の配流の地であり、早くから浄土真宗の発展した地でした。蓮如上人も越後の地に足を運ばれ、江戸時代に入っても貞享2年(1685)に新井掛所(別 院)、享保18年(1733)年に高田掛(別院)が創設されるなど、新潟県は全国でも有数の信心篤い土地と言えます。

明治16年3月12日午後2時頃、川谷村(現、上越市吉川区)の尾神岳の中腹で(写真上)、幅100m長さ約200mの大雪崩が発生しました。この大雪崩に京都東本願寺再建用材(欅の巨木)を運搬していた数十名が巻き込まれ、多数の死傷者が出ました。雪に足場を失い、比較的体力の無い、高齢者、女性、子供が多く犠牲になりました。
近隣の村々ではこの事故を聞きつけるや、人びとが駆けつけて救助作業を始めました。雪を掘り起こし、助け出した人びとの体を、焚き火をおこして暖めました。しかし、一瞬の間に即死された方も多く、この事故は、両堂再建に関わる事故の中で、最大の被害を出したものでした。
27名が殉死し、50名を超す怪我人が出るという稀な大惨事となりました。殉職した27名は、男性が8人、女性が19人で、年齢別では50歳代が2名、40歳代が1名、30歳代が3名、20歳代が1名、10歳代が14名、10歳未満が6名でありました。中に2歳の幼児が2名いました。事故発生当時、2歳の幼い2名は時刻からして午後の授乳時間の頃と推定され、その痛ましさが想像されます。
惨事から4年後、明治20年9月24日に殉難者追善供養の石碑建立が許可され、尾神岳中腹の殉難現場近くに碑が建立されました。しかしその後、この報尽碑の存在は年月とともに忘れ去られていましたが、昭和31年(1956)地元有志による懸命の調査によって、草木に埋もれていた碑が発見されました。以降、地元の人びとによって碑は護持され、両堂再建に賭けた人びとの信仰心を今に伝えています。地元民はこれを報尽碑と呼び、折々殉難者を哀悼しています。
<参考>
実際に尾神岳での欅の巨木の運搬に使用された大橇(そり)が、柿崎町岩手集落(現上越市柿崎区)の円田神社から発見され、歴史の生き証人のようなこの大橇は、昭和36年親鸞聖人700回御遠忌の記念に本山に寄付され、現在は本山で展示されているという。

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[我が故郷] 寺町(てらまち)界隈

2009-11-02

わが町には寺町(てらまち)と言う町名(1丁目~3丁目)がある。名前のとおり沢山の寺院があり、今でも60余りの寺院が立ち並ぶ全国でも珍しい一画である。寺町通り、裏寺町通り、と2本の狭い通りが南北に走っている。高田地区の駅の西側、中心市街地に隣接した直線的に並ぶ寺社群と境内に建つ住宅などが静寂さを醸し出しています。
がさつな私だが、仕事などでこの地を通ると不思議と心安らぐから、不思議だ、、、、。2年前に100歳を前に他界した母がよく言っていた、この地に余るものはお寺と〇〇、と言っていた言葉を思い出す。(〇〇は忘れちゃった、、、) 写真上は淨興寺派の本山、淨興寺山門

どうしてこの様な一画が出来たかと言うと、昔、徳川家康の6男松平忠輝が高田城を築城の際に、町を賑やかにする為、又お城を守る為の意味もあったようだが、時の春日山下、福島城下、府中(今の上越市直江津地区)から寺院などを移したと言われている、勿論移らなかった寺院、神社もある。
上越の古い歴史を知る事ができます。また指定文化財を拝観できる寺院が5つあります。

淨興寺
浄土真宗の開祖、親鸞聖人ゆかりの寺、本堂(写真右)は国の重要文化財

称念寺
この地方唯一の時宗の寺、時宗第6代を継いだ一鎮上人の倚像は国指定の文化財

天崇寺
山門は延宝2年(1674)建立は市指定文化財

善導寺
木造善導大師立像は市指定文化財

常敬寺
木造聖徳太子立像は市指定文化財

    - 上越市観光ホームページより -


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[我が故郷] 高田城

2009-10-05

上越市(旧高田市)の中心市街地に面積約50ヘクタールの高田公園がある。高田城跡に整備された公園であり、この公園の南西部、本丸跡に三重櫓が(写真)復元され上越市のシンボル的存在になっている。

高田城築城
慶長15年(1610)年2月、福島城主となった松平忠輝は、まもなく国役普請(幕府の命による工事)として高田菩堤ヶ原に高田城を築きました。築城の理由は、加賀の前田家、出羽の上杉家に対抗する為であり、また諸大名に天下普請を命じることにより、経済的圧迫を加えようとしたこと、さらに佐渡金山の支配を強化する為であった事などが考えられます。
慶長19年(1614)年3月、本格的な工事が始まり、仙台城主 伊達政宗、米沢城主 上杉景勝、松本城主 小笠原秀政、谷村城(山梨県都留市)主 鳥居成次をはじめとする13大名が、家康の命令で工事に参加したと言われている。そのうち小笠原秀政と鳥居成次が譜代大名であるほかは全て、外様大名であり、特に松平忠輝の舅(しゅうと)の伊達政宗は、普請最高責任者として自ら陣頭指揮をとりました。
伊達政宗はこの年の7月、8月に各藩の役人や人夫も相次いで引き上げさせたが、このころ城郭がほぼ完成したと見られています。このように松平忠輝は福島城を廃し、竣工わずか約4か月後に新築なった高田城に入りました。
築城計画によると、天守台を石垣とし、それ以外は全て土塁とすることに決まっていたが、実際には石垣を構築せず、天守閣も造りませんでした。その理由として、大阪冬の陣(1614)が迫っていた事と近くに石垣に使う石が無かった事があげられます。南西部に造られた櫓が高田城のシンボルであったと思います。又外堀は自然の河川を利用して作られ非常に幅が広い事が特徴です。築城当初は二重の櫓でしたが、松平光長の時代に地震で崩壊し、三重の櫓を新たに建設しました。
慶長15年(1614)築城、初代城主、松平忠輝以来、明治4年(1871)廃藩となるまでの257年間、最後の城主は榊原政敬(さかきばらまさたか)であった。
松平忠輝
(1592-1683)
文禄元年(1592)8月、徳川家康の六男として江戸城で 生まれる。家康51歳で母は側室茶阿局(ちゃあのつぼね)です。8歳で伊達政宗の娘五郎八姫と 婚約し、慶長15年(1610)2月、堀氏に替って 越後福島城主となる。慶長19年(1614)高田城を 築いて入城するが、僅か2年後の元和2年(1616)7月忠輝は父である家康により城地を没収され伊勢の朝熊(あさま)現三重県伊勢市、に配流を命じられました。その理由は、忠輝がキリスト教の布教とヨーロッパとの通商貿易に積極的であったことなどにより、江戸幕府の基盤を確立するうえで不安材料とみられたことなどであると思われます。朝熊にとどまること2年、元和4年(1618)3月、飛騨高山城(岐阜県高山市)主 金森重頼に預けられた後、寛永3年(1626)4月、諏訪高島城(長野県諏訪市)主 諏訪頼水に移され、天和3年(1683)7月、92歳で死去するまでの58年間、高島城南の丸で過ごしました。多芸多才のひとであったと言われ 墓所である長野県諏訪市の貞松院月仙寺 には彼の人柄を偲ばせる遺品が数多く残されている。
  
高田城三重櫓
慶長19年(1614)に築城され、明治3年(1870)に火災のため焼失した高田城のシンボル的存在であった三重の櫓を、上越市発足20周年記念事業として、平成5年(1993)に建設されました。
1,2階は高田城に関する資料の展示、3階は展望室になっています。



住所     上越市本城町6-1
電話     025-526-5915
休館日    月曜日(月曜日が休日の時は翌日)、休日の翌日、
        高田公園観桜会、夏休み期間中は無休、
開館時間   午前9時~午後5時(観桜会期間中は午後9時)
入館料    小中高生   100円
        一般     200円 

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[我が故郷] 県内一の強い光、鳥ケ首岬灯台

2009-09-19

国道8号線上越市名立区地内を走っていて、海岸線から山側に目を向けると崖の上に白い小さな建物が目に入る、今迄にも何十回と目に入ってはいるんだが、鳥が首岬灯台だ、 よしッ、行って見てくるか、ちょうどデジカメもあるし! 好きだね~、、、 内心自分でも、物好きだね~と感心する、まッ、好奇心旺盛と言う事だね、、8号線の名立、谷浜IC入口の信号を曲がり坂を登るとすぐに道路脇の高いところに灯台が見える、道路脇に車を止めて行って来た。この灯台は近くの直江津港、姫川港に出入りする船舶や沖を通る船舶の安全航行、自船の位地確認、などなど重要な灯台である。
自分も昔船乗りの頃、新潟を出港、暫くして遥か沖合から左舷に見た灯台の灯り、おー、名立の灯りか、、、! しばし感激にしたった事を思い出した。

普通、灯台と言うと大体が丸い円筒形か6角形の建物が多い、しかしここ鳥ヶ首岬灯台は灯台らしからぬ角ばった外観(写真)ながら、県内一の強い光を放ち航路標識として高い機能を発揮している。今から250年以上前の高田地震による大災害「名立崩れ」で出来た断崖の上に建ち、海面から82メーターの高さからの光は、これ又県内一の距離となる44キロ先まで光を届ける事が出来る。

遠く弥彦や米山、能登半島、そして佐渡島も眺望できるここ鳥ヶ首岬に灯台が設置、点灯されたのは昭和27年(1952)3月29日です。当初は名立灯台と呼ばれていたが昭和41年6月1日に名称が鳥ヶ首岬灯台に改称された。



位 置     北緯  37度10分16秒
         東経 138度05分47秒
光り方     単閃白光 毎5秒に1閃光
光の強さ    45万カンデラ
光の届く距離 23,5海里(約44キロメートル)
高さ      地上から灯台頂部 約12,3メーター
         水面から灯火   約81,9メーター 
          = 案内板より抜粋=

灯台の光り方は夫々違い、どこの灯台か識別出来るように成っている。
鳥ヶ首岬灯台は、一つの白い光が5秒に1回光る。

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[我が故郷] 越後三十三霊場一番札所、岩屋堂観音堂

2009-09-15

朝、起きるとあまりよい天気ではないが雨は今のところ降ってはいない、、よしッ、行こう! かねてより一度参拝しようと思ってはいたが、ついつい今日まで、、越後三十三霊場一番札所、岩屋堂観音堂 へ行って来た。国道8号線、名立区地内、うみてらす名立 を過ぎ信号を山寄りに入り、暫く進むと高速道の下をくぐる、さらに暫く進むと左側に看板があるので左に曲がり急な坂道を登ると左側に看板(写真)がある。10数台位は停められる駐車場があるのでここに車を停めると良い。

本堂(写真)大宝2年(702)、泰澄大師(たいちゅうたいし)の創立と伝えられ、大岩の壁面に見える凡字跡らしき物は(写真下)弘法大師(こうぼうたいし)が筆を投げて書いたと言われている。

御本尊の、聖観世音菩薩像(せいかんぜおんぼさつぞう)は鎌倉期、前期の作と推定され50年に一度御開帳されます。

康元元年(1256)北条5代の最明寺入道時頼公(さいじょうじにゅうどうときよりこう)が廻国(かいこく)の折に、越後三十三ヶ所の第一番札所と定めました。又春日山城主、上杉家の信仰が厚く墓碑もあります。
=案内板より抜粋=

岩の壁面に弘法大使が筆を投げて書いたと言わ れる岩、、わかるかな!



長尾景直の墓、⇒
長尾 景直(ながお かげなお、生没年不詳)は戦国時代の武将。通称小四郎と呼ばれていた。上杉謙信の譜代旗本として軍役81人を負担した。長尾一族の出身とも、又元は越中椎名氏からの人質であったとも言われる。

長尾藤景の養子となり、後に椎名氏の名跡を継ぎ、椎名小四郎を名乗り、主に越中戦線で活躍したが、天正6年(1578年)の月岡野の戦いでは織田軍に敗れた。謙信死後の御館の乱で上杉景虎に与したとして所領を削減される。これに反発してか、後に織田軍に寝返った。織田信長から恩賞を約束されている椎名駿河守は同一人物か?。

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[我が故郷] 専敬寺(せんきょうじ)

2009-08-28

専敬寺の創建は貞観2年(860)真雅和尚が真言宗の寺院として開山したと伝えられています。しかし創建当時の場所は現在の場所ではなく、天和3年(1683)年の検地帳に「御堂沢(みどうざわ)」の小字名が記録されているので、ここが創立当時の専敬寺境内のあった場所ではないかと推察されています。その後、康元元年(1256)に円道和尚が親鸞聖人の弟子となった事から浄土真宗に改宗しています。創建以来5回、大きな火災に遭い多くの寺宝が焼失し、中でも明治2年(1869)の火災で「山里の御影」と呼ばれる本願寺第10代証如の御影(証如の長子で本願寺第11代顕如から、元亀元年から天正8年に起きた石山合戦の功により与えられたもの。)も失っています。二十間御堂だった本堂もこの火災で焼失してしまいました。
現在の本堂(写真)明治20年(1887)に再建されたもので、総ケヤキ造りで桁行き18間の規模は木造建築として新潟県最大級の大きさで当時の檀家が2000戸を越えたと言われ、信仰の広さが背景にあります。現在も専敬寺の末寺として寺内に、教願寺、称専寺、能念寺、がある。又、専敬寺には親鸞聖人と恵信尼の間に生まれた小黒女房の伝説が伝わっていますが詳細は不明である。
R253号線、浦川原区地内の虫川交差点を右折して(上越方面からの場合)403号線へ、市役所安塚支所をすぎ、和田の交差点を右折し暫く進むと右側にある。 拝観の際には事前に連絡をした方が良い。

〒942-0541
上越市安塚区小黒1212  
電話 025−592−2140

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[我が故郷] 虫川大杉

2009-07-23

浦川原区(旧東頸城郡浦川原村)に 虫川大杉 (写真左)と呼ばれる大きな杉の木が有るのは知っていたし、2度ほど行った事がある。この時は杉の木を見る為ではなく、白山神社に参拝に行ったのである。、、、  しかーしだ、、、、、 
この虫川大杉が樹齢1200年以上を誇ると言われる国の天然記念物とは知らなかった。 まずい!  早速に白山神社の参拝も兼ねて行って来た。

     
この虫川大杉(虫川は地名)はこの地方の総鎮守「白山神社」の御神木として、土地の人々が古くから大切に保護してきたもので、樹齢1,200年以上、目通り、10,6メーター(16メーターと言う説もある)、樹の高さ、約30メーター、枝張り、東西へ約27メーター、南北に約20メーター、と言われる見事な大木で有る。昭和12年4月17日文部省(現文部科学省)より国の天然記念物に指定された。
幹の西側、地上約6メーターのところに、大きな穴があいているが(写真左矢印)、これは安政年間(約120年前)の大雪で大枝が折れた為に生じたものと言われている。本樹は県内はもちろん、全国でも有数の大樹である。
1200年もの長きにわたり、命が育んできたことを思うと、手を合わさずにはおれなかった。

●ほくほく線、虫川大杉駅から徒歩で約5分、白山神社境内、

  

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[我が故郷] 福島城跡

2009-06-29

直江津港の近くに昔、福島城と言うお城が有ったらしい、、お恥ずかしい話この程度の知識で有った。天気に誘われて思い切って行って来た。港町にある古城小学校の西側の校門より校庭に入るとすぐ左側の一角が福島城跡として整備されている(写真)。 ちょうど佐渡汽船乗り場から徒歩で3~4分で行ける距離、待ち時間を利用してちょいと如何ですかな、、、、、

    

室町時代から江戸時代に移る当時の建築形式をもつ典型的な平城、大城郭で有る(写真右)福島城跡は昭和42年(1967)から部分的に発掘調査が行われ石垣の跡や陶磁器片などが出土したが、縄張りの全体像や建造物については判明していない。

  
福島城の歴史
上杉景勝は1598年豊臣秀吉より会津(120万石)に移封(国替え)を命ぜられ、豊臣秀吉の家臣、堀秀治が越前の国より入城、春日山城主となった。
堀氏は春日山城は山城で有り何かと不便であり、この地に築城を始めた。
ところが城が完成しない慶長11年(1606)5月26日堀秀冶が31歳で亡くなってしまい、子供の堀忠俊が11歳で春日山城を廃止して福島城の城主となった。ところが徳川家康も恐れていた家老の堀監物が亡くなると城主の後見人問題で監物の子供、直清と直寄が権力争いをしてしまい。それを知った徳川家康は慶長15年(1610)、堀氏を改易(領地などを取り上げる)とし堀家を潰してしまい、そして家康は同年直系の6男松平忠輝を信州・川中島から移し七十五万石の福島城主とした。外様大名の加賀100万石の前田家と米沢の上杉家を牽制する為の重大な意味があったと言われている。福島城は、慶長12年(1607)に完成したが、同19年に廃城となり、わずか七年間の存在でしかなかったが、時代が室町時代から江戸時代に移る当時の築城形式をしめす典型的な大城郭である。
その間に城主は堀忠俊・松平忠輝の二代にわたったが、いずれも一国一城の越後の城主であった。慶長8年(1603)、徳川家康が江戸幕府を開いてから、天下の諸侯は春日山城のような山城の必要がなくなり、堀氏も春日山城から福島城へ移ったのである。しかし、松平忠輝も四年後の慶長14年(1614)、福島城を廃止し、新たに高田城を築いて移ってしまった。城を移した理由は明らかではないが、毎年、雨季になれば関川、保倉川が氾濫するからだ(城主が波の音がうるさくて眠れないと言う説もある)と言うまことに短命な城であった。福島城跡碑(写真左)の建つ石垣の石は当時の石、である。
徳川家康が恐れていた天下の陪臣(またけらい)3傑
  堀監物直正(堀家) 直江兼続(上杉家) 小早川隆景(毛利家)

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[我が故郷] 山寺薬師と延命清水

2009-06-05

上越市板倉区東山寺にある山寺薬師に行って来た。新井、柿崎線、板倉区地内から、県道254を久々野、山寺薬師、やすらぎ荘、方面に入り山部地内(しみず屋の先)のY字路を左にしばらく進むと右側に、温泉宿泊施設、「やすらぎ荘」がある、その先のY字路を左に橋を渡り進む、ゆるい坂を登り進むと山寺薬師がある。道路脇の駐車場に車を止め、長い石段を登る(写真)
薬師堂の参道周辺は、樹齢700年を超える杉並木と樹林に囲まれている。山寺薬師境内、並びに杉並木は上越市指定の天然記念物に指定されている。
    
千数百年前の平安時代のはじめに近くの丈六山(560メーター)の山腹に開かれたという天台宗山寺山(浄楽山)乙宝寺に安置されていたという5つの如来様が、鎌倉時代の始めに焼失してしまった。
その後、室町時代の明徳・応永年間(1390~1427)に三善讃阿の寄進により京の仏師、筑後法眼の手によって再建されたのが現在の三体の仏像である
    
山寺薬師三尊像について
正面向かって右から、釈迦如来座像薬師如来座像阿弥陀如来座像と三体の仏像が安置されています。 薬師如来像胎内には、大檀那三善讃阿、応永2年(1395)7月2日大仏師・筑後法眼、又、釈迦如来像胎内には、勧進沙門祐山、明徳5年7月10日、作者・六条仏師筑後法眼、とそれぞれ墨書銘が記されております。この仏像の寄進者は、三善為教 (恵信尼の父ではないかといわれている)の子孫である三善讃阿沙門であり、仏像の作者は、京都六条の仏師・筑後法眼である事があきらかになっており、県の文化財に指定されている。
延命清水
表参道、石段の登り口を右方向に少し登ると、延命の泉と呼ばれる泉があります。この泉は、どんな日照でも、又どんな大雨の時でも水量は常に一定だと言われている。この泉の水は、若がえりの水、万病にきくと言われ、難病の人々がこの泉の一滴で尊い命がすくわれたとも言われ、延命清水とよばれています。休日ともなると多くの人が、遠くは県外からもポリタンクを持って水を汲みに訪れる。
聖の窟
薬師堂の左、納経堂の細道を約7-8分程歩くと、親鸞聖人、恵信尼の三男・栗沢信蓮坊が(丈六山560m)修業したと言われる洞窟があり、当時の面影を残している聖の窟(写真)がある。頸城平野・日本海が眼下に見渡せる絶景の地であり、岩窟は歴史の古さを偲ばせる。窟の下方には親鸞聖人と妻・恵信尼の顕彰碑が建てられ休憩所となっている。

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[我が故郷] 国宝 岩殿山明静院

2008-11-26

旧国道18号線)の岩殿山明静院の入り口の建て看板(写真)はたまに前を通ると目に止まる、、かねてより、国宝か! 一度行って見たいなー、、
と思っていた。今日は天気もいいし、思い切って行ってみるか、、、カメラを持って行って来た。。

岩殿山明静院
この岩殿山は虫生岩戸(むしゅういわと)の岩殿大日堂と呼ばれ国分寺奥の院、又明静院と呼ばれ国宝 大日如来坐像が安置されています。聖武天皇在位の時、僧行基が国分寺を建立され(741年)3年間寝泊りした場所と言われています。又岩殿大日堂と呼ばれるところも僧行基が建てたと言われています。室町時代から戦国時代にかけて上杉家から厚く保護されておりましたが、上杉家に変わって堀 秀治に弾圧されてしまいました。これは真言宗教で有った為と言われている。その後江戸時代に天台宗となり、松平忠昌(家康の孫、高田城主3代目)から元和5年(1619年)に寺領12石をもらい正徳5年(1715年)に本堂を改築した。しかし寛延4年(1751年)の大地震により倒壊してしまい以後廃寺と成ってしまった。明治35年(1902年)住職の長谷川さんが東京上野東叡山明静院を分霊しお寺を再興し今日に至っている。
第3代高田城主、松平忠昌(1619~1681、徳川家康の孫)は上杉謙信を敬う心が深く奥の院に謙信の墓(写真)を寄附されたと言われている。明静院の裏山が沖見城跡となっており謙信の軍港郷津を警備する任務の城があったと言われております。


「出雲の国大国主命が越の国に奴奈川姫と言う美しい神様がおられる事を伝え聞き、越の国の糸魚川まで来られた、そこで姫と結婚し郷津の岩殿山の岩屋(写真)を住まいとし、越の国を治められた。そして建御名方命(たてみなかたのみこと)と言う神様が生まれた」各地の諏訪神社はこの建御名方命を祭神としております。従いましてここは各地の諏訪神社、発祥の地と言えるでしょう。

宝物、   平安後期藤原時代の作と言われる大日如来坐
       像がある。明治39年新潟県で初めて国宝に指
       定された。
拝観料、  500円
アクセス、 JR直江津駅より車で5分、駐車場より徒歩
       1~2分、旧国道よりの道は狭く又急勾配
       も有るので運転は注意が必要である。

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[我が故郷] 高田公園

2008-11-05

高田公園
高田公園は、徳川家康の六男、松平忠輝公が築城した高田城の跡に作られた公園です。面積は約50ヘクタールあり、市街地の中心部に位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。
公園内には、本丸跡に高田城三重櫓(写真左)が復元され、内部には高田城関係の資料を展示してます。このほか総合博物館、小林古径記念美術館、高田図書館、小川未明文学館(高田図書館内)などの文化施設をはじめ、陸上競技場、野球場等のスポーツ施設、ブロンズ像を配置した遊歩道、岩野勇三ブロンズコーナー、外堀をめぐる遊歩道があり、市民の散策や憩いの場となっています。公園やその周辺に植えられた約4,000本のは、日本三大夜桜の一つに数えられ、多くの観光客が訪れます。また日本画の大家、小林古径の邸宅や、忠輝公が本丸に向かうため内堀に建造した「極楽橋」も復元されました。
日本3大夜桜
高田公園のは明治42年、13師団の設置を 記念して在郷軍人会によって2,200本の 桜(ソメイヨシノ)を植えたのが始まりで、 現在公園内には約4,000本の桜が植え られています。 桜がボンボリの明かりに映え日本三大夜桜と 言われています。 又三重櫓と桜がボンボリの明かりに映え、 お堀の水面に映る様は日本三大夜景の一つ とも言われ華やかさに包まれます。 毎年4月上旬に開かれる観桜会には春を待ち かねた市民はもとより、期間中各地より 花見に訪れる100万人を超す人達で賑わう。 上越市の高田城址の夜桜は「日本三大夜桜」 とPRされている。後の二つは昔(10年 程前)は京都の円山公園、長崎の丸山公園、 だと言っていました。両者とも桜の規模は 小さく、夜桜はPRしていない為、最近は 東京の上野公園、青森県の弘前公園、と 言っている。上野も弘前も日本三大夜桜とは 言っておらず、上越市民の自称のようだ。。 いずれにしても上越市の夜桜は規模、内容 からしても日本一といっても過言ではない。
東洋一の蓮祭り
毎年7月下旬より8月上旬まで高田公園 で”蓮祭り”が開かれます。 東洋一と言われる蓮が高田公園の外堀を埋 め尽くし幽玄の世界が広がる。期間中、茶会 、句会、など色々な催しが公園内で行われる。 外堀に架かる朱色の西堀橋は、ハスの美しさをさらに魅力のあるものにしています

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[我が故郷] 金谷山スキー場(日本スキー発祥の地)

2008-10-29

金谷山スキー場

標高94メートルの金谷山からは、頚城平野、日本海、米山を一望することが出来ます。 夏はスーパーボブスレー、ハイキング、蛍が飛び交う、6月には「ほたる鑑賞会」、冬はスキーと、周辺は年間を通じアウトドアースポーツの楽しめる広場として整備されている。
又ここ金谷山スキー場は日本スキー発祥の地として名が知られて居ります。
かってはここ金谷山スキー場で冬の国体の(昭和39年だったろうか?)ノルディック種目が行われた会場である。 ”スキー発祥の地”と言うことで
毎年の様にジャンプ競技が行われた、しかしその60メーター級のシャンツエも今は無い。。。
レルヒ銅像

”メーテュル、スキー” (スキーを履きなさい)
この言葉で日本で始めてスキーが始まったそうです。オーストリアのレルヒ少佐は、日露戦争で勝利した日本の陸軍の研究を目的として来日し、一年余りを高田 で過ごしました。 明治44年(1911年)1月12日ここ金谷山で日本に初めてスキーが伝えられました。 この間、陸軍第13師団の長岡外史師団長らよき理解者に恵まれ、スキーの指導にも熱心に力を注ぎました。 この像(写真右)は昭和36年金谷山にスキー発祥50周年を記念して建てられました。
レルヒ祭

レルヒ少佐によって日本にスキーが紹介されたのを記念して毎年2月にレルヒ祭が金谷山公園で行われます。当時の様子を再現した一本杖スキーの実演など色々なイベントが行われます(写真左)
同じスキー場内に当時のスキーやレルヒ少佐に関する資料が展示されている、日本スキー発祥記念館があります。

全国に名をとどろかせたスキー場も温暖化の影響か?小雪でスキーリフトの動くのは例年僅かの期間である、(事前調査が必要)。
しかしスキーをやられる人には是非、スキー発祥の地、金谷山を一度尋ねて頂きたい。。。。。。。軽食喫茶”ロッヂ”がある、、、、、、
ここでコーヒーを飲みながら景色を満喫して下さい、寿命が延びるってもんだ。

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[我が故郷] 林泉寺

2008-10-16

林泉寺

林泉寺の正式名称は ”越州春日山林泉寺”と言い曹洞宗のお寺である。
上杉謙信の祖父、越後守護代長尾能景(よしかげ)が明応6年(1497)父重景(しげかげ)の17回忌供養の為柿崎町下小野の禅寺と上州子持村のせき林寺の開祖 曇英恵応禅師(どんえいえおう)を招いて開山とした。以後長尾家の菩提寺として栄え40年を経て、 謙信は天文5年(1536)7歳から天文12年(1543)14歳までの7年間ここで6代目天室光育 (てんしつこういく)から厳しい禅の修行と文武の道を学んだ。武将謙信の素養は、このとき培われたと言って良い。天室光育和尚は永平寺で修行をした名僧であったと言われております。

惣門
この惣門(写真上)は春日山城の裏門を上杉謙信が移築させたと言われております。
山門
この山門(写真右)は大正14年上杉謙信誕生400年を記念して建立されました。2階部分は唐様式、下の部分は和様式の総ケヤキ造りで釘は一本も使われていない。左右の仁王様は仏法を守る守護神、郷土の彫刻家滝川美堂さんの作品です。
林泉寺本堂
創建当時の林泉寺は七堂伽藍(しちどうがらん)が立ち並んで居たと言われている。しかし度重なる火災、地震にあい、現在の本堂は明治22年に創建されたがその後の本堂は林泉寺開基500回忌記念事業として平成10年に完成、翌11年5月16日に落慶法要が盛大に行われた。屋根の上部に五領主の家紋が付いている。真ん中が越後守護代長尾家の家紋の九曜巴、その右側が上杉家の家紋、竹輪双飛雀、右端が松平家の家紋、三つ葉葵、左側に堀家の家紋、丸に梅、左端が榊原家の家紋、源氏車、となっている。

御墓所
ひろい御墓所には上杉謙信の墓、供養塔、川中島合戦戦死者の供養塔、長尾家、堀家、榊原家、松平家、歴代住職のお墓、など等がある。。

◎拝観のご案内
 受付時間  09:00~17:00(冬季は16:00)
 志納料(宝物拝観料込み) 一般  500円
                小中学生250円
◎JR直江津駅より徒歩30分位、
 バスもあるが本数が少ない、タクシーで1,200円位。
 ご用命は頚城ハイヤー 025-543-3488 へ。


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[我が故郷] 親鸞聖人。越後七不思議(7) 片葉の葦、

2008-10-11

越後の七不思議、 片葉の葦

越後七不思議の1番、片葉の葦、(写真)について色々な説がある。片葉の葦は五智の親鸞聖人上陸の地、居多神社、など一帯に群生する。

聖人が越後で最初に配流になった国府では、国分寺境内の草庵に居住していたが、ある日この地の居多神社に詣で    「わが念願を守りて、その奇瑞をあらわし給え」と祈願をこめたところ、境内に生えていた葦が一夜のうちに片葉になったと伝えられている。

居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は、最初に居多神社を参拝しました。ここで聖人は            末遠く 法をまもらせ 居多の神 弥陀と衆生の あらむ限りは
(すえとおく のりをまもらせ こたのかみ みだとしゅじょうの あらむかぎりは) と詠みました。この親鸞聖人の教えに感化されて、葉が片方だけを向いてなびいたそうです。

流罪となり越後国府に流された親鸞聖人は居多ヶ浜周辺で布教しましたが、罪人であるとして話を聞く者がいませんでした。そこで聖人は
    結びおく 片葉の葦の 後の世に わがあと慕う 小道しるべに
(むすびおく かたばのあしの のちのよに わがあとしたう こみちしるべに)   
という歌を詠んで、傍らの葦の葉をちぎりました。その後、このあたりの葦はすべて片葉になってしまいました。

越後国府での7年間の布教活動の後、関東常陸の国(現茨城県)に旅立たれる時人々は悲しみ惜しみました。その後付近の葦の葉も関東の方を向くようになった。

上陸の地で片葉の葦を見た人は ”これは海風、西風で葉っぱが片方を向いているんだよ”と言うがそれでは海風の影響を受けない居多神社の片葉の葦はどう説明する??。 いずれにしても不思議である。

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[我が故郷] 越後七不思議(6) 鳥屋野の逆さ竹

2008-10-06

鳥屋野の逆さ竹

聖人が越後で過ごされたのは7年間だが、国府から鳥屋野に移り、数年間草庵をむすんで、農民とともに暮らし、布教して過ごされたという。聖人の当時のご苦労が偲ばれるのは、念仏の教えを広めようとしておられたが、誹謗されることも多く、聖人は「此里に親の死したる子はなきか 御法の風になびく人なし」と歌を詠まれた。そして、竹の杖を地面に挿して
「我が弘(ひろ)むる所の法 若し仏意に称(かな)
              はば此枯竹必ず当に根芽を生ずべし」

と言われた。その後、枯れた竹は青々と繁茂して一大竹林となったが、不思議なことにその枝は逆さに伸びていた。その後、聖人の遺徳を偲んで、順徳天皇が承久3(1221)年佐渡へ流されるときに鳥屋野に立ち寄られ、 「はしたかの鳥屋野の浅茅ふみわけて おのれとかえる秋の狩人」と詠まれている。(西方寺向かいの鳥屋野神社に句碑が刻まれている。)

真宗大谷派 鳥屋野院西方寺

所在地      新潟市鳥屋野3-1-22
拝観日時     事前予約が必要
アクセス     黒埼I.C.より車で5分
         タクシーを利用するなら、新潟駅南口から
         2500円程度。
         竹林は拝観自由ですが、西方寺拝観後に行くことを 
         お奨めします。(寺から徒歩約6分)
拝観冥加金    300円
宝物       逆竹 (国天然記念物)
         紫竹淡竹染分竹
         草座の御影(親鸞聖人御真筆)
         聖徳太子木像 (親鸞聖人作)
         草庵跡(多屋の飛境内) 
         枕石(草庵の向かいの墓地内) 他

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[我が故郷] 越後の七不思議 (5) 田上の繋ぎ榧

2008-09-28

田上の繋ぎ榧(たがみのつなぎがや)

刃物などで有名な新潟県三条市の北東の田上町の護摩堂山の麓にあるご旧跡のことです。親鸞聖人が、護摩堂城の城主宮崎但馬守に招かれて法話を説かれた折、城主は、お茶受けにと榧の実を献じられました。この榧の実は、農民が年貢米の代りに納めたり、飢饉や洪水でお米の穫れない時に食用にしたもので、糸を通して珠数のように繋いで保存していたそうです。一粒ごとに繋いだ穴のあとがあります。親鸞聖人は、その一粒を地に植えて仏縁を説かれたところ、芽を出し実を結んだと言われております。しかも不思議なことに、青々とした葉が表向きと裏向きのものが互い違いにひっくり返しになっているのが見受けられ、これをお手返しの榧とも呼んでおります。

  我が跡を慕うて来いよ繋ぎ榧 み法のあとを通すひとすじ

と聖人は詠まれております。了玄寺の庭にある天然記念物の榧の老木(樹齢760年)は、500年ほど前、城跡から移植されたものと伝えられています(写真中央)

真宗大谷派 了玄寺

所在地   南蒲原郡田上町湯田上
拝観日時  事前予約が望ましい
アクセス  磐越道、新津I.C.から車で20分(北陸道、三条・燕I.Cから50分)     
      JR信越本線田上駅から徒歩20分位い
拝観志   300円
宝物    親鸞聖人御真筆 十字名号
      蓮如上人御真筆 六字名号
      親鸞聖人御自刻御真影(関東へ出立される時のお別れの御影)
      親鸞聖人像(榧材による蓮如上人御自刻) 
      11世顕如上人聖道門修業中の御姿像

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[我が故郷] 親鸞聖人。越後七不思議(4) 山田の焼鮒

2008-09-22

山田の焼鮒

信濃川を挟んで鳥屋野の対岸に山田(旧黒崎町、現新潟市西区)という集落があります。聖人は鳥屋野の草庵から山田に念仏布教にお越しになっていました。建暦元年11月(1211年)流罪をゆるされた聖人は、鳥屋野の草庵を出立され、見送りの信徒と共に山田で別れの宴を催されました。その折、信徒の一人が焼いた鮒を聖人に献じました。聖人は、つけていた袈裟を傍らの楠にかけ(榎と言う説もある) 「わがが真宗のみ法、仏意にかない 念仏往生間違いなくんばこの鮒 かならず生きるべし」とおっしゃり、この焼いた鮒を近くの山王神社境内の池に放されたところ、不思議にも鮒は生き返って泳ぎ出したと伝えられております。それ以来、この付近の鮒には、焼いた跡のように色が黒く残っているとのことです。(写真の碑の見真大師とは親鸞聖人が明治天皇から与えられた大師号です)


また、寛政8年(1796年)、山王神社境内の大楠の枝が大風のため折れてしまったので切ったところ、切り口に親鸞聖人のお姿と焼き鮒の形(写真は焼鮒)が現れました。人々は聖人の偉徳の現れとして山王神社の神官田代家に安置し聖人を偲ぶようになりました。(写真は郷土黒崎の歴史探訪より)


田代家
所在地   新潟市西区山田646 
拝観日時  事前予約が望ましい
アクセス  黒崎I.C.より車で5分
宝物拝観冥加金  300円

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[我が故郷] 親鸞聖人。越後七不思議(3) 保田の三度栗

2008-09-15

越後の七不思議 保田の三度栗

親鸞聖人が保田の里(現在の阿賀野市)に布教に来られた時、一人のはたを織るおばあさんが念仏の教えにふれてたいそうよろこぴました。その喜びを表そうにも、おばあさんはどうしてよいかわからず、たまたま持っていた栗の実を焼いて親鸞聖人にさしあげました。そして、お名号の交付を願いました。ところがその場に一枚の紙もありません。おばあさんは、たまたまそこにあった大切な織りかけの布をさいてさし出し、聖人はそこに「南無阿弥陀仏」と書いてお与えになりました。聖人はその後、おばあさんからいただいた焼栗を、帰る途中の「上野が原新山」というところで土に埋め、 「わが勧むる弥陀の本願、末世に繁盛いたすならば、この栗ここに根芽を生じ、一年に三度花咲き実るであろう」とおおせになりました。その言葉の通り、栗の木は年に三度花と実をつけたと伝えられています。また、1枚の葉の先が2枚に別れて成長したといわれています。当時の木は枯れてしまいましたが、現在では若木が育ち、今でも1年に3度実をつけています。

真宗大谷派 焼栗山(しょうりつざん)孝順寺

所在地   阿賀野市(旧 北蒲原郡安田町)保田 
拝観日   事前予約が望ましい(12月~3月まで休館)
拝観期間 4月1日から11月30日まで(お盆中は閉館)
拝観時間  午前9時から午後4時まで
アクセス  自動車:磐越道安田I.C.から車で10分
      新津駅からタクシーで15分位
拝観志   300円(小中学生無料)
宝 物   親鸞聖人御自刻の御真影、堂宇(旧斎藤邸本邸)
      石仏(四体の中世阿弥陀佛と諸佛)

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[我が故郷] 親鸞聖人。越後七不思議(2) 小島の数珠掛け桜

2008-09-10

越後七不思議、小島の数珠掛け桜

親鸞聖人が、暫く布教の為滞在されていた小島(旧京ヶ瀬村小島)の草庵を立たれる時、その手に掛けられた百八の数珠を道の辺の桜の木にかけ、 「わが弘むる他力本願のみ法にいつわりなくば、花房、数珠のごとく咲くであろう」 とおっしゃったところ、その通り、今に至るまで、うすくれないの花が、数珠のふさのように長くたれ下って咲くようになったと言われています。この桜の木(写真右)も、昭和2年、国の天然記念物に指定されています。
浄土真宗本願寺派 八房山梅護寺

所在地   阿賀野市(旧 北蒲原郡京ヶ瀬村)小島     
拝観日   事前予約が望ましい
拝観時間  午前9時から午後5時まで
拝観志   300円
      (桜の開花は5月連休くらい/
      梅の開花は4月上旬、結実は5月 中旬)
宝物    十字梅の名号(親鸞聖人御真筆)
      聖人開基蓮位房連座の九字名号(親鸞聖人御真筆)
      六字名号(八代蓮如上人御真筆)
      親鸞聖人等身御真影(三方正面真向の絵像)     
      親鸞聖人御腰掛御真影像(三世覚如上人御作の木像)
      三十五光明御本尊(三世覚如上人御筆)
      自然石六字尊号(南無阿弥陀仏の六字がある石、
      親不知から出土)

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[我が故郷] 親鸞聖人。越後七不思議(1) 小島の八つ房の梅

2008-09-06

越後七不思議、 小島の八つ房の梅

小島の里でのご教化の途中、親鸞聖人は一軒の家に宿をおとりになりました。そしてその家の夫婦に、 「世路にまぎれて生きる者の、生死を出づべき道は、本願の念仏を聞き、他力廻向の信心のほかにありえない」とお話になりました。それを聞いた夫婦は涙を流してお念仏の教えを喜ばれました。夫婦がお膳に出した塩づけの梅を、聖人は手にとって、 「弥陀の本願を信じまいらせ浄土往生疑いなくば、この漬けたる梅より芽を生じ、花一輪に八つの実を結んで末代まで繁り栄え、凡夫往生の証拠となるべし」とおっしゃって庭前に埋められるや、やがて枝葉は四方にひろがり、花は薄紅の八重咲きで、一輪に八つの実を結ぶようになったと伝えられます。この梅の木は梅護寺境内のもと草庵のあった跡にあります。上越市の光源寺にも梅護寺より株分けされた八つ房の梅がある、、、、

浄土真宗本願寺派 八房山梅護寺

所在地   阿賀野市(旧 北蒲原郡京ヶ瀬村)小島     
拝観日   事前予約が望ましい
拝観時間  午前9時から午後5時まで
拝観志   300円
      (桜の開花は5月連休くらい/
      梅の開花は4月上旬、結実は5月 中旬)
宝物    十字梅の名号(親鸞聖人御真筆)
      聖人開基蓮位房連座の九字名号(親鸞聖人御真筆)
      六字名号(八代蓮如上人御真筆)
      親鸞聖人等身御真影(三方正面真向の絵像)     
      親鸞聖人御腰掛御真影像(三世覚如上人御作の木像)
      三十五光明御本尊(三世覚如上人御筆)
      自然石六字尊号(南無阿弥陀仏の六字がある石、
      親不知から出土)

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[我が故郷] 親鸞聖人。 柳清水、 ゑ信尼公納骨塔、

2008-08-30

親鸞聖人の御配所があった国府別院には八つ切りの御名号と柳清水の御名号が宝物となっております。
八つ切りの御名号は親鸞聖人が関東に旅立ちされる時信者が心からお名残りを惜しんでいたので、一紙を八つに切って六字の御名号と 「恋しくば南無阿弥陀仏を唱うべし 吾も六字の中にこそ 住むなり」 の一首を添えて信者に与えられたと言う。

柳清水の御名号は信者の藤左衛門が少し離れた柳清水から毎日の飲み水や硯の水を汲んできてくれたのでやはりお礼に六字の御名号を書き与えたと言われています。
柳清水(写真左、右)は家から徒歩で数分のところに有ります。先日仕事の観光案内の研修で初めてこの柳清水の存在を知った。ほとんど毎日近くを通ったり前を通るが(確かに道路から20メーターくらい中に入っている)名前すら知らなかった、 何とまー、無知と言うか、ばちあたりなこと!
地元現板倉区米増出身の恵信尼は親鸞聖人と結婚しここ国府別院の竹ヶ前草庵(たけがはな)で結婚生活を送られたが恵信尼公700回忌法要を記念して納骨塔が造られた。このお墓は恵信尼公の板倉のお墓と同じ造りになっている(写真)五輪の塔は上から 、風、、と人間の五体を現していると言われております。

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[我が故郷] 親鸞聖人。 浄善寺(じょうぜんじ)

2008-08-25

親鸞聖人にかかわりのあるお寺と言うことで柿崎町の浄善寺(写真)に行ってきた。当然のこと予め地図で調べていった、 確かこの辺なんだがお寺らしきものは無い、、 通りかかったお婆ちゃんに聞いてみた、 あのー、浄善寺は何処ですかね?  あー、そこだわね! そこって何処!!
十字架を付ければ教会と間違いそうな建物がお寺だ。。インド、パゴタ様式と言う造りだそうだ。
ここ浄土真宗本願寺派浄善寺には親鸞聖人の川越名号御枕石が安置してある。ある年の冬のこと柿崎町の里扇屋の門に立たれ一夜の宿を頼まれたが断られたので止む無くその軒場で一夜の宿を過ごされた。この時親鸞聖人が枕にされた石が御枕石である。 この家の夫婦は夜中に聖人の奇端にふれ驚いて家の中に招待しその教えを聞いて聖人の弟子となった。翌日米山川(黒川)の辺りまでお見送り申し上げ名残を惜しみ川の向こうの聖人から帰命盡十方無皇光如来の十字名号を賜った。世にこれを川越名号という。静まり返った境内には墓地、鐘堂などがある。
JR柿崎駅から徒歩5分位で行ける。駅横の頚城ハイヤーからワンメーター660円だ。

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[我が故郷] 親鸞聖人。 恵信尼(ゑしんに)

2008-08-18

恵信尼(ゑしんに)1182-1269

恵信尼(ゑしんに)は、この地方の豪族三善為教を父とし、1182年に生まれました。越後に流罪と成った9歳年上の親鸞聖人と結婚し、男女6人の子どもに恵まれました。この地で7年の生活後(国府別院にあった竹ヶ前草庵にて生活された)関東に約20年、(茨城県)その後京都で暮らされ、70歳を過ぎて越後に帰り、故郷の板倉の地で子や孫と過ごされ87歳の生涯を閉じました。板倉区米増の五輪の石塔、樹齢600年を超えるこぶしの木の古株、そして古い地名や大正10年京都西本願寺宝庫から発見された恵信尼文書10通の手紙の中に恵信尼が石塔を建てたことが記されており、ここが晩年を過ごし生涯を閉じられた地であろうと推定されました。
 親鸞の妻として、多くの子を育て、教えを貫き、暖かい優しさと心の強い人であった。
ゑしんの里記念館

ゑしんの里記念館は、親鸞聖人、恵信尼ゆかりの歴史資料や関連書物・研究書などを展示するゑしんミュージアム、地域の観光情報を広く紹介する観光情報コーナー、そのほかに特産品販売コーナー、多目的ホール、和室、食堂、芝生広場などが設けられており、板倉区の観光拠点施設として整備されました。

〒944-0135
新潟県上越市板倉区米増27-4
電話 0255-81-4541

開館時間 午前9時~午後9時
休館日  月曜日(祝日の場合はその翌日)
入館料  無料

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[我が故郷] 親鸞聖人。 浄興寺(じょうこうじ)

2008-08-11

ブログに掲載する記事の写真撮影にTV局のリポーターにでも成った気分でハードオフブックオフで買った中古の(12,000円)デジカメを担いで?(手にぶら下げて)行ってきた。お盆を前に灯篭の設置作業が行われていた。歴史はあまり好きでもないし得意でもない(どちらかと言うと地理が好き)が色々調べていると随分勉強に成るネ!そして故郷にも色々有名なところ、自慢したいところが沢山ある事を改めて実感したよ。。。
浄興寺(じょうこうじ)
浄興寺は真宗浄興寺派本山の寺院。 山号は歓喜踊躍山(かんぎゆやくさん) 正式な寺号を浄土真宗興行寺(じょうどしんしゅうこうぎょうじ)と言う、略して浄興寺。 開山は浄土真宗の開祖、親鸞聖人。最盛期には越後、信濃、出羽の三国に約90か寺の末寺を従えた。 真宗大谷派の別格寺院であったが親鸞聖人さまが自ら開祖なされたお寺と言うことで昭和27年に60年の念願が叶い真宗浄興寺派として独立した。 本堂は入母屋造りで県下最大規模の真宗寺院建築で平成元年に国の重要文化財に指定されました。9年をかけた大修理が平成16年に完成しました。
御本廟
御本廟には親鸞聖人の御頂骨が安置されている為歴代の門主さまも御本廟を慕い御頂骨を分納されている。説明板によると第3代覚如上人から第20代の達如上人まで納められていると言う。又この土地の多くの浄土真宗の方々も納骨されている。 上越市指定の文化財である。

梵鐘
境内の梵鐘(写真右)は上杉謙信公の寄進された物と伝えられている。
又隣には経堂がある。本堂の右側には納骨なさるお客様の為の拝堂がある。
その隣の宝物殿には親鸞聖人が刻まれたと言う聖徳太子の木像や、叡空、法然、親鸞、と三祖伝持(さんそでんじ)の念珠(じゅず)など県指定文化財や書籍など多数展示されている。

会館時間; 午前9時~午後4時30分
入館料 ; 大人 500円 小中学生 250円 

追記 愛犬の眠っているお寺
ここには我が家の愛犬の2代目ラッキー、そして今年1月20日に病死した3代目ミッキー(写真左)が眠っている。
ラッキー、ミッキー、の眠っているお墓へ行きお参りをしてきたよ。
墓地はお彼岸、命日以外訪れる人も少ないが、ここペットのお墓(写真右)は毎日訪れる人が後を絶たない。そしていつ行っても沢山のお花、などが供えられているわ!!複雑な気持ち、ある意味で つくづく日本は平和だなーと実感した。。そしてこの様な有名なお寺で眠っているラッキー、ミッキー、は幸せだなー、俺が死んだらどこのお墓に入るのかなー、なにか心配になってきた!!

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[我が故郷] 親鸞聖人。 国府別院、 光源寺、

2008-07-24

国府別院(竹ヶ前草庵、たけがはなそうあん)
本願寺国府別院は、親鸞聖人が35歳の時に承元の法難により国府に流罪と成った時、最初に今の国分寺境内の竹之内草庵で過ごされ、その後、念仏解禁により移り住まわれた竹ヶ前(たけがはな)草庵の地である。この草庵を足がかりに、妻である恵信尼公とともに、越後の人々とともに生き、念仏の教えを深めていかれた。現在は西本願寺の直属寺院である。
聖人が旅たった後、草庵は荒廃し、近くの天台宗宝持院の土地となったが、文化2年(1805)門信徒の懇念により本堂が建立され明治4年(1871)宝持院から西本願寺が土地を買い求め、明治9年(1876)「小丸山別院」と公称、さらに昭和5年(1930)「本願寺国府別院」と改称された。
内陣は出内陣、正面同一須弥壇上に阿弥陀如来・親鸞聖人影像を並べて安置し、彫刻、極彩色の欄間天井等、親鸞聖人ご旧跡にふさわしい独特の結構様式である。
本堂(写真右)の左が竹ヶ前草庵の旧跡である。
その前の方に松の木があり樹齢800年と言われ聖人が布教なされた頃は袈裟を掛けるのに丁度良かったと言われていたが平成3年8月に松喰い虫に病かされたり、老木と言うこともあり伐採された。今では本堂の中にある写真でしか見ることは出来ないが、ただ根株だけは昔を偲べる。
光源寺(こうげんじ)
承元元(1207)年、親鸞聖人が越後国府に御上陸されたときに、木曽義仲の家臣で、堀徳兵衛光政が聖人に深く帰依し、覚円坊最信の名を聖人から賜った。聖人が関東へ旅立たれた後も、最信は同行せず、この地に一宇を興し、覚円坊と称した。天正3年(1575)、教如上人より寺号をいただき、覚円坊を光源寺と改め、享保17年(1732)、真如上人の時代に光源寺は本山(東本願寺)の抱地と成った。
 親鸞聖人が流罪赦免の際に自ら写されたとされる「御満悦の御真影」は、左手が上に上がっているため「左上御影」ともいわれ、全国でも数点しか見られないものである。
 本堂は、中央に「御真影」を安置する御影堂、向かって右に宮殿があり、御影堂と本堂とを併設した全国的にも珍しい形態をとっており、大谷派本願寺高田別院の支院として国府影堂または国府御坊と呼ばれてきました
門の右側の石碑は親鸞聖人が流罪となりこの地に上陸されて750年の法要の時に記念して建てられた高浜虚子の句碑です。
「野菊にも 配流のあとが 偲ばるる」

境内に越後七不思議の一つの 八房の梅 がある。北蒲原郡京ヶ瀬村の梅護寺から株分けされた梅で、一つの枝に8個の梅の実がぶどうの様に実を付けると言う。
他に境内にはいくつかの供養等などが有る。

上記はいずれもJR直江津駅より徒歩で20分くらい、タクシーで840円くらいかな。。


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[我が故郷] 親鸞聖人。 養爺清水、 鏡ヶ池、

2008-07-17

養爺清水(ようやしみず)

親鸞が竹之内草庵に滞在していた時、飲み水や書道の水として使ったと言われている。夏の日照り続きでも枯れないと言われる名水で、今でも清水がこんこんと湧き出している。「元気回復の水」として、近所の人だけでなく多くの市民から親しまれている。

    
      国分寺のすぐ近く、歩いて数分で行ける。

鏡ヶ池(かがみがいけ)

国分寺の裏門を出たところにある池。
親鸞がこの池で自分の姿を映して、像を刻んだのでこの名がついた。この時作られた聖人像「伝親鸞聖人坐像」は、竹之内草庵にまつられている。

いずれもJR直江津駅より徒歩15-20分くらい、タクシーで750円位かなー!

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[我が故郷] 親鸞聖人。 五智国分寺

2008-07-10

五智国分寺
天平年間(740年代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は今もって不明であるが室町時代には都から多くの文人墨客が訪れ国分寺を参詣している。永禄5年(1562)近隣の春日山城主上杉謙信によって、現在の場所(新潟県上越市五智)に再建されました。その後幾度となく災興を繰り返し江戸時代には元禄2年、寛政6年と火災に遭い、現在の本堂は昭和63年焼失後の平成9年に再建されたものです。
 
竹之内草庵
承元元年(1207)、専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となりました。その時、国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友でありましたので、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結び、この国分寺にお住まい頂きました。その草庵は、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれるようになりました。
三重の塔
三重の塔は、寛政6年の火災以後、安政3年(1856)に宮大工木曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工されました。その後、慶応元年(1865)に上棟され整備されてきましたが、高欄などが未完成のまま現在に至っております。


そのほか境内には
山門(市指定文化財)
    天保6年(1835)左右の仁王像は京都の仏師の作で翌年開眼した。
経堂(市指定文化財)
    元禄6年(1693)の棟札があり、建立年代の判る市内最古の建物。           
梵鐘
    ステンレスで鋳造された梵鐘は世界初である。

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[我が故郷] 親鸞聖人。居多神社、片葉の葦、

2008-07-04

居多神社(こたじんじゃ)
大国主命(おおくにぬしのみこと)
奴奈川姫(ぬながわひめのこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと=諏訪神)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
縁結び、子宝

媼嶽(おうなだけ)明神・居多明神ともいう。
当地は上杉謙信の居城の春日山城があったため、越後守護・上杉家の厚い保護を受け、越後一ノ宮として栄え、また、徳川家康以下歴代将軍・徳川家や高田藩主・松平氏・稲葉氏・榊原氏等の崇敬が篤かったといわれている。
当初は日本海に面した山腹にあったが、慶応2年(1866)海岸浸食のため、山崩れにあい、明治12年(1879)現在地に遷座。

親鸞聖人が近くの居多ヶ浜に上陸し最初に参拝した神社と言われている、境内には親鸞聖人像や親鸞聖人の七不思議の一つの「片葉の葦」がある。

老朽化により本年(平成20年6月)新しい神殿が完成した(写真右)

片葉の葦(葦の葉が片方だけに生えている)
越後七不思議の第一番。親鸞の教えに感化され片葉になったという。葦の葉の向きは、西方浄土へ向いているとか、常陸へ旅立った聖人に心引かれ関東を向いているなど諸説がある。


境内には親鸞聖人像(写真右)大国主命像などがある。

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[我が故郷] 親鸞聖人。 上陸の地、

2008-06-30

親鸞聖人は承元元年(1207)専修念仏禁止 の弾圧によって師法然は土佐へ、親鸞は越後国府(現上越市)に 流罪となる。親鸞35歳であった。配所 では藤井善信(よしざね)と言う俗名を 名乗り「僧に非ず俗に非ず」と言う生活 を送る。赦免まで5年その後2年をこの 地で生活。 この間、恵信尼と結婚 信蓮房が生まれる 。この頃今の国府別院の地に住んでいたと伝えられる。越後七不思議などの伝説が数多く 伝わっている。 建保2(1214)常陸国(茨城県)へと 旅たち浄土真宗を開く。 弘長2年(1262)京都で90歳で没する。 上越市には親鸞にまつわる寺社や旧跡が 多く残っている。
流罪と成った親鸞が上陸した所と伝えられている居多ヶ浜(こたがはま)。今は公園(写真右)になっていて、日本海に沈む夕日を眺めていると、親鸞聖人の昔を偲ぶことが出来る。公園内に親鸞聖人の像が安置されている見真堂がある。又無料の休憩所もある。JR直江津駅より車で5分くらい、タクシーで840円くらいかなー!!タクシーのご用命は頚城ハイヤー(マルケー)をどうぞ。。。。。。
以前はここ直江津の海岸からは佐渡ヶ島が望めたが最近はどう言うことか判らないが良く晴れた澄み切った日でないと佐渡が見えなくなったねー!!

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[我が故郷] 故郷、 上越市(じょうえつし)

2008-06-26

わが町、上越市は工業の町、直江津市と、 商業の町、高田市、が昭和46年に合併して 人口132,000人の上越市が誕生しまし た。
そして平成の大合併で近隣の町村と合併し 人口210,000人となりました。そして平成19年4月1日上越市は特例市と成りました。 しかし上越市といっても余りピンとこない方 も多いと思います。特にご年配の方には
高田市、直江津市、の方が印象が深いのでは と思います。
北に日本海、南に妙高連峰が有り、春の桜、 夏の海、秋の紅葉、冬の雪、など四季が ハッキリと感じられます。

近くに上信越国立公園を有し、四季を通じ 観光客が訪れます。有名な温泉地も近くに 有ります。又市内にも民間、公共を含め 10数箇所の温泉施設が存在いたします。 車で1時間以内には10箇所のゴルフ場が 有ります。
おいしい新潟米「こしひかり」の本場でも有り 市内には16の酒蔵が有ります。

鉄道は北陸本線、信越本線、北越急行、が 通り、北陸新幹線も平成26年の開通を 目指して工事中です。 開業すれば上越市と首都圏が乗り換えなしで
1時間50分で結ばれるでしょう。 今は越後湯沢乗換え上越新幹線経由で2時 間ちょっとです。

海上交通網は直江津港より佐渡市、の小木港、 北海道、室蘭港、九州、福岡博多港、へと フェリーが就航しております。(九州、北海道航路は現在休止中) 又隣国韓国、中国へも定期コンテナー船が 就航しています。 それ以外にも時々数万トンの貨物船が着岸 しております。

高速道も北陸高速道、上信越自動車道、が 通り関西方面、中京方面、関東方面、東北方面へと大変アクセスが便利です。 新潟空港へは高速道で約1時間45分又 富山空港へは高速道で約1時間30分と 空の便も大変便利です。

又市内には大変大きなショッピング モールも3つ有り大変便利です。 歴史も古く有名な観光地、名所旧跡も多数 存在し、益々発展が期待されております。 しかし残念ながら余り知られておりません。 こんな我が町上越市を少しづつご紹介したいと 思います。

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プロフィール

名前は:ham 
年齢は:爺 ♂
血液型:B型 みずがめ座

辛い事もあったが楽しい事も、、
良い思いも沢山させて頂いた
激動の人生、
昔のこと、今の事、自由に綴る
我が人生、






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