2010-10-31

[我が故郷] 高田城下、3つの番所跡、

戦国時代、無敵を誇った武将上杉謙信の居城春日山城、謙信の死後養子の上杉景勝が城主となり上杉家の会津移封により徳川家康の家臣、堀 秀治が春日山城に入った江戸時代に入り秀治の死後、子の堀 忠俊が春日山城主を継ぐがまもなく今町(直江津)に福島城が完成、春日山城は廃城となった。1610年、堀 忠俊に替り徳川家康の6男、松平忠輝が城主となったが1614年、高田城が完成し忠輝は高田城に移り福島城は廃城となり城下は今町(直江津)から高田へと変わった。
江戸時代、幕府によって主要な街道に、旅の目印として1里(4キロ)毎に塚が建てられた(1里塚)。高田城下の北と南の出入り口にあたる陀羅尼町(現北本町)、伊勢町(現南本町)にも1里塚が設けられ、又口留番所が置かれ、番所では通行人や荷物を厳しく取り締まり、商品の運上金(営業税)の徴収も行った、規模の小さな関所である。ここから高田城下に入ると通行人は馬から降りなければならなかったし、くわえたばこも禁止された。高田城下ではこの他に稲田口(現東本町5丁目)にも番所があった。
陀羅尼口番所跡、一里塚跡
上越市北本町3丁目の国厳寺の北側に陀羅尼口番所、一里塚(写真)があったが、道路工事に伴い数十メーターほど北に移動したようである(北本町4丁目、樋口石材の少し北、小菅商店の向かい)高田城下から加賀街道に出入りする人、荷物を取り締まった。又ここに「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔(写真上)が建てられている、藩政史料によれば寺町の長遠寺から寛政12年(1800)6月に藩宛てに建立願いが出されている。これらの題目石塔は「北の宝塔、南の宝塔(伊勢町口)」と言われ今日まで市内の日蓮宗寺院で護持してきました、特に僧俗一体となって行われる寒中修行の唱題行脚ではこの題目宝塔まで巡拝します。 =案内板より抜粋=

伊勢町口番所跡、一里塚跡
南本町1丁目のバス停のちょっと南に伊勢町口番所跡、一里塚跡(写真右)がある。 ここでは高田城下から信州方面へ(北国街道)出入りする人、荷物を取り締まった。又「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔(南の宝塔)がある、題目の下に日蓮宗の本山、身延山久遠寺第64代日仲上人の署判があり、その在任期間からして弘化年間(1844~1847)に建てられた物と推測されます。南本町1丁目、高田新田の信号、(中華料理ピオニ―ズの有る処)交差点、道路新設工事に伴い、旧地より北西約30メーターの現在地に、1里塚、番所跡の史跡標柱と共に移設した。 =案内板より抜粋=

        
稲田口番所跡、高田銭座跡
東本町5丁目、稲田橋の西側に稲田口番所跡と高田銭座跡(写真左)がある。ここは高田城下から奥州街道、今町(直江津)方面へ行く出入り口である、松平忠輝は高田城築城にあたり関川河口の往下(おうげ)橋を廃止した、軍事上の目的と、高田城下に旅人を入れて町の繁栄を考えたのである、従って糸魚川方面から新潟方面に行く旅人は五智から加賀街道を通り、陀羅尼口番所を通り高田城下に入り稲田口から奥州街道を利用しなければならなかった、その為直江津、今町の発展は大きく阻害された。
又この地に銭貨の鋳造発行所である銭座(ぜにざ)があった。江戸幕府は民間に鋳造を請け負わせた、高田の銭座は松平光長時代(1624~81)鍋屋町(東本町)にあった。瑞泉寺(南本町3丁目)の「時の鐘」は寛文9年(1669)松平光長の、高田姫の命でここで鋳造された。

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