2015-08-08
今年は戦後70年、間もなく終戦記念日を迎える、6日に広島、そして明日9日は長崎に原爆が投下された。テレビの特別番組で目を伏せたくなるような光景を見るにつけ複雑な感情をおぼえる。琉球政府のご厚意で南部戦跡を案内していただいた(写真はひめゆりの塔)。
本土に復帰後も何度か沖縄を訪れたが、20万人が犠牲となった沖縄での地上戦、平和記念公園の平和の礎を見るたびに戦争の悲惨さを痛感せずにはおれない。摩文仁の丘に立ち、静かな真っ青な綺麗な海を眺めていると、今の平和な日本からは想像するのは難しい、しかしこの陰にたくさんの犠牲が有った事を決して忘れてはならないだろう、、、
旧日本陸軍、第32軍司令官、牛島満中将と長勇参謀長を祀っている黎明の塔(写真)を訪れた。戦争を経験し海上保安庁で鍛えられた佐藤キャプテン、君はこのような所に来るのにネクタイをしてこなかったのか! と気合を入れられた事を今でも忘れられない。沖縄は何度も訪れたが元気なうちにもう一度、ゆっくりと訪れたいと思っている、、、
なんとなくネットをあちこち眺めていると名物船長 佐藤孫七教授が亡くなられたと言う記事を目にした。東北のズーズー弁で船の指揮をしていた、厳しい中にも愛嬌のある、がっしりとした姿を今でも懐かしく思い出される。大学の出版会より「キャプテン孫七航海記」が出版されている事を知りすぐに購入し懐かしく読んだ。明治43年(1910年)に山形県に生まれ、旧制尋常小学校を卒業するとともに小型漁船の漁夫として海に出た。山形県水産試験場、農林省水産講習所、千葉県水産試験場などの漁業指導船に乗り組みながら独学で海員国家資格に挑み、昭和20年(1945年)には甲種船長の資格を取得したという努力の人である。その間1944年秋には、海軍水路部観測船「第四海洋」の船長として、マリアナ沖での観測中に気圧898ヘクトパスカルという超大型台風を乗り切って奇跡の帰還を果たしている。戦後は海上保安庁水路部の観測船の船長として、戦禍で荒れた水路や灯台の整備、補修にあたる傍ら、海に関する豊富な知識と技術を駆使して海底地震計の設置など日本の海洋観測を縁の下で支えてきた。その後東海大学の海洋調査実習船 東海大学丸二世 の初代船長、海洋学部教授として活躍され、平成18年(2006)1月23日に97歳で亡くなられた。