2010-09-28

親鸞親鸞は承安3年(1173)、日野有範の子として京都(現在の伏見区)で生まれた。日野家は藤原家の流れを汲む下級貴族であったと言われる。有範の朝廷での地位は皇太后宮大進で、恵まれた家庭ではなかった。4歳の安元2年(1176)に父を、8歳の治承4年(1180)に母を失ったといわれている。養和元年(1181)、9歳の春、青蓮院の慈円の門に入って得度し、比叡山延暦寺に登った。以後、建仁元年(1201)、29歳で山を下るまでの20年間、常行三昧堂で不断念仏を行ったがなんの光明も得る事が出来なかった。当時の社会は、平安時代の終わりにあたり、自然の災害や、平氏と源氏の戦いが続き、この世の終わりが近づいたと人々の目に映っていました。建仁元年、京都の吉水に聖徳太子が建てられた六角堂にこもり、百日参りをされた、そして95日目に親鸞は夢を見、法然上人を訪ねるようお告げがあった、親鸞聖人の夢記にはこう書かれています。
六角堂の救世大菩薩、顔容端政の僧形を示現して、白柄の御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮に端座して、善信(親鸞の当時の名前)に告命して言はく。行者宿報にて設ひ女犯すとも我れ玉女の身となりて犯せられむ。一生の間、能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめむ。
この夢が後の親鸞聖人の性に関する思想のベースになったとされています。
親鸞はこの年、法然の門をたたいた、親鸞29歳。法然により念仏によってのみ人間は救われることを 教わった。元久元年(1204)、法然は延暦寺の宗徒と対立し「七箇条起請分」を延暦寺に送った。この中に親鸞の名前「綽空(しゃくくう)も見える。承元元年(1207)1月24日、念仏禁止令が出され、法然が土佐に流された。親鸞も3月、越後国府に流された、35歳であった。
親鸞は、京都から北陸道を通り能生町木の浦から舟に乗り長旅のすえ弟子と共に居多ヶ浜(上越市五智6丁目)に上陸された。
(写真は上陸の地)
居多ヶ浜に上陸された親鸞聖人は案内人の浜の助惣にそこに見える神社は、と尋ねられた、浜の助惣は、大国主命、と奴奈川姫命を祭った居多神社だと告げ、早速、越後一宮 居多神社を参拝されると、一瞬にして夕日が海面に輝き 南無阿弥陀仏 の6字の御名号が現れたと言われています。
親鸞聖人は直ぐに筆をお取りになり、日の丸の中に 南無阿弥陀仏 とお書きに成り
--- すゑ遠く方を守らせ居多の神
弥陀と衆生のあらん限りは ---
と詠み一首を添えて神前に祈願し、早く赦免になり越後に念仏が広がる事を一心に願われたところ、一夜にして居多神社境内の蘆(あし)が片葉になったという
(越後の七不思議の一つ)。今日も居多神社境内に「片葉の蘆」が群生している。居多神社には、親鸞自筆の「日の丸の御名号」も所蔵されている。
越後での親鸞は、追放された流人として、国府の代官荻原年景に預けられ、現在の五智国分寺にあたるところに小さな竹ノ内草庵を建てて頂き生活されたと言われている。一年後にそこから南の竹ヶ前草庵(現在の国府別院に移られた。親鸞は、念仏の教えを広めることも禁じられ、僧の身分さへ許されず、「藤井善信(よしざね)」という俗名を名乗り、「僧に非ず俗に非ず」という生活を送る。
赦免まで5 年、その後の2年間も越後で過ごした。そのうち遅くても承元4年には恵信尼と結婚し 、信蓮房が生まれる。
1211年に流罪は赦免になりますが、法然がまもなく亡くなったこともあり、建保2年(1214)、親鸞上人は京都には戻らず、常陸国(茨城県)へと旅立ち、、常陸の国の稲田(現在の笠間市)を本拠地にして、関東方面で布教につとめる一方、教行信証・唯信鈔文意・愚禿鈔などの多くの著作を書き浄土真宗を開き、弘長2年(1262)京都で末娘の覚信尼にみとられ90歳の生涯を閉じた。
(写真右は国分寺の裏門の前、鏡が池の直ぐ東にある日の丸の御名号の碑)
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